迷っているとき、悩んでいるとき、苦しいとき
届けたいみことばがあります。
「生きがい」がなければ、生きる意味などないのでしょうか。生きる意味、生きる価値は見つけ出すものではなくて、生まれてきた時にはもう与えられていました。誰一人、自分の意志でこの世に生まれてきた者はいません。気づいた時には生きていました。わたしのいのちは、あなたの人生は与えられたものとしか言いようのないものです。聖書は、神様がそのいのちを与えられた、神様が望まれたからわたしたちは今ここを生きている、と教えます。それだけが、わたしたちの生きる意味、生きる価値です。誰がどう言おうと関係ありません。神様はわたしたちに言われます、「生きよ」と。
教会の青年会で、元旦、宮島の弥山という山に登って、初日の出を見ようということになりました。夜の山道を登りました。周りは真っ暗闇で何ひとつ見えません。歩く道が見えない、先が見えないのはとても不安です。見えているのは、懐中電灯一本の光が照らす足元だけでした。それだけが頼りでした。人生の中でわたしたちはしばしば、大きなサーチライトといくつものバッテリーをリヤカーに積んで、それを懸命に引きながら、山頂までの道程を照らし出しながら登って行こうとします。でもきっと、リヤカーのあまりの重さに疲れ果て、頂上にはたどり着くことはできないでしょう。そう、小さな懐中電灯一本で十分だったのです。暗闇の中で、今日という人生の一歩を踏み出すための、足元をしっかりと照らす光があれば十分だったのです。その光こそが、神様のみことばです。
「愛する」という言葉は、日本語にありませんでした。江戸時代末期、聖書を日本語に翻訳しようとした人たちは、苦心の末、「お大切にする」と訳しました。ある人を愛している、自分のことのように大切にしていると言いながら、実は、自分のことだけを大切にし、自分のことばかりを考えているということはないでしょうか。親(家族)を、一度、他人と思ったらどうでしょう。それは、「親は神様じゃない。親も一個の弱い人間に過ぎない」と認め、受け入れることです。そのとき初めて、相手を赦し、愛のてがかりを見い出すことができるかもしれません。イエスさまも、血のつながりを絶対視されませんでした。むしろ突き放され、しかしそのことで、家族を受け入れ、愛されました。
悲しみは愛の対価です。悲しみたくなければ、誰も愛さなければよいのでしょう。それでも、あなたは人を愛しました。そしてその人が死にました。悲しくて、悲しくて…。ふと気づけば涙が頬を伝います。それでも、あなたの人生は、一度も人を愛さなかった人生よりも、どれほど深く豊かなことでしょう。砂漠の民がこの上もなく貴重な水を皮袋に入れて持ち運ぶように、神様はあなたの涙をご自分の「皮袋」に蓄えます。その一滴、一滴を両手で包むようにすくい上げてくださいます。そしてきっと、一緒に泣いてくださっていることでしょう。泣いているあなたは、決してひとりではありません。
神様は、どこか遠くにおられるのではなく、今ここに生きて働かれる方です。私たちの生活の中に働いてくださる神様の働きに気づかされるとき、自然と喜びがあふれます。それはちょうど、風が吹くと木の枝が揺れ、木の葉が舞う時のようです。風は目には見えませんが、風の存在、その働きを知っているわたしたちは風が吹いていると分かります。神様がわたしたちに驚くほどの愛を注ぎ、一人ひとりの人生を支え導いてくださっています。
キリスト教信仰の特徴は、神様との関わりにあります。呼べば応える関係です。キリスト教信仰は「教え」をまもる戒律宗教ではなく、わたしたち人間に受け答えしてくれる神とのつきあいであり、神様に応答して生きる「神との関わり」に特徴があります。これを神との人格的な交わりと言います。呼んでも応えてくださる神です。
十字架が救いの象徴だからです。救い主であるイエス・キリストは十字架で処刑されて死にました。それが、わたしたちの救いのための死であったと教会は信じています。救いは、わたしたちの立派な行いや優れた成果によって保障されるのではありません。救いの根拠は、ただイエス・キリストの十字架だけです。その救いを信じれば救われます。信じることが救いの条件です。どんな人間でも、どんな罪を犯した人でも、信じるなら救われます。
聖書によれば、神様を、イエス・キリストを信じる人は、死んだら神の国に迎えられると約束されています。。とすれば、死はドアのようなものです。そのドアを開けると、その向こうには神の国があります。母親のお腹の中にいる胎児が、生まれ出た後の、さわやかな風の吹く、眩いばかりの光あふれるこの広い世界を知らなかったように、死は、今はわたしたちには想像することもできませんが、わたしたちの恐れの中に閉じこめるものではなく、神様の平安の御国への新たな誕生です。
堅苦しくありません。クリスチャンにも、仕事の後にほっとして夕食時にビールを飲む人もいますし、タバコを吸う人もいます。酒もたばこも基本的には個人の好みの問題です。「わたしにはすべてのことが許されている。しかしすべてのことが益になるわけではない」(1コリント6:12)とあるように、すべてのことが許されているのですから、クリスチャンの生活が堅苦しいはずがありません。酒について言えば、「酒に酔いしれてはいけません」(エフェソ5:18)とあるように、度を過ごすことが警告されています。何であれ、「益にならない」ことは避けるのが賢明というものでしょう。
大切にします。 死んだ人は神の国に行くと信じていますから、死んだ人のために何かをするということはありません。亡くなった人を偲び、その信仰の歩みを敬い、それを模範にしようとわたしたちは考えます。そのために記念会という会を持つようにしています。聖書にはこう書かれています。 「あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい」(ヘブライ人への手紙13章7節)。
キリスト教は、非理性的ではなく、現実逃避的でもありません。わたしたちは聖書を学ぶことを大切にしています。学びを重んじる、それは理性的なことではないでしょうか。誰の人生であっても山あり谷あり、静かな凪のような時もあれば、荒波に飲み込まれそうになる時もあるでしょう。そんな苦難の時、自分を支えるもの―信念であれ、信頼できるものであれ、確固たる信仰であれ―を持っているかどうかがとても重要です。そうでなければ、わたしたちは現実から目を逸らしたり、それをなかったことにしたり、都合よくごまかし、逃げ出すほかありません。苦しい時、困難に直面している時、クリスチャンは、自分の思いを注ぎだして神様に祈り慰めと励ましを求めます。その結果、どれほどの苦難にあってなお、勇気と平安を与えられて、現実を直視し、自分のできることをもってその現実に立ちに向かっていきます。それがわたしたちの信仰です。
もちろんです。どなたでも礼拝や様々な集会にお出でいただけます。また、「教会では何をしているのかな?」「聖書の教えってどんなことかな?」と、少しでも興味のある人はどうぞいらしてください。どなたでも歓迎いたします。初めからクリスチャンであった人はいません。誰しも最初は右も左も全く分からない状態です。戸惑うことや疑問に思うことがあれば、牧師や受付に立っている人達に、遠慮なくお尋ねください。また教会に来たからといって、信仰を強制するようなことはしません。安心してきてください。神様はすべての人を招いておられます。
いつ来てくださってもかまいませんが、礼拝に参加する目的でしたら、日曜日の午前10時15分までに来てください。その他集会においでになるのであれば、教会の集会案内をご覧になって目的に合う時間においでください。牧師と話をしてみたければ、前もって電話をください。ただ、お金を無心に来られてもご期待に添えないかもしれません。
用意するものは特にありません。聖書や讃美歌は教会に備えてありますので、受付でおっしゃってくださればご利用できます。服装にも特に決まりはありませんので、普段着でお越しいただいてかまいません。
礼拝は、神様をたたえるひと時です。讃美歌をともに歌います。また、ともに祈り、聖書のメッセージに耳を傾けます。受付で配布している週報に、礼拝内で読まれる聖書箇所や讃美歌番号が記載されています。時間は10:15~11:30です。すべてのプログラムは、週報に沿って、司会者が何をするかを導きますので、戸惑われることはないと思います。
必要ありません。入場料・受講料・拝観料といった料金を請求することは一切ありません。また物品の購入を求めることも一切ありません。礼拝の中に献金の時がありますが、献金は神様への感謝のしるしですので、献金するかしないかは本人の自由です。献金は、教会堂を維持・管理するために用いられる他、日本キリスト教団や内外の奉仕団体が行う事業にも献げられます。
15台ほどの駐車スペースがございます。また、近隣にも多数のコインパーキングのある地域です。アクセスのとてもよい地域ですので、公共交通機関(モノレール・バス等)のご利用をおすすめいたします。
日曜日の礼拝では、礼拝堂の二階後方にあるキッズルームを利用することもできます。また、日曜日の午前9時から教会学校のこどもの礼拝があり、乳幼児からでも、親子で参加することができます。
葬儀は、原則として教会員とそのご家族が対象ですが、それ以外の方もご希望や特別な事情がある場合には牧師までご相談ください。結婚式は原則お受けしますが、若干の条件があります。結婚式において、結婚されるお二人は神様の前で誓約をしていただくことになります。「健やかな時も、病める時も、これを愛するか」と結婚相手を愛することを神様に対して誓約します。もちろん相手に対する誓約にもなりますが、誓約をする「神」がどんな存在かを知らないで誓約することはできないでしょう。そこで、挙式を希望される方には、結婚式の前にある程度の期間、礼拝に出席していただき、神のことをできる限り知っていただくようお願いしています。結婚を深く味わい、どう準備していけばよいのか、ご一緒に学んでいただきます。
キリスト教は、大きく分けてカトリックとプロテスタントの教会があります。わたしたちの教会はプロテスタントの日本キリスト教団(約1,700の教会・伝道所)に属しています。また、多くの教派の教会とも協力関係にあり、青山学院、東京女子、明治学院、フェリス女学院、同志社、同志社女子、関西学院、広島女学院、梅光女学院、福岡女学院をはじめ、全国のキリスト教学校や社会福祉施設、団体とも、密接なつながりを持っています。
いずれもキリスト教ではありません。キリスト教か否かを判断する基準があります。 聖書に登場するイエスという人物をどう考えるかが第一の基準です。このイエスをわたしたちの救い主キリスト、まことの神にしてまことの人であると信じるのが、キリスト教です。エホバの証人はイエスを救い主と信じていません。エホバの証人の人たちは熱心に家庭訪問をし、伝道用のパンフレットを売っています。そのパンフレットをいくつも読んでみました。キリスト教とは似て非なるものです。統一協会は文鮮明という人を救い主と信じています。イエスは救い主としての働きに失敗したと考え、文鮮明が救い主として登場したと述べています。統一協会が正典としている本を読みました。聖書を引用していますが、キリスト教とは似て非なるものです。モルモン教については詳しい内容は知りませんが、『モルモン経』という本を正典と信じているようです。聖書以外のものを正典とするのはキリスト教ではありません。