福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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今週の教え

6月15日 ≪聖霊降臨節第2主日礼拝≫『涙の手紙』 コリントの信徒への手紙二 1章 23節~ 2章 4節 沖村 裕史 牧師

■誹謗中傷

 パウロが第一の手紙を書いていた頃、思いもよらぬ事態が生じていました。パウロ不在のコリント教会に、新しい宣教師たちがやってきていたのです。ユダヤ人で、律法主義的な傾向を強く持っていた彼らは、パウロに批判的でした。彼らはコリント教会にやって来て、いわば無牧の状態にあった教会の信徒たちに、律法に定められた割礼や食事に関する掟を固く守るよう求め、そのことに反対するパウロについて、様々な非難や中傷を吹き込んだのでした。結果、コリント教会の少なからぬ人々が、彼らの語ることを鵜呑みにしてしまいました。

 パウロという人は、後代の教会ではイエスさまに次いで強い影響力、権威を持つ人物だと申し上げてよいでしょう。新約聖書の約半分がパウロの手紙で占められているほどです。しかしパウロが実際に宣教活動に携わっていた頃は、事情が大きく異なっていました。

 パウロは十二使徒のようにイエスさまから直接教えを受けたわけではありません。また主の兄弟ヤコブのように、イエスさまと血のつながった兄弟であったわけでもありません。それどころか、かつてはキリスト教会を滅ぼすために積極的に弾圧を加えていたユダヤ教のエリートであり、異端審問官のような人物でした。パウロのために仲間が傷つけられ、痛めつけられた、そんな個人的な怨みを抱いていたクリスチャンも少なからずいたことでしょう。そんな人ですから、いくら復活のイエス・キリストに出会って回心し、福音宣教のために目覚ましい働きをしているとはいえ、教会のリーダーとは容易には見なされませんでした。

 コリント教会の人たちにとっても、パウロとの付き合いはせいぜい1年半です。パウロのことは何でも知っていると言えるほど、親しい間柄ではありません。そんなコリント教会の人々のところに、モーセ律法に精通している宣教師たちがやって来て、パウロからは聞いたこともなかったことをあれやこれやと教えられ、彼らもだんだんと新しい宣教師たちの言うことに耳を傾けるようになっていきました。そうして、パウロから第一の手紙を託されたテモテがコリントにやって来た頃には、コリント教会の人たちの心はパウロからすっかり離れてしまっていました。

 

■予定変更

 そんな状況を聞きつけたパウロは、当初はマケドニア教会に行ったその後にコリント教会に行く予定にしていたのですが、その予定を急遽変更し、急ぎコリント教会に駆け付けたのでした。これが、前回の説教でもお話しした、「パウロの第一の予定変更」です。

 急いで駆け付けたパウロでしたが、このコリント教会への訪問は最悪のものとなりました。コリント教会の人たちのパウロに対する態度はよそよそしく、冷たく、中にはパウロに面と向かって罵倒する人さえいました。この胸のつぶれるような状況に、パウロはもちろんのこと、コリント教会の心ある人々もひどく胸を痛めました。今日の2章1節に「そこでわたしは、そちらに行くことで再びあなたがたを悲しませるようなことはすまい、と決心しました」とある、その「再びあなたがたを悲しませるようなこと」とは、その訪問のことです。

 コリント教会で悲惨な目にあったパウロは、再度、予定の変更を余儀なくされます。最初の予定は、エフェソからマケドニア、次いでコリント、そして諸教会からの献金を携えてエルサレムに向かうはずでした。しかし一度目の予定変更によって、エフェソから直接コリントへ、次いでマケドニア、そこからもう一度コリントに戻り、その後、エルサレムに行くことにしました。ところが、予定を変更して向かったコリントの状況が、パウロの予想をはるかに超えて厳しいものであったため、パウロはマケドニアに行くことを断念し、出発地点であるエフェソへと戻ることにしたのです。

 この相次ぐ変更を見て、パウロを批判する人たちはその批判の声をさらに強めます。パウロは予定をコロコロ変えて、いったい何を考えているのか、と。彼らは、パウロが臆病だと非難しました。コリントの信徒たちから面と向かって批判されたことに恐れをなして、マケドニアの教会に行くことも、またコリントの教会を再び訪問することもできないでいる、と非難したのでした。

 

■思いやり

 この厳しい状況の中、この二度目の予定変更がどうして必要だったのか、そのことを切々と訴えているのが、今日の箇所です。冒頭23節、

 「神を証人に立てて、命にかけて誓いますが、わたしがまだコリントに行かずにいるのは、あなたがたへの思いやりからです」

 パウロはここで神に誓っていますが、パウロがこの手紙で神に誓うのは二度目です。直前の18節に「神は真実な方です」とありましたが、これもまた、神への宣誓でした。聖書は神に誓ってはならないと教えています。ただ、文字通りに誓いを禁止しているわけではありません。それはむしろ、誓いなど必要としない関係を築きなさいという勧めでした。この手紙で二度も誓わなければならなかったことに、パウロも忸怩たる思いを抱いていたことでしょう。なぜなら、自分とコリント教会との人々との間には、誓いを必要としないような確かな信頼関係が育っていない、ということを自ら認めるようなものだからです。それでも、パウロは誓わずにはおられませんでした。自分が言っていることが自分のいのちに賭けて、また神に賭けて真実だ、ということをコリントの人々に伝えたかったからです。

 パウロは、自分がコリント教会を再び訪れるのを先延ばしにしているのは、彼らから拒絶されることを恐れてのことではなく、彼らに対する「思いやり」のためだと言います。パウロは彼らを力づくで支配しようとしているのではありません。むしろ優しく、親しい気持ちで仲間として呼びかけます。続く24節、

 「わたしたちは、あなたがたの信仰を支配するつもりはなく、むしろ、あなたがたの喜びのために協力する者です。あなたがたは信仰に基づいてしっかり立っているからです」

 裁きを仄めかし、彼らを恐怖で縛り付けようとするのではなく、むしろ信仰に堅く立つ同労者、友として語りかけています。協力者、ギリシア語ではスネルゴスという言葉ですが、これはパウロがテモテやプリスカとアクラなど、親しい同労者に対して使う言葉です。パウロはあえて、この言葉をコリント教会の信徒たちにも用いることで、彼らに対する権威を振りかざすのではなく、主にある兄弟姉妹としての仲間意識と尊敬を込めて語りかけています。

 

■すべての喜び

 そんなパウロの思いが、よりはっきりと、心を込めて語られているのが、2章1節から4節です。

 パウロが訪問を遅らせているのは、コリント教会の人が誰も悲しまないようになるためだと言います。コリント教会のすべての信徒たちがパウロを拒絶したのではありません。むしろパウロを支持していた人たちの方が多かったでしょう。しかし、パウロを支持して応援していた人たちにとっても、先のパウロのコリント訪問はある意味、パウロ以上に失望させられるものでした。せっかくパウロが何年かぶりにコリント教会に戻ってきて、旧交を温めようとしたのに、一部の人の心ない振舞によって、すべてが台無しになってしまいました。パウロはすぐにエフェソに戻ってしまって、いつまたコリントに来てくれるかもわかりません。こんな状況に心底がっかりしたことでしょう。

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6月8日 ≪聖霊降臨日/ペンテコステ・子どもの日・花の日「家族」礼拝≫『主の霊によって生きる』 エゼキエル書 37章 1~10節/使徒言行録 2章 1~4節 沖村 裕史 牧師

 

■神の霊

 神は果たして存在するのか。わたしたち人類は長い間、そのことについて検討してきました。存在するのか、それとも存在しないのか、それは二本のレールのような議論でした。ただいずれの場合も、神を「存在」という枠の中で論じていたことに変わりはありません。

 しかし今日のみ言葉が語る神は、その枠を超えるものでした。

 「神は霊である」。聖書はそう告げます。「霊」とはヘブライ語のルッアッハ、息のことです。聖書の第1ページ、創世記冒頭にこんな言葉が記されています。

 「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ』。こうして、光があった」(1:1-3)

 神が、すべての始まりの時に「神の霊」を通して働きかけてくださり、そして何よりも、その最初の一言が「光あれ」であることに、深い感動と安らぎを覚えずにはおれません。

 創世記はさらに、神が空と海と大地を形づくり、草木と動物をつくり、そして神の霊を吹き込んで人間を創られた様子を描きます。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(2:7)。神の息、霊によって、わたしたちはいのち与えられ、生きる者とされました。

 すべての存在、あらゆるいのちで、自分の意志、自分の力で、自分が望んで存在したものなど、何一つとしてありません。すべてのいのちにとって、最も尊く、ありがたいのは、「あれ」と命じてくださった意志、御心です。神がそう命じられたのですから、わたしたちはもう、何も悩む必要はありません。ただここに「あれ」ばいい。わたしもあなたも、すべてのものが神に「あれ」と願われ、「あれ」と命じられて今ここにある、生きているのだということです。誰からも、何者からも拒まれ、否定されることのない神の意志、神の御心よって、わたしたちはいのちを与えられ、今ここに生かされているのだという、尊い真理がここに示されています。

 わたしたちにはときに、わたしは何のため生きているのか、わたしの人生に何の意味があるのか、と思い悩むことがあります。わたしになんか、何の価値もない、わたしみたいな、つまらない何もできない、人から蔑まれるばかりの人間など生きていても何の意味もないではないか、そう思って、深く苦しむことがあります。その苦しさに耐え切れず、いっときの満足だけを追い求め、自分の業績ばかりを誇り、人に認められることばかりを願って、結局のところ、さらに傷ついてしまいます。

 そんなわたしたちに、神は今も、神の霊によって、ただ「あれ」と言ってくださいます。わたしのいのちも、あなたの人生も、神の意志によって与えられた。ただそれだけが、そしてそれこそが、わたしたちの存在理由、わたしたちが生きていることの意味、決して揺るぐことのない真理です。

 

■風のように

 いのち与えられた神は、その存在をはっきりと捉えることのできない神です。しかし、霊として自らの「時」と「場」を携えてわたしたちに触れてくる神です。

 神の霊は風のようです。風が直接、その姿を見せることはありません。吹く前にはそれこそ、どこにも存在しない風ですが、ひとたび吹き過ぎる時、木々の葉をそよがせ、枝を揺るがします。それで、人は風の在り処を目で捉えます。すべては風の通り過ぎた後のことです。同じ風でありながら、吹き抜ける対象によってその現われ方はさまざまです。そもそも、どこから来て、どこへ行くのかもわかりません。風の思いのままです。それが風です。帆を操る船乗りたちはすべてを風にまかせます。人間の都合でどうこうできるものではありません。風は自ずから吹くのです。

 神は風そのものです。自らの「時」と「場」に応じて吹き過ぎます。ちょうど、ペンテコステのときのように…。

 「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」(使徒2:1- 2)

 イースターから数えてちょうど50日目の今日、天の父のもとへと帰られたイエスさまは、この世に残された弟子たちのために、激しく吹く風のような霊を注いでくださいました。イエスさまはその霊について、弟子たちに繰り返し告げておられました。

 「私は父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」(ヨハネ14:16-17)

 イエス・キリストの死と復活、そして昇天の後、ペンテコステの出来事を通して、神の霊が弟子たちに注がれ、弟子たちは教会としての歩みを歩み始めました。教会は、御心のままに吹く風のような神の霊に導かれて、今も、ここに集うわたしたちに受け継がれています。

 

■幻は現実

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6月1日 ≪復活節第7主日礼拝≫『神の恵みの下に』 コリントの信徒への手紙二 1章 12~ 22節 沖村 裕史 牧師

 

■心から心へ

 よく、コリントの信徒に宛てたこの第二の手紙はとても難しい手紙だ、と言われます。その難しさには二重の意味があるようです。

 一つは、この手紙が書かれた時のパウロの状況それ自体が難しかった、と言います。パウロは当時、伝道を進める中で大変な迫害を経験していて、その上、自分が開拓伝道して建てた教会の信徒たちとの関係も必ずしも良好ではありませんでした。まさに内憂外患という状態です。旧約聖書の預言者にエレミヤという人がいますが、彼は人々の無理解に苦しみ、涙の預言者と呼ばれました。パウロもまた、涙の使徒と呼びたくなるような困難に直面していました。そんな苦しみと悲しみを背後に置いて書かれた言葉が、すぐにわかったような気になることを阻んでいると言ってよいかもしれません。

 二つ目は、この手紙の内容そのものが難しいということです。それは、この手紙には難しい理屈や教理が書かれていて難解だ、という意味ではありません。先ほど申し上げたような、この手紙を書いたときのパウロの置かれていた状況をよく踏まえておかないと、この手紙を理解することが難しいということです。

 そう考えながら、ふと思い出した一文があります。若松英輔の「求道者と人生の危機」です。

 「…出会った場所は、亡くなった井上洋治神父が主宰していた『風(プネウマ)の家』だった。…若さとは未熟さの別な表現にほかならないが、私の場合は、大きく未熟さに傾斜していた。神父はそうした私をときに激励し、慰め、そしていつも見守ってくれていた。神父に出会っていなければ人生が変わっていただけではない。人生が始まっていなかったのではないかとすら思う。

 神父が亡くなったと聞いた、その瞬間、打ち消しがたい、ある思いが胸を貫いた。『今度はお前の番だ。お前がどんなに未熟でも、お前が若い人と向き合うときだ』。大学に勤務するようになったのはそれから四年半後だったが、その間も、幾度となく次の世代に言葉を受け渡すことを折にふれて考えていた。

 『教える』という言葉には、以前から違和感があった。神父が行ってくれたのも『教える』というよりも『手渡す』というべきことだったからだ。それは手から手へというよりも心から心へと伝えられた。

 最晩年、神父が亡くなる数ヶ月前、神父から電話があった。どうしても話したいことがあるから来てほしいという。昼食を食べながら、さまざまな話をし、少し言葉が途切れたときだった。

 『若松君』、そう神父は少し声を詰まらせるようにしながら、こう続けた。

 『ぼくは、心から心へ伝えたいんだ。これまでもずっとそう願ってきたんだ』

 この言葉を私は神父の『遺言』だと思っている。浅学菲才(せんがくひさい)の身には、神父の思想を受け継ぐことはできない。しかし、頭から頭へではなく、心から心へ言葉を手渡すことはできるかもしれない。ことに若い人たちにそうしたい。神父が亡くなり、彼を思い出すたびにそうした思いを深めるようになっていった」

 「心から心へ言葉を手渡す」。パウロもまた、同じような思いをもってこの手紙を書いていたのではなかったでしょうか。

 

■神の恵みというプライド

 そして冒頭、パウロは心を込めて語りかけます。

 「わたしたちは世の中で、とりわけあなたがたに対して、人間の知恵によってではなく、神から受けた純真と誠実によって、神の恵みの下に行動してきました。このことは、良心も証しするところで、わたしたちの誇りです」

 「とりわけあなたがたに対して」とあります。パウロはこれまで、コリント教会の人々と様々な言葉を交わし、ときには論争をし、ときにはパウロの方が困惑するようなやりとりをしてきました。そのようなときに、人間の知恵算段で何とかしてうまく押さえこもう、事態を治めようという考えに、もしかすると誘われたのかもしれません。しかしそれを退けて、パウロは「とりわけあなたがたに対して」、ひたすら神の恵みの中で行動してきたのだと言います。

 コリント教会は、正直、実に扱いにくい教会でした。わたしたちも扱いにくい人間、扱いにくいグループ、扱いにくい人間関係の中に立ったときには、途方に暮れることがあります。しかしそこでも、パウロは誇りを失わなかったのだと言います。どんなことがあっても、自分は伝道者としてうまくやれるというプライドに生きていたと言うのではありません。パウロはこの手紙の中で、自分のことを、すぐにひび割れる、落とせば砕けてしまう「土の器」だと言います。自分の弱さを隠そうとはしませんでした。そんな自分がただ神の恵みの中にだけ生きた、と言います。自分はプライドを失うことはないとパウロが言う、そのプライドとは、神の恵みというプライドです。

 考えてみれば、不思議な表現です。普通であれば、自分一人ではやっていけなくて、神の恵みを受けなければ生きることができないというのは、人間としてプライドを失くすことだと考えるかもしれません。実際、信仰を勧められてもなかなか信仰に踏み出すことができない人の心の中には、うっかり信じてしまうと自分のプライドがなくなるという思いがあります。思わぬ困難に見舞われて相談に来られた方と会い、お話をしたその最後に、「神をどうぞ信じてください」と言うと、「わたしのプライドが許さない」と言われてしまうことがあります。

 だからこそ、イエスさまは「幼子のように」と言われたのかもしれません。幼な子というのは、プライドから自由です。プライド、誇りにこだわるのは大人です。子どもではありません。パウロはしかし、誇りを、プライドを捨てたのではありませんでした。本当の誇りが見つかったのです。誇り豊かに胸を張って生きることができるようになったのです。それは、自分たちの良心の証しにも耐える、やましさなどない、ただ神の恵みに生きる、ということでした。パウロは今、ただ神の恵みの中に生きるというプライド、その信仰を、あなたがたにも生きて欲しい、と心を込めて語りかけるのです。 Continue reading

5月25日 ≪復活節第6主日/ロガーテ・祈りの「家族」礼拝≫『心に語りかける声』(おとな)ルカによる福音書11章5~13節 沖村 裕史 牧師

 

■執拗に求める

 イエスさまは「主の祈り」に続いて、三つのたとえを話されました。「祈りとは」どういうものか、どうあるべきかについて、弟子たちを教え諭されるためです。

 最初は「パンを求める友のたとえ」。5節から8節です。ある人が夜更けに、「旅人をもてなすためのパンを貸してくれ」とお願いにやってきます。しかし、もう夜中です。訪ねて来られた人は断りますが、しつこく、執拗に求められます。

 この物語の結び、8節は「あなたたちの中の誰が、そんなことをするだろうか」という疑問の形で問いかけながら、「いやそんな者はいやしない」という反語的な意味合いが、そこには込められます。夜中であっても、いや、むしろ夜中であるからこそ、そのように助けを求められて、もう寝ているからといって、いったい誰が追い返すだろうか、そんな者はいないという意味です。

 一部屋か二部屋しかなかった当時の家では、同じ部屋で家族全員が睡眠をとるのは普通でした。みんな一緒に眠っている、小さな子どももすっかり寝入っています。夜中に訪ねるということが迷惑極まりないことは、パンを借りにきた人にも重々わかっていました。「なんて非常識な」という思いは、今のわたしたちと同じでしょう。

 しかし、しかし借りに来た人にも理由があるのです。しかも、当時のユダヤ社会、助け合って生きることを当然と考える社会では、旅人をもてなすことは共同体のメンバーとして当たり前のこと、義務でした。とはいえ、しつこく、まして夜中にパンを求めるというのは、いかにも厚かましい行為です。8節に言葉を補ってみると、こんな意味になるでしょうか。

 「たとえ、夜中に起こされたその人は、自分の友だちだからという理由で、立ち上がってパンを求めてやってきた人に与えることはなくとも、本来は友なのだからそうしてしかるべきなのだが、それでも、パンを求めてきた友人のしつこさゆえに、それがどれだけ恥知らずなものであっても、起き上がって、その人はパンを求めてきた彼が必要とするだけのものを与えるだろう」

 このたとえには子どもを含め、四人の人物が登場しますが、主な登場人物は、夜中に起こされた主人とパンを求めてきた友人です。7節に「わたしの子どもたち」とありますから、この主人は父親です。そう、「父なる神」のことです。一方、パンを求める友人とは、主の祈りで日々のパンを求め祈る、わたしたち自身です。

 何も「しつこい」祈りが勧められているのではありませんがしかし、その「しつこさゆえに」「熱心に求め続ける姿勢に対して」、父親である主人が友人の求めに応えるのであれば、わたしたちの父である神、絶対的な主権者であり支配者である方が、わたしたちの願い-祈りを聞き届けられないことがあるだろうか、いや、そんなことはありえない。父である神は、絶対に聞き届けてくださる。このたとえはそう教えています。

 

■求めるものを与えられる

 しかも父である神は、わたしたちが「求めるものを必要とするだけ」、きちんと備えてくださるのです。9節の「そこで、わたしは言っておく」という言葉によって、イエスさまは宣言されます。

 「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」

 「求めよさらば与えられん」というよく知られたこの言葉は、格言的な表現とその繰り返しによって、わたしたちの願いと祈りに応えてくださる父なる神への確信を、堅い信頼をさらに強めようとしています。繰り返しは、ただ神への信頼を強調しているだけでなく、「主の祈り」と同じように、日々、祈り「続ける」こと、「終わりのときまで」願い求めることの大切さを説いています。

 「求める-与えられる」「探す-見つかる」「門をたたく-開かれる」というこの響き合うような関係は、祈りにおける父なる神とわたしたち人間との関係―祈り求めるわたしたちの姿(信仰=ピスティス)とそれに応答してくださる神の真実(誠実さ=ピスティス)とを示しています。神の応答は、わたしたち人間側の条件にはまったく関わりなく、ただ祈り求めるすべての人に、一方的に「与えられ、見つかり、開かれ」ているのだということです。

 そして11節にこう言われます。

 「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に蛇を与える父親がいるだろうか、また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか」

 「蛇」と「蠍(さそり)」は、サタン、あるいは悪を象徴する言葉です。わたしたちはもちろん、親による幼児虐待や育児放棄という悲しい現実があることを知っています。それにもかかわらず、そんな罪深いわたしたち人間の親子という関係においてさえ、そうやって父親は子どもを愛し守ろうとするのではないか。それが人としての真実の姿ではないのか。ましてや、父なる神が、わたしたちの必要とする日々の糧を求める祈りに、罪の誘惑をもって応えるはずなどありえない。そう、断言されます。

 

■聖霊によって

 そして最後13節です。

 「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」 Continue reading

5月18日 ≪復活節第5主日礼拝≫『苦しみの中の希望』 コリントの信徒への手紙二 1章 8~ 12節 沖村 裕史 牧師

 

■苦難と慰め

 前回、お読みいただいた4節にこうありました。

 「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます」

 印象深い言葉です。神はただ慰めてくださる、というのではありません。あらゆる苦難に際して慰めてくださる、と言われます。神を信じて生きるときに、わたしたちは苦難に直面をします。

 苦難のない無風地帯なんてありません。雨風の当たらない平穏な場所を求めて、それが信仰だと思っているとするならば、わたしたちは結局、この人生からは何も得ることはできないでしょう。どうしたら、苦しみのない人生の道を得られるだろうか。それだけを求めていくなら、わたしたちのこの人生は不毛なものになります。なぜなら、苦難を避けて、わたしたちが神に出会うことはありえないからです。

 しかし、パウロの言葉はそこに止まりません。

 「この慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます」

 わたしたちは、苦難の中に踏みとどまって、神の慰めを受け取るから、他の人の苦難に際して慰めを与えることができる、と言います。苦難を前向きに生きている人こそが、苦難の中にいる他の人を慰めることができるのです。苦難の中で鍛錬されて、強くなって、タフになって、他の人を励ます力が与えられるのではありません。苦難の中で、弱いから、行き詰まるから、そこで慰めを神から受けて立っている人が、他の人を慰めることができるのです。

 

■小さな悲しみ

 カトリックの信徒である末盛千枝子さんという人が書いた『ことばのともしび』という、わたしがとても大切にしている小さな本があります。以前ご紹介したことのある本ですが、その「あとがき」にこんな一節が記されています。

 「二十代でこれからというときに親しい友人に死なれました。そのあと三十を過ぎて、人に紹介されて結婚した夫は本当に優しい人でした。でも、その夫は十一年の結婚生活のあと、小さな息子二人を残して突然死してしまいました。そのうえ長男には難病があることがわかっていました。でも夫が亡くなる直前にある友人夫妻が、絵本の編集の仕事をしませんかと誘ってくれていました。夫に死なれて急に仕事を探すのだったら本当にたいへんだったと思いますが、その点、とても恵まれていました。

 それに、夫のお通夜の後で、『これからもまだまだ、いくつもの困難があるだろう。でもそのときに、必ずそれを乗り越える力が与えられるに違いない』と思ったのです。子どもたちを残して夫に死なれるというのはほとんど最悪の事態なのに、そう思ったのです。思ったというよりもむしろ、自分の胸の中に聞こえてきたと言った方がいいかもしれません。それはとても不思議な経験でした」

 どんな苦難の中にあっても、神がそれを乗り越える力を与えてくださると信じる末盛さんの信仰に励まされつつ、その本の中の「小さな悲しみ」と題された一文をご紹介します。

 「小さなことであっても実はとても大切なことがあるのではないでしょうか。たとえば、大事にしていたゴム風船のひもをはなしてしまい、どんどん空に飛んでいってしまったということが、どんな子どもにもあるかもしれません。それは人の一生で大切な経験のような気がします。

 子どもが初めて出会う、この小さいけれど取り返しのつかない悲しみは、大人たちが出会う大きな悲しみと比べて意味がないのだとは決して思いません。子どもは、このことをきっと大切に心の中にしまっているのです。そして、こういう経験をした子どもはその分、友だちにもやさしくできるのではないかと思うのです。

 たぶん、人生はこういう小さな悲しみの積み重ねからできていて、その一つひとつはまるでモザイク片のように本当に小さな一片でありながら、それが集まって姿を現したときに、そこにその人の全体像が見えてくるのではないでしょうか。

 そんなことを考えると、大人になってからの深刻な悲しみと、子どものときの風船を飛ばしてしまった悲しみとは、どちらが重要とは言えないのだとさえ思います。

 息子たちがまだ小学生だったときに彼らの父親が亡くなりました。息子たちは口ではなにも言いませんでしたが、あのころの写真を出してみると、本当に悲しそうなのです。言葉に出して悲しむことができないほどだったのだと、いまさらのように思います。そして、父親の死からほどなくして、こんどは飼っていた猫が死にました。そのときの次男の嘆きは忘れられません。父親の死も猫の死も、彼は精一杯、胸一杯受け止めていました。

 その彼ももう三十代になりましたが、小さなことにも喜び、悲しむ、その性格はいまも変わりません」

 苦難の中で神の慰めを受け取るから、他の人の苦難に際して慰めを与えることができる、というパウロの言葉が重なるようです。息子に向けられた末盛さんの眼差しには、暖かな柔らかさと苦難の中に与えられる慰めが満ち満ちている、そうは思われないでしょうか。 Continue reading

5月11日 ≪復活節第4主日/母の日「家族」礼拝≫『おかあさんがやってきた!』(こども・おとな)/『愛の大きさに包まれて』(おとな) ルカによる福音書 1章 39~56節 沖村 裕史 牧師

 

お話し 「おかあさんがやってきた!」(こども・おとな)

■神様の御心(みこころ)のままに

 イエス・キリストの母マリアを、聖母(せいぼ)として大切に敬(うやま)っていた中世のヨーロッパでは、たくさんの絵にマリアの姿が描かれています。その姿はどれも、威厳(いげん)に満ち、神のみ子の母にふさわしく華麗(かれい)な館(やかた)に住み、王女のように立派な衣装(いしょう)を身につけています。でも聖書によれば、本当の彼女はガリラヤという地方の田舎の村ナザレに住む、貧しい、素朴(そぼく)な少女でした。

 そして今日、母の日に一緒に見ていただく映画、『サウンド・オブ・ミュージック』の主人公の名前も、マリアです。

 舞台はオーストリアのザルツブルグにある修道院(しゅうどういん)。そこで働く修道女・シスターになることを願っていたマリア(ジュリー・アンドリュース)は大の歌好きで、歌を歌っているとそれこそ夢心地(ゆめごこち)になって、いつも礼拝の時間を忘れてしまいます。先輩(せんぱい)のシスターたちは、そんなマリアが本当にシスターに向いているのかどうか、心配でたまりません。院長は、そんな彼女に家庭教師の仕事を勧(すす)め、元海軍大佐のトラップ男爵(だんしゃく)(クリストファー・プラマー)のもとへと送り出しました。

 トラップ家(け)に初めてやってきたマリアですが、あまりに粗末(そまつ)な服を着ていたので、もうちょっとましな服はないのか、と注意される場面があります。するとマリアは、服はみんな貧しい人たちにあげてしまいました、この服しかありませんと答えます。彼女は自分の粗末な身なりをなんとも思っていません。こんなところは、聖書のマリアの姿そのものです。

 そう思って見てみると、院長から突然トラップ家の家庭教師になるように告げられた時の戸惑(とまど)いぶりも、聖書のマリアとそっくりです。さきほど読んでいただいた聖書箇所の直前に、マリアが天使から「おめでとう、恵まれた方。神様があなたと共におられます」と告げられ、あまりに突然のことなので、マリアが「戸惑い」「何のことかと考え込んだ」とあります。すると天使ガブリエルは「恐れることはありません。あなたは神様から恵みをいただいたのです。あなたは身ごもって男の子を産むでしょう」と告げられ、マリアは「わたしは、神様のしもべです。あなたのお言葉どおり、この身に成(な)りますように」と、神様を信頼し、天使のお告げを受け入れたと記されています。

 映画の中のマリアも、突然、家庭教師をするよう言われた時、きっと聖書のマリアと同じような思いを持ったのではないでしょうか。なぜ、わたしが修道院を離れなければならないのかと考え込んでしまったことでしょう。それでも修道院長の言葉に従ってマリアは、トラップ家の子どもたちの家庭教師となることを決意し、修道院を後にしました。

 映画の中でマリアが、修道院で学んだ一番大事なことは「主の御心(みこころ)を知り、真心(まごころ)をこめてそれに従うこと」と語るシーンがあります。どんな時にも、勇気をもって信頼すること、そして自分の運命をみずから切り開いて歩んでいくこと、それが神様の御心に適(かな)うこと、神様に喜んでいただけることだという思いが、このマリアにもあったのです。

 そしてこの映画のモデルとなった、マリア・フォン・トラップもまた「すべてが神の御心のままでした」と自伝に書いています。

 

■愛と温(ぬく)もり

 さて、ここで映画のあらすじを追ってみましょう。

 トラップ男爵は妻に先立たれ、後には、母を亡くした七人の子どもが残されていました。男爵は元軍人です。その子育ては軍隊式が一番と、子どもたちには笛で号令をかけ、制服で行進させるという厳しい教育方針でした。規律を重んじるだけの一家の空気は冷(ひ)え冷(び)えとしていました。

 そんな子どもたちにマリアは、歌うことを教えはじめます。彼女のやさしい人柄とあいまって、歌が家の雰囲気(ふんいき)を変えるきっかけになりました。やがて、男爵もそんなマリアに好意を抱くようになり、めでたく結婚。子どもたちは「おかあさんがやってきた!」とばかりに喜びます。しかしそんな幸せも束(つか)の間(ま)、ドイツ軍から軍隊に入るようにとの命令書が届きます。しかし男爵はナチス・ドイツへの忠誠(ちゅうせい)を拒(こば)み、一家は自由を求めてスイスへと山越えをしてゆくのでした。

 思えば、マリアがトラップ家に来ることがなかったら、一家の中にいつも音楽が流れることはなかったでしょうし、男爵は相変わらず厳しい教育方針をとって、子どもたちも心を閉ざしていたでしょう。しかしそれでは、家庭は幸せとは言えません。確かに生活が苦しいわけではありません。とりたてて不幸ということでもありませんが、しかし本当に幸福であるためには、家庭がほっとする、温かい場所でなければなりません。

 マリアは、そうなってしまったかもしれないトラップ家に、歌と一緒に、家庭の温(ぬく)もりをもたらしました。そればかりでなく、歌を愛するマリアの心が一家に、ナチスの圧迫(あっぱく)にも決して屈(くっ)しない強い勇気も生み出したのです。『サウンド・オブ・ミュージック』のマリアは、まさしく聖書の母マリアのように愛と温もりをもたらす、最高の女性の役割を演じていたと言えそうです。

 ではここで、少しだけ映画をご覧いただきましょう。

 

■いのちと家族

 いかがでしたか。この映画の魅力(みりょく)は何といっても、美しいメロディーの歌です。その中でも特に親しまれているのが主題歌の「サウンド・オブ・ミュージック」。ジュリー・アンドリュースの美しいソプラノが高原いっぱいに響き渡る冒頭のシーンはよく知られていますが、他にも「エーデルワイス」や「ドレミの歌」などがそれぞれの場面にマッチして、それらを歌う伸びやかなマリアの声が忘れられません。

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5月4日 ≪復活節第3主日礼拝≫『第一と第二の狭間』 コリントの信徒への手紙二 1章 1~7節 沖村 裕史 牧師

 

■証人としての使徒

第一の手紙を終えて、今日から第二の手紙に入ります。しかし、この第二の手紙は、パウロがコリント教会に出した第一の手紙の、すぐ後に書かれた手紙というわけではありません。第一の手紙が書かれてから、第二の手紙が書かれるまでの間に、様々な出来事や事件が起きていました。今日はまず、そうした手紙の背景からご一緒に学んでいきたいと願っています。

この手紙の差出人は言うまでもなく使徒パウロですが、問題はこの「使徒」という呼び名です。最初期の教会では特別な意味を持つ、権威ある呼称です。使徒というのは、イエスさまの宣教活動に同行し、そのすべての出来事を見届け、そこで語られた言葉のすべてを耳にした人たちだけに許される呼び名でした。

教会では証人、証し人が重んじられました。使徒たちはイエス・キリストが奇跡によって多くの人々を癒し、驚くべき良き知らせ―福音を語り伝え、十字架で確かに死なれたけれども、その三日後にはよみがえられたのだ、と証言していました。これらイエスさまに関わる出来事や言葉を知るためには、現代のようにテレビやインターネットはもちろん、録画や録音のない時代にあっては、伝聞、証人の証言に頼るほかありませんでした。

英国の聖書学者ボルンカムによれば、当時の情報の大半はそうした口伝え、噂でしたが、特に、どこそこの、だれそれが、こういうことを見た、聞いたという、情報源が特定されるものは信頼性が高いと考えられていました。徴税人ザアカイやベタニアのラザロ、サマリアの女やシリア・フェニキアの女などです。とりわけ、イエス・キリストに従い、氏素性もはっきりしている使徒たちの証言は大変重んじられ、その証言は権威あるものとして受けとめられました。

 

■パウロの使徒性

では、パウロには「使徒」と呼ばれる資格があったのでしょうか。厳密に言えば、パウロは使徒ではありません。彼は生前のイエスさまに会ったことも、イエスさまを見たこともなかいからです。イエスさまは主にエルサレムの北部、ガリラヤ地方で活動されていましたから、都会育ちのパウロはその噂を聞くことがあったとしても、実際にはどんな人かを知りませんでした。

それどころか、パウロにとってイエスさまは、ユダヤの最高法院、今の最高裁判所で、救い主を自称する偽メシアとして断罪され、ローマ帝国の手によって最も残酷な極刑、十字架刑で殺された、いわくつきの罪人です。その罪人をメシア・救世主として崇めるキリスト教は怪しげな宗教にしか見えず、その上、ユダヤ教で罪汚れた者と見做されていた、病人やしょうがい者、異邦人たちと親しく交わり、交際する、とても危険な宗教でしかありません。パウロは、他のユダヤ人がこの危険な宗教に惑わされることのないよう、自ら進んで徹底的にキリスト教を弾圧していました。

そんなパウロに、天に昇られたイエスさまが突然現れ、なぜわたしを迫害するのかと問われたのです。使徒言行録9章に記されるダマスコ途上での出来事です。パウロは、それまでの自分の生き方を根底から問い直さざるを得なくなります。自分はこれまで他の誰よりもユダヤ教の教えに精通していると誇っていたのに、神がイエスを救い主キリストとして選んだことに全く気がつかなかった。自分は大きな勘違いをしたまま生きてきたのではないか。彼は必死に祈り、これから自分はどうすればよいのかと、神に、イエス・キリストに真剣に問いかけました。

その時、神から彼に使命が与えられたことを、パウロはガラテヤの信徒への手紙1章15節から16節にこう告白しています。

「わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた」

パウロに与えられた使命とは、ユダヤ人と外国人の区別なく、すべての人に神の救いがもたらされていることを告げる、イエス・キリストの福音を一人でも多くの人に宣べ伝えることでした。パウロにとって、この福音を宣べ伝える使命を与えられた者こそが「使徒」でした。パウロは紛れもなく使徒でした。

 

■時間がない

こうしてパウロは、小アジアと呼ばれる地域、現在のトルコで伝道活動を行っていましたが、それからしばらくして、ヨーロッパのギリシアに活動の拠点を移します。パウロはまず、かのアレクサンダー大王を生んだマケドニア地方で伝道をします。フィリピやテサロニケという都市で伝道に励みますが、迫害が激しくなり、逃げ延びるようにしてギリシアを南下します。辿り着いたのがギリシア南部、地中海世界の交易・交通の要衝に位置する大都市コリントでした。当時としては破格の50万人もの人口を擁するコリントでの伝道にパウロは大きな期待をかけ、またヨーロッパ伝道の拠点にしたいと考えていました。パウロは1年半の時間をかけてコリントの地に教会を立ち上げ、そして他の町へと去って行きます。

それにしても、パウロが1年半というわずかな時間で、また次の町へと去って行ったのはなぜだったのか。パウロに時間が、余裕がなかったからです。このときパウロは、自分が生きている間にイエス・キリストが再びやって来られると堅く信じていました。パウロの願いは、その再臨までに全世界に福音を宣べ伝えることでした。全世界と言っても、それはパウロの生活圏、地中海世界のことです。そのすべての地に、最西端のスペインまでできる限り早く福音を伝えたい、それが願いでした。

そこで交通の要衝に位置する大都市に狙いを定めて、伝道活動を進めていきました。とはいえ、地中海は広大です。海の荒れる11月から3月まで船旅はできません。基本、徒歩で移動することの多かったパウロにとって、全世界への伝道は時間との勝負でした。そのため、個々の教会に仕える時間は長くても二年が限度でした。二年間は長いようで、あっという間です。

 

■第一の手紙から第二の手紙まで

できたばかりのコリント教会の人々にとっては、なおのことでした。パウロが去った後、彼らは教会の運営や毎週の説教にも苦労したにちがいありません。そんな中、新しい宣教師のアポロがやって来ました。雄弁家のアポロに魅了された人たちの中には、わたしはあのパウロ先生よりもアポロ先生の方がいい、と言い出す人もいました。そうして教会にはパウロ派、アポロ派のような派閥ができました。パウロは1年半しかいなかったので、すべてのことを教会の人々に教えることもできず、信仰の基本的なことしか伝えられなかったようです。そのため、信徒たちの間にいろいろと問題が生じたときも、教会としてどう対応していいのか分かりません。こうして混乱に陥ったコリント教会の様子を聞き知ったパウロは、コリントを去ってから約1年半後に、小アジアの大都市エフェソで第一の手紙を書き、いろいろな問題について細かい指示を書き送り、書くだけでなく自分の右腕であるテモテをコリント教会に遣わしました。これが第一の手紙が書かれたときの状況です。

しかし、この第一の手紙が書かれてから第二の手紙が書かれるまで、またも、いろいろな出来事が起こりました。パウロの代理としてコリントに向かった若きテモテですが、彼はそこで事態が予想以上に悪化しているのを知ることになります。第一の手紙のときには分からなかった、新しい問題が生じていました。

パウロに敵対する新たな宣教師たちがコリントにやって来て、信徒たちにパウロの人格を、その使徒性を疑わせるようなことを吹き込んでいたのです。かつて、パウロの後にコリント教会に来たアポロは決してパウロを悪く言うようなことはしませんでした。しかし今度の宣教師たちは違っていました。

実際、パウロという人は敵を作りやすい人でした。彼は空気を読むとか、忖度(そんたく)するといったようなことをしません。相手が誰であろうと、自分が信じることをはっきり言う人でした。安倍首相の時の文科省の役人たちのように、空気を読むことを重んじる今の日本では、間違いなく嫌われるタイプの人だったと言えるかもしれません。

特にパウロは、外国人には旧約聖書の教えであるモーセの律法、割礼や食事の規定などを守らせる必要はない、イエス・キリストは神の愛と救いがすべての人にもたらされていると告げられ、律法を盾に人を罪に定め、人と人との絆を分断するファリサイ派や律法学者を批判されたのだ、と強く主張していました。このパウロの教えが気に食わない人たちがいました。律法は聖書に書かれた神の言葉です。パウロはかつての迫害者であって、使徒でもなんでもない、それなのに何の権利があって聖書の教え、律法を守らなくていいなどと言えるのかとパウロを攻撃したのです。彼らから吹き込まれた人たちは、パウロに疑念を抱くようになります。コリンの人々には、パウロから十分に教えてもらえなかったという不満もありましたから、ある人たちはこの宣教師たちの言葉を信じ、パウロから離れて行ってしまったのです。

この危機的状況をテモテから知らされたパウロは、居ても立っても居られません。同じく問題を抱えていたフィリピやテサロニケの教会から訪問しようと考えていたパウロでしたが、予定を変更し、急いでコリント教会に向かいます。しかし、この訪問は最悪の結果に終わりました。それが2章1節にある、「あなたがたを悲しませる訪問」でした。

コリント教会の皆が、パウロを拒絶したわけではありません。しかし、もともとパウロ派とかアポロ派とかペトロ派に分裂していたような教会でしたから、パウロに不満を持つ一定数の信徒がいました。彼らが中心になって、「わたしたちはあなたを使徒とは認めない。偉そうにしないでいただきたい」というようにパウロを傷つけることを言い放ったのでしょう。もちろんパウロを慕い、擁護する信徒たちもいました。こうして教会はますます混乱に陥り、パウロの二度目のコリント訪問は最悪の結果となりました。

パウロはここで一旦コリントを退き、エフェソに戻ってしばらくしてから、涙ながらの手紙を書き送ります。そのことが2章4節に書かれています。残念ながら、この涙の手紙は残されていません。今、わたしたちが読んでいるのはその涙の手紙に続く、もう一つの手紙です。パウロはこの涙の手紙をテモテではなく、もう一人の同労者であるテトスに持たせます。しかし、その返事を待つパウロは気が気ではありません。テトスがなかなか帰ってこないので、コリントでテトスの身に何かあったのではと不安になります。テトスに会えるのではと思ってマケドニアに行き、そこでようやくテトスに会います。

テトスからコリントの様子を知ってパウロは喜びます。パウロの悲痛な手紙を受け取ったコリント教会の多くの人たちが反省し、パウロをひどい言葉で侮辱した人を処罰することにし、パウロと和解しようとしているというのです。こうして一難去ったかのように見えましたがしかし、パウロに反対する宣教師たちもまたコリント教会に影響を持ち続け、まだパウロに対して腹に一物をもつ信徒たちもいて、油断できない状況だということも聞かされました。

こうした緊迫した状況で書かれたのが、この第二の手紙なのです。

 

■慰めと苦しみ

そんな第二の手紙の冒頭、1節から7節だけを今日は読んでいただきました。冒頭だから形式的な内容だと思われるかもしれませんが、決してそうではありません。3節から7節までのわずか5節の間に、パウロは「慰め」という言葉を9回も用います。また「苦しみ」や「苦難」という言葉が7回も出て来ます。そう、第二の手紙のキーワードは、「慰め」とその対になる「苦しみ」です。パウロは何度も何度も自分が苦しみに遭っていること、そして苦しみにあるその自分を神が慰めてくださっているのだ、と繰り返し語ります。

なぜ、パウロはこんなにも「苦しみ」や「苦難」を強調するのでしょうか。その理由の一つはやはり、敵対する宣教師たちの存在です。彼らはパウロが使徒であることに疑問を投げかけましたが、それだけではありませんでした。パウロが伝道のために至るところで迫害を受け、多くの苦しみを味わい、体に持病を抱えていることも広く知れ渡っていました。パウロに反対する人たちは、パウロがあんなに苦しむのは彼に何か問題があって、神が彼を守らないからに違いない、と仄めかします。ちょうどヨブ記のような話です。義人であると信じられてきたヨブが突然の災いに遭ったのを見た友人たちは、ヨブが何か罪を犯していて、それを神が裁いたのだと噂をしました。それと同じです。

そんな中傷に対してパウロは、繰り返し自分の苦しみの意味を説明します。パウロは自分の苦しみを通じて、キリストの苦難の生涯、とりわけその十字架での死が明らかになる、自分は苦しみを通じてキリストを証ししているのだ、と主張します。と同時に、苦しみに遭っている自分を神は慰めてくださる、神はわたしと共におられる、ということを強調します。パウロは、神が自分をこの苦境から救い出す力があるし、また救ってくださると確信しています。イエス・キリストを十字架の死という最悪の状況からすら、復活によって救ってくださった神を信じているからです。パウロの語る「慰め」とは、神が苦難から救う神であることを確信していることから来るものでした。

 

■道を開いてくださる

大学を卒業したものの、うつ病にかかり、仕事を断念して、治療に専念せざるを得なかった、教会の友人がいます。彼から送られてきた手紙の中に、「元気な時は、人は生きていけますが、世の中の厳しい現実に気づいて自分が弱い者だと知ったならば、希望を持って生きるということは、なんと難しいことでしょう」と、心の病気をもってこの世で生きることが、いかに困難で苦しいことかと訴えていました。社会の厳しい現実、襲いかかる病魔、無力な自分。なんと重い現実でしょうか。

ある人は、信仰を持ったら、悩みも苦しみもなくなると思っています。しかし、それは事実ではありません。この世の不正やこの世の虚しさに目を留めないで、また自分の罪にも気づかず、目に見える幸福のみを追い求めている人々には、イエスさまの生き方も、弟子たちの生き方も、全くナンセンスで、馬鹿げて見えるかもしれません。

けれども、働き盛りの父親をガンで失った家族や、ひとり淋しく死を迎えるご高齢の方は、より永遠的で、確固たる真実や幸福とは何かを求めずにはいられません。また、人を破滅に落とし入れるような激しい苦難がやってきても、決して動揺しない生き方とは何かを考えないではいられないのです。

パウロは、極限状況に置かれた時の唯一の救いは、「死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となること」であると教えます。ここに、すべてのものを失った厳しい現実の中でも、なお無力なわたしたちが生きる道があるのです。死者をさえ、生かすことのできる神がいるとは、全くの暗闇の中での光であり、希望ではないでしょうか。

わたしたちの信仰の道、神を信ずる道は、この死に体(たい)から繰り返し生かされる、思いがけない形で道が開かれる、そういう形で生きていく道なのです。そしてその道が、永遠のいのちにつながるのです。そして実に、苦難をわたしたちが生きていくということが、わたしたちの信仰の証しです。信仰を持って幸せ、苦しみは一切ない、そんなのはわたしたちの信仰の証しでもなんでもないのです。楽に生きている、そんなことは信仰の証しでもなんでもない。苦難を生きていくのです。苦艱の中に、神は道を開いてくださいます。わたしたちがたとえギブアップしても、必ず神はわたしたちのために前方に道を開いてくださいます。わたしたちはその道を歩いていくのです。それが信仰によって生きるということだ、この手紙を通してパウロはそう教えるのです。感謝して祈ります。

4月27日 ≪復活節第2主日礼拝≫『目を覚ましていなさい―待望』 コリントの信徒への手紙 16章 5~24節 沖村 裕史 牧師

■今後の計画

 コリントの信徒への第一の手紙も、いよいよ最終回です。といっても、これから引き続き第二の手紙の説教を続けていきますので、これで終わりということではなく、まだ道半ばといったところでしょうか。

 それにいたしましても、パウロという人は、自分の考えや計画を自分が牧会する教会の人たちにハッキリ知らせることに相当の努力をし、心を尽くし語っています。5節から12節に、今後の計画を語ります。

 8節にあるように、パウロは今、エフェソにいます。パウロは3回に亘る伝道旅行をしましたが、今は、その第3回目の途上にあります。使徒言行録19章によれば、第3回目の旅行のとき、パウロはエフェソに二年以上留まって伝道をしています。エフェソはいわゆる小アジア、今のトルコの西の端にあり、エーゲ海を挟んでギリシアと向かい合っています。パウロはこの町で伝道をしながら、第2回の旅行で彼が土台を据えた、フィリピやテサロニケなどギリシアの諸教会とも連絡を取り合う中、コリント教会の様子を特に心配して書いたのがこの手紙でした。

 パウロはこの後、ギリシアの諸教会を訪れたいと願っています。5節に「わたしは、マケドニア経由でそちらへ行きます」とあります。マケドニアはギリシア北部です。エフェソから小アジアを北上し、エーゲ海の北を回ってからバルカン半島に入り、まずマケドニアの諸教会を訪ね、それから南下してギリシアの南部、アカイア州の中心都市であるコリントを訪ねる。そういう計画を彼は抱いているのです。

 そして、コリントではじっくりと滞在して教会の人々と語り合いたいと願っています。7節にその願いが語られています。

 「わたしは、今、旅のついでにあなたがたに会うようなことはしたくない。主が許してくだされば、しばらくあなたがたのところに滞在したいと思っています」

 パウロがこう思っているのは、わたしたちがこれまでこの手紙で読んできたように、この教会に、信仰の上でも、生活においても、様々な問題や対立があったからです。そのことを踏まえてこの手紙を書いたパウロは、一刻も早くコリントへ行って、教会の人々に直接語りかけたいと願っているのです。

 

■主の開いてくださった門

 しかしパウロは今、マケドニアを経由してコリントへ行く計画を語りながら、すぐには行くことができない理由を語ります。

 あなたたちのことを思えば、すぐにでも向かいたいが、今はそれができない。なぜなら、「わたしの働きのために大きな門が開かれているだけでなく、反対者もたくさんいるから」です、と言います。

 「自分の働きのために大きな門が開かれている」とは、このエフェソを拠点とした小アジア地方での伝道で、多くの実りが得られそうだということでしょう。自分の賜物が豊かに用いられて成果をあげることができる場がここにある、しかしそこには同時に「反対者もたくさんいる」。パウロがなおしばらくエフェソにいるのは、よい働きの場があり、成果をあげることができそうだからというだけでなく、「反対者たち」による妨害があるからです。

 パウロは、エフェソに留まった方が楽に伝道ができて、成果も上げやすいと考えて、ここに留まろうとしているのではありません。エフェソに留まることは、多くの反対者たちに囲まれる、困難な戦いの場に身を置くことです。彼はその困難の中に敢えて留まろうとしています。そしてその困難の中にこそ、「わたしの働きのために大きな門が開かれている」と言います。

 それは、困難な課題を克服することによってこそ栄光がある、という英雄的な覚悟からではありません。彼はそこに、神の導きを見ています。「大きな門が開かれている」。その門を開いてくださっているのは、神です。自分が困難を克服して門をこじ開けようと言うのではありません。神が門を開いてくださっているから、困難があってもその門を通って行こうとしているのです。

 パウロはこれまでも、そのように歩んできました。しばしば、計画の変更を余儀なくされてきました。しかし、そのことを主の導きと信じ、主がこのことを禁じて、他のことを自分に命じておられるのだと受け止め、その導きに従って予定を変更しつつ歩みました。第2回伝道旅行のときも、そのように道を変えられることによってギリシアに渡り、その結果、コリントに教会が生まれたのです。すべては主の導きでした。

 主が禁じられた道を捨て、主が開いてくださった門を通って歩む。エフェソになお留まろうとしているのも、そういうことです。彼はその後の計画もすべて主に委ねています。7節の「主が許してくだされば、しばらくあなたがたのところに滞在したい」とは、その思いの現れです。それを無計画、無責任だと批判する人もいるかもしれませんが、それこそがパウロの伝道旅行でした。

 反対者がいるからエフェソを去るのではなく、困難の中にも門が開かれているのでエフェソにとどまる。わたしたちに勇気を与える言葉です。

 

■何が重んじられるのか

 次に10節以下、テモテをコリント教会へ送り出したことに関して、彼が到着したら「心配なく過ごせるようお世話ください。わたしと同様、彼は主の仕事をしているのです。だれも彼をないがしろにしてはならない」と念入りに語っています。

 テモテは、パウロが第2回伝道旅行の途中、小アジアのリストラの町で出会った若い信仰者で、パウロは彼を同労者として伝道旅行に伴っていました。パウロは、このテモテをコリントに先に遣わそうとするに際して、「だれも彼をないがしろにしてはならない」と言います。口語訳では「だれも彼を軽んじてはいけない」となっていました。若い伝道者を、その若さのゆえに蔑(ないがし)ろにしたり、軽んじたりしてはならない、逆を言えば、ともすればそういうことがあったということでしょう。それに加えて、パウロの代理人の立場に立たされたテモテに対する風当たりは、相当強かったと想像できます。

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3月30日 ≪受難節第4主日礼拝≫『共に生きるために—献げもの』 コリントの信徒への手紙 16章 1~4節 沖村 裕史 牧師

 

■あとがき

 いよいよ最後の章になりました。いわば「あとがき」です。

 普段、わたしが初めての本を手にしてすることは、「はじめに」と「目次」に目を通し、その後、丁寧に「あとがき」を読むことです。そうすることで、その本についてある程度のことが理解できるからです。特に「あとがき」には、作者の思いや考え、その本を書いた意図を知るうえで重要なヒントが必ずと言ってよいほど含まれています。この16章も、神学的には重要なメッセージは少ない個所と言えますが、パウロの思いや願いを知るうえで、また現実のわたしたちの教会生活にとっても、とても身近で、大切なことが記されています。

 共に生きることに失敗しているように見えるコリントの教会に対して、パウロはこの「あとがき」の中で、より具体的な事柄を語り告げることによって、「共に生きる教会の姿」を、ここにはっきりと指し示そうとしています。

 

■復活と献金

 その冒頭、「聖なる者たちのための募金について」と語り始めます。

 「募金」とは「集める」という意味の言葉で、「集められたもの、集められたお金」を指します。何か目的があって、特別に集めたお金のことです。1節後半に「わたしがガラテヤの諸教会に指示したように、あなたがたも実行しなさい」とあるように、パウロはこれまでにも各地の教会でそういう募金活動を始め、また指導してきました。そしてこの手紙の最後、パウロはこの問題を取り上げます。

 とはいえ、皆さんはこのことに大きな落差を感じられなかったでしょうか。直前15章で、世の終わり、永遠を見つめていた目が、突然、とても卑近で即物的なお金の話に引き戻される。えっ?どうして?ちょっとガクッとくる。そうは思われなかったでしょうか。そもそもこの手紙、15章でおしまいにした方がよかったのではないか。その終わりに「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」と語って最高潮に盛り上がったのだから、後は短い挨拶と祝福の言葉で終った方が効果的だったのではないか、と。

 しかし、パウロはそうはしませんでした。ここに落差などないからです。パウロにとって、世の終わりの復活の希望に生きることは、今のこの世の現実の生活とかけ離れた、別世界の話ではないからです。

 もちろん「肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできない」ことをパウロは知っています(15:50)。この世の営みは過ぎ去っていき、朽ちていくものであって、その延長上に救いがあるわけではありません。しかし世の終わりの復活の希望に生きる人は、この地上の歩みの中で「動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励む」者となる、とパウロは言います。それは「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを…知っている」からです(15:58)。

 復活の希望に生きる時、わたしたちはこの世の事柄を軽んじたり、無視したりするようになるのではなくて、むしろ本当に責任をもってこの世の事柄に関わるようになります。本当に責任をもってこの世の事柄に関わるとは、それらを無駄にしないよう用いることです。そのためには、それらを朽ちることのためではなく、朽ちないことのために用いなければなりません。復活によって朽ちることのないいのちと体を与えてくださる主なる神にそれらをささげ、「主の愛の業」のために用いなければなりません。自分に与えられている様々なもの、能力、時間、財産が主の愛の業のために用いられる時にこそ、そのわたしたちの歩み、苦労は決して無駄にならず、本当に生かされていきます。

 募金の教えは、復活の希望に支えられて、この世の事柄を用いて主の愛の業に励むことの具体的な事柄として語られています。ここに落差はありません。その意味で、それは単なる「慈善のための募金」ではなく、まさに「献金」です。わたしたちも教会でいろいろな募金をしますが、わたしたちはそれを単なる慈善活動としてではなくて、愛の主に仕える業として、つまり神へ自らを献げること、「献身」の業として行います。さらに言えば、わたしたちの信仰が試されることの代表的な例が「献金」であると言えるのかもしれません。個人的にも、教会全体としても、献金をめぐって信仰が試されることになります。

 

■迫害と困窮

 今、「聖なる者たち」とあるのは、小見出しにあるように「エルサレム教会の信徒」たちのことです。エルサレムはキリスト教会が最初に誕生した場所ですが、ユダヤ教のお膝元でもあり、キリスト教とユダヤ教との違いが鮮明になるにつれ、ユダヤ人たちから激しい迫害を受けるようになっていました。さらには慢性的な飢饉の影響もあって、深刻な困窮の中にあったことが使徒言行録に書かれています。そのような迫害と困窮の下にあるエルサレム教会の人々のために、各地の教会で献金を集めて送るという運動を、パウロは指導していたのです。

 つまりこの献金活動は、同じイエス・キリストを信じて教会に連なる主にある兄弟姉妹の間で、苦しみの中にある教会を支え、助けていこうとする働きです。コリントの人々にとってエルサレム教会の人々は、会ったこともない、顔も見たことのない人々でした。人間的には何のつながりも関係もない、名前も知らない人々の間に、イエス・キリストを信じているというただ一つの絆、つながりゆえに、自分の財産を献げて相手を支え助けるという主の愛の業が行われていく、パウロが行っていた献金の活動とはそういうものでした。ローマの信徒への手紙15章25節以下に、こうあります。

 「しかし今は、聖なる者たちに仕えるためにエルサレムへ行きます。マケドニア州とアカイア州の人々が、エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意したからです。彼らは喜んで同意しましたが、実はそうする義務もあるのです。異邦人はその人たちの霊的なものにあずかったのですから、肉のもので彼らを助ける義務があります。それで、わたしはこのことを済ませてから、つまり、募金の成果を確実に手渡した後、あなたがたのところを経てイスパニアに行きます。そのときには、キリストの祝福をあふれるほど持って、あなたがたのところに行くことになると思っています」

 援助は、経済的に重荷を負うことを通して、主にある交わりを深めると同時に、ユダヤ人教会の代表で、福音の発祥地であるエルサレム教会と、パウロの伝道により設立された異邦人教会との一致のために、パウロは「特別な思いを込めて」、この献金運動を推進していたのでした。

 

■献金の背景

 では、その「パウロの特別な思い」とはどのようなものだったのでしょうか。

 使徒言行録によれば、パウロは身の危険をも顧みずにエルサレムに向かい、そこで逮捕されてローマに囚人として護送されています。使徒言行録はそこで終わり、その後のパウロの運命は描かれません。しかし伝承によれば、そのローマでパウロは処刑されます。いのちがけでエルサレムに上ったことで、彼の人生は大きく変わりました。 Continue reading

3月23日 ≪受難節第3主日/レント「家族」礼拝②≫『あなたが言っていることです』 マタイによる福音書 27章 11~16節 沖村 裕史 牧師

 

■否定?肯定?

 ピラトは、ローマ皇帝がユダヤに駐在させていた総督で、紀元26年から36年の間、その地位にありました。総督府が置かれていたのは、地中海沿岸のカイサリアで、彼がエルサレムの駐屯地に来ていたのは、過越の祭りの警備のためでした。ローマの支配下にあったユダヤは、政治の面でも経済の面でも司法の面でも様々な制約を受けており、死刑判決を下す権限もまた、ローマが握っていました。ユダヤの祭司長、長老たちがイエス殺害を決定しても、それを実行に移すことは許されません。そこで彼らは、エルサレムの警備に来ていたピラトに、イエスさまの死刑判決とその執行を求めて、訴え出たのでした。

 訴えの内容は何も書かれていません。ただ、ピラトの質問「お前がユダヤ人の王なのか」から考えて、イエスさまがユダヤの王を自称し、反ローマ運動を指導している危険人物である、というものであったのでしょう。

 そのピラトの尋問に対するイエスさまの答えは、11節、「あなたが言っている」、「それは、あなたが言っていることです」というものでした。多くの人がこの言葉を、「そう言うのはあなたであって、それはわたしの言っていることではない」と、間接的にイエスさまがピラトの言ったことを否定された言葉であると理解し、そう説明をしています。

 確かにそうなのですが、このイエスさまの言い方は、そういう《間接的な否定》と言うよりも、むしろ肯定、あるいは《限定的な肯定》と言った方がよいのでないか、そう思えます。

 というのは、イエスさまはピラトの言っていることを、間接的な形とはいえ、否定するのではなくて、あなたの立場から見ればそういうことになるだろうね、と限定的な形で肯定しておられると受け取った方が、イエスさまの御心により近いように思えるからです。

 そもそも、権力の論理で物事を考えるのが身についているピラトに、政治犯としてイエスさまを裁いているこの法廷で、イエスさまに対するまっとうな理解を期待することなど、どだい無理な話です。ローマ皇帝の顔色を伺いながら、民衆の動向に気を配って、不安定な地位を守っている政治家ピラトの立場から言えば、イエスさまを「ユダヤ人の王」と疑って考えるのは、極めて自然なことです。

 ですから、ピラトの考えを否定するよりは一応認めたうえで、しかしそれは、あなたのような立場の人が言っているだけのことだと限定しているのが、このイエスさまの「それは、あなたが言っていることです」の意味だろうと理解する方が、自然です。イエスさまは、ピラトの言葉を否定されることはなさらなかったのです。

 しかし同時にイエスさまは、ただし「それは、あなたが言っていること」、つまり、政治の世界にどっぷり浸かり、そういう問題意識でしか物事を考えられないあなたの言っていること、わたしは違いますと、ピラトの言葉を限定されておられるのも確かです。

 イエスさまは、ピラトのラトの理解の外に立って、そこでピラトのために、さらには、同じくイエスさまを理解できない祭司や長老、群衆のために、そして、もっと広く、そこに露わになっているすべての人々の罪のために執り成す、十字架への道を誰にも理解されないままに歩んでおられるのです。

 

■一人ひとりに届く温(ぬく)もり

 この意味深長な返事をされた、イエスさまに温もりを感じます。

 ピラトの間違った考えを彼の立場に立って、できるだけ肯定しながら、その足らざるところ、誤てるところを、身をもって執り成される、イエスさまの広い心を感じないわけにはいきません。

 考えてみれば、わたしたちもまた、ピラトが政治の世界にどっぷり浸かっていたように、それぞれにどっぷり浸かった世界を生きてはいないでしょうか。どんなに冷静に、独善的にならないように注意して、客観的に考えたつもりでも、自分の性格や育った境遇、負わされている状況や自分の好悪、利害打算や世間体、そういうどっぷり浸かったものから全く離れて、物事を正確に、そのままに理解することは、互いにできないことです。

 そして同じことが、信仰を、イエス・キリストを理解する場合にも言えるのではないでしょうか。例えば、クリスチャンホームに育った人と、そうでない人とでは、信仰の理解が微妙に違います。また、内省的に一人考えることに充実を感じる性格の人と、社会的に活発にする奉仕活動に充実を感じる性格の人とでも、その信仰の理解には微妙な違いがあります。信仰の理解においてわたしたちは、それぞれがどっぷり浸かっているものの影響から、完全に離れることはできません。

 しかし、それら様々に異なった信仰の理解は、異なったままにみな肯定されるべきもの、ただし、本人に限定されて肯定されるべきものであって、そして、それぞれの過(あやま)てるところはすべて、イエスさまによって執り成され、生かされるものだと言えるのではないでしょうか。

 ピラトの法廷でのイエスさまの一言とその後の沈黙、そこから学び示されることは、一人ひとりの境遇や立場を汲(く)んで、その人を肯定して生かす、そういう一人ひとりに届く、イエスさまの温かさ、広さです。そしてわたしは、そこから、うわべではない本当の慰めをいただいています。

 

■限定的な正しさ

 わたしと妻は結婚して五十年近くになりますが、この間(かん)、互いの信仰について面と向かって話し合ったことはほとんどありません。違う信仰をもっていることは初めからお互い分かっていましたが、突っ込んで話題にしたことはありません。何かした拍子に、妻の信仰に触れ、こんな信じ方をしているのかと思うこともあります。その妻の信仰を好ましく思い、できることならわたしもそんな信仰を持ちたいと思うこともしばしばです。妻もまたいつの間にか、わたしに影響されてきているのかなと思うような面を感じることもあります。それでも、同じタイプの信仰をもって欲しいと思ったことは一度もありません。信仰に関しての、こういう平行線を歩むような態度がよいのかどうか、もっと真剣に話し合うべきではないのか、時々考えないわけではありません。でも、今日のこの御言葉を読んでいて、ピラトの法廷のイエスさまの一言とその後の沈黙に、わたしは慰められるような思いがします。信仰の理解が違ったままで、平行線でいいのだ、このまま共に歩めばいいのだと思えるからです。どんな信仰でも否定されることはない、肯定される、主の執り成しによって肯定されるのだ、と思えるからです。

 わたしたちの信仰は、自分でどんなに正しいと思っていても、イエスさまに執り成していただかねばならない、《限定的な正しさ》しかもたないものです。傍(はた)から見ればどうかと思う信仰も、確かにあります。互いにそう思っているかも知れません。しかし、それもその人のどっぷり浸かったところで、主に執り成され、赦されているその人の信仰として、尊重し合いたいものです。 Continue reading

3月9日 ≪受難節第1主日/レント「家族」礼拝①≫『わたしを食べなさい!』『あなたの手で—十字架』 ヨハネによる福音書 6章 52~59節 沖村 裕史 牧師

 

お話し「わたしを食べなさい!」(こども・おとな)

■肉を食べ、その血を飲む

 イエスさまの言葉、53節をもう一度読んでみましょう。

 「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」

 「人の子」というのはイエスさまのことです。えっ?イエスさまの肉を食べ、イエスさまの血を飲む?!ちょっと待って、そんなひどい…。だれもが眉(まゆ)をしかめるような言葉です。ユダヤの人たちが、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と騒(さわ)ぎ出したのも、当たり前だと思いませんでしたか。

 でも、心を静めて考えてみてください。わたしたちはみんな、他の生き物を、他のいのちを食べて生きてはいませんか?日曜日の夜7時30分から始まる「ダーウィンが来た!」という世界中のいろんな生き物が出てくる番組を見たことはありますか。その番組の中にときどき、動物が動物を食べるシーンが出てきます。残酷(ざんこく)で嫌(いや)だな、恐いなって思うこともあるかもしれません。でも、でも、動物だけじゃなくて、わたしたちを含めてこの地上の生き物はみんな、他のいのちを食べて生きています。植物であろうが動物であろうが、他のいのちを犠牲(ぎせい)にして食べて、生きています。いのちあるものしか、いのちは養(やしな)えません。家や机や鍋を食べることはできません。他の動物や植物の生きたいのちを、いわば奪(うば)い取って食べて、わたしたちのいのちは保たれています。

 この世界の生き物は、神様によってそう創(つく)られてる、ということです。勝手(かって)に奪い取って食べる、何の断(ことわ)りもなしに食べてるわけですから、わたしたちは、他の動物や植物のいのちに、心から感謝するほかありません。そして、そのいのちを与えてくださっている神様に感謝しなければなりません。それが食事の前に手を合わせて「いただきます」という、祈りの言葉の意味です。

 ということは、「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」というのは、イエスさまのいのちを犠牲にして、それをいただいて、わたしたちのいのちが保たれる、生きていくことができるんだ、という意味になるよね。

 イエスさまって、どんな人だったかな?病気や不自由を抱(かか)える人に手を差し伸べて、その苦しみを癒(いや)したり、愛する人が死んで悲しんでいた人のために、死んだ人をよみがえらされたり、食べる物がなくて飢えていたたくさんの人たちにパンと魚を与えて、そのいのちを養ってくださったり、罪人(つみびと)だと言われて差別されていた人たちを招いて、慰めてくださったり、争い、対立している人をも赦(ゆる)して、互いに愛し合いなさいと教えてくださったり…そんな驚くほどの愛に生き、限りない神様の愛を教えてくださった人でした。

 ところが、そんなイエスさまを妬(ねた)み、恐れた人たちによって、イエスさまは十字架につけられ、殺されてしまいます。イエスさまは、苦しみ、悲しむ、困っている人たちを救おうとして、人々からののしられ、はずかしめられ、ご自分の肉のからだを槍(やり)で貫(つらぬ)かれ、血を流して、そのいのちを奪われました。

 イエスさまの肉を食べ、イエスさまの血を飲むっていうのは、その十字架のことです。十字架の刺し貫かれた肉、流された血は、わたしたちの救いのためでした。わたしたちのいのちのためでした。わたしたちが人として、自分らしく、愛に生きることができるようになるための犠牲のしるしでした。そんな神様の愛を信じなさいって、イエスさまはここで教えてくださっています。

 

■アンパンマンとやなせたかし

 自分を犠牲にして、困っている人を救う人って、どこかで見たことありませんか。そう、アンパンマンです。

 パンをつくっているときに、餡(あん)に「生命(いのち)の星」が入ることで誕生した正義のヒーローです。困っている人を助けるために、自分の顔―あんパンを差し出します。あんパンだけに、その顔の中には美味しくて、栄養たっぷりのつぶあんが詰(つ)まっています。その顔を食べて助けられた人たちは、お腹いっぱいになって元気になり、アンパンマンに心から感謝します。

 そんなストーリーをもとに、たくさんの絵本やテレビのアニメ番組、映画、キャラクター・グッズが生み出されました。1973年に、フレーベル館の月刊物語絵本「キンダーおはなしえほん」シリーズとして、やなせたかし『あんぱんまん』が出版(しゅっぱん)されました。やなせさんが初めて描(か)いた幼児(ようじ)向け絵本でした。ここで、最初の絵本をスライドでご覧いただくことにしましょう。

 この絵本、最初は、貧しく困っている人たちを助けるという内容が幼児には難しすぎる、顔を食べさせるなんて残酷だ、と幼稚園の先生や絵本をつくっている人たちからは散々(さんざん)でした。ところがその予想に反し、子どもたちの間で人気を集め、幼稚園や保育園などからの注文が殺到(さっとう)するようになります。

 そしてついに、テレビアニメ『それいけ!アンパンマン』第一話「アンパンマン誕生」が1988年10月に初登場します。今なお日本テレビで放映され、映画も1989年から毎年上映される、大人気アニメになりました。このテレビアニメの第一話の最初の所を、少しだけ見ていただきましょう。

 そういえば、今年4月から始まるNHKの朝ドラのタイトルは、『あんぱん』。アンパンマンの作者・やなせたかしとその妻・小松(こまつ)暢(のぶ)をモデルにした物語です。やなせたかしと言われて、わたしがすぐに思い出すのは「手のひらを太陽に」という歌です。

 「ぼくらはみんな 生きている/生きているから  Continue reading

2月23日 ≪降誕節第9主日/冬の「家族」礼拝②≫『神の御業が現れる』 ヨハネによる福音書 9章 1~12節 沖村 裕史 牧師

■神の業が現れるため

 道端に盲人が座っていました。エルサレムの神殿に向かう道を大勢の人が行き来しています。彼の膝下に小銭を投げる人があり、また目をそらして急いで通り過ぎる人もいます。立ちどまろうとした子どもが母親に手をひかれて立ち去ります。そこを通りがかったイエスさまがこの盲人に目を向けられた時、弟子たちはとっさに日頃抱いていた疑問を口にします。

 「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」

 「生まれつき」というのは、なにか運命とか宿命とかを思わされます。だれのせいでこうなったのだろうか。本人が持って生まれた宿命なのか。両親に罪があったのか。それとも先祖のだれかに…。昔の人がそう考えたという話ではありません。洋の東西、時代を問わず、今も受け継がれている感覚です。

 だれのせいでこうなったか。第三者のそういう好奇心による問いは、病む人を苦しめます。そういう問いが、苦しみを負っている人をさらに追い詰めます。そんな問いを、病んでいる本人や家族が抱くようになれば事態はより深刻です。そういう心理を利用して、物を売りつけたりする人がいます。「この家の先祖が大罪を犯しているのでこういうことになっています。この壺を買えば呪いは解けます」というわけです。

 だれのせいでこうなったのですか。巷(ちまた)で様々に呟かれるその問いに答えて、イエスさまは言われます。

 「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」

 本人のせいでも、両親のせいでも、先祖のせいでもなんでもない、と言われます。そして続けて、「神の業がこの人に現れるため」という不思議な言葉を口にされます。

 どういう意味でしょうか。「神の業が人に現れる」と言われて、わたしたちが普通に考えるのは、何かが良くなる、不安が消える、あるいは何かわたしたちに幸運がもたらされる、といったことではないでしょうか。しかしここでこの言葉が意味することは、この目の不自由な人の困難自体に、神の業が現れるということです。

 人生の歩みの中で、わたしたちは目の不自由さだけでなく、実に多くの不自由さを感じます。自分の思いのままにならないこと、挫折や失敗、人生の設計ミス、人間関係の中で起こってくるストレス、あるいは人生の終りが数えられるようになった時に感じる、これでいいのかという不安などなど、次から次へと起こってきます。ときに理不尽にも思える苦難に、わたしたちはたじろぎ、できるならばそのようなことが起こりませんように、と祈ることでしょう。

 ところがイエスさまは、そういう中にこそ、神の業が現れるのだ、と教えられます。神の業は、わたしたちの思い通りに、平安の内に現われるのではない、ということです。むしろ、わたしたちが困難を覚える、その困難の中にこそ、神の業は現わされる、そう言われるのです。

 

■目が見える

 イエスさまは今、この目の不自由な人をシロアムに送ります。

 「シロアムの池に行って洗いなさい」

 標高八百メートルの岩の上に建てられたエルサレムの城壁の一部、あの「嘆きの壁」から南東に百メートルほど降った場所から、紀元前1世紀の初頭に建設されたローマ様式の大規模な石造プールの遺跡が発掘されました。神殿に参拝する人々が手足を清めた場所、そこがシロアムの池です。

 そこに行って目を洗いなさい、とイエスさまは言われた。そうすると目が見えるようになった。そのままに読めば、「よかった、よかった」と言うことでしょう。そしてそこで「アーメン」と言えば、何とありがたい、恵みに満ちた奇跡物語だろう、ということになるでしょう。

 しかし、ヨハネはそうは書きません。シロアム、これはヘブライ語で、その意味は「遣わされたもの」だ、とわざわざ書き加えています。意図をもって書き加えた「遣わされたもの」とは、「神から遣わされたもの」という意味で、イエス・キリスト、その人を指すであろうことは明らかです。

 この出来事はただ単に、身体的な目によって見えるか、見えないかという問題ではなく、この目の不自由な人が「神から遣わされた」イエス・キリストと出会うことによって、「本当に永遠のいのちを見ることができるようにされた」のだ、ということです。

 ヨハネは周到に、6節の「目が見える」、10節の「目が開く」、そして11節の「目が見える」という言葉に、すべて異なるギリシア語を使っています。特に最後の11節は、単なる「見える」ではなく、直訳すれば「視界が与えられる」です。また1節の「生まれつき目の見えない人を見かけられた」の「見かけられた」も別の言葉で、じっと見つめるというニュアンスの言葉です。イエスさまがこの人に目を留め、じっと見つめておられるのです。

 目の不自由な人がイエスさまによって目が見えるようにされた、これはこれで素晴らしいことですがしかし、ここでヨハネがわたしたちに教えていることは、本当に何も見えない状態―真っ暗闇の中にあって、ただ一方的に、ただ一方的な愛ゆえに、光なるイエス・キリストが出会ってくださって、永遠の世界に招き入れられるのだ、ということです。肉体の終わり、現実の不自由さの中にあってなお、永遠のいのちに抱かれているという、真の希望に生かされているのだ、ということです。

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2月16日 ≪降誕節第8主日礼拝≫『復活とわたしたち—希望』 コリントの信徒への手紙一 15章 20~34節 沖村 裕史 牧師

 

■わたしたちの土台

 20節から28節、「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。…最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。…最後の敵として、死が滅ぼされます。…すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです」

 人々が心から待望していた救い主キリストが、わたしたちのところに来てくださり、その身をもってお示しくださったこと―それは十字架と復活でした。聖書は、キリストが十字架につけられて殺され、墓に葬られ、三日目に甦(よみがえ)らされたことを、様々な人々の言葉として証言しています。このキリスト・イエスの十字架と復活こそ、わたしたちクリスチャンの土台です。

 ところが、十字架の出来事は自己犠牲という大いなる愛の御業として理解しても、復活の出来事はどうしても理解できない、受け入れることができない、それを信仰の躓(つまづ)きと感じる人々がいました。それは、この手紙を受け取ったコリントの教会の中にも、そしていつの時代にもいました。現代にも「科学的に復活は…」と言う人がいますし、人体の生理的な面、あるいは目撃した人々の心理学的側面から復活を証明しようと試みる人もいます。

 しかし、キリストの復活はそういうこととは次元を異にするものです。わたしたちが経験する事実とは、その経験した事柄そのものであるというよりも、むしろその事柄を経験したわたしたちにとっての意味そのものです。大切なことは、復活という出来事そのものではなく、それがわたしたちにとってどのような意味を持つのかということです。

 パウロはここで、復活に躓きを感じていたコリントの教会の人々に、人類の「死」は罪の結果であり、罪のゆえに死がこの世界に入ってきた、しかし、その「罪」を贖(あがな)うためにキリストが来られ、己(おの)が身を捧げて十字架に身代わりとなって死んでくださった、そして、そのキリストが三日後に復活なさり、わたしたちの罪の結果である最後の敵「死」を打ち破ってくださったのだ、と教えています。

 

■罪―いのちは自分のもの

 そもそも罪とは何でしょうか。それは、守るべき法律に違反するといったことではなく、神ならぬものを神とし、神なきが如(ごと)くに振舞い、まことの神との関係を断ち切ってしまうということでした。全能の神を見失い、いのちの源である神を忘れ、溢れるほどの神の愛に気づかない人にとって、すべては自分のものでした。いのちさえも自分のものです。

 とすれば、いのちは自分のこの肉体にしか宿らないことになります。そして、死とともに肉体は腐り、滅ぶゆく死によっていのちもまた終わることになります。人々は、自分のいのちを自分のものであると考える傲慢、自分を神の如きものと考える罪によって、死という自分の知恵も力も超えてもたらされるものに対して、決して拭うことのできない絶望と不安を抱き続けざるをえなくなりました。神に背き、神を忘れ、神から逃れようとしたアダムの罪によって、人類に「死」がもたらされたとは、まさにそのことでした。

 そして、耳を塞ぎたくなるほどのそうした罪と死による悲鳴が、あちらこちらから、自分の中からさえ聞こえてきます。罪意識もなく、自分の欲望や快楽のために平然と人のいのちを傷つけ、奪うことも、また苦しみや悲しみのあまりに自分のいのちを軽んじ、断ってしまうことも、そのいずれもが、いのちを自分のものだと考える罪から出て来てはいないでしょうか。

 しかし、いのちは決してわたしたちのものではありません。いのちは神が与えてくださった、かげかえのないものです。

 

■永遠のいのち

 とすれば、キリストの復活が意味することとは、いったい何なのでしょうか。一言で申しあげれば、それは、神による永遠のいのちへの招きです。

 キリストの復活はわたしたちに、神が永遠なるお方であると同時に、いのちの主であることを明らかにしています。御子キリストは死から復活させられたのです。神は、すべてのものにいのちを与えられるお方です。そして生だけでなく、死をも司られるお方です。

 そのような神との断絶という、決定的な罪に陥っていたわたしたちが、キリストの十字架の死によって、その罪の一切を赦されました。わたしたちの罪がどれほどのものであろうとも、今も神は、愛のみ手によってわたしたちを救い出し、キリストの復活を通して新しいいのちへと招いてくださっているのです。

 パウロが「神がすべてにおいてすべてとなられる」と語るように、今ここに生きている者も、今まで死んでいった者も、すべてものがその御手の中に招き入れられるのです。それは、すべてのこと、すべてのものが神の支配に組み入れられる、神の国が成就する、ということへの確信であり、希望の言葉です。

 わたしたちの生も死も、この世の力も富も権威も、生きている者も死んでいる者も、そのすべてが神のものとされるという信仰は、わたしたちをあらゆる不安と絶望から自由にし、わたしたちに苦難に打ち勝つ希望を与えてくれます。すべては主のものです。わたしたちの体も心も、身に着けているものも自分で得たと思っているものも、すべて主のものです。わたしたちのいのちは、主が与えてくださったものです。だから、わたしたちは安んじて、すべてを主に委ね、わたしたちに与えてくださったこのいのちを、生きている今も、死して後も、かけがえのないものとして大切に生きていくことができます。

 人のいのちが軽く扱われる、現代のような憂鬱で、悲観的な時代にあって、わたしたちはとくに、神が最終的にはすべてを支配されておられ、やがては平安と安らぎの時がもたらされるのだ、そして今ここに、そのような神の支配がすでに始まっているのだ、という希望を忘れてはなりません。そのような希望の信仰に生きるとき、そのときまで、羊のように弱く愚かなわたしたちであっても、「御国が来ますように。御心が行われますように」と祈りつつ、この人生を歩んでいくことが赦されるのです。

 

■日々死んでいる

 だからこそ、パウロは31節に、「わたしは日々死んでいます」と書くことができました。これはもちろん、本当に死んでいるという意味ではなく、比喩的な言葉です。日々死ぬとは、自分を捨てている、という意味にとることができるでしょう。あるいは自分を委ねている、自分を任せて生きている、というふうに読むこともできるのではないかと思います。 Continue reading

2月9日 ≪降誕節第7主日/冬の「家族」礼拝①≫『宇宙船がやってきた』(こども)『神の御前に近づく』(おとな) 出エジプト記 19章 1~9, 16~25節 沖村 裕史 牧師

 

お話「宇宙船がやって来た!」(こども・おとな)

■モーセさんって、どんな人?

 今から3,300年前、ピラミッドやスフィンクスなどが造られていたエジプトでのことです。奴隷にされ、重労働を強いられ、苦しんでいたイスラエルの人々を救い出すために、神様は、モーセという人をリーダーに立てて、エジプトから導き出すことにされました。そのときの様子が書かれているのが、今日読んでいただいた「出エジプト記」、そして、一緒に歌った「こどもさんびか46番」です。

 イスラエルの人々は奴隷でしたが、よく働き、よく食べ、赤ちゃんもたくさん生まれました。でも、それを喜ばない人がいました。エジプトの王様です。奴隷がこれ以上増え続けると、自分たちより強くなるかもしれないと心配した王様は、「イスラエルの人の家で生まれた子どもは、女の子は生かしてよいが、男の子はナイル川にほうりこめ」という命令を出したのです。さあ、大変。赤ちゃんが生まれるとどこの家でも大喜びなのに、男の子だったら急に静かになります。エジプトの兵隊に見つかると殺されてしまうからです。

 そんなある日、イスラエルの人の家に男の子が生まれました。お父さんお母さんは、エジプト人に見つからないように育てていました。でも、赤ちゃんが大きな声で泣くので、いつまでも隠しておくことができません。「籠(かご)に入れて、ナイルの川に流そう。殺されるのを見るのは耐えられない。神様がこの子を守ってくださるだろう」と言って、二人は、パピルスで籠を作りました。その中に、布をしいて、赤ちゃんを寝かせ、ナイル川にそっと流しました。

 ゆっくりと流されていくこの籠を、エジプトの王女様に仕えていた、その子のお姉さんがしげみに隠れて見ていました。川下の方で水浴びをしていた王女様が、流れてきた籠に気づきます。それがさっきの歌の1番です。

 「ナイルの岸の あしの中/王のむすめが 見つけだし/すくったあかちゃん モーセさん」

 川に流された赤ちゃんは、いのちを助けられ、モーセと名づけられました。

 大きくなったモーセは、自分が奴隷であるイスラエルの一人であることを知って、苦しむイスラエルの人々を助けたいと願うようになります。あるとき、一人のイスラエル人が、エジプト人から激しく鞭(むち)で打たれているのを目(ま)の当(あ)たりにし、モーセは思わずそのエジプト人に手をかけ、殺してしまいます。

 捕まって、処刑されることを恐れたモーセは、ミディアン人の住む地方に逃れ、そこで出会ったツィポラという女の人と結婚し、幸せに暮らしていました。そんなある日のこと、モーセがホレブという山の近くで羊を飼っていると、山にはえていた柴の木がパチパチと音を立てて燃えていました。いつまでも燃えています。「どういうことだろう。あの木はいつまでも燃え続けている。そばに行ってようすを見よう」。そう思って、燃える木のそばまで来たときのことです。歌の2番です。

 「ホレブの山の 火のなかに/神のよぶ声 ひびきます/みことばうける モーセさん」

 神様は言われました。「モーセよ、あなたの仲間が今、エジプト人の奴隷になって、毎日つらい思いをしている。あの人たちがかわいそうだ。わたしはエジプトからあなたの仲間を救い出したい。わたしはイスラエル人が安心して住むことのできる土地を用意している。わたしがイスラエルに与える約束の土地だ。モーセよ、わたしはお前をエジプトへ遣わす。お前はエジプトの王に会って、イスラエルの人々を奴隷から解放するように言いなさい。そして約束の地までお前が導きなさい」と。

 こうしてモーセは、イスラエルの人々を助け出す仕事をすることになりました。でもそれは簡単なことではありません。なんとかエジプトを脱出しすることに成功しますが、エジプトの王様はイスラエルの人々を連れ戻そうと、戦車に乗って追いかけて来ます。ようやく葦の海にまでたどり着きますが、前は荒れ狂う海、後ろはエジプトの戦車隊に挟(はさ)まれて、絶体絶命のピンチです。そのときです。モーセが立ち上がって神様に祈ると、なんと火柱(ひばしら)がおこってエジプト軍をさえぎり、反対側の海は裂けて、海底に道が開けます。人々が大急ぎでそこを通って逃れると、後を追ってきたエジプトの戦車はあっという間に海に呑(の)みこまれてしまいました。それが3番の歌です。

 「二つにわれた  Continue reading

2月2日 ≪降誕節第6主日礼拝≫『初穂となられた神の恵み―復活』 コリントの信徒への手紙一 15章 12~20節 沖村 裕史 牧師

■キリストの復活はなかった?

 パウロはこの手紙の最後のテーマとして「復活」を取り上げ、今日の冒頭12節をこう語り始めます。

 「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか」

 詰問するかのような口調です。しかしこの厳しい口調は、復活の問題こそ、コリントの教会が立つか倒れるかの問題だ、どうかそのことを分かって欲しい、というパウロの心からの熱い願いゆえでしょう。

 そこで今日は、コリント教会の中で呟かれていた「死者の復活などない」という言葉が何を意味するのか、そのことから始めることにしましょう。いえ、そのことを中心にお話をいたしましょう。

 12節だけを読むと単純に、この人たちは「キリストの復活などなかった」と言っているのではないか、そう思われたかもしれません。「死んだ者が復活するなどということはあり得ない、だからキリストの復活も事実ではない」と。これは今日を生きるわたしたちの常識的な感覚です。現代のこの科学の時代に死者の復活など、そんなことを信じることが果してできるのだろうか、できはしないということです。さらには、キリストの復活は教会が自分たちの教えを権威づけるためにでっちあげたものだと言われることがあります。そこまで行かなくても、イエスの十字架の死後、イエスを慕い、その死を悲しむあまりに、弟子たちの間にイエスは今も生きて共にいると信じようとする思いが生まれ、それが「イエスは復活した」という教えになったのだと言う人もいます。

 これらはいずれも、キリストの復活は事実ではないという前提に立っています。わたしたちは、このような考え方の方が「科学的」「合理的」であるように思われる世の中、時代を生きていますから、こうした疑問は繰り返し、わたしたち信仰者への問いともなります。

 

■死者の復活などない

 しかし、パウロがここで直面している「死者の復活などない」という主張は、それとは少しばかり違っています。コリント教会の人々は、キリストの復活などなかったと主張していたわけではありません。続く13節に「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです」とあります。パウロは「死者の復活」と「キリストの復活」とを区別しています。コリント教会の人々が「死者の復活」を否定していたからです。それに対してパウロは、死者の復活を否定したら、キリストの復活もなかったことになるではないかと言います。つまり「死者の復活などない」と言っている人たちも、キリストの復活の事実を否定しているのではありません。パウロがここで語りかけている相手は、キリストの復活は事実として信じるけれども、死者の復活は信じない、という人々なのです。

 では、キリストの復活は信じるけれども、死者の復活は信じない、とはどういうことでしょうか。この場合の「死者」というのは、イエス・キリスト以外の、わたしたち一般の人間のことを指しています。今は生きているわたしたちも、必ず死にます。交読詩編の49編10節に「人は永遠に生きようか。墓穴を見ずにすむであろうか」とあるように、墓穴を見ずに、つまり死ぬことなく永遠に生きることができる者など一人もいません。そのように必ず死者となるわたしたちが、この世の終わり、神の国が完成するそのときに、イエス・キリストと共に復活して永遠のいのちにあずかる、それが「死者の復活」ということです。キリストが復活したことは信じていても、この「死者の復活」を信じない人々がいたのです。

 

■終わりの時まで生き残る?

 そこで問題になっているのは、復活する可能性があるのは誰かではなくて、神は誰を復活させようと思っておられるのか、です。神が復活させようと思われる者は復活します。問題は、神の御心はキリストのみを復活させることなのか、それともわたしたちをも復活させようとしておられるのか、です。

 神はキリストを復活させられたが、わたしたちを復活させようとは思っておられない。こうした主張が生まれる背景には、二つのことがありました。

 第一は、最初期の教会の多くの人々が、自分たちが生きている間にキリストがもう一度来てくださり、この世が終わると考えていたことです。パウロ自身も最初はそう考えていたことが、他の手紙から分かります。多くの人が、自分の生きている間に世の終わりを迎え、もはや死ぬことのない永遠のいのちを与えられる、だから自分たちは死ぬことはないと思っていたのです。死ぬことのない者に、復活は必要ありません。つまりこの人々は、自分たちの復活を信じないというよりも、生きてイエス・キリストの再臨、この世の終わりを迎える自分たちには、復活はいらないと思っていたのです。

 ところが、イエス・キリストを信じて教会に加わった人々の中にも、あの十字架と復活の出来事から25年余りが経ち、次第に年老いて死ぬ者が出てきました。当然、その人たちはどうなるのかという問いが生まれます。神の国が完成する、終わりの時まで生き残る者が永遠のいのちにあずかると考えていた人々は、それまでに死んでしまった人たちは残念ながら滅びてしまったのだ、と言いました。パウロはそれに対して、いや、その人たちは世の終わりに復活して、生き残る者たちと共に永遠のいのちにあずかるのだと教えたのです。パウロの語る死者の復活の教えとは、一つには、キリストが再びやって来られる、終わりの時まで生き残っていなければ永遠のいのちにあずかれないというのではない、信仰をもって死んだ人は世の終わりに復活して、生き残っている者たちと共に永遠のいのちにあずかることができるのだ、ということでした。

 ただ、これは時が経てば解決する問題でした。終わりの時まで生き残ることはパウロ自身もできなかったわけで、信仰者たちはみな、その時を見ずに死にました。こうして、生き残っている者だけが永遠のいのちにあずかるという主張は、自然に消え失せることになりました。

 

■キリストの復活とわたしたちの復活

 けれども、「死者の復活はない」という主張の背景にはもう一つの、より深刻な問題があったのです。それは、この主張が「わたしたちの復活はもう起ってしまった」という考えと結びついていたことです。

 復活がもう起ってしまった、とはどういうことでしょうか。イエス・キリストを信じて洗礼を受けた者は、キリストの十字架の死にあずかって古い自分が死に、キリストの復活にあずかって新しく生まれたのだ、わたしたちはもう生まれ変わった者、復活した者となっている、だから、信仰者の復活はすでに起っているのだ、ということです。

 これはある意味その通りであって、パウロも例えばローマの信徒への手紙の6章などで洗礼の意味を語る時に、そうした言い方をしています。しかしそのことが、世の終わりのときの死者の復活を否定し、それはもう起ってしまったことだという主張の根拠とされるとすれば、問題です。復活が心の中だけの事柄、内面の問題になってしまうからです。

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1月26日 ≪降誕節第54主日礼拝≫『神の恵み―福音』 コリントの信徒への手紙一 15章 1~11節 沖村 裕史 牧師

 

■最も大切なこと

 パウロは、コリント教会の中にキリストが復活されたことを否定している人たちが存在することを聞いて、驚きと憤りを感じ、キリストの復活こそ福音の中心であると語ります。

 「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです」

 パウロはこう語り、具体的に「聖書に書いてあるとおり」と二回くり返し、キリストが「わたしたちの罪のために死んだこと」「葬られたこと」「三日目に復活したこと」をあげています。

 この言葉は、パウロがエルサレム教会の人たちから「受けたこと」であること、つまり、最初期の教会に伝えられていた信仰告白の、その中心にあったものであることが分かります。

 「復活したこと」という言葉は、「復活させられた」と受け身の形で、しかも完了形で語られています。復活は神によりなされたことであり、かつ復活は過去の出来事ではなく、イエス・キリストは今も生きておられることが、継続を意味する完了形によって示されています。

 その復活のキリストが、ケファことペトロをはじめ、十二使徒に、さらには五百人以上の人々に同時に、その後、イエスさまの弟であるヤコブに、また福音を宣べ伝えるよう召されたすべての使徒たちに、そして最後にパウロ自身にも現れたと宣言しています。

 この手紙が書かれたのは紀元55年頃のことですから、復活の出来事の後、25年くらいしか経っていません。当時、ほとんどの証人は生きていたのです。つまり、イエス・キリストの復活がどれほど確かな証人の証言によっているかということです。それなのに、コリント教会の中には「最も大切なこととして…伝えられている」イエス・キリストの復活を認めない人たちがいたのです。

 

■福音によって救われる

 パウロは、イエス・キリストの復活を中心とするこの福音を信じなければ、「あなたがたが信じたこと自体が、『無駄』になってしまう」と言います。そして、「あなたがたはこの福音によって救われます」と念を押します。

 ここで気を付けていただきたいのは、福音とは「これこれのことをしなさい、そうすれば救いが得られますよ」という、いわゆる教えや戒めではないということです。教会が受け継いでいる福音は、救われるためには、神の恵みを受けるためには、こうすればよいというノウハウ、言い換えれば倫理や道徳の教えではありません。

 ここにキリスト教信仰の難しさがあります。人に親切にしなさいとか、親を敬いなさいとか、敵をも愛しなさいといった戒めが語られ、そのように努力していけば、神様が守ってくださいますよ、恵みを与えてくださいますよ、救われますよという教えなら、分かりやすいでしょう。ところが、教会が教える福音とはそういうものではありません。

 教会が「最も大切なこと」として伝えていることは、そのようなノウハウ、倫理や道徳ではなく、キリストがわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、三日目に復活したこと、弟子たちに現れたことです。これは、救われるためにわたしたちがどうしたらよいかではなくて、神がわたしたちの救いのために何をしてくださったのか、ということです。教会の信仰で「最も大切なこと」は、わたしたちが何をするかではなくて、神が何をしてくださったか、なのです。

 だからこその「福音」「よい知らせ」です。パウロはその福音を聞いて信じ、その福音によって生かされ、その福音を宣べ伝えたのです。

 

■このわたしにも

 何よりも、復活のキリストが自分に「現れた」ことによって使徒とされ、「今日のわたしがあるのです」とパウロは告白します。

 パウロはいつ、どのようにして復活したキリストと出会ったのでしょうか。イエスさまの復活から昇天までの40日の間も、あのペンテコステの時も、パウロの姿は弟子たちの中にはありませんでした。サウロことパウロは、キリスト教会に敵対し、その群れを叩き潰そうとしていました。彼は、ユダヤ教ファリサイ派の若きエリートでした。律法を厳格に守り行うことによって神の民として生きようとするファイサイ派の彼にとって、十字架につけられたイエスが救い主であるなどということは神への冒涜でした。ステファノという信仰者が石で打ち殺され、最初の殉教者となった時、そのステファノを殺す側の人間でした。その後も、サウロはキリスト教撲滅の使命感に燃えて、ダマスコという町へと向かいます。

 その途上で、彼は復活のキリストと出会ったのでした。彼は、自分が神のみ心に逆らい、神である方を迫害してきたことを知らされ、愕然とします。もうおしまいだ、神に背き逆らった自分は滅ぼされる他ないと思ったのです。しかし、イエスさまは彼を滅ぼすのではなく、新しく生かし、新しい道―福音伝道という新しい使命を与えてくださったのでした。

 

■神の恵みによって

 そのパウロが告白します。9節、「わたしは神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です」。そんな自分が今、復活されたキリストとの出会いを与えられ、その証人として立てられ、使徒として遣わされている。それはただ、神の恵みによることです。それが10節です。「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」。パウロはここで、「神の恵み」です、と三回も繰り返します。 Continue reading

1月19日 ≪降誕節第4主日/エピファニー「家族」礼拝≫『導かれて歩む』 創世記 5章 1~31節 沖村 裕史 牧師

 

■年齢と罪

 冒頭の挨拶でも申し上げたように、今日は御子イエス・キリストの顕現、その輝きがすべての人々に及ぶことを記念する、エピファニー「家族」礼拝です。救い主キリストの出現は、御子イエスの誕生にとどまらず、真理の光が現れ、神の栄光が現され、それが世界の隅々にまで実現していく、その出発点となったことを証するものでした。そんな真理と福音の光を、今日のみ言葉からも読み取っていくことができればと願っています。

 それにしても、創世記5章を読まれた方はだれもが、「えっ」と戸惑われることでしょう。ここに書かれている年齢のせいです。到底考えられないような年齢です。これにはいろいろな説明がなされます。その一つに、この年齢は神がこの世界を、人間を創造されたその創造の力がまだ強く働いていることを印象づけるためのものだと説明されることがあります。

 しかし旧約聖書を読み進めていくと、気がつかれるはずです。その驚くほどの長寿がだんだん、わたしたちの普通の年齢に近くなっていきます。アダム930歳、ノアの子セム600歳、アブラハム175歳、モーセ120歳…。そして、そのことの中に人間の罪の問題がある、と言われます。そもそも人間を神が創造された時には、死というものは計算に入っていませんでした。ご存知のように、創世記3章でアダムとエバが罪を犯します。その罪のために、死が入り込んでくることになりました。たとえ何百年生きたとしても、死というものが最後には人間の生活を終わらせる。厳然たるその事実がここに示されている、そう理解してよいのではないかと思います。

 そういう意味での生と死が、ここには描かれています。3節に、「アダムは百三十歳になったとき、自分に似た、自分にかたどった男の子をもうけた」と書いてあります。はじめ1節のところでは、神は自分に似せて人間を創造されたと書いてありましたが、3節になると、アダムは自分に似た、自分にかたどった男の子をもうけたと書かれます。これは非常に厳しい言葉、辛辣(しんらつ)な皮肉の言葉です。わたしたちは自分に似た子どもを生み出します。それは、わたしたちの罪をそのままに継承する、受け継ぐ人間を生み出しているということです。そんな非常に厳しいメッセージが、ここに記されているのです。

 

■神と共に歩む

 身も竦(すく)むようなそんな罪の系譜の中ほど21節に、エノクという人が出てきます。今日お話をしたいのは、このエノクについてです。

 「エノクは六十五歳になったとき、メトシェラをもうけた。エノクは、メトシェラが生まれた後、三百年神と共に歩み、息子や娘をもうけた。エノクは三百六十五年生きた。エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった」

 何百年生きて、そして死んだ。他の人は、そう書いてあるだけです。しかしこのエノクだけは、「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった」と書かれます。

 「神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった」

 これこそ、人間本来のあり方です。神に造られ、神の息を受け、いのち与えられて、人間は初めて生きるものになりました。そして神と共に歩くように、人間は造られました。エノクはそのように神と一緒に歩いたと言われます。彼が正しい人間であったとか、罪を犯さなかった人間であったとか、そういうことではありません。ただ彼は神と共に、神に頼って生きた。それが、「神と共に歩んだ」という言葉の意味です。

 彼も人間の限界を持っていたでしょう。自分の限界をよくよく知っていたことでしょう。そういう人間が、神に向き合って生きていく。そうやって神に向き合い、神に支えられて生きていく人間の姿、本来的な姿が、ここに記されています。

 八木重吉という詩人の「神を呼ぼう」という詩が思い出されます。

  「赤ん坊はなぜにあんなに泣くんだろう

   あん、あん、あん、あん

   あん、あん、あん、あん

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1月12日 ≪降誕節第3主日礼拝≫『共に学び、共に励まされる』 コリントの信徒への手紙一 14章 26~ 40節 沖村 裕史 牧師

 

■最初期の教会の礼拝スタイル

 コリントの教会はパウロが開拓伝道で立ち上げた教会で、生まれてからわずかに数年ほどの教会でした。そのため礼拝堂もありません。わたしたちの教会の『百年史』によれば、日本メソヂスト教会によって小倉の地で福音伝道が始められたのは1885年でしたが、会堂が与えられたのはそれから19年後の1914年のことでした。その間、教会員や牧師が暮らす家の一室を使って礼拝が行われていました。コリントの教会も同じです。もっとも、教会員が急速に増えたので一つの家ではなく、複数の家に分かれて礼拝を行っていました。いわゆる「家庭集会」「家の教会」と呼ばれるものです。今も、この「家の教会」を重視する教会があります。個人の家を開放して少人数で聖書を学んだり、語り合ったりする、そういう小さな集会を大事にするためだと言います。大きな教会になると親密さが失われがちです。そうならないよう小さなスペースを大切にするのでしょう。

 そうした家の教会では、食事を共にすることがとても大事だと言われます。食事を共にすることで、雰囲気が和み、いろいろなことを自由に話しやすくなるからです。コリントの教会も、家で集まって礼拝をした後、食事を取っていました。礼拝とその後の食事に続いて、主の晩餐が行われました。これだけ聞いても、当時のコリントの教会の礼拝スタイルが、わたしたちの礼拝とはかなり違っていたことが分かります。

 そんな礼拝スタイルという意味で、わたしたちとコリント教会との大きな違いと言えば何といっても、礼拝の中で異言や預言を語るかどうかです。コリント教会では礼拝中に、自由に異言や預言を語る時間を持っていました。大切な点は、異言や預言を語るのは牧師とか宣教師といった特別な立場の人ではなく、普通の信徒たちだったということです。

 預言は、わたしたちに分かる言語で、わたしたちであれば日本語で教会の内外の人々に神からのメッセージを語ることですが、異言というのは、わたしたちには意味不明の言語、神とその人との間で交わされる言葉です。天使の言葉とも呼ばれる、天上におられる神を賛美する言葉、それが異言です。

 コリント教会では神の霊、聖霊の働きが非常に活発でした。聖霊は使徒と呼ばれる、神から直接遣わされた特別な人たちだけでなく、教会に集う人々全員に、何らかの聖霊による賜物が与えられている、と考えられていました。聖霊による賜物といってもいろいろあります。病をいやす力を与えられていた人もいました。しかし、礼拝に一番関係のある賜物は何と言っても、異言を語る賜物と預言を語る賜物でした。コリントの教会では、すべての信徒たちが礼拝中に、自由に異言や預言を語りました。

 ところで今「自由に」と言いましたが、自由ならすべて良いかと言えば、そうとも言えません。今日の多くの教会では、長年守られてきた礼拝のスタイルというものがあります。司会者が礼拝の式次第に則って、一つ一つの決められた内容に従って礼拝が進んでいきます。これには安定感があります。そんな礼拝の途中で、式次第に書かれていないのに、突然、我も我もとだれかれなく立ち上がって、意味の分からない言葉で神を賛美し始めたらどうでしょうか。司会者はびっくりしてしまいます。礼拝の秩序が損なわれ、何か非常に混乱した礼拝になってしまった、そう感じる方も少なくないでしょう。

 今日の話のポイントは、そうした自由な聖霊の働きとして異言や預言が語られる礼拝の中で、それがどうすれば混乱をもたらさず、むしろ秩序ある礼拝の一部となることができるのか、そういう問題を取り扱っています。

 

■あなたがたを造り上げるために

 秩序正しい礼拝というと、式次第が完璧に出来上がっていて、その定められた手順通りに行われる礼拝をイメージされるかもしれません。しかし、パウロの求める礼拝は、安定はしていても形骸化しまいがちな今日の礼拝とはかなり異なったものです。会堂も式次第もなければ、牧師や司祭、長老や執事もいません。例外なく霊の賜物を与えられた信徒たちによって、霊による豊かな賜物が用いられる、相当に自由度の高い、音楽で譬えればアドリブにあふれたような礼拝スタイルでした。しかし、そのような自由の中にも、秩序が求められていました。自由と秩序の二つのバランスをどのように取るのか、それがパウロの考えていたことでした。まずパウロはこう語ります。

 「兄弟たち、それではどうすればよいだろうか。あなたがたは集まったとき、それぞれ詩編の歌をうたい、教え、啓示を語り、異言を語り、それを解釈するのですが、すべてはあなたがたを造り上げるためにすべきです」

 ここからも、当時の教会の礼拝が垣間見えてきます。まず礼拝で「詩編の歌をうたい」となっています。当時の讃美歌は、詩編に歌をつけるというのが一般的だったようです。これはユダヤ教から引き継いだものです。それから「教え」があります。これが説教に当たるものだと思われます。説教といっても、いくつかの家の教会に分かれて礼拝を守っていましたから、どの教会にもパウロやアポロのような専従の説教者がいたわけではありません。信徒の中のリーダー格の人が説教を行っていたのかもしれません。

 しかし、わたしたちの教会の礼拝と決定的に異なるところは、その次です。「啓示を語り」とあります。黙示とも訳される言葉です。神がこれまで隠されてきたことが明かされる、という意味です。分かりやすく言えば、「預言を語る」ということです。そして「異言」が来て、「それを解釈する」と続きます。異言とは人間の言語ではないので、話している人以外には意味が分かりません。ですから異言は、人間の言語に翻訳される必要があります。異言とその解釈、解き明かしとはセットなのです。

 こうした礼拝の中で行われる行為を列挙した上で、それらすべては、あなたがたを、あなたがたの共同体、教会を造り上げるためのものだ、ということをパウロは強調します。これが、パウロの言いたいことの中心です。預言や異言は、神の霊によってその賜物を与えられた人が自由に語ります。コリントの教会の礼拝は、パウロの言葉によれば、例外なく霊の賜物を与えられたすべての信徒たちによってなされる、文字通りの全員参加型の礼拝でした。しかしそれは同時に、礼拝の秩序を保つのが難しいということでもあります。なぜなら、司会者が礼拝の流れをコントロールできるわけでなく、信徒たちが自分勝手に、自分の賜物を誇るようにして、また予期せぬことを語り始めるかもしれないからです。

 しかし、ここでパウロの求めている秩序とは、式次第通りに礼拝を進めることではありません。礼拝に求められる秩序とは、「キリストの体」である教会が造り上げられるためのもの、すべての人が与えられた霊の賜物を用いられることによって、互いに愛し合い、互いに受け入れ合い、互いに支え合うためのものでした。

 

■異言と預言

 そこでパウロは、礼拝中の秩序を保つために、次のような指示を与えます。

 「異言を語る者がいれば、二人かせいぜい三人が順番に語り、一人に解釈させなさい。解釈する者がいなければ、教会では黙っていて、自分自身と神に対して語りなさい」

 異言を語りたい人がたくさんいて、みんなが一斉に語り出せば、収拾がつかなくなります。そこで、異言を語るのは二人か多くても三人に限定し、しかも異言が語られる場合には、自分でその意味を解説する、もしくは他に解釈者がいなければならない、という基準を定めたのです。しかし自分で異言を普通の言葉に解釈できず、また他に適当な解釈者がいない場合は、黙っているようにとパウロは言います。

 それがどんなに素晴らしい言葉であっても、語っている人以外に分からないような言葉であれば、礼拝の場に相応しくありません。パウロが直前の23節で「皆が異言を語っているところへ、教会に来て間もない人か信者でない人が入って来たら、あなたがたのことを気が変だとは言わないでしょうか」と言っている通りです。ですから、解釈できない異言は、公の場である礼拝では黙っていて、家に帰った後で自分だけで神に対して語りなさい、というアドバイスをパウロは与えるのです。 Continue reading

1月5日 ≪降誕節第2主日/新年「家族」礼拝≫『愛されているから…』(こども・おとな)、『身を焦がす愛』(おとな) ルカによる福音書15章11~32節 沖村 裕史 牧師

 

お話し「愛されているから…」

■たとえ話

 クリスマスの季節、そして新しい年の始まりの今日、読んでいただいたのは「放蕩息子(ほうとうむすこ)」というタイトルの付けられた、イエスさまのたとえ話です。「たとえ話」って聞くと何だか、おとぎ噺(ばなし)や昔話のような、現実ではあり得ない、作られた物語、そう思うかもしれません。でもね、例(たと)えるっていうのは、本当のこと、現実の出来事がちゃんとあって、その意味をわかりやすく伝えるために、何かを引き合いに、例(れい)に出してお話をすることです。だからそこには、本当のこと、現実の出来事、真実(しんじつ)が秘められていて、それを聞くわたしたちにはそのことを本当のこと、自分のこととして聞くことが求(もと)められています。そうするとき、たとえ話はとってもワクワク、ドキドキする、みんな一人ひとりのお話になるんだ。

 さて、イエスさまは今日のたとえ話を、「ある人に二人の息子がいた」と語り始めています。登場人物は、「ある人」と呼ばれるお父さんと、「二人の息子」、お兄さんと弟です。「放蕩息子」というタイトルのために、弟の話だけに目が向けられがちですが、これは「三人の物語」です。そして、主人公はお父さんに例えられている神様で、お兄さんと弟は、あなたであり、わたしです。みんなそれぞれに、ときには弟になってみたり、あるときにはお兄さんなってみたりして、今日のお話を聞いてみるといいと思います。

 

■弟の場合

 さて今日は、自分が弟になったつもりでお話を振り返ってみましょう。

 弟はどう見ても、自分勝手で、自分のことばかり考えている人です。弟がお父さんに言います。将来(しょうらい)、自分が受けとることになっている財産(ざいさん)を「今」ください、と。それは、お父さんが死んだら相続(そうぞく)することになっている遺産(いさん)の内、自分の分を前もってくれということです。愛情の欠片(かけら)もない言い方です。当時のユダヤでは、父親は家のことすべてを決定することのできる、強く大きな力と権利を持っていました。だから、馬鹿者(ばかもの)!と怒鳴られて当たり前のはずです。ところが、お父さんは叱(しか)るどころか、弟に言われるがままに、そればかりか、えこひいきにならないようお兄さんにも財産を分け与えます。何と弱々(よわよわ)しく、情けないお父さんの姿でしょう。

 弟は、その財産を受けとるとサッサとお金に換(か)えて、お父さんからできるだけ遠くに離れようと旅立ちます。干渉(かんしょう)されたくなかった。お父さんのことが理解できず、煩(わずら)わしくて、自分の好きなように生きたかったのでしょう。中学生になってからずっと親に反抗ばかりし、大学に入るのを絶好(ぜっこう)のチャンスと家を飛び出した、わたしのようです。

 念願(ねんがん)かなった弟ですが、遠い国で派手(はで)な生活をし、持っているものをすべて使い果たしてしまいます。すべてを失ったとき、飢謹(ききん)におそわれます。不幸は重なります。食べる物にも困った彼は、知り合いに助けを求めます。ところが知り合いは彼を豚小屋に送り込みます。豚はユダヤ人にとって汚れた動物で、豚飼いというのは最も嫌われる、絶対にしたくない仕事のひとつです。知り合いは弟を憐れに思ったのではなく、厄介(やっかい)払(ばら)いしたのでしょう。

 落ちるところまで落ちて、ようやく「彼は我(われ)に返」りました。弟はお父さんのところに帰ることにします。このとき弟が、何かよいことをしたというのではありません。わたしたちの経験からすれば、「本当にすまなかった、悪かったと思っているのか」「本当に反省をしているのか」と言われてもおかしくないところです。この後に描かれる、お兄さんの怒りも当然です。弟はお父さんの面子をつぶし、善意を踏みにじり、おめおめと帰ってきたのです。自らボロボロになって、行き先を失ったのです。同情の余地(よち)などありません。

 

■愛しているから…

 そんなボロボロの弟を、ただ父にすがるために帰って来た弟を、お父さんが「先に」見つけます。

 「彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」

 驚くばかりです。「まだ遠く離れていたのに、父親」が弟を見つけたと言います。お父さんは待っていた、ずっと待ち続けていたのです。弟が離れて行ったその日から、去って行ったその方角をずっと見つめ続け、彼の帰りを今日か今日かと待ち続けていたのです。「ごめんなさい」という弟の言葉を遮(さえぎ)るようにして、わが子の変わり果てた姿を「憐れに思い」、走り寄って、抱きしめます。反省の言葉なんかどうでもよいのです。帰って来たわが子です。もうだれにも渡すものか。そんなお父さんの姿は、常識では考えられない、あり得ない姿です。この親はどこまで甘いんだ、愚かだ、親馬鹿だ、と世間で言われるような姿です。でも、この理解しがたい、驚くほどの愛があればこそ、放蕩息子は、弟は「帰ることができた」のです。

 イエスさまは、お父さんに例えられる神様が、驚くほどの愛であなたを、ありのままの姿のあなたを愛しておられるのだ、と言われます。自分はもうだめだと思っている「あなた」、自分にはもはやどんな未来もあり得ないと思っている「あなた」、そのあなたも帰ることができる、そんなあなたをこそ、神様は待っておられる。あなたを愛しているから…。だからいつでも、何度でも帰ってきていいんだよ。そう呼びかけておられるのです。

 

■愛のホラ話

 そんな父親と息子の間のすれ違い、冷え切っていた関係が、暖かく溶け出すように愛に包まれていく様子を描いた、とても素敵(すてき)な映画があります。それが、今からご覧いただく『ビッグ・フィッシュ』です。

 『ビッグ・フィッシュ』というのは、誰も信じないホラ話という意味の言葉です。魚釣りの好きな人が自慢話を始めると決まって、両手で示す釣った魚の大きさが、だんだん大きくなっていきます。そんなホラ話ばかりを語る父親のエドワードに付いていけず、いつしか敬遠(けいえん)し、仲違(なかたが)いをするようになってしまった息子のウィルでした。でも、そんなホラ話のすべてが、たとえ話と同じように、うそで、でたらめな話ではなく、本当のこと、現実の出来事、真実がそこに隠されていることを知って、二人の関係が深い信頼(しんらい)と愛情に満たされたものに変わっていく、その様子が描かれます。こんなあらすじです。

 ウィルの父エドワードは、自分の人生をとても興味深く語り、聞く人を引き付けるのが得意でした。ウィルも幼い頃は父の奇想天外(きそうてんがい)な話が好きでしたが、年を取るにつれ、それが作り話であることに気づき、いつしか父の話を素直(すなお)に聞けなくなっていました。三年前の自分の結婚式にエドワードが息子ウィルの生まれた日に巨大な魚を釣った話で招待したお客たちを楽しませた時、ついに不満が爆発。ウィルは父に今夜の主役は自分たちであると訴え、父は自慢の息子の結婚式を盛り上げるためでしたが、それが裏目に出てしまい、ウィルは一方的に父を避けるようになります。

 そんなある日、母サンドラから父が病で倒れたと知らせが入ります。ウィルは妻ジョセフィーンと共に実家へと戻ります。しかし、病床でジョセフィーン相手にホラ話を語り出す父と、本当の父を知りたいと願う息子は理解し合えずじまい…。

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12月29日 ≪降誕節第1主日/歳末感謝礼拝≫『繰り返し躓き、繰り返し恵まれて』 マルコによる福音書 8章 1~ 10節 沖村 裕史 牧師

■はじめに

 クリスマスの季節は、12月24日夕刻のイヴから1月6日の公現日までです。この季節、ツリーやリースの飾りをそのままに、御子イエスが、この世界に、わたしたちのところに来てくださったことを祝います。ただその祝い、無邪気にはしゃぎまわるような「祝い」というのではありません。

 この一年も、実に様々なことがありました。年の初めから甚大な被害をもたらす災害が続き、たくさんのいのちが失われ、今も多くの方が厳しい生活を余儀なくされています。一部企業の増収増益や株式等高騰のニュースに違和感を覚えるほどに、経済回復の兆しは全く見えてきません。皮肉を込めて「日本もついにアメリカ並みになった」とつぶやいたのは、子どもの六人のうち一人が生活に困窮する貧困家庭であるとの発表を聞いた時でした。家族同士が、隣人同士がいとも簡単に傷つけあい、いのちを奪いあう、凄惨な事件が今も後を絶ちません。新たな覇権主義や原理主義による暴力が、世界中に争いと悲劇を生み続けています。虚無に彩られた闇のような世界は、わたしたちの外ばかりにあるのではありません。わたし自身の内が暗い闇の中に、独りよがりのエゴイズムや自惚(うぬぼ)れ、妬(ねた)みや嫉(そね)み、偽りや欺瞞(ぎまん)に覆われてしまいそうになることもありました。時には、思いがけない深い悲しみや苦しみのために、ひとり密かに嗚咽(おえつ)をこらえつつ、身も心も置き所なく悶(もだ)えるほかないこともありました。

 闇に囲まれ、闇の中に生きるほかないそんなわたしたちのところに、御子イエス・キリストが来てくださいました。それがクリスマスでした。今年最後の主の日に与えられたマルコによる福音書8章1節以下は、そんなクリスマスの告知にふさわしい言葉にあふれています。

 

■二つの奇跡

 御子イエス・キリストが四千人もの人々に食事をふるまったという今日の出来事は、お気づきの方もおられるかもしれませんが、6章の、五千人の人たちが五つのパンと二匹の魚によって満腹になったという出来事と全く同じ出来事のように思えます。そのため、多くの聖書学者は、同じ出来事が別々に伝えられ、徐々に二つの物語にまとめられたのだろう、マルコは律儀にその二つを二つとも書き残したのだろう、と推測します。しかし本当にそうなのでしょうか。

 そもそも御子イエスが、大勢の人たちとの分かちあいの食事を、その生涯で一度しかなさらなかったなどと、どうして断言できるのでしょうか。御子イエスは一度なさったことは、もう二度となさらないとでも言うのでしょうか。仮に、同じ出来事を別々に伝えた二つのよく似た物語であったとしても、この福音書がそのいずれをもここに書き残したとすれば、それはなぜなのか。そのことこそが大切な点です。

 

■神の国

 イエスさまが多くの人々と一緒に食事をなさった、それもイエスさまのあふれるほどの愛によって、数えきれないほどの人が満腹し、身も心も満たされた。そして神のみ国を味わうことになった。神の国が今ここにもたらされている、神様の愛の御手が今ここに差し出されていることを指し示すこの出来事は、繰り返し、繰り返し告げ知らされるべき、驚くべき神の恵みです。

 野外で共に食事をするということは、イエスさまが、当時のユダヤでの食事に関する規則、タブーを大胆に乗り越えられ、人々もまたそれに大胆に応じた出来事でした。ユダヤでは、食事の前には手を洗い、どこかで触れたかもしれない穢れを清めるようにと定められていました。罪に汚れた者とみなされる職業に就いている人、病気や障がいを負っている人、異邦人たちとの一切の関わりを断ち切ってからでないと、食事をすることは許されませんでした。汚れた人と食事の席を共にするなどということはありえないことでした。素性の知れない食べ物を安易に食べてはなりません。野外での、不特定多数の人々による分かちあいの食事は、それらユダヤ人が堅く守ってきた決まり、タブーを大きく踏み越えることでした。

 しかし、そのタブー破りの食卓によってこそ、罪人呼ばわりされ、汚れた者として排除され見下され、人としての尊厳を貶められてきた人々が、そこで人間性とその尊厳を回復されたのです。神に与えられたいのちゆえに、神はすべての人をかけがえのない、価値あるものとして、分け隔てなく愛してくださっている、その神の愛が今ここにもたらされている、イエスさまはそう宣言をされたのでした。イエスさまは、神様の愛をこそ、多くの人と分かち合われようとしたのでした。

 

■日常茶飯事

 そんな福音の出来事は、たった一回だけのことだったのでしょうか。食べることは習慣であり、生活そのものです。食卓が人間の生活や習慣と切り離しがたく結びついたものであったからこそ、そこには、この世の不条理や社会の差別や不公正なありようが「常識」と言われる文化として反映されていきます。その生活と習慣に切り離しがたく結びついた不条理を、差別を、常識と呼ばれる価値観を打ち破ろうというとき、一回きりの奇跡で事済(ことす)めりと考えるとすれば、それは安易というほかありません。もし一度限りの行為であったのなら、それは単なる人気取りのパフォーマンスと言わざるを得ません。しかし、イエスさまがそういうパフォーマーだったとは到底思えません。「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」と悪評をはやし立てられたイエスさまは、たった一度だけの食事の席でのタブー破りのために、そうした悪評を立てられたのではなかったはずです。食卓でのタブー破りは、イエスさまにとっては日常茶飯事のこと。その日常のタブー破りによってこそ、食卓という日常性において尊厳をおとしめられていた人々の回復は現実のものとなったはずです。

 神の国の福音を伝道するために放浪されたイエスさまは、繰り返し、繰り返し日常のこととして、野外での分かちあいの食事をされたにちがいありません。

 

■二つの違い

 そもそも、この二つの物語が違う場所での違う出来事であるとして見るときに初めて、今朝の出来事の本質が浮かび上がってきます。同じ出来事が別々に伝えられた二つの物語に過ぎないと考える多くの学者は、この二つの物語の共通点ばかりに目をとめようとします。しかし、今日のこの出来事と6章の出来事には、はっきりと異なる点があります。

 まず何よりも、起こった場所が違います。最初の物語はガリラヤでの出来事でしたが、今朝の物語はデカポリス地方、聖書巻末の地図「6新約時代のパレスチナ」をご覧いただくとよく分かりますが、ガリラヤ湖南東からヨルダン川東側一帯の地域、つまり全くの異邦人の地域での出来事です。その地域差が、それぞれの物語の細部に渡る違いをもたらします。

 興味深いのは、残り物を集めて入れた籠(かご)の違いです。日本語ではどちらも「籠」ですが、ギリシア語では、6章はコフィノス、ここはスプリスです。コフィノスはユダヤ独特の弁当箱で、とっくり型の口のすぼまった容器のことです。一方、異邦人の地では当然そのコフィノスは用いられません。スプリスは弁当箱というよりも、たくさんの食糧を入れるための網籠(あみかご)です。二つの物語では、残飯を集めた籠の数も違います。6章は十二籠、8章は七籠です。十二と言えば、イスラエルの十二部族やイエスさまの十二弟子を想像させる、ユダヤ人にとって特別な数字です。一方、ここに出てくる七という数字は、十二弟子との対比で言えば、七人の執事、異邦人伝道のきっかけを作った、ギリシア語で会話をしていたユダヤ人信徒たちの代表者の数にあたります。残飯籠の数は、ユダヤ人だけでなく異邦人にも同じようにイエスさまの福音宣教が向けられていたことを象徴的に表しているのだと言ってよいでしょう。

 そのことは、イエスさまと弟子たちのやり取りからも伺い知ることができます。イエスさまが大勢の人々にパンをお与えになったとき、6章では、弟子たちの方が群衆の空腹を気遣います。その群衆は同じユダヤ人であったことでしょう。しかし今ここでは、もう集会を解散し、パンのことを自分たちでまかなうようにさせたらどうかと、弟子たちはイエスさまに言っています。それに対してイエスさまは、ご自身のほうから弟子たちを呼び寄せ、語りかけられます。「群衆がかわいそうだ」と。この「かわいそうだ」は、「まあ、かわいそうに」といった軽い言葉ではなく、腸(はらわた)が痛くなるほどの慈しみのことです。そのため、神や御子の激しいほどの愛を語る時にだけ、この言葉は用いられました。わたしから福音の言葉を聞くために、三日間もわたしと一緒にいるのに食べ物がない。遠くからやって来た者たちがここには何人もいる。このまま帰したらどうなるか。

 6章の時には、周辺で食べ物を調達できる可能性も残されていましたが、ここはそうではありません。弟子たちの言うように、「こんな人里離れた場所」です。言葉のままに訳せば「寂しいところ」となるこの言葉は、「住む人もいない場所」を意味し、「砂漠」と訳してもよい言葉です。食事ができないばかりでなく、何もない荒涼たる砂漠のような場所に、飢えに苦しむ四千人を超える異邦の人々が、イエスさまにつき従っていたのでした。

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