≪説教≫
■「できます」
「イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた」
ヘルモン山の麓でペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白して以来、イエスさまがご自分の身に起こる十字架と復活の出来事を語られるのは、これが三度目のことでした。これまでは、ただ「殺される」と言っていたのに対し、今回は、十字架につけられ、神に呪われた罪人として辱められ、鞭打たれ、殺される。そして最後に「人の子は三日目に復活する」と、強く、はっきりとした口調で告げられます。
重く心を覆う不吉な予感のために、誰もが息を潜めるようにして口を閉ざす外なかったそのとき、イエスさまの傍らに、ゼベダイの子ヤコブとヨハネ、そしてその母親が近づき、ひれ伏します。
ヤコブとヨハネの二人はイエスさまに招かれて弟子となり、その後、ずっとイエスさまと共に歩んできました。ペトロと一緒にヘルモン山の頂にも登り、イエスさまの姿が変えられたあの天の国の輝きを垣間見ることもできました。彼らは、十二弟子の中でも最もイエスさまの傍近くにいる兄弟でした。
二人の母親が「何かを願おうとした」とあります。ためらいを感じます。なかなか言い出せません。あまりにも厚かましく、恥ずかしく感じていたのかもしれません。すると、イエスさまの方から尋ねてくださいます。
「何が望みですか」
そこで初めて母親が口を開きます。
「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」
イエスさまの両側に、栄光の座に座ることができるように…。「子どものためならば…」、そんな母親の姿です。
とはいえ、意外に思われるかもしれません。このときイエスさまは、ご自分の定めもその意味もまったく「分かっていない」母親を、またヤコブとヨハネを叱ることも、怒られることも一切なさいません。ただ、「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」と問い返されるだけです。
イエスさまの言われる「杯」とは何でしょうか。それは「苦い杯」のことです。最後の晩餐の後、イエスさまは、祈るためにペトロとゼベダイの子二人だけをゲッセマネに伴われます。「そのとき、[イエスは]悲しみもだえ始められ」、「うつ伏せになり…『父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに』」と祈ったと記されています(26:36-38)。「杯」とは、これから受けることになる十字架の苦しみのことです。
「わたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」というこの問いかけは、「神の怒りに触れることができるか。神の怒りを身に受けて苦しむことができるか」という意味でした。神様の怒りに触れれば、ひとたまりもなく吹き飛んでしまう外ないわたしたちのための十字架の死を語っておられるのです。「あなたがたは本当に、このわたしと支配を共にしたいと願うのか。それは素晴らしいことだ。でも、そのことがいったい何を意味しているのかを分かっているのか。わたしと同じように死ねるのか」。そう言われたのです。
その問いかけに二人は、「できます」と答えます。
この答えには、彼らなりの覚悟が込められていたことでしょう。しかし、その意味するところを理解していませんでした。その証拠に、イエスさまが実際に杯をお飲みになった時、彼らは仲間の弟子たちと一緒に一目散に逃げてしまいました。そして皮肉にも、最後のその時、イエスさまの十字架の右側と左側にいたのは、彼らゼベダイの子たちではなく、二人の強盗でした。ここにいた十二人の弟子たちの誰ひとり、イエスさまの「杯」を飲むことができませんでした。
それでも、イエスさまは「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲むことになる」と言われます。今、あなたはわかっていない。でも、わたしにつながれたあなたは、わたしの道を歩み、わたしと同じものにあずかることになるだろう…イエスさまのそんな愛のまなざしが二人の弟子たちの上に、そしてわたしたちの上にも注がれているようです。
■真面目な信仰者
思えば、二人の母親が息子たちの地位と栄光を願っているその様子は、我が身を見るような思いにさせられます。彼らは、もうすぐイエスさまがエルサレムで王になられるだと期待しています。十字架と復活の言葉を、そう理解しています。それが正しい理解ではないとしても、ただ不安と恐れに囚われているばかりの他の弟子たちとは違って、イエスさまへの信頼を心に固く抱いていることだけは確かです。その時にはどうぞ、二人を王であるあなたの右と左の輝かしい地位につけてください。ヤコブとヨハネの、何よりもその母親の願いは、誰もが抱く思いです。救い主イエスの傍らにいたい、その勝利と栄光にあずかりたい。わたしたちがイエスさまを信じて従っていくことの根っこにある願いはこれではないでしょうか。
信仰に入るきっかけや具体的な動機はみな、それぞれです。悩みや苦しみからの救いを求めていく中で神様と出会い、信仰を与えられる人もいます。自分の醜さや弱さに嫌気がさして、あるいは人生の虚しさを感じて、そこからの救いを求めていく中で信仰を得る人もいます。そういう明確な動機はなしに、家族や友人やその他の誰かに連れられて教会に来て、礼拝を守っているうちに、何となく自分も神様を信じる思いを与えられたという人もいるでしょう。そのようにきっかけや動機は様々ですが、わたしたちが信仰を持って生きようと決心する時に思うことは、自分の人生を、日々の生活を、信仰によってより充実したもの、平安と慰めのあるものとしたい、暗い日々を明るくしたい、前向きな思いで生きたいということではないでしょうか。つまり、わたしたちはみな、イエスさまと共にあって、その勝利と栄光にあずかりたいと願って、信じる者になります。
そして、信じる者となったわたしたちは、イエスさまによる救いの恵みを身に帯び、その栄光を映し出す者として生きようと努力します。そこにいろいろな苦しみが伴うということは誰にもすぐに分かります。その苦しみを背負って忍耐しつつ、頑張って努力していくことによってこそ、イエスさまの勝利と栄光にあずかることができる、その右と左に座ることができる、そんな立派な信仰者を目指して歩もうとします。苦しみと死とが待ち受けるエルサレムへと向かうイエスさまに、それでも弟子たちが従って行こうとしているのは、そういう思いによってでしょう。ヤコブとヨハネが「この杯を飲むことができるか」と問われて「できます」と答えたのも、そういう思いからでしょう。
彼らは、単に早い者勝ちで良い席をキープしておこうとしているのではありません。頑張って努力してイエスさまに従って行くことによって、栄光にあずかろうとしています。何の努力もせずに、ちゃっかりうまくやろうとしているのではなく、苦しみを引き受け、頑張って努力しようとしているのです。
この二人は真面目な信仰者です。自分はそんなに真面目な信仰者として生きていないと思っている人もおられることでしょう。しかし、自分ができているかどうかはともかく、わたしたちは信仰をもって生きるためには、苦しみをも耐え忍んで従って行く真面目さが必要であって、そのようにしてイエスさまの栄光にあずかることを求めていくべきだ、と思ってはいないでしょうか。ヤコブとヨハネが願っていることを、わたしたちも心の中で願っています。
今、イエスさまは、苦しみをも耐え忍んで従って行く真面目さによって、栄光にあずかろうとしている彼らに、それはあなたがたには不可能だし、そのようなことを求めること自体が間違っているのだ、ということを示そうとしておられるのです。
■恵みの中を生きる
彼らの願っていること自体が間違っていることは、他の十人の弟子たちが腹を立てたことによっても示されます。栄光を受けるイエスさまの右と左に座ろうとする彼らの願いは、苦しみをも耐え忍んで努力してイエスさまの栄光にあずかろうとする真面目な思いでしたが、それは結局、他の弟子たちよりも偉くなろう、上に立とうとする、つまり、人間の間での序列を競うようなことを生み、他の人たちとの交わりを破壊する思いなのです。そして、他の弟子たちが腹を立てたということは、他の弟子たちも彼らと同じように、お互いの序列を競う思いを抱いていたことを示しています。イエスさまはそのようにお互いに対して腹を立てている弟子たちを呼び寄せて語りかけておられます。
「あなたがたが抱いている思い、自分の頑張りによってイエスさまの栄光にあずかろうとする思いは結局のところ、偉い人が他の人々に権力を振るっていくような、誰かが上に立って他の人を支配するような関係を生んでいく。それはまことの神を知らない異邦人と同じあり方だ。わたしの弟子であるあなたがたの交わりは、それとは違うものであるはずだ」
そして、イエスさまがお命じになったのは、「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」ということでした。
これは、皆に仕える者となり、すべての人の僕となる人こそが、一番高い地位に就くことができる、ということではありません。そうではなく、むしろそのような思いを捨てて、仕える者、僕となりなさいと言われます。そしてその根拠、土台となっているのが、最後の二八節の言葉です。
「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」
これも間違えてはなりません。だからあなたがたも、イエスさまに倣って仕える者、人々の僕となりなさい、そうすれば救いにあずかることができる、と言っているのではありません。それだったら結局、誰が一番イエスさまと同じように人々に仕えているか、僕となって生きているかという話になり、やはりお互いの序列を競い合うようなことになります。
そうではなくて、イエスさまが十字架にかかって死んでくださることによってわたしたちに仕えてくださったことによって、わたしたちは罪を赦され、イエスさまのいのちという身代金によって罪の支配から解放された、その恵みの中で生きることが大切なのだということです。
救いの恵みは、わたしたちの努力や、苦しみをも耐え忍んで頑張って従って行く、真面目さによって得られるのではありません。わたしたちは皆、威勢のいいことを言っていても結局、イエスさまの飲む杯を飲むことができない者です。そのような弟子たちのために、イエスさまは一人で苦い杯を飲んでくださったのです。罪人であるわたしたちに仕え、わたしたちの罪が赦されるために身代金としてご自分のいのちを献げてくださったのです。わたしたちはその救いの恵みを、ただいただくことしかできません。そのことを認めて、その恵みをいただくことが大切なのです。
教会の幼稚園で卒園式がありました。たくさんのお母さま、お父さま、ご家族の方が集まってくださいました。式の中で、「大きくなったら…」という題で子どもたちが書いてくれたその夢の一つひとつをご紹介します。ふと見れば、どの親御さんも目に涙を浮かべて、眩しそうに子どもたちのことを見つめています。小さな赤ん坊だったころから今までのことを思い出されていたのかもしれません。
子どもに仕える者こそ、親です。子どもが何を必要としているか、今どうして欲しいのかを正確に受けとめて、共感し、仕える。一番大切な存在ですから、当然そうする。その意味で、この世の究極の奉仕の姿は親が子に仕える姿そのものです。
であるならば、本当の、まことの親である神様は、それ以上であるはずです。神様は、神の子どもであるわが子の心の叫びとか、必要とか、痛みとか、それに共感して、それをわがことのように思って仕えていてくださっている。神様が仕えてくださるのです。
イエスさまの十字架とは、そのような神の奉仕の極みです。その奉仕の中で初めて、わたしたちは安心して生きることができ、互いに仕え合えることができます。そしてそれこそが、神様に仕えるということになるのではないでしょうか。
天の父の計らいを、わたしたちは誰一人として理解できません。しかし、そんなこともおかまいなしに、神様はなすべきことを神ご自身の喜びとして、なしてくださる。ヘブライ人への手紙にこうあります。「神の子イエスはわたしたちの弱さに同情できない方ではなく、あらゆる点において、わたしたちと同様に、試練に遭われたのです」。神様がそうなさっている、それがイエスさまの生涯のすべてであり、それは十字架に極まるのです。
イエスさまは弟子たちに、「あなたたちはわたしが飲む杯を飲むことになるだろう」と言われましたが、これは「これから辛いことがあって大変だよ」と、ただ予告しているのではありません。「その苦しみの杯を飲む時、すべての苦しむ人との共感がそこにあふれ、あなたは救われ、この世界は憐れみに満ちた神の国になっていく。まずわたしがその苦しみの杯を飲み、すべての苦しみを栄光に変えるから、共に十字架を負い、共に復活しよう」と励ましてくださっているのです。
ありがたいことです。自分も、相手のことをわがことのように思える者でありたいと心から願います。皆が仕え、皆が愛をもって、人に喜んでいただく道を生きる。そのときにも、イエスさまは、わたしたちの愚かな歩みを、過ちを犯す歩みを、愛をもって、いつも赦しながら、支え、慰めていてくださるに違いあません。