≪説教≫
「見失った羊」のたとえは、この後に続く「無くした銀貨」のたとえ、「放蕩息子」のたとえと合わせて、三つがセットになっています。いずれも、失った羊、無くした銀貨、死んでいた息子が見つかり、帰って来た、と大喜びするたとえです。
ここで、「見失った」(15:4, 6)とか、「無くした」(15:8, 9)とか、「死んでいた」(15:24)と訳されているのは、いずれもアポルーミという同じ言葉です。
そして、「見つけ出す」(15:4)、「見つける」(15:6, 8, 9)、「見つかった」(15:24)と訳されているのは、ヘウリスコーという言葉です。「失った」アポルーミと「見つかった」ヘウリスコーが、対になって繰り返されています。
「羊と羊飼いのたとえ」で思い出すのは、詩編23篇でしょうか。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い/魂を生き返らせてくださる。・・・死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。」(詩編23:1~4)
そして、先ほど読んでいただいたエゼキエル書です。「わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。・・・わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。」(エゼキエル書34:11~12, 15~16)神様ご自身が、失われた者たちを探し出し、連れ戻し、傷ついた者を包み、弱った者を強くする、と宣言されるのです。
エゼキエルは祭司でしたが、紀元前598年に南王国ユダがバビロニアに破れた時、バビロンに連行された捕囚の一人です。彼は、エルサレムが破壊され、エルサレム神殿が瓦礫の山となった報せをバビロンで聞きました。バビロン捕囚は、60年に及びました。ほとんどの人が故郷に帰ることができないまま、異郷の地で命を終えたのです。エゼキエルもエルサレムに帰ることができませんでしたが、散り散りになった民が再び呼び集められ、神様によって守られ力づけられる、という預言を語りました。このエゼキエルの預言が、今日のルカ福音書の箇所の下敷きになっています。
「見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。」(15:4)羊は、牧畜をする人たちにとってとても大切な家畜です。いろんな役に立ちます。ミルクを提供してくれます。肉を食べることができます。羊の肉はおいしいので、極上とされます。そして、羊の毛で寒さを防ぐ服を作ることができます。いろんなことで役に立つ、本当に身近な家畜です。しかし、羊は大きな弱点を持っています。動物には、自分の巣に帰っていく本能があります。 たとえば犬は、遠く離れた場所から、何日もかけて自分の家に帰って来ます。ところが、羊は自分の家に帰ることができません。羊は群れをなして動きますが、窪地にはまりこんだり草むらに足を取られると、自分の力で抜け出すことができず、取り残されてしまいます。また、暑さ寒さにとても弱いのです。毛で覆われているので、直射日光にあたるとぐったりしてしまいます。また、寒さに弱いので、夜露にあてないように気をつけないといけない。冊の中に入れて、できるだけ体と体を密着させて、寒さにあわないようにする。そんな世話が必要だそうです。
ここで、なぜ羊を見失ったのか分かりませんが、どこかで見失った。それに気づいた羊飼いが、見つけ出すまで捜し回る。「見つけたら、喜んでその羊を担いで」(15:5)帰ってくる。「担いでいく」、「背負って運ぶ」というのも、よく出てくる表現です。「わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」(イザヤ書46:4)神様とわたしたち人間の関係を表しています。
このたとえは、誰に向かって、何のために語られたのでしょうか。冒頭に、こう書かれています。「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした。」(15:1~2)これがきっかけです。このたとえ話は、徴税人や罪人たちと一緒に食事をする主イエスに文句を言ったファリサイ派の人々や律法学者に対して、語られたのです。ですからこれは、ファリサイ派の人々や律法学者たちの考え方を批判して、あなたたちの考えは間違っている、と気づかせるためのたとえ話なのです。
ファリサイ派の人々や律法学者たちは、まじめな信仰者です。神の教えを守り、律法に従って正しく生きようとして、一生懸命生きていた人たちです。ところが、それが行き過ぎて、正しい信仰生活を送ることができない人たちを軽蔑し、あんな奴らと付き合ったら汚れる、あいつらは「罪人だ」と宣言していました。そんなまじめな信仰者たちに向かって、神様の願いはどこにあるか、主イエスは語られたのです。
一緒に食事することは、 仲間として受け入れることを意味しました。初代教会の時代、一緒に食事することは、宗教的な意味を持ちました。
使徒言行録10章~11章に、次のような記事が出て来ます。ローマの百人隊長コルネリウスが、神の話を聞かせてほしいと願ってペトロを招き、わたしとわたしの家族に洗礼を授けてください、と頼む。ペトロは、喜んで洗礼を授け、一緒に食事をする。ところが、ペトロがエルサレムに帰ってくると、みんなから非難されます。「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」(使徒言行録11:3)。異邦人と一緒に食事をするとは何事だ、というのです。これに対して、ペトロは一生懸命弁明します。あの人は、福音を信じてバプテスマを受けた。主イエスの弟子になったのだ。当時、異邦人と食事することは、それほど非難の的になったのです。
それと同じように、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、主イエスが「罪人」や徴税人と一緒に食事することを咎めました。「罪人」と呼ばれたのは、泥棒や暴力沙汰を起こした犯罪者だったからではありません。律法や掟をないがしろにする人たち、ユダヤの伝統を軽んじていい加減な生活を送っている人たち、ユダヤ人として守るべき掟を破っている者、汚れた人という意味なのです。「徴税人」は、ローマのために税金を取り立てる人たちです。汚らわしいローマのために働く、裏切り者です。
ファリサイ派の人々や律法学者たちは、ある基準を決めて、これを守らない人を「罪人」として軽蔑し、絶対に仲間にせず、のけ者にしました。ところが、主イエスは徴税人や「罪人」と一緒に食事をされたのです。
5章には、徴税人レビに招かれて食事をする場面が出て来ます。「イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。そして、自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した。そこには徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席に着いていた。」(5:27~29)これを見て、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、弟子たちに言います。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」(5:30)そんなことをしたら、汚れてしまうではないか。どうして、あんないい加減な奴らを許すのか。あんな奴らと、なぜ友だちになるのか、と言って非難したのです。すると、主イエスが言われます。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(5:31~32)
19章には、徴税人ザアカイの話があります。ザアカイは背が低くて、主イエスの様子を見ることができないので、木に登って見ようとした。すると、それを見た主イエスが、言います。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」(19:5)これを見た人々は、文句を言います。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」(19:7)主イエスを迎えたザアカイは、喜んで言います。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」(19:8)その時、主イエスはこう言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(19:9~10)このザアカイも、徴税人です。今日の話とつながっているのです。わたしは、何のためにここに来たのか。神からはぐれてしまった人、自分は罪深い人間だと嘆きつつ苦しい思いで暮らしている人たちを捜し出して、神のもとに連れ帰るためだ、と言われたのです。
「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」(15:7)「悔い改める」という言葉が、二回繰り返されています。日本語で「悔い改める」というと、悪いことをしました、申し訳ありませんと懺悔し、赦しを乞うというニュアンスがあります。しかし、ギリシア語で「悔い改める」はメタノエオー、「悔い改め」はメタノイア、「方向転換する」、「向きを変える」という意味の言葉です。ヘブライ語で「悔い改める」はシューブ、「神のもとに立ち帰る」という意味の言葉です。自分勝手な生き方から方向転換して、神のもとに帰って行く、ということです。
ですから、「悔い改める一人の罪人については、・・・大きな喜びが天にある。」とは、ある人が神様のもとに帰ろうとするとき、神様がどれほどお喜びになるか、ということなのです。
ところで、「悔い改める必要のない九十九人の正しい人」(15:7)という言葉を、どう受け止めたらいいでしょうか。残りの九十九人は正しい生き方をしている、というのでしょうか。そうではありません。これは、強烈な皮肉です。自分たちは信仰者として正しく生きてきた、しっかり律法を守ってきた、と誇らしく思っている人たちに対する、皮肉な言葉なのです。
どうしてでしょう。神様は、失った一人を大切に思い、見つけ出すまで捜し回り、連れて帰ろうとされる。そして、「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください」(15:6)と言って、喜びを爆発させる御方なのです。あいつらは汚れている、あいつらは「罪人だ」と言って、目の前の人をのけ者にし、一切付き合わない、そんな生き方が神様に喜ばれると思うのかね、という問いかけを含んでいるのです。
「悔い改める一人の罪人については、・・・大きな喜びが天にある。」(15:7)神のもとに帰ろうとする人を、どれほど神が喜ばれるか。「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください」(15:6)という呼びかけに応えて、神と共に喜ぼうとしないのは、なぜか。あいつらとは、絶対に付き合わない。あいつらと付き合ったら、汚れる。そんなあなたがたの頑な態度が、神様の思いからどれだけ遠いか、気づきなさいと言われたのです。
8節からは、「無くした銀貨」のたとえが語られています。ドラクメ銀貨10枚を持っていた女性が、一枚を無くしたというたとえです。一ドラクメは一デナリオンと同じで、一日分の賃金にあたります。ですから、虎の子の一万円札を無くしたという感じです。この女性にとって、本当に大事なお金です。無くしたからといって、あきらめるわけにいきません。必死になって隅々まで捜したのです。だからこそ、「見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。」(15:9)大事なものが、やっと見つかりました。一緒に喜んでください。
これは、次の「放蕩息子のたとえ」の父の喜びと重なります。弟息子が落ちぶれた姿で帰ってきます。それを遠くから見つけた父親は走り寄って抱きかかえ、いちばん良い服を着せ、祝宴を開いて喜びます。「『この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。」(15:24)無くしたのに、見つけた。死んでいたのに、生き返った。同じ意味なのです。
畑から帰ってきた兄がそれを見て、腹を立てます。兄にとっては、父の弟に対する扱いが納得できなかったのです。父親の言いつけに従って我慢しながら働いていたその時、あの弟は放蕩の限りを尽くしていた。そんな出来損ないの弟が丸裸になって帰って来ると、父親は喜んで迎え、肥えた子牛を屠って宴会を始めた。わたしはあなたの言いつけに従って来たのに、子山羊一匹すらくれなかった、と不平を言うのです。
この不平を言う兄の姿は、ファリサイ派の人々や律法学者の姿と重なります。また、わたしたち自身にも重なります。
腹を立てる兄に、父親は何と言ったでしょうか。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」(ルカ15:31~32)お前はわたしの息子として、一緒に過ごしてきた。弟息子がどこでどんな暮らしをしているか心を痛める父の嘆きを、お前はよく分かっているはずだ。父の気持ちが分からないのか、という残念な気持ちが、「子よ」という呼びかけに込められています。
この三つのたとえは、神様の喜びがどこにあるか、神様の願いがどこにあるか、を語っています。「見失った一匹を見つけ出すまで捜し回る」(15:4)神様は、道に迷った小さな存在を大切になさる御方なのです。だから、わたしたちも目の前の人を大切にするように、と願っておられるのです。自分ひとり正しく生きる、自分ひとり立派に生きる。それでは、神様の願いにつながらないのです。
あなたがたは、わたしが徴税人や「罪人たち」、とんでもないならず者たちと一緒に食事をしている、と思うかもしれない。しかし、これこそ神様の喜ばれることなのだよ、と主イエスはファリサイ派の人々や律法学者たちを強くたしなめられたのです。
「見失った羊」のたとえは、いろんな角度から捉えることができます。はぐれてしまった一匹の羊を、神様は見つけ出し、連れ帰ってくださるという風に、神様を信頼するたとえとして読むことができます。自分たちだけが正しい者として生きようとする誤りに、気づかせてくださるたとえとして読むこともできます。そして何よりも、神様が一人ひとりを大切に思い、どこまでも見つけ出そうとして捜し回って連れ帰り、喜んでくださるという、神様の愛の深さを語るたとえとして受け取ることができます。どうか、いろんな側面から味わっていただきたい。
そして、「見失った羊」のたとえが「放蕩息子」のたとえにつながっていることに帰していただきたいのです。放蕩息子は、お父さんに謝ったから赦されたのではありません。息子が帰って来る姿を見つけた父親は、走りよって抱きかかえます。息子がごめんなさいと謝る前に、父親が抱きかかえて喜ぶ姿に、神様の愛が表現されています。わたしたちは、神様のもとに帰って行くだけでいい、ただ向きを変えるだけでいい、と語られているのです。