「御国が来ますように」。原文では、一度限りの決定的なことが来ますように、といったニュアンスの言葉です。決定的に来るように、そう求めていることとは何か。「御国」です。直訳すれば「あなたの国」、神の国、天の国ということです。死後の世界や天上の場所や空間を想像しがちですが、そうではありません。イエスは「神の国は見える形ではやってこない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に神の国はあなたがたの間にあるのだ」と言われました。神の国とは、どこか遠くの別世界のことでもなく、国土や国家といったものでもなく、今ここにあるものです。そしてそれは、この後に続く祈り、願いの中に示されます。「御心が行われますように」。「あなたの意志が表されますように」です。「神の願い、神の意志」が表される所、それが神の国です。神が願いをもって支配しておられる、今ここにある世界のことです。
とすれば、支配されるその神がどのような方、どのような願いを持つ方であるのかが重要です。恐怖の対象のような神もいれば、物言わぬ神や非人格的な神もいます。暴君のような神も存在するでしょう。イエスは今ここで、「あなたの国」と祈るようと教えられます。「アッバ、父よ」と呼びかけるような親密な関係の中で、神に「あなた」と語りかけます。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じ」だからです。暴力を振るう父をもった人には、父は恐ろしい存在でしょう。しかし父とは、子どもにとって何が必要かを知り、それを与え、守り、導く存在のはずです。父なる神は、子であるわたしたちにとって、神の国こそが必要なものであることをよくよくご存じだからこそ、イエス・キリストの十字架を通して、すべての人に必要不可欠なもの―「救い」を与えてくださったのです。「願う前から」です。何の条件も必要ありません。贈り物・プレゼントとして、無償でくださいます。無償というのですから、すべての人に開かれています。神の国とは、ただ一方的に与えられる恵みと愛が支配するところ、神の愛の御手が働くところです。たとえ、どんなにだめな人間、どうしようもない人間だとしても、いえであればなおのこと、神は救いと赦しの手を伸ばし、御国を来らせてくださいます。神の愛の御手が差し出されています。
だからこそ「御国が来ますように」なのです。わたしたちが御国に行くことを祈り願うのではありません。御国が地獄のように思えるこの世界に来るようにと祈るのです。「天におけるように地の上にも」と祈ることができるのです。なぜか。それが「御心」、神の願い、神の意志だからです。
この世にはまだ御心が行われていません。しかし御心が完全に行われているところがあります。天です。御心が天で、わたしたちの見えないところで行われているから、この世で御心が行われていなくとも、絶望しません。天において御心が行われているということが、この祈りを祈ることができる、確かな土台、根拠であり、また大きな励ましです。そもそも、イエスはどこからどこに来られたのか。天から地に、です。これこそ決定的なことです。「神の国は近づいた」と宣言されたイエス・キリストにおいて、この世に御心が始められ、天がこの世に突入してきたのです。天から来られたイエス・キリストがおられるところに、御心は行われ、救いは及ぶのです。だからこそ、「御心が行われますように」と祈ります、祈ることができます。この恵みを感謝いたしましょう。