≪説教≫
■目をそらさず
クリスマス、おめでとうございます。わたしたちは今日、救い主イエス・キリストがこの世に来られたことを、救いが今ここにもたらされていることを、心から喜び、祝いたいと思います。
でも、ちょっと待ってください。御子イエスがお生まれになった場所はどこだったでしょうか。ヨセフとマリアには休む場所もなく、イエスさまがお生まれになったのも家畜の匂いのこもる小屋の中、飼い葉桶のわらの中でした。人として最も小さく最も弱い赤ん坊として生まれ、王に命を狙われて逃げるしかなかったイエスさま。いったいどこに救いがあると言うのでしょうか。
そして今、わたしたちが目にしている現実は、わたしたちを取り巻く世界はどうでしょうか。救いが今ここにもたらされていると言えるでしょうか。世間の世知辛さ、人生の悲しさ、人の罪深い姿は、今も、昔も変わりません。わたしたちの人生は、困難と苦痛、悲しみと悩み、不安と危険に満ちています。何よりも、わたしたち自身の罪も尽きることがありません。日々、テレビから流れる悲惨なニュースに心を痛めつつ、しかしそこにわたしたち自身の姿を、罪を見ないわけにはいきません。
そんなこの世の中に、それでも、わたしたちが救いと平安を見出すことのできる場所がたったひとつだけある、と聖書は教えます。それは「主の御腕」の中、神様のみもとです。イザヤ書59章16節から17節、
「主の救いは主の御腕により/主を支えるのは主の恵みの御業。主は恵みの御業を鎧としてまとい/救いを兜としてかぶり、報復を衣としてまとい/熱情を上着として身を包まれた」
「熱情」とは、嫉(ねた)むほどの激しい愛をもってわたしたちに関わり続けくださる、神様の執拗な愛のことです。なぜ、神様はそれほどまでにわたしたちのことを愛してくださるのか。それは、生みの親だからです。わたしたちのいのちは自分で手に入れたものではありません。与えられたもの、神様が与えてくださったものです。そのいのちゆえに神様はどこまでも愛してくださるのです。わたしたちが身を寄せさえすれば、神様はわたしたちに平安と恵みを与えてくださいます。それはちょうど、太陽が昇れば必ず光が差し込んで、すべてのものを暖かくしてくれるようなものです。
もちろん、神様のみもとに身を寄せたら、罪の現実、この世での苦難、悪の誘惑、悲しみや死がなくなるというのではありません。それでも、みもとに身を寄せれば、たとえ邪悪なものや危険なことに見舞われても、それから目をそらすことなく、謙虚さと平静さを保ち、それぞれに為すべきことを為すことができます。神様がいつもそばにいてくださるので、邪悪で危険な世の中をも平安の内に歩むことのできる、そう信じるからです。
■救いの約束
とはいえ、そんな神様の御腕の中にあることをわたしたちはすぐに忘れてしまいます。イザヤの時代を生きた人々もそうでした。そんな人々の姿を見て、イザヤ書の16節、「主は人ひとりいないのを見/執り成す人がいないのを驚かれ…あやしまれ」た、とあります。
わたしたち人間が自分で自分を救うことなどできません。できるとすれば、それを救いとは呼ばないでしょう。救われない、もはや永遠の滅亡へと向かって行くしかない、そんな時に神様は「人間の中からだれか目覚め、起きてきて、わたしの前にその苦悩を訴えるならば、わたしはそれを聞こう」と言われました。しかし、そういう人は一人としていませんでした。
神様はついに、ご自身が人となってこの世界に来て、神と人との間に仲立ちとなり、わたしたちに救いをもたらそう、と決心されました。それが、先ほどの16節から17節の言葉です。それは、神の御子が、神と人との仲立ちとして、救い主として、この世界においでになるという預言、約束の言葉でした。
それから750年後、救い主としてこの世に来られた御子イエスが、このイザヤの預言を引用されながら、人々に語りかけられます。マタイによる福音書13章53節から54節です、
「イエスはこれらのたとえを語り終えると、そこを去り、 故郷にお帰りになった。会堂で教えておられると…」
マタイは「会堂で教えておられると」とだけ記していますが、ルカ福音書は、その時の様子を詳しく書いています。イエスさまは、礼拝を司っていた会堂長からイザヤ書の巻物を手渡されると、ある言葉に目を留め、よく響く声で読まれました。
「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである」(ルカ4:18)
「油を注ぐ」とは、メシア、救い主キリストとされることを意味します。イエスさまは「父なる神はわたしに油を注がれ、救い主としてこの世界にお送りになった」と言われます。そして続けて、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と告げられます。さきほどのイザヤ書59章20節、「主は贖う者として、シオンに来られる。ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに来ると/主は言われる」という神様の約束の通り、御子イエスがやって来て、救いの約束が「今日…実現した」、そう宣言されたのでした。まさによき知らせ、福音です。
■分かってるつもり
しかし人々は、その福音を聞いても聞きません。一体誰が、その驚くべき言葉を、そのままに受け入れることができるでしょうか。マタイは、イエスさまの言葉を聞いたナザレの人々が「驚いた」と書いています。そして続けて、あっけにとられ、驚き、感心したはずのその人々が結局のところ、「イエスにつまずいた」と記します。
なぜ、つまずいたのでしょうか。人々の言葉の初めと終わりに同じ言葉が出てきます。54節「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう」。56節「この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう」。どちらもが、この人にどうしてこんな力ある言葉と業とがもたらされたのか。どこから来たのか。いったい誰からか。そう問いながら、この人たちは自分の周りだけを見回し、自分たちの狭い経験だけに基づいて、事を判断し、納得しようとします。
人は、この目に見え、この手で触れることのできるものだけを確かなもの敏、それだけを頼りにし、それだけで分かったようなつもりになっています。しかし実は、本当に大切なものは、目で見ることも、手で触れることもできません。わたしたちの心は、愛は、いのちはどうでしょうか。どれも、見ることも触れることもできません。でも、その見ることも触れることもできないものが最も大切なものであることを、わたしたちは人生を歩む中で実感します。それなのに、わたしたちは見えないもの、触れることのできないものを、不確かで怪しげなものとして人生の脇に置いてしまいます。
このときも同じでした。ナザレの村人たちは、「イエスという人」をよく知っていました。「この人は大工の息子ではないか」。そのとおりです。「母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか」。そのとおりです!「姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか」。まさしくそのとおりなのです!
そのため、彼らはイエスさまのことを理解できませんでした。
知らなかったからではなく、知っていたから、「知っているつもり」「分かってるつもり」だったから、つまずきが起こったのでした。
ナザレの村人が不信仰だったというのではありません。ここで起こっていることは、誰にでも起こりうることです。
この世界のどこも、神様に属さないところはありません。どこにでも神様はおられ、神様は住まわれます。それなのに、そこを「自分のものだ」「よく知っている」とわたしたちが占拠し、神様が入って来ることを許さないのです。自分に囚われて拒むのです。与えられたいのちゆえにあるがままに愛してくださっていることも、変わることのない救いの約束を受け入れることもできません。そのために、苦しみと悲しみ、不安と恐れ、孤独と絶望に囚われ続けていることに気がつきません。
■暗闇のクリスマス
そんなつまずき、囚われの中にあった一人の女性が、神様の愛を目の当たりにし、イエスさまの暖かさに触れ、それまでとは全く違う、新しい人生を歩み始めた、驚くべき恵みの物語をご紹介いたしましょう。日本から見ると地球の真反対にあるブラジルの、真夏のクリスマス物語です。
クリスマス・イヴのことでした。すっかり夜も更け、さきほどまで大勢の人がいたのに今は誰一人いません。静寂に包まれた広場の中央には、プレゼピオと呼ばれるキリスト誕生の場面をあらわす馬小屋が組み立てられていました。プレゼピオの照明がその辺りだけを、まるで光の島のように照らしています。
と、階段の陰のくぼみから小さな影があらわれました。用心深く、まるで巣から出てきた小さいネズミのようにあたりの様子を伺うと、合図を送ります。すると何人もの子どもたちが隠れ家から出てきました。家に食べるものも居場所もない、道端で暮らすほかないストリートチルドレンと呼ばれる子どもたち。一番小さい子は二歳の男の子、一番年上の十三歳くらいのあどけない少女は妊娠しているようでした。
ある夜、物乞いの女の人が寝ているベンチのそばを通りすぎようとしたときのこと。
「人形たちを見にいきましょうよ」
いつものように、一人の女の子が小声でさそいます。みんな、光の島へ近寄りました。
「なんでこんなものをここに作ったのかなあ。どういう話だったか覚えていないなあ」
プレゼピオの人形たちを眺めながら、男の子が言います。
「ドーダおばさんが知ってるかもしれないわ。ねえ、きいてみましょうよ。大人だから、きっと知ってるわよ」
女の子が口をはさみました。
「ねえねえ、ドーダおばさん、こっちに来てよ。ほら見て、ドーダおばさん。この人形たちの話、知ってるでしょう」
ゼゼという活発な女の子がたずねました。
「知らないね、なにも。あたしのことはほっといておくれよ」
ドーダはつぶやきます。
「知ってるんだろう、教えてくれよ。なんでこんな見世物をここに作ったんだい?」
ボカという名前の男の子がしつこくたずねます。
「知らないよ。知りたくもないし、知ってる人たちが憎らしいね!」
ドーダは叫びました。
でも、ドーダは覚えていました。子どもたちに手伝わせて、毎年、自分の家の居間でプレゼピオを組み立てていたのですから。それはもう、みんなすっかり夢中になっていたわ。家の中にはクリスマスクッキーのおいしそうな香りがただよい、オーブンの中では七面鳥が焼かれ、冷蔵庫にはプディングが入っていた…。ドーダの曇った目の前に鮮やかによみがえったのは、両腕に溢れるばかりのプレゼントの包みをかかえ、満面に笑みをたたえて帰宅した夫の姿でした。
でも、この思い出にはまだ続きがありました。それからしばらくしたころ、夫が心ここにあらずという様子で家庭をかえりみなくなり、不機嫌になりました。日ごとに帰宅時間が遅くなり、お金もきちんと入れてくれません。そのことを言うと見えすいた言いわけで、はぐらかすだけです。言い合いが始まり、夫婦喧嘩は日増しに激しくなり、暴力にまで発展。子どもたちはおびえるばかりでした。
そしてついに、ドーダのほうが負けてしまいました。妻としても母としても失格。もう坂道を転げ落ちるようでした。最初はアルコールのお陰で助かっていた部分もありました。はずかしめに耐える勇気を与えてくれ、絶望をまぎらわし、痛みを和らげてくれて…。でも事態が一変します。夫が妻を完全に見棄てたのです。家庭裁判所の裁判官はドーダから子どもたちをとりあげました。友だちも親戚も去っていきました。「サンドラ夫人」は完全に姿を消し、ドーダと呼ばれる名無しの物乞いの女が残りました。広場のベンチがドーダの家になり、口にするのは酒に変わりました。
広場の子どもたちの輪から、なんとか抜け出そうとドーダはもがきます。そして頭をあげた拍子に、馬小屋の屋根にとりつけられた天使とちょうど真正面から向き合う形になりました。
天使は両手を広げ、やさしさをたたえたまなざしでドーダにほほ笑みかけています。思わず目をそむけました。すると今度はイエスさまがドーダを招いているではありませんか。ぷくぷくと太ったかわいらしい腕をさしのべて…。
いったい、わたしにどうしろっていうの?天使もイエスさまも、わたしとは別世界の存在。それぞれのいるべき場所にきちんと形よくおかれ、美しく、光をいっぱい浴びている…。それにひきかえ、このわたしはどんな世界に住んでいるの?汚れきった暗闇の世界…。
とそのとき、ひとつの聖書のことばが頭にひらめきました。
「暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た」(マタイ4:16改)
目の前で天使は両手を広げ、ほほ笑みを投げかけ続けています。ドーダの目に涙がいっぱいにあふれました。目がかすんで、ふらふらっとしたとたんにつまずき、ドーダはそのまま地面に座り込んでしまいました。子どもたちもドーダを取り囲んで座ります。ドーダおばさんがなぜ泣いているのか、子どもたちには分かりません。でも、世の中には苦しいことがいっぱいあることを骨身にしみて感じている子どもたちは、辛抱強く待ち続けます。泣けるだけ泣いて涙も枯れたのでしょう。ふうっとため息をつくと、ドーダは話し始めました。
「むかしむかし、ずっとむかし、ナザレの町に、マリアという名のひとりの娘が住んでいました…」
消え入るような細い声で話しはじめたドーダでしたが、語り続けるうちにやがてその声はしっかりと確信に満ちたものへと変わっていったのでした。
わたしたちは、これまでに二千回ものクリスマスを迎えてきました。二千回も、です!これはすごい数です。しかし、毎年やって来るクリスマスを、本当に新たな感動と喜びを持って迎えることは、わたしたちが思っているほど簡単なことではありません。ときどき、クリスマスは四年か五年に一度祝うことにした方がよいのではないか、とさえ思うことがあるほどです。
二千回のクリスマス。しかしまた視点を換えるなら、「たった二千回」にすぎない、とも言えるのかもしれません。わたしたちが愛されていると告げる福音のすばらしさ、御子イエス・キリストとの出会いのもたらす喜びと驚き、平安と衝撃は、たかが二千回くらいで汲み尽くせるものではありません。
わたしたちの限られた知恵と経験によって、神様の愛を遮ることなく、今年も、変わることのない神様の恵み、限りなく豊かな驚くべき恵みを素直に味わいたい、発見したい、本当の意味で知りたい、そう願わずにはおれません。