■偶像に供えられた肉
コリント教会には何と多くの問題があったことでしょうか。
そのおかげで、わたしたちは新約聖書の中でパウロの牧会的な愛と知恵を読むことができるわけですが、問題が多くあるという点では、今のわたしたちも同じです。教会はもちろん、家庭にも、個人にも問題や課題は山ほどあります。
神は、問題のない教会や信仰を求めておられるのではありません。むしろ、問題を神の前に持って行き、神の知恵と力を祈り求め、わたしたちが「キリストによって共に生きる」ことを求めておられるのだと気づけば、わたしたちは失望する必要はありません。
今日、共に生きることを妨げている問題として取り上げられているのは、「偶像に供えられた肉」を食べて良いか、否かの問題です。コリントには神々の神殿があり、町の公の行事や個人の家の冠婚葬祭などが祭儀として執り行われていました。その祭儀では必ず動物が犠牲として捧げられました。祭儀の後、その動物の肉の一部は祭司のものとなり、一部は祭儀に集った人たちが食べ、残りは持ち帰られ、町の市場で売られました。町の人々にとっては当たり前の風景でしたが、教会の信徒たちの中に、ある戸惑いが生まれました。
教会は、旧約聖書以来のユダヤ人の信仰を受け継いでいます。その信仰によれば、主なる神以外のものを神として拝むことは、主に対する裏切り、偶像礼拝と呼ばれる最も重い罪でした。ことに人間の手によって造られた偶像を神として拝む偶像礼拝を、ユダヤ人は忌み嫌い、厳しく戒めていました。教会は今も偶像礼拝を忌み嫌うこのユダヤ人の信仰を受け継いでいます。
そこから、一旦偶像に供えられた肉は信仰者にとっては汚れたものであって、それを食べるべきではない、という考えが生まれました。特に異邦人で信徒になった人々は、それまで何の疑問も持たずに食べていた肉が実は、偶像に供えられた肉だったということに気づいたのです。キリストの父なる神を唯一の神と信じる者となった今、その肉を食べるのは相応しくないのではないか、そう考える人が出てきたのは、ある意味、当然のことだと言えます。
■我々は知識を持っている
しかし、コリント教会で何が問題とされていたのかについては、もう少し注意深く考えなければなりません。コリント教会からの質問は、単に「偶像に供えられた肉を食べてもよいのでしょうか」ということではなかったようです。
そのことは冒頭のパウロの言葉からも伺えます。
「この問題について言えば、『我々は皆、知識を持っている』ということは確かです」
この括弧に入れられている「我々は皆、知識を持っている」ということが、コリント教会の中で頻繁に語られ、またパウロに届いた質問の手紙にも記されていた言葉だったと思われます。この「知識」がどのような知識だったのか。4節にこうあります。
「そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています」
「偶像の神は人間が作った像に過ぎないのであって、そんなものは神でも何でもない、唯一の主なる神以外に、この世にいかなる神もいないのだ」ということです。また、6節にもこう記されます。
「わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです」
これは、学問的知識や世間の人々が共有している一般的な知識ではなく、信仰によって与えられる神についての知識です。
この知識を持っていた人たちは、偶像に供えられたといっても、それは神でも何でもない、ただの像の前にしばらく置かれたというだけのことであって、肉屋に置かれていたのと何も違わない、だからそれを汚れたものとして避ける必要などない、気にせず食べたらよい、と主張していたのでしょう。ですから、パウロのもとに寄せられた質問も、「偶像など神ではないし、何の力もないというのが正しい信仰の知識であって、偶像に供えられた肉だからといって避けようとするのは、信仰の知識が乏しい者の不適切な考えではないのか」ということだったと思われます。
パウロはその質問に、彼らの言ってきたことに同意し、その知識を正しいものと認めます。「『我々は皆、知識を持っている』ということは確かです」とは、そういうことです。
「ただ」と、パウロは続けます。ここからが、パウロの言おうとしていることの中心です。
■知識による高ぶり Continue reading