≪説 教≫
■希望の証(あかし)
夜中に突然目が覚めて、病床にある方の姿が頭から離れず、眠れなくなりました。病院をお訪ねすると、年老いた身体を丸くし、ひとり痛みをこらえておられました。その方の声が、またご家族の必死の祈りが聞こえてくるようで、その声なき声が心に残り、容易に消えませんでした。
「おじいちゃん、わたしですよ。おじいちゃんの娘ですよ」と、耳もとに口を寄せ、駆けつけたばかりの女性が、ベッドに覆いかぶさるようにして叫びました。彼女の目には涙が溢れ、頬を流れ落ちます。教会の役員として厳格な姿勢を保ち続けておられたその方の目は、上を向いて半開きのまま、まばたきさえしません。かすかな呼吸がさらに弱くなり、娘さんの叫びをよそに、そのいのちの灯は静かに消えていきました。
突然、娘さんが、「おじいちゃん、ごめんなさい、ごめんなさい」と叫ぶと同時に、「おじいちゃんのバカ、おじいちゃんのバカ」と繰り返されました。別れの挨拶もできないままに逝かせてしまったことへの後悔の言葉でしょうか。二度と会えなくなった父親に、伝えておくべき何かがあったのかもしれません。
誰の心の中にも、後悔や赦しを請うべきこと、伝えておくべきことがあるものです。人生は一回限りで、繰り返しがききません。いったん犯した罪咎を一生涯負わなくてはならないとしたら、わたしたちの人生は苦痛に満ちたものとなるでしょう。しかし神様は、わたしたちのすべての罪咎を赦してくださいました。それは、わたしたちが正しいからでも、良いことを行ったからでもありません。ただ、神様の憐れみ、愛ゆえです。それが聖書の語る福音です。
天に召されたその方がよく口にされていた聖書の言葉は、「人間にできることではないが、神は何でもできる」(マタイ19:26)でした。その言葉は、どうしようもないという時に、あらゆる可能性がすべて閉ざされてしまった時にこそ、わたしたちが頼るべき、唯一のお方がおられることを指し示すものでした。目を閉じたその父親が、悔やみ、嘆き悲しむ、愛する娘さんのために、その言葉を今もここで語っておられる、そう思わずにはおれませんでした。
皆さんの前にお写真が飾られています。大切な兄弟姉妹が、愛するご家族が、親しい友が、天に召されました。その方々お一人お一人の姿や語ってくださった言葉が、今も、皆さんの心の奥底に留まって、離れようとはしないでしょう。実際、それは忘れ去ってはならないものですし、天に召された方々のその姿が、その言葉が、いのちのかけがえのなさと大きな神様の愛を、わたしたちに教えてくれています。たとえ不治の病の中にあるとしても、また死に直面したとしても、なお失望に終わらない希望のあることを、天に召された今も、その身をもって証ししてくださっています。
■命の木
そして今日の聖書も、そのことをわたしたちに教えてくれています。
先ほどお読みいただいた箇所の直前、創世記2章に「主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられ」、人に「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と言われた、と記されています。
園の中央には、命の木と善悪の知恵の木が並んで生えていたはずでした。ところが、この三章では、命の木のことに一言も触れられません。女、エバの目には、まるで「禁断の木」「善悪の知恵の木」しか写っていないかのようです。
これはいったい、何を意味するのでしょうか。
天地創造という出来事の中に記される「命の木」が象徴することは、神様こそ、創造の主、いのちの主である、ということです。わたしたちにいのちを与えてくださったお方がおられるのだ、ということです。こどもを身籠った時に「授かった」と言われるに、それは誰もが自然に感じていることです。自分の意志で生まれてきた者など誰一人おりません。死の時を自分の自由にすることのできる者もまたおりません。わたしたちのいのちは、ただ与えられたと言うほかないもの、誰もがそう感じているはずです。それを聖書は、神様がいのちを与えてくださったのだ、と言います。
とすれば、いのちはわたしたちのものではなく、神様のものだということになります。だからこそ、誰のいのちであれ、自分のいのちもまた、人が勝手に奪ったり、損なったり、傷つけたりすることの許されない、かけがえのないものです。それが、いのちの尊厳と言われることです。わたしたち自身の尊厳ではありません。神様ゆえの尊厳です。与えられたいのちゆえに、わたしたちが造られたものであるがゆえに、神様はかけがえのないものとして、わたしたちを愛し抜いてくださっている、聖書は繰り返し、そう教えます。
わたしの二人の子どもが三十年前に、小さな手で粘土をこねて作った皿や茶碗が、今も食器棚の中に大切に置かれています。使われることのない、いわば何の役にも立たない、ぐにゃぐにゃに波打ち、ひびの入った、実に不格好な土の器ですが、造ったこどもたちはそれを大切にしていました。それを見守っていた親であるわたしにとっても、それは今も、心温まる思い出をよみがえらせてくれる、かけがえのない記念の品です。
それと同じです。わたしたちは神様の作品です。役に立とうが立つまいが、だれだけ不細工であろうと関係ありません。むしろそうであればなおのこと、神様は造られたわたしという作品に、溢れるほどの愛を注いでくださいます。
「命の木」は、創造主なる神の、その愛を象徴するものです。
■生も死も
一方の「善悪の知識の木」は、神様の正しさ、神様の裁きを象徴するものです。しかし、そこでわたしたちが忘れてならないことは、正しいのは神様おひとりだということ、裁くことのできるのはただ神様だけだ、ということです。
その正義を、裁きを、わたしたちもできる。わたしたちが神様のみ前にあって正義を主張し、人を裁くことができると思うことは、神でないこの自分を神のごときものにすることです。それは実に傲慢で、愚かなことです。それなのに、気づけば人を非難し、傷つけ、裁いて、自分を誇ろうとするわたしたちです。そうすることを正しいこと、正当なこととさえ思ってしまいます。
それこそが、蛇の誘惑でした。
しかし、神様以外に正しい者もいなければ、裁くことのできる者などいません。それどころか、敵対し、憎み嫌っている人にさえ、神様はいのちを与えられ、そのいのちゆえに愛してくださるのです。それが神様の正義でした。
正義の主、裁きの主こそ、慈しみの主、愛の主なのです。
そのことを見失うとき、わたしたちは、神様の定められた時を、この世の終わりであれ、個人的な死という人生の終わりの時であれ、それを、裁かれる時、破滅の時、すべてが空しいものとなる時として、ただただ恐れるばかりとなります。結果、裁きの神様から逃げ惑うようにして隠れ、正義の神様から離れようとします。
聖書が教える罪とは、人に定められた一つひとつの戒めに背くことではなく、アダムとエバのように、神様から離れて、隠れて生きようとすることでした。その意味で、2章の「ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」とは、神様から離れて生きるようになってしまったその結果、人が死への不安と恐れを抱くようになったことを言い表すものです。
アダムとエバが罪を犯したそのとき、初めて「死」というものが生まれたというのではありません。2章に「必ず死んでしまう」とあったように、楽園にも、既に「死」は存在していました。しかしこの出来事の前までは、生も死も、神様が与えてくださったいのちが体験する、その一部でしかありませんでした。生も死も、神様が与えてくださるもの。生も死も、神様が与えてくださるいのちの中にありました。生も死も、そのいずれもが神様の永遠のいのちの下(もと)に置かれていました。
ところが、神様から離れてしまったとき、人にとって、死ぬことと生きることは全く別のもの、死はいのち―生の終わりを意味するものとなってしまいました。もちろん、自分のいのちが損なわれたり、失われたりすることに対して恐れを抱き、それを避けようとすることは当然のことです。しかし、わたしたちが神様から離れ、死がいのちの終わりを意味するようになってしまうとき、わたしたちは、死に対して、拭い去ることのできないほどの恐れと不安、絶望を抱き、その絶望ゆえに生きることの空しさに囚われるようになります。
■探し求めてくださる
神様の愛を見失い、神様の裁きだけを恐れて、神様から隠れ、離れてしまったアダムとエバに、どうして神様のみ前に出ることなどできるでしょうか。
と ころが、その日の夕方―ユダヤでは日が沈む時に日付が変わります―、新しい日が始まろうとするそのとき、「主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れ」ていた二人に、神様の方から近づかれます。そして、罪に落ちてしまった二人に、神様がこう声をおかけになります。
「あなたはどこにいるのか」
問いかけ、求め、探されます。迷える一匹の羊を探し求める羊飼いのようです。「人」は隠れます。隠れおおそうとします。神様を畏れ、逃げ惑うばかりの「人」は、ただ息を潜めるばかりです。それでもなお「神」は、声をおかけになり、問いかけ、探しに来られます。神様が人間を見失ったというのではありません。人間の方が見失い、そして隠れるのです。それでも「神」はその声を枯らすようにして、「どこに」と探してくださるのです。それが、今も昔も変わらぬ、わたしたちがいのちを与えられて生き、そして死んだ後も変わらぬ、永遠の神様の愛のお姿だ、と聖書は教えます。
わたしたちの方が「もう見捨ててください」と言ってしまうことさえあります。声荒らげて鬼のような顔で「もうたくさんです。見捨ててください」と怒鳴っても、それでも神様は、いつもの声で、何事もなかったかのように、「どこにいるのか」と尋ね、近づいて来られるのです。ヨハネによる福音書に「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(15:16)とあるように、ヨハネもこの声に立ち返りました。
神様は、「死んでしまえば何もかもが終わりさ」「この世に神などいるものか」と嘯(うそぶ)く、わたしたちの愚かさ、罪をお赦しくださって、わたしたちを罪と死の苦しみから救い出すために、わたしたちを呼び求め、探し出してくださるお方なのです。
その神様からの招き、神様の愛にお応えして、神様を心から信頼するとき、生と死とを支配されるいのちの主が、天に召された兄弟姉妹方と共に、今も、わたしたち一人ひとりの傍らにいてくださる、その愛と恵みが心に深く沁みてまいります。
■新たな誕生
誰もが、人はいつかは死ぬ、それで終わりだ、と思っています。より正確に申し上げれば、そう信じています。そのため、あまり考えたくない事実として、普段は意識の外に追いやっています。しかし、「その日」のことはいつも意識の片隅に潜んでいます。年を重ねるとともに残り時間のことが気になり始め、死への恐れは日常の様々なところに暗い影を落とし、ことあるごとに後ろ向きなことばかりを考えるようになります。
しかし、「人は死んで、すべてが終わりだ」と、どうして断言できるのでしょうか。死を経験できる人間など一人もおりません。その経験できないことを、実証主義の現代に生きるわたしたちは、「ないこと」「無だ」と考えます。それで「人は死んで、すべてが終わりだ」という訳ですが、冷静に考えれば、そのような考えそのものが実は、わたしたちの脳が作りだしたもの、フィクションにすぎません。
実に、わたしたちの世界は経験できないこと、実証できないもので満ち満ちています。そんな不確定な世界を、わたしたちは生きています。いえ、生かされています。わたしたちは、わたしたちを超える意志によって望まれて、このいのちを生かされ生きているとしか言いようのない存在なのです。だからこそ、聖書は様々に言葉を尽くして、人のいのちは神様によって与えられ、神様によって召されるのだと教えます。
とすれば、死は、もはや終わりではなく、新たな誕生と言えるのかもしれません。
人は、その生涯を完成させて、まことの自分を生きるために、「まことのいのち」の新しい世界へ生まれ出るのだと言ってもよいでしょう。人は、今、現在を生きているつもりでいますが、実は、まだ生まれてもいないのです。人が生から死へと向かっているというのは、「まことのいのち」を知らない傲慢な生物学上の見方にすぎません。
人が新しく生まれ出ていく、その神様のみもとに広がる世界が、どれほど広く深く輝きに満ちているか、わたしたちには想像もつきません。母親の胎内にいる小さないのちのことを考えてみてください。胎児と呼ばれる小さなわたしたちにとっては、母胎の中がすべてです。外のことをまったく知りません。でも、ひとたび生まれ出たならば、そこに果てしない青空と星空が広がり、さわやかな風と水があふれ、愛する人との出会いと交わりがあり、生きる喜びに満ちていることを知ることになります。それは、生まれ出る前からすれば、想像を絶する歓喜の世界であるはずです。死もまた、そんな新たな誕生なのだ、と聖書は教えます。
いのちの主である神様にあって、死そのものは、決して罪などではありません。死は決して終わりでもありません。死も生も、それはすべて神様の永遠のいのちの下にあります。ただ、神様の愛を見失い、神様から離れてしまう罪によって、生と死とが切り離され、死への恐れと不安、絶望と虚無に囚われるに過ぎません。であればこそ、わたしたちは、愛する者の死をただ悲しみ、絶望するのではなく、いのちの主である神様の愛を固く信頼いたしましょう。そして、今も、これから後も、神様の永遠のいのちの下に、天に召された兄弟姉妹と共にあることを、まことの慰め、まことの希望として歩みゆきたいと心から願う次第です。