■はじめに
クリスマスの季節は、12月24日夕刻のイヴから1月6日の公現日までです。この季節、ツリーやリースの飾りをそのままに、御子イエスが、この世界に、わたしたちのところに来てくださったことを祝います。ただその祝い、無邪気にはしゃぎまわるような「祝い」というのではありません。
この一年も、実に様々なことがありました。年の初めから甚大な被害をもたらす災害が続き、たくさんのいのちが失われ、今も多くの方が厳しい生活を余儀なくされています。一部企業の増収増益や株式等高騰のニュースに違和感を覚えるほどに、経済回復の兆しは全く見えてきません。皮肉を込めて「日本もついにアメリカ並みになった」とつぶやいたのは、子どもの六人のうち一人が生活に困窮する貧困家庭であるとの発表を聞いた時でした。家族同士が、隣人同士がいとも簡単に傷つけあい、いのちを奪いあう、凄惨な事件が今も後を絶ちません。新たな覇権主義や原理主義による暴力が、世界中に争いと悲劇を生み続けています。虚無に彩られた闇のような世界は、わたしたちの外ばかりにあるのではありません。わたし自身の内が暗い闇の中に、独りよがりのエゴイズムや自惚(うぬぼ)れ、妬(ねた)みや嫉(そね)み、偽りや欺瞞(ぎまん)に覆われてしまいそうになることもありました。時には、思いがけない深い悲しみや苦しみのために、ひとり密かに嗚咽(おえつ)をこらえつつ、身も心も置き所なく悶(もだ)えるほかないこともありました。
闇に囲まれ、闇の中に生きるほかないそんなわたしたちのところに、御子イエス・キリストが来てくださいました。それがクリスマスでした。今年最後の主の日に与えられたマルコによる福音書8章1節以下は、そんなクリスマスの告知にふさわしい言葉にあふれています。
■二つの奇跡
御子イエス・キリストが四千人もの人々に食事をふるまったという今日の出来事は、お気づきの方もおられるかもしれませんが、6章の、五千人の人たちが五つのパンと二匹の魚によって満腹になったという出来事と全く同じ出来事のように思えます。そのため、多くの聖書学者は、同じ出来事が別々に伝えられ、徐々に二つの物語にまとめられたのだろう、マルコは律儀にその二つを二つとも書き残したのだろう、と推測します。しかし本当にそうなのでしょうか。
そもそも御子イエスが、大勢の人たちとの分かちあいの食事を、その生涯で一度しかなさらなかったなどと、どうして断言できるのでしょうか。御子イエスは一度なさったことは、もう二度となさらないとでも言うのでしょうか。仮に、同じ出来事を別々に伝えた二つのよく似た物語であったとしても、この福音書がそのいずれをもここに書き残したとすれば、それはなぜなのか。そのことこそが大切な点です。
■神の国
イエスさまが多くの人々と一緒に食事をなさった、それもイエスさまのあふれるほどの愛によって、数えきれないほどの人が満腹し、身も心も満たされた。そして神のみ国を味わうことになった。神の国が今ここにもたらされている、神様の愛の御手が今ここに差し出されていることを指し示すこの出来事は、繰り返し、繰り返し告げ知らされるべき、驚くべき神の恵みです。
野外で共に食事をするということは、イエスさまが、当時のユダヤでの食事に関する規則、タブーを大胆に乗り越えられ、人々もまたそれに大胆に応じた出来事でした。ユダヤでは、食事の前には手を洗い、どこかで触れたかもしれない穢れを清めるようにと定められていました。罪に汚れた者とみなされる職業に就いている人、病気や障がいを負っている人、異邦人たちとの一切の関わりを断ち切ってからでないと、食事をすることは許されませんでした。汚れた人と食事の席を共にするなどということはありえないことでした。素性の知れない食べ物を安易に食べてはなりません。野外での、不特定多数の人々による分かちあいの食事は、それらユダヤ人が堅く守ってきた決まり、タブーを大きく踏み越えることでした。
しかし、そのタブー破りの食卓によってこそ、罪人呼ばわりされ、汚れた者として排除され見下され、人としての尊厳を貶められてきた人々が、そこで人間性とその尊厳を回復されたのです。神に与えられたいのちゆえに、神はすべての人をかけがえのない、価値あるものとして、分け隔てなく愛してくださっている、その神の愛が今ここにもたらされている、イエスさまはそう宣言をされたのでした。イエスさまは、神様の愛をこそ、多くの人と分かち合われようとしたのでした。
■日常茶飯事
そんな福音の出来事は、たった一回だけのことだったのでしょうか。食べることは習慣であり、生活そのものです。食卓が人間の生活や習慣と切り離しがたく結びついたものであったからこそ、そこには、この世の不条理や社会の差別や不公正なありようが「常識」と言われる文化として反映されていきます。その生活と習慣に切り離しがたく結びついた不条理を、差別を、常識と呼ばれる価値観を打ち破ろうというとき、一回きりの奇跡で事済(ことす)めりと考えるとすれば、それは安易というほかありません。もし一度限りの行為であったのなら、それは単なる人気取りのパフォーマンスと言わざるを得ません。しかし、イエスさまがそういうパフォーマーだったとは到底思えません。「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」と悪評をはやし立てられたイエスさまは、たった一度だけの食事の席でのタブー破りのために、そうした悪評を立てられたのではなかったはずです。食卓でのタブー破りは、イエスさまにとっては日常茶飯事のこと。その日常のタブー破りによってこそ、食卓という日常性において尊厳をおとしめられていた人々の回復は現実のものとなったはずです。
神の国の福音を伝道するために放浪されたイエスさまは、繰り返し、繰り返し日常のこととして、野外での分かちあいの食事をされたにちがいありません。
■二つの違い
そもそも、この二つの物語が違う場所での違う出来事であるとして見るときに初めて、今朝の出来事の本質が浮かび上がってきます。同じ出来事が別々に伝えられた二つの物語に過ぎないと考える多くの学者は、この二つの物語の共通点ばかりに目をとめようとします。しかし、今日のこの出来事と6章の出来事には、はっきりと異なる点があります。
まず何よりも、起こった場所が違います。最初の物語はガリラヤでの出来事でしたが、今朝の物語はデカポリス地方、聖書巻末の地図「6新約時代のパレスチナ」をご覧いただくとよく分かりますが、ガリラヤ湖南東からヨルダン川東側一帯の地域、つまり全くの異邦人の地域での出来事です。その地域差が、それぞれの物語の細部に渡る違いをもたらします。
興味深いのは、残り物を集めて入れた籠(かご)の違いです。日本語ではどちらも「籠」ですが、ギリシア語では、6章はコフィノス、ここはスプリスです。コフィノスはユダヤ独特の弁当箱で、とっくり型の口のすぼまった容器のことです。一方、異邦人の地では当然そのコフィノスは用いられません。スプリスは弁当箱というよりも、たくさんの食糧を入れるための網籠(あみかご)です。二つの物語では、残飯を集めた籠の数も違います。6章は十二籠、8章は七籠です。十二と言えば、イスラエルの十二部族やイエスさまの十二弟子を想像させる、ユダヤ人にとって特別な数字です。一方、ここに出てくる七という数字は、十二弟子との対比で言えば、七人の執事、異邦人伝道のきっかけを作った、ギリシア語で会話をしていたユダヤ人信徒たちの代表者の数にあたります。残飯籠の数は、ユダヤ人だけでなく異邦人にも同じようにイエスさまの福音宣教が向けられていたことを象徴的に表しているのだと言ってよいでしょう。
そのことは、イエスさまと弟子たちのやり取りからも伺い知ることができます。イエスさまが大勢の人々にパンをお与えになったとき、6章では、弟子たちの方が群衆の空腹を気遣います。その群衆は同じユダヤ人であったことでしょう。しかし今ここでは、もう集会を解散し、パンのことを自分たちでまかなうようにさせたらどうかと、弟子たちはイエスさまに言っています。それに対してイエスさまは、ご自身のほうから弟子たちを呼び寄せ、語りかけられます。「群衆がかわいそうだ」と。この「かわいそうだ」は、「まあ、かわいそうに」といった軽い言葉ではなく、腸(はらわた)が痛くなるほどの慈しみのことです。そのため、神や御子の激しいほどの愛を語る時にだけ、この言葉は用いられました。わたしから福音の言葉を聞くために、三日間もわたしと一緒にいるのに食べ物がない。遠くからやって来た者たちがここには何人もいる。このまま帰したらどうなるか。
6章の時には、周辺で食べ物を調達できる可能性も残されていましたが、ここはそうではありません。弟子たちの言うように、「こんな人里離れた場所」です。言葉のままに訳せば「寂しいところ」となるこの言葉は、「住む人もいない場所」を意味し、「砂漠」と訳してもよい言葉です。食事ができないばかりでなく、何もない荒涼たる砂漠のような場所に、飢えに苦しむ四千人を超える異邦の人々が、イエスさまにつき従っていたのでした。