福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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2月12日 ≪降誕節第8主日礼拝≫『沈黙する神の御子』マタイによる福音書27章11~26節 沖村裕史 牧師

2月12日 ≪降誕節第8主日礼拝≫『沈黙する神の御子』マタイによる福音書27章11~26節 沖村裕史 牧師

 

■ピラトの名

 わたしたちの教会では、毎週の礼拝で使徒信条を告白しています。使徒信条はもともと、洗礼(バプテスマ)を受けるために必要な、最低限のキリスト教信仰を手短にまとめたものでした。それがプロテスタントもカトリックも、すべての教会が告白する基本信条となりました。

 その中に、「主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、…」とあります。全文わずかに270字足らずの、短いこの信条の中に、イエス・キリスト以外の人物の名前がふたつ出てきます。ひとつは母マリア、そしてもうひとつはポンテオ・ピラト。マリアはともかく、どうしてポンテオ・ピラトの名前が出てくるのか、思わず首をひねられるかも知れません。なぜ、ピラトの名前がこの大切な信仰告白の中に登場してくるのでしょうか。

 それは、ピラトがイエスさまを死に定める裁きをした、からでした。

 

■すべての人々

 しかし、イエスさまが十字架につけられて殺されることになったのは、ピラトひとりの責任だったのでしょうか。いえむしろ、ピラトはわたしたちの代表であった、と言うべきではないでしょうか。

 このとき、イエスさまは最高法院の法廷に引き出され、ユダヤの指導者たちの裁きを受け、死罪に相当するという判決が、すでに下されていました。ただ、自分たちの手で死刑執行をすることは許されていませんでした。彼らは、ローマの権力による死刑執行を、それも最も残酷で恥ずべき十字架による刑死を求めるために、ピラトのところにイエスさまを連れて来ました。

 「さて、イエスは総督の前に立たれた」

 裁判が始まりました。イエスさまはユダヤ総督の前に、ただひとり立たされます。

 当時、強固な宗教心を持ったユダヤの人々を統治する総督の仕事は実に困難で、厄介なものだと考えられていました。逆を言えば、その総督に任命されたピラトには、それ相応の政治的力量もあり、また野心家でもあったということでしょう。そんな百戦錬磨のピラトの目に、この事件はユダヤ人の「ねたみ」によって引き起こされたもので、取り立てて国事犯として裁くほどの事件ではない、そう映っていました。ピラトはイエスという男を、最高法院が望むような死刑にすることを望んでいませんでした。

 それでもユダヤ人指導者たちを蔑(ないがし)ろにし、その気持ちをわざわざ逆撫でするような取り扱いをすることも、政策上避けなくてはなりません。そこで一計を案じます。過越の祭りの時に毎年、罪人をひとり赦す慣例があったことを思い出し、もうひとり、人々が死刑を求めるに違いない「評判の囚人」バラバ・イエスを並べて、どっちを釈放するか、と群衆に尋ねました。ほんの数日前、エルサレムに入城されたイエスさま一行を歓呼の声で迎えた人々です。当然、「メシアといわれるイエス」—キリスト・イエスの釈放を求めるだろうと考えました。

 しかし、この思惑は完全に外れます。

 祭司長や長老たちが、イエスの死刑を求めるよう、あらかじめ群衆に根回しをしていたのです。ピラトが、どちらを釈放して欲しいかと尋ねたとき、人々は「バラバを釈放してほしい」、つまりイエスを裁きにつけろと答えます。驚いたピラトが、「では、メシア[、キリスト]といわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と尋ねると、再び「十字架につけろ」と言います。ことの推移にますます驚いたピラトが、イエスというこの人が「いったいどんな悪事を働いたのか」とさらに尋ねます。しかし、群衆はますます激しく叫び続けました。「十字架につけろ」と。

 まるで、ラインやツイッターといったSNSがらみで最近よく耳にする「炎上」のようです。何かの行為や発言が人々の目に触れ、それに引っ掛かりを感じた人々が、それをした人や、発言した人に向かって集中砲火を浴びせます。結果、その人を追いつめ、死に至らせる事件にまで発展してしまうことさえあります。

 「十字架につけろ!十字架につけろ!」の大合唱。群衆の中には、「それは違う!」と思う人もいたかも知れません。ピラトもそうでした。でも何も言わなかった。いや言えなかったのです。だから責任はなかった、と言えるでしょうか。言えないでしょう。ペトロやユダ、弟子たちは裏切り、逃げ出してしまっていました。ユダヤの指導者たちはもちろん、群衆たちも、そしてピラトも、ここにいたすべての人が、イエスさまの十字架による死を求め、イエスさまを裁きました。

 「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」という言葉を唱える時、わたしたちはこの事実を忘れてはなりません。誰もがイエスさまを死に定めたのです。

 

■予想外の沈黙

 なぜ、こんなことになってしまったのでしょうか。

 イエスさまが「どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った」と記される14節の言葉に、注目していだきたいと思います。「不思議に思った」とは「驚いた」と訳すことのできる言葉です。なぜピラトは驚いたのでしょうか。

 ピラトからの「お前がユダヤ人の王なのか」という問いかけに対してひと言、「それは、あなたが言っていることです」と答えられたきり、どんなに祭司長や長老たちから告発の言葉を浴びせかけられても、イエスさまが何もお答えにならなかったからです。この後(あと)も、十字架の上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と言われるその時まで、ひと言も口を開かれませんでした。イエスさまの「沈黙」にピラトは驚きました。

 人が驚くのは、予想外のこと、思ってもみなかったことが起こったときです。ピラトにとって、何が予想外のことだったのでしょうか。

 ピラトは今、裁判官として裁判に臨んでいました。裁判は人が人を訴えるところから始まります。そこには必ず、原告と被告がいます。原告は正義を主張します。この人はこんな悪いことをしている、こんな間違ったことをしている、正義の名によって裁いてほしい、そう訴えます。訴えられた人は、むしろ訴えた相手が不当だと反論し、それこそ全力で、わたしは無罪であるとか、責任がないとか、自分の正義を主張しなければなりません。多少自分の責任、自分の罪を認めなければならないことがあったとしても、必死に弁解します。この人が言うほどひどいことをした覚えはない、やったとしても、こういう理由があったのだから、やむを得ないことであった、「裁判官、正義の名をもって自分の立場を理解していただきたい」と弁明をします。それが裁判、審理の場所での常識です。

 ところが、イエスさまは全く弁明をされません。弁明どころか、ひと言も話されません。裁かれるが儘(まま)です。ピラトが見ていても、この男がどうして死罪に値するのかわからない、自分で弁明をする理由は十分にあるだろうに、そう思えるのに、沈黙を守り続けているイエスという人に、ピラトは驚きます。そこにいたすべての人々からその罪を裁かれている中で、ただ独り、その裁きを黙々と受けている人がいる。ピラトは驚きました。

 

■「裁く」とは…

 そもそも人は、なぜ人を裁くのでしょうか。ここにいたすべての人がイエスさまを裁いたのは、なぜでしょうか。

 それはもちろん、自分に正義があると思っているからです。正義の名において訴え、正義の名において裁くのです。場合によっては、正義を口実に用いるということもあります。正義を口実に用いてでも、裁こうとするのです。

 なぜでしょうか。裁くことによって退けたいと思うからです。裁くことによって罪に定める。罪に定めることによって相手を拒否する、否定する。そうすることで相手を支配しようとする。自分の思い通りにしようとするのです。

 「裁く」とは、正義・不正義を越えて、わたしたちのエゴの現われそのものです。言い換えれば、わたしたちの望み通りの王を、自分に都合のよい支配を望むのです。それ以外の王も、それ以外の支配も望みません。つまり自分が王になりたいという思いの現れです。そのように裁くことによって、わたしたちはようやく自分が自分であることを保つことができるのです。

 あの人はともかく、自分はそんなことはないと思っている人こそ、裁きの罪に陥っていると言うことができるでしょう。わたしたちはいつも、大小さまざまに人を裁いています。裁かないと生きていかれないようにさえ思っています。「あいつは馬鹿だ」と言うのも、すでに裁きの始まりです。「あの人はおかしい」と言うことも、裁きの始まりです。そうすることで、自分が馬鹿ではない、おかしくないという自分自身を確かめる確かさと、その確かさに立つ快感を覚え、互いに裁き合っているのです。

 わたしたちが互いに裁き合っているその場所に立たれて、イエスさまが今、裁かれているのです。そこにいた人々は、そしてわたしたちはそのことに気がついているでしょうか。

 

■肯定も否定もせず

 そうです、イエスさまを裁く者が、逆にイエスさまから裁かれているのです。

 イエスさまが、ピラトの尋問に対して肯定も否定もなさらないで、「それは、あなたが言っていることです」とお答えになっただけで、後は、十字架の上での最後の言葉まで沈黙を守り通されたのは、そうすることで、そこにいたすべての人々を、「それは、あなたが言っていることです」というその言葉の前に、裁きの罪の前に立たせようとされているからではないでしょうか。

 ピラトの法廷は、ユダヤ人がイエスさまを政治犯として訴え、ユダヤを支配していた総督がそれを処理する法廷です。政治の世界の権力者としてピラトが「お前がユダヤ人の王なのか」と問うことはごく当たり前のことです。だからこそ、イエスさまはピラトの言葉を否定されませんでした。

 しかし同時にイエスさまは、ただし「それは、あなたが言っていること」、つまり政治の世界にどっぷり浸かって、そういう問題意識でしか物事を考えられない、あなたの言っていること、わたし自身は違います、とピラトの言葉を肯定することもされませんでした。

 イエスさまは、肯定も否定もされず、わたしはそんな見方だけで理解できる者ではありません、と彼の問題意識の外に立っておられるのです。ピラトの理解の外に立って、そこでピラトのために、さらには同じようにイエスさまのことを理解できずにいる祭司や長老たち、群衆のために、そして裏切り逃げ出してしまった弟子たちのために、つまり、もっと広くすべての人間の罪のために、執り成しの業、十字架の道を、誰にも理解されないままに歩んでおられるのです。

 ここにイエスさまの愛が現れています。

 ピラトの間違った考えを、ピラトの立場に立って、できるだけ肯定しながら、その足らざるところ、誤てるところを、身をもって執り成されるイエスさまの広い心を感じます。

 考えてみればわたしたちも、ピラトが政治の世界にどっぷり浸かっていたように、それぞれにどっぷり浸かった世界を生きています。どんなに冷静に、独善的にならないように注意して、客観的に考えたつもりでも、自分の性格や育った境遇、負わされている状況や自分の好み、利害打算や世間体、そういうどっぷり浸かったものから全く離れて、物事を正確にそのままに理解することは、お互い、できない者です。

 そんな限界と歪みに満ちた、それぞれの生き方、それぞれの人生の歩みを否定されるのではなく、一人ひとりの境遇や立場を汲んで、しかしまた全面的に肯定されるのでもなく、誤てるところを十字架で執り成して、よしとしてくださるのです。肯定も否定もせずに、人それぞれを生かす。そういう一人ひとりに届くイエスさまの愛と広さ。それが「それは、あなたが言っていることです」とのひと言だけで、後はただ沈黙されたイエス・キリストの恵みなのではないでしょうか。

 

■執り成しの死

 よく、正しくありなさい、正しい心を持ちなさい、正しい道を歩みなさい、正しい信仰を持ちなさいと言われます。しかし、正しいもの、正しい心、正しい道、正しい信仰、そんなものを持つ必要はないし、そもそもそんなものはありません。みんなが、同じ心、体、人生、信仰を生きる必要など全くありませんし、そんなことなどできるはずもありません。

 金子みすずの言葉「みんな違ってみんないい」を思い出してください。お互い、わたしたちはどっぷり浸かったところに足を取られながら、もがいて生きています。互いを裁き合うのではなく、そういう者同士として「みんな違ってみんないい」と自分を肯定し、人もまた肯定して生きて行くのが、イエス・キリストの執り成しの恵みに生きるものの姿ではないでしょうか。

 そしてその執り成しのためにこそ、ピラトの法廷において、イエスさまは十字架に定められたのでした。イエスさまが救い主であるために、イエスさまは死なねばなりませんでした。しかし、ただ死ねばよいというのではありません。病気で死んでも、交通事故で死んでも、長生し老衰で死んでも駄目です。イエスさまの死は、法廷で裁かれ、死刑を宣告されての死でなくてはなりませんでした。イエスさまが死なれたのは、罪人であるわたしたちが受けるべき神の裁きを、代わって受けられた執り成しの死ですから、その死は裁きの死でなくてはならないからです。イエスさまはわたしたちに代わって、神の裁きを受けられたのです。

 ピラトの法廷は、その神の法廷を指し示しています。その法廷を取り仕切ったのは、ピラトでした。ですから、彼の名は救い主の死を告白するにあたって残さねばなりませんし、事実残ったのでした。ピラトの法廷で、イエスさまは沈黙を守られました。旧約聖書イザヤ53章7節から8節に、こう記されています。

 「苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを」

 イエスさまの沈黙は、このイザヤの言葉が示すように、イエスさまがピラトの法廷を神の法廷と受けとめられていることの証しです。イエスさまはピラトの法廷で、裁きを受けることにおいて、神の裁きを人に代わって受けるという神のご意志に服しておられるのです。この法廷で見落としてはならないことは、その一点です。おそらくピラトならずとも誰がやっても、その法廷は人間の罪深さ丸出しの愚かな法廷になったことでしょう。しかし、ここで大事なことは、神の御子の沈黙、そしてその沈黙において成し遂げられる神の執り成しでした。感謝。