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2月26日 ≪受難節第2主日礼拝≫『引き上げてくださる』出エジプト記2章1~10節 沖村裕史 牧師

2月26日 ≪受難節第2主日礼拝≫『引き上げてくださる』出エジプト記2章1~10節 沖村裕史 牧師

 

■わたしたちの姿

 モーセ誕生の物語は、旧約聖書の中でも最も親しまれている物語の一つとして、多くの人々の心を惹きつけてきました。

 「プリンス・オブ・エジプト」というディズニーのアニメーション映画をご覧になったことがあるでしょうか。ミュージカル仕立てのその物語には、三つのクライマックスがありました。一つは、さきほどお読みいただいたモーセ誕生の物語。二つ目は、成長したモーセが燃える柴の中から語りかける神様に招かれ、自らの使命を示される場面。そして最後のクライマックスは、モーセがエジプトを脱出したヘブライ人―イスラエルの民を導き、二つに割れた海の中を渡る壮大なスケールの場面です。

 今日の御言葉は、その第一のクライマックス。直前に「ファラオは全国民に命じた。『生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。女の子は皆、生かしておけ』」とある1章22節からお読みいただいた方がよかったかもしれません。一人のヘブライ人の男の子の誕生と、その幼な子がいのちを奪おうとする王ファラオの娘によって救い出され、王家の一員として育てられることになる、その経緯を物語る場面です。密かな企(くわだ)てあり、サスペンスあり、思いがけぬ幸運あり…。およそ、物語としてのすべての要素がこの短い場面の中に含まれている、と言ってもよいほどです。しかしこれは、ハッピーエンドで終わる、単なるヒーロー誕生の物語ではありません。この物語の基調となっているは、むしろ、冷酷で残虐なわたしたち人間の「現実」—わたしたちの「姿」のです。

 モーセ誕生の前史に当たるヘブライ人たちの状況が、さきほどの第1章に描かれています。エジプトの王ファラオは、地に満ち、増える続ける奴隷、ヘブライ人たちに不気味な圧力と脅威を感じ、彼らを抑圧するために過酷な重労働を加えました。ところが、この試みは何の効果ももたらさず、ヘブライ人は減るどころか、益々増えるばかりです。ファラオはやむなく、出産に立ち会う助産婦たちに、生まれてくるヘブライ人の男の子すべてを密かに殺害するように、という残虐で陰湿な命令を出します。しかし、いのちの誕生を喜びこそすれ、その小さないのちが奪われることをよしとしない彼女たちは、王には適当に答えつつ、その命令を無視し続けました。

 二度にわたる命令にもかかわらず、ヘブライ人たちに対する弾圧・抑圧政策が思うような成果を上げないばかりか、逆に益々地に満ち増え続けることに苛立ちと恐れさえ感じ始めたファラオは、もはや秘密裡にではなく、あからさまに、エジプトに住むすべての人に向けて「生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。女の子は皆、生かしておけ」と命じます。

 猜疑心が猜疑心を生み、恐れがさらなる恐れを生む。そして暴力がより凄惨な暴力を生みだしていく。ウクライナやイエメン、アフガニスタンやミャンマーでは、2021年から2022年にかけて一万人以上のいのちが奪われています。そうした戦争や地域紛争ばかりではなく、身近な地域社会、職場や学校の中でも、あるいは恋人同士や夫婦の間でも、親子の間にさえ、わたしたちがしばしば目にすることのできる「暴力」「暴力の連鎖」が後を絶ちません。それは、暴力によって相手を支配し、目先の問題を解決してしまおうとする、暗く愚かな、しかし否定することのできない、わたしたち人間の姿です。

 

■いのちの美しさ

 イスラエルたるヘブライ人が滅亡の危機にあるそのとき、何の力も持たない一人の赤ん坊のいのちが、そんな圧倒的な暴力の脅威の前に晒(さら)されます。1節から2節、

 「レビの家の出のある男が同じレビ人の娘をめとった。彼女は身ごもり、男の子を産んだが、その子がかわいかったのを見て、三か月の間隠しておいた」

 モーセは死すべき運命を背負って生れて来ました。しかし、そのような運命から幼な子を救ったのは母親でした。モーセが生れた時、彼女は「その子がかわいかったのを見て」と書かれています。この「かわいい」という言葉は、創世記冒頭に記される、造られたもの一つひとつを「神はこれを見て、良しとされた」とある、あの「良し」と同じ言葉です。喜ばしい、美しい、ふさわしいとも訳すことのできる言葉です。

 ただ単に、自分の子どもを「かわいい」と思った、というのではありません。彼女は今、我が子の中に、神様の目に適(かな)う、かけがえのなさを見いだしています。いのちの危機に直面している、儚(はかな)いいのちを宿命づけられた子どもの中に、いいえ、だからこそと言うべきかもしれません、その幼な子の中に、神様から与えられた、かけがえのない「いのちというものの美しさ」を見出しています。

 モーセの母親が「この子は神によって特別に選ばれた子どもである」とか、「神様のために、将来何か大きな働きをする子どもである」と考えたというのではありません。彼女には、モーセをかくまうことのできるほどの政治的な力も経済的な富もありません。我が子がたとえどのような子どもであろうとも、そして自分たちにどれほどの危険が及ぼうとも、このいのちは神様から与えられたかけがえのないもの。彼女はただそのことに気づかされ、我が子を守ろうとしています。神の創造の御業への確信がモーセのいのちを救った、そう言ってよいでしょう。

 

■いのちへの憐み

 とはいえ、生れたばかりの赤ん坊を人の目に触れず、隠しながら育てることは容易なことではありません。

 人の寝静まった夜中でも、赤ん坊は構わずに泣き出します。赤ん坊にとって、泣くことは生きるための欠くことのできない本能です。癇(かん)に障(さわ)る声で泣いて、わたしたちの注意を促そうとします。おとなしく泣いたのでは、誰も守ってくれません。わたしたちが、子どもが泣いてうるさい、と感じることは自然なことです。それを避けたり、邪魔に感じたり、無理に黙らせようとしてはいけません。弱く、小さな者の切実な叫びはいつも、そのようなものなのかもしれません。居たたまれないほど心に突き刺さるその泣き声は、子どもからの、また小さく、弱くされている者からの、虐げられている者からの、いのちの危機に晒されている者からの、切実なメッセージです。

 それでもどうにかこうにか、三か月の間はモーセを隠しておくことができました。しかしモーセの家族にも、それ以上は隠し通すことができません。母親は、ファラオの命令通り、幼な子モーセをナイル川に流さざるを得ませんでした。しかし、諦めと絶望から流そうとするのではありません。3節から5節です。

 彼女はまず、パピルス製の籠(かご)を手に入れます。それにコールタールと松脂のような樹脂を塗り、幼な子を水から守ることのできる、いわば小舟を作ります。この「籠」も、創世記に出てくる言葉です。神様がノアに「あなたはゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟には小部屋を幾つも造り、内側にも外側にもタールを塗りなさい」と命じられた(6:14)、あの「箱舟」と同じ言葉です。絶望の中で自暴自棄になって、ナイルの川に投げ込んだのではありません。ノアたちを洪水から守られた神様の働きを祈り願いつつ、その籠をナイル川の波間に流すのではなく、岸の葦の茂みの中にそっと置きました。

 姉のミリヤムも、モーセに何が起るのかを、籠から遠く離れて立ち、不安に怯(おび)えながら祈りつつ、じっと見つめ続けていました。

 神様は、母と姉の張り裂けんばかりの悲しみとその祈りに応えられました。そこに、ファラオの娘が水浴びのために下りて来ます。危機は一旦回避されたかのようにも思われますが、ファラオの娘が果たしてその幼な子にどのような反応を示すのか。むしろ不安と緊張はさらに高まります。水浴びをしに来た娘は、「生まれた男の子はすべて殺せ」と命じた当人、王ファラオの娘です。その娘が父親の命令に忠実であることは十分に考えられることです。もしかしたら、子ども嫌いかもしれません。ヘブライ人を嫌っていたら、モーセはナイルの川の中にそのいのちを沈められることになります。姉のミリヤムは、かたずをのんで見守っていました。

 ファラオの娘は、葦の茂みに奇妙な形をした籠があるのに目を留めると、それを侍女に取って来させました。このとき、神様はこの幼な子のためにさらなる御業を示されます。侍女が持ってきた籠を開けてみると、その中に子どもがいました。聖書はそのときの様子を「赤ん坊がおり、しかも男の子で、泣いていた」と記します。かつてアブラハムの侍女ハガルが主人の家を追い出されて、子どもを連れて、ベエルシェバの荒野をさ迷っていたとき、神様は彼女に告げてこう言われました。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた」(創世紀21:17)と。食べるパンも尽き、飲むべき水も絶え、ただ死を待つだけのあわれな母と子を、神様は決してお忘れになっていたのではありませんでした。小さい幼な子の泣き声を神様は聞き届け、荒野に泉を湧き上がらせ、彼らを養われました。ここの「赤ん坊がおり、しかも男の子で、泣いていた」という言葉の中にも、「神は幼な子の泣き声を聞かれた」、そんな響きが込められています。

 そして6節、王女がこの男の子のことを「ふびんに思い」と書かれています。不憫とは、憐れみ、慈しみ、愛を意味する言葉です。もちろん彼女は、その子がエジプト人の子ではなく、死の運命のもとに置かれているヘブライ人の子どもであることを十分過ぎるほどに理解していました。だからこそ、彼女はその子を憐れみました。父親の残虐な暴力に対して、最も身近にするはずの娘が反対し抵抗を示したのです。神様の憐れみが彼女の心の中に生じた時、モーセのいのちは祝福のうちへと導かれていくことになります。

 いのちへの憐れみ、いのちへの慈しみ。これこそ非暴力による抵抗の基いであり、まさに神様の御心に適うこと、神の御心そのものでした。

 

■神のアイロニー

 この誕生物語が語ろうとしていることは、何か。もうおわかりいただけたのではないでしょうか。そのことを確認するように、この誕生物語は印象的な言葉によって締め括られます。10節後半、

 「王女は彼をモーセと名付けて言った。『水の中からわたしが引き上げた(マーシャー)のですから』」

 この言葉は、1章22節の「生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め」というファラオの命令と対(つい)をなすものです。ナイル川に「ほうり込まれる」運命にあった子が今や、ナイル川から「引き上げられた」。それがモーセです。

 ここにわたしたちは、人間の悪意や暴力をはるかに超えて働かれる、いのちの主である神様の御力と慈しみを読み取ることができるでしょう。わたしたちは創造の主である神様からかけがえのないいのちを与えられています。それは何物にも変えがたいものです。しかしわたしたちの現実は、襲い来る様々な困難、悪意や策略、暴力や中傷によって、たえず脅かされ、傷つけられ、損なわれています。いのちへの危険に満ちています。そればかりか、自らを傷つけ、自らのいのちを奪うことさえしてしまうことがあります。

 しかし、わたしたちのいのちは神様によって与えられたものであるがゆえに、それ以外の誰からも脅かされるべきではありません。人間の尊厳とは、わたしたちに何か価値がある、わたしたちが社会に有用だ、ということではありません。最も弱い、奴隷の子、それも乳飲み子であったモーセが神様によって混沌のナイル川から「引き上げられた」、救い出されたように、わたしたちのいのちこそ、神様によって与えられたかけがえのないものだという意味です。ですから、いのちを傷つけ、損ない、奪うことが正当化され許されるような権利は誰も持ち合わせていません。法律に反しているからというのではなく、わたしたちは、いのち与えられ、生かされ生きているということの本当の意味において、このいのちを無条件に価値あるものとして大切にしていかなければならないのです。そうでなければ、わたしたちはいつでも簡単に自己を正当化する大義を帯び、平然と人を傷つけ、人のいのちを奪う悲劇を繰り返すでしょう。

 そしてもうひとつ、この物語は大切なことをわたしたちに教えてくれています。それは、この物語に満ちているアイロニー―皮肉によって示されます。まず、ファラオが選んだ殺戮の道具であるナイル川が、モーセを救出する手段となりました。また、ヘブライ人の女たちは生き残ることを許されていますが、その彼女たちこそがファラオの計画を阻止します。さらには、モーセの母親はファラオの命令に従ってナイル川に我が子を流すことによって、ファラオの暴力からモーセを救出します。それだけではありません、他ならぬファラオの家族である王女が、父親の政策に抵抗し、エジプトからイスラエルを導き出す中心人物を救出します。最後に、母親は自分の子を育てて報酬を得ますが、それはファラオ自身の財政の中からのものでした。

 このような皮肉めいた出来事―アイロニーが意味することとは何でしょうか。それは、神様は強き者を挫くために、弱い者、低いところに置かれた者、追いやられた者、蔑まれた者をこそ用いられるのだ、ということです。世の常のように力に対して力を用いるのではなく、神様は明らかに力を持たない人々を通して、その御業をなされるのです。この物語に出てくる五人の女性たちは何か頼りになりそうには思われません。そして何よりも、この後の神様の計画は、無力な粗末な籠の中にいる一人の赤ん坊の両肩にかかっています。主の御腕が、愛の御手がこのような人たちに現わされるなど、一体誰が信じえたでしょうか。しかし神様は、この女性たちと一人の幼な子を通して、権力の冷酷なやり方に対して控えめに、しかし大いに力を発揮されたのです。

 もはや神様などいないと見える状況のそのただ中で、逆説的な神様のアイロニーが、希望を生む、育むのだ、と言ってよいのかも知れません。一見希望のない時代や状況が、実際には積極的な可能性に満ち溢れています。いのちゆえに、わたしたちは豊かな神様の愛に包まれています。