■一神教と多神教
前にも一度ご紹介したことがありますが、塩野七生の著書に『ローマ人の物語』という、文庫本43冊のシリーズがあります。聖書の背景となった世界を理解する上で大変よい本ですが同時に、わたしたちの信仰について、いろいろなことを考えさせてくれる本でもあります。
その中で、ユダヤ人とギリシア人とローマ人の違いが、こうまとめられていました。人間の行動の規範・基準を、宗教に求めたのがユダヤ人、哲学に求めたのがギリシア人、法律に求めたのがローマ人である、と。
「宗教」とはこの場合、神の掟、戒め、もっと広く言えば神の言葉ということです。そこに、人間の行動の規範を置いたのがユダヤ人であり、だからこそユダヤ人の間に、神の言葉を記した聖書が生まれました。ところが、ギリシア人やローマ人はそういうものに規範を置きません。ギリシアやローマに宗教がなかったわけではありません。たくさんの神々が信じられ、神殿があり、礼拝が行われていました。しかしギリシア人やローマ人は、そこに人間の行動の規範があるとは考えませんでした。人間は神々の教えに従うべきであるとは考えなかったのです。神々は人間が従うべき主、規範ではなく、人間の営みを見守る、別の言い方をすれば、願いを叶えるだけの存在でした。
若松英輔に「願いと祈り」という一文があります。
「…願うのは悪いことではない。願わずにはいられない、そうした局面に追い込まれることは人生に幾度でもある。しかしそんなときでも、私たちは聞く耳は封じない方がよいのではないだろうか。求めていることは思いもよらない場所からやってくるかもしれないのである。
神仏は、人間が思っているよりもずっと、私たちのことを知っている。宗派を問わず聖典、経典と呼ばれるものを繙(ひもと)くと、そうしたもう一つの現実が描き出されている。神仏は、人間が感じている以上に、私たちの苦しみ、悲しみ、嘆きを深く受けとめているのである。だが、そのことを深く実感できない人間は、不安に耐え切れず、分かっているはずの状況を神仏に説明しようとする。説明する自分の声が、彼方からの無音の声をかき消しているのに気が付かないまま語り続けてしまう。」
ここに、ユダヤ的一神教とギリシア・ローマ的多神教の違いがあります。一神教と多神教の違いは、神が一人であるか多数であるかという数の問題と言うよりも、人間に従うべき規範を与える神と、人間を見守る、願い事を叶えるだけの存在である神との違いだと言ってよいのかもしれません。そこに、一神教と多神教のすれ違いが生まれます。そしてそれこそ、わたしたちがこの社会の中でクリスチャンとして生きていこうとする時に経験する、すれ違いでもあります。わたしたちはイエス・キリストを信じ、主なる神に従って生きようとします。それで、例えば神道の結婚式や仏教のお葬式に列したときにも、そこで柏手(かしわで)を打ったり、手を合わせて拝んだりすることに抵抗を覚えます。ところが周囲の多くの人は、そのことを信じるとか従うとかいう感覚を全く持たずに、そうしています。そのため、わたしたちが拘(こだわ)っていることをなかなか理解してもらえません。
キリスト教は、神の言葉こそ人間の行動の規範であるとする旧約聖書の、ユダヤ教の伝統を受け継ぐ一神教です。ところが、そのキリスト教の中に「すべてのことが許されている」という考え方が生まれてきました。それは突き詰めて言えば、神の掟、戒めをもはや人間の行動の規範としない、神の戒めに縛られないで、人間が自分で判断し、自由に生きるのだということであって、ユダヤ人には受け入れることのできない考え方です。ところが、基本的にユダヤ教と同じ流れの中にあるはずのキリスト教会の中に、こうした教え、考え方が出て来ました。
最初期の教会の指導者であり、コリント教会の創立者であるパウロ自身がそうです。パウロがここで「すべてのことが許されている」という言葉を引用しているのは、「そんなことはとんでもない間違いだ」と言うためではありません。むしろ、彼はこのことを「その通りだ」と受け入れています。それを受け入れた上で、「しかし」と言って、ある「但し書き」を付け加えているのです。
それはどういうことでしょうか。パウロは、ユダヤ人でありながら、神の言葉を人間の生活の規範とするユダヤ的な一神教の信仰を捨ててしまったのでしょうか。ギリシア、ローマの人々のように、人間のことは人間が自分で決める、神は、時に人間の世界に介入をすることはあっても、基本的にはただ見守っているだけの存在だ、という多神教的世界観に妥協してしまったのでしょうか。
■他人(ひと)の利益のために
この問いを念頭に、パウロが「すべてのことが許されている」という教えに付け加えた「但し書き」から読んでいきたいと思います。23節、
「『すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことが益になるわけではない。『すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない」
すべてのことが許されている、確かにその通りだ。しかし、その許されていることすべてが益になるわけではない。すべてがわたしたちを造り上げるわけではない。だから「益になる、造り上げる」ということを基準に判断していくべきだ、とパウロは言います。その「益になる」とは、「自分」の益になるかどうかということではありません。24節、
「だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい」
「益になる、造り上げる」というのは、「他人(ひと)」の益になること、「他の人」を造り上げることです。すべてのことが許されている中で、そのことをこそ追い求めなさい、とパウロは言います。その具体的実例が25節以下です。
「市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい」
これは、偶像に供えられた肉であっても、気にすることなく食べてよい、ということです。その理由が26節、
「『地とそこに満ちているものは、主のもの』だからです」