■切なる願い
「まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい」
来月27日に予定されている今年の教会信徒研修会のテーマは「祈り」です。祈りは大切だ、信仰生活とは祈ることだと言われます。そして今、パウロが語るこの手紙の冒頭の一節の中に、聖書の教える「祈り」のすべてが含まれています。「願い」「祈り」「執り成し」「感謝」。新約聖書の中で「祈り」と訳される四つのギリシア語が、このたった一節の中にすべて出てきます。
その第一、最初に挙げられているのが「願い」です。「必要とする」という言葉を語源とする、必要に迫られて神に請い求めることを意味する言葉です。必要に迫られた、切羽詰まった、ギリギリの所での、まさに「切なる願い」です。
初めて祈ったときのことを思い出します。教会の礼拝に出席するようになってから一年近くが経った頃のこと。青年会に出席すると、三十歳がらみのリーダー役の人がわたしを見つめながら、「そろそろいいかな?! 沖村君、開会のお祈りをしてください!」と一言。有無を言わせない感じでした。頭が真っ白になりながらも、意を決し、祈り始めました。
「天の神様…」
そこまではよかったのですが、次の言葉が出てきません。しばらく気まずい沈黙が続き、たまらず「神様、ハジメマシテ!」。そこにいた女子高生たちがクスクスと笑い出し、初めての祈りは終わりとなりました。それでも、ひとりだけ大きな声で「アーメン」と言ってくれた人がいたことが救いでした。
初めはだれにとっても、祈りはむつかしいものです。教会の礼拝に出て、牧師や役員の祈りを聞くからでしょうか。整ったセンテンス、美しい言葉。悔い改め、感謝、賛美へと続く、破綻のないスムーズな流れ。しばらく教会に行って洗礼を受けても、祈りは苦手という人はいるものです。わたしも祈りは苦手でした。牧師になった今も得意というわけではありませんが、ただ、祈りへのとば口の発見がありました。
それが、テモテへの手紙一の冒頭のこの一句でした。「願い」。必要に迫られた、切羽詰まった、ギリギリの所での「切なる願い」です。それはむつかしいことではありません。単純なことです。自分の中に祈りたいことはないかということ、祈らないではいられないことはないかということです。
誰にも、祈らずにはいられないことがあります。生きていれば必ずあるものです。学校のこと。仕事のこと。人間関係。家族の問題。自分自身の問題。飢え渇くような願いや望み。あるいは恨みや辛み。そういうものが渦巻いています。燃えたぎっています。その思いを丸ごと訴える。
祈りとは、自分の中にある、そんな切実な求めを神に丸ごと投げかけることでした。だから、イエスさまは言われました。
「求めなさい。そうすれば、与えられる」(マタイ7:7a)
わたしたちが心から祈り願うことを、神は決して拒んだりなさいません。「求めなさい。そうすれば、与えられる」というこの言葉は、マタイとルカ、二つの福音書に記されています。ルカには、他者の貧しさのために求めるという条件が付けられていますが、マタイには、何の条件もありません。ただ「求めなさい」です。とにかく神に求めて祈ることを、神はよしとしてくださるのだということです。
祈りは、願い求めること、わたしたちの飢え渇きから始まるのだということです。それで、いいのでしょうか。感謝や賛美はなくて、いいのでしょうか。いいのです。求める人は応えていただけるのです。父となってくださった神は、子としてくださった者の祈りに必ず応えてくださるのです。
願うことは、叶えられます。願うこと、それが祈りであり、力です。
■神に向けて
しかしその一方で、「ヨハネの弟子たちは度々断食をし、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています」(ルカ5:33)とある「祈り」、これもまた「願い」と同じ言葉なのですが、ヨハネの弟子たちやファリサイ派の人々のその願いを、イエスさまは見せかけの祈りとして手厳しく非難されます。どういうことなのでしょうか。
その理由が、第二の言葉によって示されています。ここで「祈り」とそのままに訳されている言葉です。これは、「向かって」と「行く、来る」という二つの言葉が一つになって造られた言葉、「近づく」「同意する」を意味する動詞の名詞形です。
イエスさまは、悪霊に取りつかれた人を癒す時に祈られた後、こう教えられました。「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」(マルコ9:29)。「祈りによらなければ」と言われていることは、「神の同意がなければ」とか「その祈りが神に近づき、神に向かうものでなければ」という意味です。
自分のことを祈り願うことが問題なのではありません。神を信頼し、必ず神が聞き届けてくださると信じて必死に願う時、それは「祈り」となります。しかしそれが、神に向けられず、ただ自分を誇るための、自分に向けられたものであるとき、その祈りが神に届かないのは当然です。その祈りは聞き届けられることはありません。
祈りが聞き届けられるかどうかは、その祈りが神を信頼し、神に向けられたものであるかどうかということと、もうひとつ。神がその祈りに同意、受け入れてくださるかどうか、つまり神の御心にかなうかどうかです。
ある時、ひとりの娘がピアノをねだりました。しかし父親はすぐには買い与えませんでした。貧しい、家が狭いということも理由でしたが、何よりもそれを弾きこなすにはまだ幼すぎると考えたからでした。時が過ぎ、もう少し成長したら、無理をしてでも買ってやろうと父親は考えました。同じように、わたしたちも神に祈ります。人生を美しく奏でるピアノをください、と。しかし神は考えます。まだこの子は弾きこなせない。弾きこなせる器になるまで待つことにしよう、と。祈っても応えられないことがあります。しかしそれは、わたしたちの祈りを神が聞いてくださっていないからではありません。それは、わたしたちが「祈りの答えを受け止めるに足る器」に成長するまで、神が待っておられるということかもしれません。
それだけではありません。神はわたしたちのことを愛してくださっています。であればこそ、わたしたちが祈り願っていることとは、別のもの、本当に必要なものを与えられることがあります。何度かご紹介をしたことのある、ニューヨーク・リハビリテーションセンターの壁に掲げられた、「苦難にある者たちの告白」と題された詩です。
「大事をなそうとして/力を与えてほしいと神に求めたのに
慎み深く従順であるようにと/弱さを授かった。」
願いとは真逆のものを与えられたと繰り返された後、この詩はこう締めくくられます。
「求めたものは一つとして与えられなかったが/願いはすべて聞き届けられた。
神の意にそわぬ者であるにもかかわらず/心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた。
私はあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されたのだ。」
このように、思いがけない答えを、人の思いを遥かに超えた答えをいただくとき、そこに自ずと感謝が生まれてきます。賛美しないではいられない、大きな喜びが与えられるのです。
■敵のために
そんな神の御心に気づかされる時になされる祈り、それが第三の祈り、「とりなしの祈り」です。「出会う」を語源とし、「対話」を意味する言葉です。神と出会い、神と言葉を交わすとき、わたしたちは神の愛に触れることになります。そして、その愛に応えたいと心から願うようになるでしょう。それが「とりなしの祈り」です。
注目いただきたいのは、1節に「すべての人々のために捧げなさい」とあるように、ここに「すべての」という言葉が四回も使われていることです。制限も、限定も一切ありません。ここに書かれる「王たちや高官たち」とは、自分たちを迫害するローマの暴君であり、イエスさまを十字架にかけたポンテオ・ピラトであったはずです。「すべて」の中には、自分がこの世の中でいちばん憎んでいる人、自分に危害を加えるであろう人も含まれています。
どうして、そんな人たちのために祈らなければならないのでしょうか。その理由は、神ご自身、またイエスさまご自身にあります。4節、「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられ」、6節、イエスさまが「すべての人の願いとして御自身を献げられ」たからです。
イエスさまは教えられました。
「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:43-44)
とは言え、敵対する人、憎んでいる人のために祈ることなどできるのでしょうか。敵とは、自分とは相容れない異質なものです。生きる労苦というのは、そうした異質なものから自分を守り抜く工夫でした。そうやって自分を強くすることを、人間はずっと課題にしてきました。敵を愛することなどできません。敵を受け入れることは、自分が破れることだからです。自分が傷つき血を流すことなしに、敵を受け入れることはできません。
しかしイエスさまは、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われます。「とりなしの祈り」とは「自分を迫害する者のために祈る」ことでした。正直を言えば、これは不可能なこと、無理難題です。ですが、溜息をつき、諦めるわけにはいきません。イエス・キリストが十字架の上で、受け入れることのできない者を受け入れ、赦すことのできない者を赦されたからです。敵を愛する、そのために神が愛するわが子を差し出されたからです。そのようにして愛され、救われ、生かされているのは、外ならぬわたしなのです。神はなんとしてでも、わたしと出会い、言葉を交わし、限りない愛を注ぎたいと願っていてくださるのです。
祈りは義務ではありません。祈らなければならないから祈るのではありません。祈らないではいられないから祈る、それが祈りです。神に愛された者として、愛の祈りを捧げずにはいられないのです。それが「とりなし」の祈りです。
三浦綾子の『夕あり朝あり』という本の中で、白洋舎の創始者であった五十嵐健治が、十七歳の時に世話になった住吉屋の夫婦の祈りに対する印象を、こう語っています。
「貧しい者たちにも食事が与えられますようにと祈るのですな。これには私は驚いた。まさかこの世に貧しい者のことを心にかけて祈ってくれる人などいるとは思わなかった。私はむろん、その貧しい者の最たる者でしたから、この祈りにはこたえました。」
■感謝して委ねる
旧約聖書の中の「詩編」は祈りの書です。様々な祈りが集められています。賛美があり、感謝があり、嘆きがあり、悔い改めがあります。懇願があり、訴えがあります。敵を打ち倒して欲しい、という祈りも少なくありませんし、敵の子どもたち、幼な子にまで審きが及ぶように、という祈りもあります。
そういう祈りはしてはならないというのではありません。ただ、祈りは祈っていく中で変えられるのです。祈っていく中で高められるのです。神と出会い、神に向き合い、神からの答えを受けとりながら、人は変えられるのです。祈りの中で自分が打ち砕かれ、神の開いてくださる恵みの世界を見せていただき、いつかどこかで感謝し、賛美するように、必ず導かれます。
今は天に召された一人の男性のことを思い出します。末期ガンを宣告され、冬の寒さの厳しい時に入院した彼は、春を迎え、お花見をすることを心待ちにしていました。念願かない、春の日ざしがホカホカと暖かく、桜の花が満開となったころ、看護士さんに助けられながら、お花見に出かけました。花びらは風に舞い、彼の車椅子の上に降ってきました。その傍を歩きながら、来年はもう、この人が桜を見ることはないのだろうかと、胸が締めつけられました。けれども、「先生、空気がこんなにおいしいとは知りませんでした」と、「感謝」を込めて語られた顔には、生きていることの喜びが満ちあふれていました。
病やトラブルのために、痛みや苦しみに襲われるとき、「神も仏もない」、「神がいるならなぜこんな苦しいことがあるのか?」と食ってかかってくる人がいます。わたしも心が痛みます。なぜこの人が苦しんで、悪い事を平気でしている人が元気でいられるのか、わたしにも理解できません。
けれども、確かなことは、苦しみの中で呼び求めることのできる方がおられる、ということです。失望や絶望で終わりません。わたしたちの全存在が揺り動かされるような恐れと不安がやってきても、いのち与えてくださった神が、わたしたちの傍にいてくださるのです。だからこそ、溢れるほどの喜びと信頼をもって、神に自分を投げ出し委ねることができます。
すべてを愛し、すべてを抱擁してくださる神を信頼し、よいことも、わるいことも、わたしたちにできることも、できないことも、その「両の手を合わせて」、そのすべてを神にお委ねするとき、最後の祈りが生まれます。それこそが第四の祈り、「感謝」の祈りです。
8節の「清い手を上げてどこででも祈る」姿は、最初期のクリスチャンが実際に手を挙げて祈った、その姿勢を指したものです。ローマのカタコンベ(地下の墓)の中には幾つもの、そのような手を挙げて祈っている人の姿が描かれています。考古学者たちは、それをオランス(祈る人)と名づけています。女が立って、両手をおよそ耳の高さあたりまで挙げ、その目は天を仰いで見開いています。
それは、現代のわたしたちの祈りの姿とはずいぶんと違っています。違ってはいますが、祈る心の内の姿は両の手を合わせて祈る、「感謝」の祈りそのもののように思えます。
救われた者は目を上げます。感謝の賛美を歌います。満腔の喜びと信頼をもって、天にいます父なる神に自分を投げ出し委ねます。祈らなければならないのではありません。祈ることができるのです。それが、信仰に生きるわたしたちの力と慰めのすべてです。それ以外何にもありません。
皆さんとご一緒に、静かな、しかし揺るぐことのない、本当の力と慰め、感謝と喜びに満たされた祈りをこそ捧げていきたい、心からそう願う次第です。