福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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11月21日 ≪降誕前第5主日/収穫感謝家族礼拝—朝拝≫ 『かみさまはひつじかい』 サムエル記下5章1~5節 沖村裕史 牧師

11月21日 ≪降誕前第5主日/収穫感謝家族礼拝—朝拝≫ 『かみさまはひつじかい』 サムエル記下5章1~5節 沖村裕史 牧師

≪説 教≫

■収穫感謝(しゅうかくかんしゃ)って何?

 今日は、収穫感謝の日。ところで、収穫を感謝するこの祝いの日が、いつ、どこで、どんなふうにして始まったのか、知っていますか。

 今から四百年も前のこと。イギリスという国で、(信仰の違いから)潔癖(けっぺき)な人、馬鹿正直(ばかしょうじき)な人という意味の「ピューリタン」とあだ名で呼ばれ、しいたげられ、苦しめられていた人たちが、(信仰の)自由を求めて、アメリカへと渡りました。

 1620年11月(日本で言えば江戸時代が始まったばかりの、ちょうど今頃)、ピューリタンの人たちを乗せたメイフラワー号という船が何日もの航海を経て、アメリカのプリマスにたどり着きました。しかし、新しい土地での生活は厳しいものでした。最初の冬の間に、アメリカに渡っていったその人たちの半分が死んでしまいました。人々は新しい土地での生活がいやになり、アメリカにきたことを後悔していました。そのときのこと、前からアメリカに住んでいたインディアンたちが、新しくやってきた彼らを邪魔者扱(じゃまものあつか)いするどころか、一緒に暮らしていけるようにと助けてくれたのです。インディアンたちは彼らに、トウモロコシを育てるやり方を教えてくれました。

 次の秋がめぐってきた時、たくさんのトウモロコシが、食べ物がとれました。ピューリタンの人たちは、豊かな実りを与えてくださった神様(かみさま)と、隣人(りんじん)―友だちになってくれたインディアンに感謝するために、収穫感謝のお祝いを始めたのでした。1864年、アメリカ合衆国第16代大統領のエイブラハム・リンカーンは、そのことをいつまでも忘れないようにと、11月第4木曜日を国の祝日に定めました。アメリカの多くの教会では、今も、収穫感謝の日に野菜や果物を持ち寄って、礼拝が終わった後、病気で寝ている人や寂しい思いをしている人、心にかかる人にプレゼントすることが続けられています。

 収穫感謝のお祝いをすることのほんとうの意味は、ただ収穫を喜び祝うということではなく、「神様の豊かな恵みを、感謝をもって隣人と分かち合う」ということでした。

 

■トウモロコシ

 そして、今日も、ここにたくさんの野菜や果物が献(ささ)げられています。ここにも、先ほどお話した(本当は髭のような皮で包まれている)トウモロコシがあります。トウモロコシのお話。前に一度お話をしたことがあるかもしれません。直子ちゃんという女の子のお話です。

 一日じゅう遊びまわっても平気な、五歳のときのこと。直子ちゃん、おやつにもらった、ゆでたトウモロコシを二本持って、それをかじりながらぶらぶらと歩いていました。お父さんの仕事のために台湾という南の島で一緒に暮らしていました。まわりは田んぼとサトウキビ畑。ゆるやかな丘が続くばかりです。人影もありません。丘のふもとにしゃがんで直子ちゃん、トウモロコシを食べ始めました。

 すると、丘のむこうから人がやってきます。ひょろりと長い足をむき出しにした、破れた半ズボン姿の台湾のオジサンです。そのオジサンを見ながら、もぐもぐやっていると、オジサン、ニコニコ笑いながら、どんどんこちらに近づいてきて、ついに目の前にしゃがんでしまいました。そして直子ちゃんの目をのぞきこみます。直子ちゃんも目をまん丸にして、オジサンを見つめます。オジサンの黒い目はキラキラと光っていました。おたがい、何も話しません。

 といきなり、直子ちゃんは手に持っていた、もう一本のトウモロコシをオジサンに差し出しました。オジサンはすこしびっくりしたようです。でも、すぐトウモロコシを受け取ると、バリッバリッと食べ始めました。直子ちゃんは、いっそう目を丸くしてオジサンの口を見つめます。日焼けしたほおが動き、口からこぼれる白い歯が、ブルドーザーのようにトウモロコシの実を掻(か)き取っていきます。

 直子ちゃん、自分が食べるのも忘れて見とれていました。オジサンは直子ちゃんの目をのぞきこんだ笑顔のままで、バリッバリッ。実はみるみるなくなっていきます。そして…そして、なんと、実をすっかり食べおわってトウモロコシの芯(しん)だけを手に持ったオジサンは、その芯まで食べ始めたのです。バリッバリッ。直子ちゃんは、ますます目を丸くしました。あそこも食べられるんか。バリッバリッ。とうとう、ぜんぶ食べてしまいました。まるごと。ぜんぶです!

 直子ちゃんはそのときのことを今もはっきりと覚えています。なぜって、とてもうれしかったからです。なにしろ芯まで食べてくれたのです。差し出したものをぜんぶ食べてくれたのです。あのオジサンは、わたしの「贈り物」を「スッともらって」くれた。そのうえ、なにひとつ残さず、捨てるはずの芯まで「ぜんぶ受け入れて、食べて」くれた。そのことがとてもうれしかったのです。〔工藤直子『こころはナニで出来ている?』岩波現代文庫参考〕

 

■分かち合う

 自分が持っているものをプレゼントして、それを喜んで受け取ってもらえることは、とてもうれしいことです。自分が持っている食べ物をひとり占(じ)めしても、誰も喜んではくれません。それどころか、食べるものがなくて悲しんでいる人がいるかもしれません。そう思うと、なんだかいやな気持になります。持っている食べ物を一人で食べるよりも、友だちと一緒に食べた方が楽しいに決まっています。

 遊ぶときだってそうです。三輪車やブランコをひとり占めして遊んでいるとき、遊べなくて悲しい顔をしているお友だちがいるのに気がついたことはありませんか。そんなときどんな気持ちがしましたか。一人で遊ぶより、みんなと遊んだ方が楽しくて、うれしいに決まっています。なぜなら、友だちの喜んだ顔を見ると、とても幸せで、いい気持ちがするからです。

 そもそも、わたしたちが持っているものはすべて、自分のものというよりも、誰かからもらったものです。ここに献げられている野菜や果物は、こどもたちだったら、お父さまやお母さまから渡されたものでしょう。大人であれば、それはすべて、他の人からいただいたものです。お店で野菜や果物を売ってくださる人がいなければ、それを育ててくださる農家の人がいなければ、そして太陽や雨が降らなければ、いい土がなければ、そもそも、もとの種が、そう、「いのち」がなければ、だれもこの野菜や果物を手に入れることなどできなかったはずです。

 わたしたちが生きている「いのち」は、太陽は、雨は、土は、一体だれがつくったものでしょう。神様です。ぜんぶ、神様がわたしたちにくださったものです。そう、自分のものではないのですから、ひとり占めしてはいけません。みんなのために神様がくださったものなのですから、自分のためだけに使ってはいけませんし、幸せな気持ちにもなれません。神様は、みんなが幸せになることをとても喜んでくださいます。神様がくださったものをみんなが分け合うことを、一緒に受け取ることを、神様はとても喜んでくださいます。

 

■神様は羊飼(ひつじか)い

 今日の聖書のお言葉は、そんな神様のことをわたしたちに教えてくれます。

 ダビデという人がみんなから王様に選ばれました。なぜダビデは王様に選ばれたのでしょうか。その理由がこんな言葉で書かれています。「主はあなたに仰せになりました。『わが民イスラエルを牧するのはあなただ。あなたがイスラエルの指導者となる』と。」神様が、わたしは羊飼い、そのわたしに代わって、あなたがみんなの羊飼いになりなさい、とダビデに言われたのでした。

 人は昔から羊の毛から着物を作り、羊の肉を食べて生きてきました。羊はとても大切な動物でした。おとなしくて、やさしくて、よい動物だと思われていました。でもそれだけではありません。羊は、四本の足があるほかの動物と比べると、あまりかしこくない、目も悪くて、遠くを見ることのできない、どちらかと言うと、人が守らなければ、生きていけない、弱い動物でもありました。

 羊には、羊飼いが必要でした。羊飼いは、羊たちの前を進んで、自分について来るように呼びかけます。羊飼いは、強い雨や風、どう猛な獣たちから羊を守るために、洞くつに集めたり、囲いを作ったりしました。ときには、羊のために自分のいのちを捨てることさえありました。そんな大げさなと思うかもしれません。でもほんとうのことです。羊たちの群れをヒョウやライオン、クマやオオカミが襲いました。羊を守るために羊飼いはいのちをかけて戦ったのです。

 それだけではありません。羊飼いは、羊一頭一頭に名前をつけて、それをぜんぶ覚えていました。わたしたちが見ても見分けがつきませんが、羊飼いは一頭一頭を見分け、名前で呼びかけていました。羊たちも、その羊飼いの声を知って、聞き分けていました。

 聖書の中にこんな場面がでてきます。たくさんの羊の群れを泉や井戸に連れて行って、水を飲ませたときのことです。羊飼いは、羊たちを座らせ、順番を待たせます。そして順に、二・三匹ずつの羊の名前を呼ぶと、その羊たちがそのそばにまでやってきて水を飲むのです。それは特別なことではありません。よく見る光景でした。

 今日の聖書に、わたしは羊飼い、そのわたしに代わって、あなたがみんなの羊飼いになりなさい、と神様がダビデに言われたとあります。神様は羊飼いです。羊のように弱く、決して賢くもないわたしたちのために、いつも前を進んで、身を寄せる場所を作り、一人ひとりの名前を呼んで水を飲ませ、いのちをかけてわたしたちを守ってくださるお方です。羊飼いの神様は、恐ろしくて、遠くにいる、冷たいお方ではありません。やさしくて、温かくて、こまやかな心配(こころくば)りによって、わたしたちを養い、どんなときにも守ってくださる、愛に満ちた力強いお方です。それが神様です。

 どんなにカッコウをつけても、どんなに突っ張っていても、だれの心の中も、悲しみと虚しさ、寂しさと苦しみでいっぱいになることがあります。わたしのことなんか、だれも見てくれない。気にもしない。わたしはどうして生まれてきたの。だれとも会いたくない。話したくない。もうどうでもいい。朝、目が覚めたとき、夜、眠れないままに心塞(こころふさ)がれるようなときがあるかもしれません。

 そんなときにこそ、いのち与えられたお方が、このいのちゆえに、わたしたち一人ひとりに、今もここに愛の手を差し出してくださって、そのとき、そのときに本当に必要なものを備(そな)え、与えてくださっているという、今日の言葉を思い出してください。この言葉を信じて生きるとき、羊のように弱く愚かなわたしたちでも、毎日を、人生を自分なりに精一杯に、大切に生きていくことが、助け合いながら、本当の意味で力強く歩んでいくことができるでしょう。