■イエスを真ん中に
先週届けられた『こころの友』6月号に掲載されていた一文に、それこそ「こころ」捉えられ、しばらく立ったままで読み続けました。
「マイノリティーでもマジョリティーでも」と題された手紙文は、こう始められていました。
「こんにちは、Aちゃん。しばらく会っていませんが、元気でいますか?」
手紙を書いたこの人は、なぜ、Aちゃんという子に呼びかけているのでしょうか。読み進めていくうちにその事情が分かってきました。
「中学生のときに同性を好きになったAちゃんは、信頼していた教会学校の先生にそのことを相談したのでしたね。でも、『同性を好きになるのはいけないこと』と言われて、とてもショックで、教会から遠のいてしまったと言っていましたね」
この人は「同性愛者には日本ではまだ十分な人権がありません」と先進諸国に比べて対応の遅れている日本の現状を説明し、こう続けます。
「日本社会はそんな遅れた状況だし、親御さんにだってなかなか理解してもらえなかったりします。そんな中で、教会の人からも否定されてしまったときのショックは計り知れないと思います」
そして、イエスさまが伝えられた福音―神の愛から、教会のあるべき姿を示し、こう語りかけます。
「教会には昔から、身体、心、性、職業、性質などにおいて、いろいろなマイノリティー性を持つ人たちが集っています。そのマイノリティー性は、Aちゃんがそうであるように一見わかりにくい人も多いです。何らかのマイノリティーであることをカミングアウトすることもカミングアウトしないことも、誰かに強制されるようなことではありません。ただ、いろいろな違いの中でわたしたちは、神の子イエスを真ん中にして心をひとつにして祈ろうとしています」
最後に、「今度、案内状を出します。また会える日を楽しみにしています」、Aちゃん、あなたとつながりたい、つながっているよ、と告げてこの手紙を閉じます。
まるでパウロの手紙のようだと思わずにはおれませんでした。パウロは、コリントの教会の中の「マジョリティー」となって自分たちとは違う人々を傷つけてしまっている人々に向かって、「あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです」と呼びかけています。そしてこの人は、教会の「マジョリティー」から傷つけられて教会から出て行った人に語りかけ、もう一度、教会の交わりの中に招き入れようとしています。
そこでこの人が語ったのが、「いろいろな違いの中でわたしたちは、神の子イエスを真ん中にして心をひとつにして祈ろうとしています」という言葉でした。違っていいんだ、いえ、違いの只中にこそ、互いに違うわたしたちの真ん中にイエス・キリストがいてくださって、違うままにわたしたちをひとつにしてくださっている。そのことを祈り願うのが「教会」なんだ。そう告げる言葉が、今日のパウロの言葉に重なるようにして響いてきます。
■感謝の言葉から
当時の人たちがよくしたように、パウロもこの手紙を口述筆記させました。誰に筆記させたのか。1節に出てくる、ソステネという人ではないかとも言われますが、よくはわかりません。わかりませんが、親しい仲間が筆を持って、紙を用意し、パウロがこれから何を言うのかと待ち構えます。パウロは目を閉じ祈るようにして、こう語り始めます。
「わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています」
「神の恵み」です。パウロはまず何よりも「感謝」の言葉から語り始めました。とはいえ、この手紙はパウロにとって書きたくなかった手紙であったはずです。コリントの教会に何の問題もなく、パウロが一年半伝道したその教えに導かれて教会が順調に発展していたのなら、こんな手紙を書く必要などなかったからです。
誰にも、そういうときがあります。ある人が間違ったことをしてしまった。取り返しのつかないことをしたのではないかと思わされるようなところで、相談に乗り、あれやこれやと勧告し、忠告をする。そうされる人も辛いかもしれませんけれども、忠告し、勧告する方もまた辛いものです。とくに相手が、自分が心にかけ、愛し、育んできた人であったりすれば、なおさらのことです。なぜ、こんなことをしてしまったのか。自分の言葉をよく聞いていてくれれば、こんなことをしなくてもすんだのに。そう思わされた経験はないでしょうか。
コリントの教会は、他の人が建てた教会ではありません。パウロが様々な人の協力を得て建てた教会です。自分に責任があるのです。その教会に次々と問題が生じました。「ああすればよかった」「こうしておけばよかった」、そんな後悔の念もあったことでしょうし、教会に対する歯がゆい思いもあったことでしょう。
そういう人に、そういう教会にどんな言葉をかけたらよいのか。誰かに忠告をしよう、勧告をしようということになれば、不用意な心構えで話を切り出すことなどできません。祈りながら、どんな言葉がその人の、この教会の人々の心に届くだろうかと真剣に尋ね求めるものです。
いよいよ筆記をしてもらおうというそのときに、そうした様々な思い、忠告に先立って、パウロは「いつもわたしの神に感謝している」という言葉を書かせました。このときだけ特別にというわけではありません。いつも感謝していました。そのいつものことから始めました。いえ、そこからしか始めることができなかったと言うべきかもしれません。
■神の恵み
「感謝する」。感謝とは、神の恵みを受ける姿勢を表すものです。イエス・キリスト、この方がおられたからこそ、わたしたちは今、このように生きることができている。それは、神の恵みが働いているからで、わたしたちはいつもこの神の恵みを受けている。「あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて」。それが出発点でした。
では、その恵みとはどのようなものでしょうか。「キリスト・イエスによって」与えられたものだと、あります。しかし「によって」と訳されているこの言葉は、英語で言えば‟in”に当る言葉です。「キリスト・イエスにおいて」「キリスト・イエスの中で」ということです。
パウロが感謝している恵みは、キリスト・イエス「から」与えられた何かの恵みというのではなく、彼らコリント教会の人々が、キリスト・イエス「の中で」、キリスト・イエス「にある」ことによって、神様から与えられた恵みのことでした。同じ言い方は、2節にもありました。「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々」とある「によって」も「~において、~の中で」という言葉です。キリスト・イエスが彼らを聖なる者としてくださったというのではなく、キリスト・イエスの中にあることによってあなたがたは聖なる者とされたのだ、と言います。この4節で、感謝をもって語られる恵みもまた、コリント教会の人々がキリスト・イエスの中にあることによって与えられたものです。そして続く5節の「あなたがたはキリストに結ばれ」も同じです。「結ばれる」という言葉は、どこにもありません。ただ、‟in”、「~において、~の中で」。「キリストの中で」です。そしてそれは、9節の「わたしたちの主イエス・キリストとの交わり[の中]に」という言葉へとつながっています。
パウロは、教会の人々がキリスト・イエスの中にあることこそ神の恵みである、と繰り返し感謝をしているのです。そこに教会のことを考える上でのパウロの基本的な視点があるからです。様々な問題、罪を抱えている、弱く愚かな人間の群れである教会、しかしそこに連なる人々はみな、キリスト・イエスの中にある、そうされている。冒頭ご紹介した手紙で言えば、「神の子イエスを真ん中に」ということです。パウロはその恵みをこそ、神様に感謝しています。その感謝から、教会を、そこに起っている様々な問題を見つめていこうとしているのです。
ぶつぶつと不平不満をつぶやくことからではありません。相手を責めることから始めるのではありません。いきり立って、わたしたちは間違っていない、あなたたちが間違っている、と言うのでもありません。あなたたちが受けている「神の恵み」をこそ、わたしは感謝しています。パウロは、今までも感謝してきたその恵みから語り始めるのです。
そうでなければ、言葉が、心が通じないのです。
■主に立ち返る
パウロは言葉を重ねます。5節から6節、
「あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。こうして、キリストについての証しがあなたがたの間で確かなものとなった…」
「キリストに結ばれ」ることによって、信仰の賜物としての「あらゆる言葉、あらゆる知識」が与えられ、「キリストについての証しが」、つまり信仰が「確かなものとな」ったとしても、いろいろなものを排除して、やせ細っていくのではなく、いろいろな面において豊かにされていくのでなければ、信仰は生きてはきません。7節にこうあります。
「その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく」
「恵み」にはカリスというギリシア語が使われていますが、この「賜物」という語には「カリスマタ」というギリシア語が使われています。「恵みの賜物」、「恵みによって与えられているもの」という意味です。その「恵みの賜物」は、あなたに何一つ欠けるものではない、とまでパウロは言い切ります。わたしたち一人ひとり、条件からいえば、いろいろな問題がありますが、その恵みから与えられるたくさんのもの、「カリスマタ」は、何一つ欠けることがないという、パウロのこの言葉はとても大切です。
最後、8節から9節をご覧ください。
「主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです」
ここに「神は真実な方です」とあります。この真実という言葉は、約束に対して忠実である、信頼がおける、誠実である、という意味です。わたしたちの真実ではありません。わたしたちを召し集め、ご自分の民、ご自分と結ばれた者としてくださった神様が、そのみ業を最後まで責任をもって成し遂げてくださる、わたしたちを最後までしっかり支えて、救いにあずからせてくださる、そこに、神の真実があるのです。
神は真実の方なのです。だからこそ、あなたたちは主イエス・キリストとの交わりに招き入れられた、と言います。いろいろな人間的な分裂があった、食べ物の問題もあった、極めて人間的な問題があるにも関わらず、あなたたちは、神によって、主イエス・キリストとの交わりに招き入れられている、パウロはコリントの人々に、わたしたちにそう語りかけます。
人間的な交わりにおいては、いろいろ物足りないことがあるでしょう。しかし、神によって主イエス・キリストとの交わりに、一人ひとりが招き入れられているのです。たしかに、わたしたち人間の関係からいうと、現在のように「癒しだ」「救いだ」と言っても、その中に残されてくる物足りない部分は誰の中にもありますし、その人が感受性豊かであればあるほど、混乱と疎外、曖昧さと不条理という世界が目につくことでしょう。それでもパウロは、それを充分知った上で、神の子、主キリストとの交わりの中にあなたは招き入れられている、依然として人間的な問題点は次から次へ起るだろう、それでもなお、この主キリストに結ばれた小さな集団の中で、あなたは主キリストとの交わりに招き入れられているのだ、と力強く宣言します。そして、その恵みの内に、イエス・キリストとの交わりの中に、主に立ち返れ、と教えるのです。
■分裂と対立を越えて
コリントの教会の分裂と対立を思いつつ、そこで立ち返れと言われて、はたと思い出すのは、ヨハネによる福音書8章1節以下の「姦通の女」の物語です。
物語のクライマックスは、そこで語られたイエスさまの言葉です。イエスさまは、女を嘲笑うファリサイ派、石を握り締めた群衆に向かって、こう言われました。お前たちの中で正しい者がまず進み出て、この女に石を投げてみろ、と。
どんな時代、どんな文化であっても、社会というシステムの内側にいる「正しい」者は、罪人、言いかえると「正しくない」他者を必要としてきました。まっとうな人間は、自分のまっとうさを確かめるために、まっとうではない者、悪人たちの存在が絶対不可欠です。白い色が白とわかるためには、黒い色がなければなりません。それと同じように、正しい者は自分が義人であるためには、どうしても罪人たちがいなければならないのです。正しい者はたえず正しくない者たちを造り出し、彼らを秩序の攪乱者と裁くことで、自分の秩序を確認してきました。あるいは、こうも言えます。当時のイスラエルに限らず、人間の社会というものはいつも、内と外、近いものと遠いもの、好ましいものと避けるべきものというように、世間を二分して考えます。世間の中で好ましいのは、より自分に身近なもの、いっそう親しいものです。そして好ましくないのは、自分から遠くに位置する者、排除された人々のことです。
イエスさまがどんでん返しを食わせたのは、そんな犠牲者造りの舞台が準備万端整ったときでした。イエスさまは群衆に向かって叫びました、そんなに生贄がほしいのなら、まず罪のない者から石を握り締めてみろ、と。ファリサイ派も律法学者も群衆も、イエスさまの言葉に唖然となりました。そして「年長者から始まって、一人また一人と」櫛の歯が抜け落ちるように去っていった、と聖書は告げています。
立ち去る人々以上に、衝撃を受けたのは当の女だったでしょう。イエスさまは世間の片隅に追いやられた女、律法によって呪われた娼婦に、神の国を約束されました。いえ、穢れの女こそが真っ先に神の国の恵みにあずかれる者であって、石打とうと詰めよった者たちではないことを、体を張って示されたのでした。今、神の国が始まった、「今、わたしは神の御手の中にある」、女はそう感じました。彼女にとって、続くイエスさまの言葉は、救い、解放への神の招きとなりました。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい」。この女の姿と最初の手紙に出てくるAちゃんの姿が重なって見えてくるようです。
コリント教会の人々にしても、わたしたちにしても、非のうちどころのない者であるどころか、問題と罪に満ちた弱い者です。しかしそのようなわたしたちを、神様は召し集め、イエス・キリストの十字架による罪の赦しにあずからせ、キリストとの交わりへと招き入れ、救いにあずからせてくださるのです。その神の真実を見つめることから、わたしたちの信仰が始まります。そこに教会の、わたしたちの様々な問題に取り組んでいく糸口、解決の道も与えられていくのでしょう。感謝です。