≪説教≫
■加えて、何をなすべきか
玉島教会の牧師として、半世紀にわたってハンセン病療養所の慰問伝道を続けた河野進先生に「出会い」という詩があります。
一日おそかったら
一列車おくれたら
一足ちがいでさえ
会えなかった
出会いの 不思議さ 尊さ
天の父さまの
おみちびき おめぐみと
信じるほかない
イエスさまがエルサエムに向かって最後の歩みをしている、その途上での出来事でした。一人の青年が、永遠の命を手に入れたいという願いをもって、イエスさまに近づいてきました。「富める青年」と呼ばれることになるこの人は、イエスさまと出会いました。そして、永遠の命を得る道について語り合うという特権、「おみちびき おめぐみ」にあずかったのでした。青年が尋ねます。
「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」
「永遠の命を得る」とはどういうことでしょうか。今ここを生きているこのいのちが永遠に続くということではありません。「天の国に入る」こと、「神様の救いにあずかる」ことです。
青年は、その永遠の命に至る道をイエスさまが教え示してくださると信じて、「どんな善いことをすればよいのか」と尋ねました。しかしイエスさまは、「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか」と問い返されます。そして「神お一人の外に、善い者はいない」と言われます。その上で、神様が与えてくださった掟、教えを示されます。
「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい』」
「十戒」の後半の教えですが、この答えは青年を失望させます。
「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか」
十戒を守ることは、イスラエルの民、ユダヤの人々にとってはごく当たり前のことで、特別なことでも何でもありません。しかもこの青年は、永遠の命を得たいと真剣に願っていたわけですから、人一倍熱心に、厳格に十戒を守っていたことでしょう。「みな守ってきました」という彼の言葉に偽りはなかったでしょうし、そこに彼の自負が滲みます。彼が聞きたいと思っていることは、そんな当たり前のことではなくて、それ以上のこと、十戒を守ることに加えてさらに何をしたらよいか、なのです。
しかし、イエスさまはそんな彼の思い、考えを根底からひっくり返そうとされます。
自分が善い行いをし、善い者となることによって永遠の命を、神様の救いを自分の行いや力で獲得できるという彼の思いが、根本的に間違っているからです。神様の救いは、永遠の命は、わたしたちが自分の力や努力で獲得するものではありません。それは、ただ一方的に神様が恵みとして与えてくださるものです。だから、それを得るためには、自分がどういう善いことをし、どのように立派な者になるかではなくて、ただひとりの善い方である神様を見つめ、その恵みを求めなければなりません。それが「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである」という言葉の意味でした。イエスさまは、善いことに励み、自分のことばかり見つめている彼のまなざしを、主なる神へ、その愛と恵みへ向けさせようとされます。
十戒の掟を並べたのも、そのためです。「何をすればよいか」と問われるなら、この十戒の中に、すでに神様がわたしたちに求めておられることのすべてが示されているのだ、ということです。十戒の前文、「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」に続いて、すべての戒めが実は、「殺してはならない」という禁止形ではなく、「殺さない」という直接法の否定形で書かれています。十戒は単なる道徳的、倫理的な教えではありません。エジプトの奴隷状態から解放されたイスラエルの民が、ただ一方的に与えられる神様の救いの恵みに感謝して生きる、信仰の道を示すものでした。
ただ残念なことに、「そういうことはみな守ってきました」と答えるこの人には、イエスさまが示そうとしておられることが全く理解できません。
■悲しみながら立ち去った
この人は何もわかっていないのです。それでもなお、イエスさまはこの青年を批判したり、追い返そうとしたりなさいません。マルコには「彼を見つめ、慈しんで言われた」とあります。彼を愛して、慈しむようにして、イエスさまは、言われました。
「もし完全になりたいのなら…」
この言葉を聞いた時、彼は目を輝かせてイエスさまを見上げたのではないでしょうか。永遠の命を得るためには何をしたらよいか、「まだ何か欠けているでしょうか」と問い、返って来た答えが十戒を守れというありきたりなものでしかなかったと失望しているところに、「もし完全になりたいのなら…」と言われたのです。「そうです、わたしが聞きたいのはそのことなのです。わたしになお欠けているもの、わたしがなお努力し、行うべきこととは何でしょうか」。彼は期待を胸に、次の言葉を待ちました。
しかし、この後に続くイエスさまの教えは、さらに彼の期待を裏切るものでした。
「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」
「行って、売り払い、そして施しなさい」。解説も説明も必要ないほど単純な教えです。しかし、それがいちばん難しいことでもあります。
以前、説教奉仕のためにお訪ねしたある教会でのことです。新しく礼拝に来る人のために、「週報」に工夫がしてありました。礼拝の順序にそれぞれ短い説明が付けられ、はじめての人でも理解できるように配慮されています。たとえば、「讃美歌」のところでは、記載の番号の讃美歌を一同で歌います。「聖書」では、指定のページを開いてください、司会者が朗読しますので、一緒に黙読ください、と丁寧で親切なものでした。そして、終わりのほうに「奉献」というのがあり、神様に対する感謝の気持ちをもって、あなたのすべてを捧げましょう、と書いてありました。献金と言わずに奉献と呼ぶことはよりふさわしい表現です。それでよいのですが、あなたのすべてを捧げましょうと書いてあるのに、一瞬驚き、戸惑いました。
間違いというのではありませんが、はじめて教会に来られた方がこの言葉を文字どおりに読めば、驚いて、来なくなってしまうのではないかと心配しました。しかし礼拝が進み、奉献のときになっても、去っていく人など一人もなく、粛々と献金が行われました。あなたのすべてを捧げましょう、というこの言葉を文字通りに受けとめた人は誰もいなかった、ということでしょうか。
かく言うわたしといえば、いつも財布の中に準備しているはずの千円札を、その日に限って入れ忘れていました。財布にあるのは、五千円札だけです。献金当番の方が来られるまでの間、悩みに悩んだ末に、五千円札を献金袋に入れた時、心の中ではありますが、誰かに聞こえるのではないかと思えるほどの大きなため息をついていました。
あなたのすべてを捧げましましょうとの教えはよく理解はしていても、悲しいかな言葉通りにはいきません。何事も言葉通り行うこと、それがいちばん難しいことです。
この人も、この言葉を聞いた途端に、顔が曇ります。彼はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去ります。イエスさまが言われるそんなことは、自分にはとてもできないと思ったからです。二つのことを天秤にかけて、永遠の命を得るためにしなければならないことがこれほどのことであるなら、自分はとてもそれを得ることはできない、と思ったということです。
彼は、イエスのもとを立ち去りました。
「青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った」
とても印象的な言葉です。「悲しむ」は「苦しむ」とも訳すことができます。この人は、イエスさまの言葉を聞いて、「苦しんでいた」ということです。イエスさまの言葉に悩むこともなく、立ち去って行ったのではありません。イエスさまの言葉を聞いて、苦しんでいたのです。
ここで大切なことは、「たくさんの財産を持っていたからである」という説明ではなく、苦しんでいるこの人自身に目を留めることではないでしょうか。この言葉は、イエスさまがどのような思いをもって、この去って行った人を見送っていたかを、描こうとしているのではないでしょうか。
立ち去って行くその人の背中に向かって、「あいつはだめな男だ。たくさんの財産を持っていたから」と捨て台詞を吐いていたのでもなく、「あの男は信仰よりも金のほうが大事だったのだ、金持ちにはやはり信仰は無理だ」と呟いたのでもありません。「悲しみながら立ち去った」というこの言葉の裏に、イエスさまご自身がその人と同じように悲しみ、苦しんでいる姿があるのではないでしょうか。
立ち去って行く彼の背に向かって、なお語りかけているイエスさまの声が聞こえてくるようです。
■天に富を積むこと、従うこと
イエスさまは彼に、これまでのような生き方を捨てなさい、と言っておられるのです。彼がしてきたのは、自分の善い行いという財産をせっせと積み上げることでした。その財産を増やしていくことによって救いを得ようとしていました。イエスさまのところに来たのも、善い行いという財産を十分に増やす仕方を教えてもらうためでした。
しかし、今イエスさまが語りかけておられることは、自分が貯め込んでいる善い行いや立派さによって、つまり自分が相応しい者になることによって救いを得ようとすることをやめて、ただ神様の恵みによって救いにあずかるという新しい歩みを始めなさい、ということです。
それが「天に富を積む」ということでした。
それは、人々をたじろがせるほどの善い行いによって、天の銀行に莫大な富を積むことではありません。天の富とは、わたしたちの善い行いのことではなく、神様の恵みのことでした。わたしたちが、自分の善い行いという富によって救いを得ようとする思いを捨てて、神様の恵みにより頼むようになることによって、その神様の恵みという富がわたしたちのために天に積み上げられていくのです。逆に、わたしたちが自分の力、自分の善い行いを頼りにして、それで救いを得ようとするなら、神様の恵みという天の富は失われてしまうのです。
「わたしに従いなさい」と言われていることもまた、そのことです。イエスさまに従っていくということは、イエスさまの弟子という立派な人になることではなく、ひたすらイエスさまの恵みにより頼み、イエスさまによってこそ生かされる者となることです。神様なしに、イエスさまなしに生きていけるような立派な人、強い人は、神様に、イエスさまに従っていくことはできないでしょうし、その必要など感じないでしょう。神様の、イエスさまの恵みなしには一日たりとも生きていくことができない、そういう弱く、小さく、罪深い者であることを知っているだけが、神様に、イエスさまに従っていくのです。
イエスさまは今、自分の力で生きていこうとすることをやめて、わたしの後についてきなさい、と招いておられるのです。
■たったひとつ
しかし彼は、イエスさまのこの招きを受けとめることができず、苦しみ、悲しみながら立ち去ってしまいました。それは、たくさんの財産を持っていたからである、と語られています。では、たくさんの財産を持っていない者はそうはならないのでしょうか。そんなことはありません。ここに描かれているのは、わたしたちのことです。自分の力や努力による善い行いという自分の富、自分の立派さや相応しさにより頼んでいることのなんと多いことでしょう。誰もが、たくさんの財産を持ち、そして自分の持っている財産にしがみついて、それから手を離して、神様の恵みに身を委ねることがなかなかできないでいます。
悲しみながら立ち去っていくこの人を、イエスさまは「嘆かわしい」という怒りや裁きの思いではなく、愛と慈しみのまなざしで見つめておられたに違いありません。「持っている物を売り払い、貧しい人に施すこと」ができなかったこの人は信仰の脱落者であり、敗北者と言えるのかもしれません。しかし、イエスさまは、この人のことをもうすでに赦しておられたに違いありません。
なぜなら、この人が去った後、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」と自分たちのことを誇らしげに語り、報いを求めた愚かなペトロを、三度までイエスなど知らないと言うことになるペトロを、イエスさまは赦してくださり、「新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる」とまで約束してくださっているのですから。
イエスさまは、立ち去って行く青年の背をじっと見つめ、愛し、こう語りかけておられたのではないでしょうか。
「あなたに欠けているものがある。たったひとつだけあるよ」と。
もし彼が一度でもふり返れば、そこにイエスさまが立ち続けていたことを見ることができたはずです。そして、イエスさまの慈しみのまなざしを見ることができたでしょう。そのとき、この青年はふたたびイエスさまのところに戻り、イエスさまと共に生きることができたかもしれません。
そう、彼に欠けていた「たったひとつ」とは、去って行く彼の背中に向かって祈り続けてくださるイエスさまをふり返えらなかったことでした。一度でもふり返えれば、そこに祈り続けているイエスさまを見ることができたでしょう。
「永遠の命を得る」とは、そのイエスさまの愛と慈しみにより頼んで生きることでした。それこそが、たったひとつ欠けているものでした。
そして、それだけがわたしたちに求められていること、大切な、たったひとつのことなのです。
最後に、相田みつをの「その人」という詩をご紹介して、今日のメッセージを閉じたいと思います。
その人の前に出ると
絶対にうそが言えない
そういう人を持つといい
その人の顔を見ていると
絶対にごまかしが言えない
そういう人を持つといい
その人の目を見ていると
心にもないお世辞や
世間的なお愛想は言えなくなる
そういう人を持つといい
その人の眼には
どんな巧妙なカラクリも通じない
その人の眼に通じるものは
ただほんとうのことだけ
そういう人を持つがいい
その人といるだけで
身も心も洗われる
そういう人を持つがいい
人間にはあまりにも
うそやごまかしが多いから
一生に一人は
ごまかしの利かぬ人を持つがいい
一生に一人でいい
そういう人を持つといい
「その人」こそ、わたしたちの待ち望む、御子イエス・キリストです。