■葉っぱのフレディ
敬老の日が近づくと祖母のことを思い出します。祖母はいろんな物語を聞かせてくれました。特にお気に入りの話は何度でも聞きたくて、「肩たたき」をしては、せがんでいました。そのわたしがいつのまにか、こどものため、そして今は、孫たちのために話をします。わたしの得意な話のひとつは、「葉っぱのフレディ」。そこに、こんな場面が出てきます。
…ある日、 とてもおかしなことがおこりました。いままでダンスにさそってくれていたそよ風が、葉っぱのつけねをぐさぐさとゆさぶりはじめたのです。…葉っぱのなかには枝から引きちぎられて風に舞い、あちらへ投げられ、こちらへほうり出されては、ふらふらと地面に落ちていくものもでてきました。
葉っぱという葉っぱはみんな おびえだしました。
「いったい、なにがおこっているんだろう?」
おたがいに ひそひそとたずね合いました。
「これは、秋になるとおきることなんだよ」
みんなにこう教えたのは、ダニエルでした。
「葉っぱのぼくらがすみかを変えるときがきたんだよ。なかにはこれを “葉っぱが死ぬときだ” なんていう人もいるけどね」
「ぼくたちは、みんな死ぬの?」フレディはもうびっくりぎょうてんです。
「そうだよ」、とダニエルが答えました。
「どんなものでも、かならず死ぬんだ。どんなに大きくても小さくても、どんなに強くても弱くてもね。ぼくらはまず、自分のつとめをはたす。お日さまの光をあびて、お月さまの光につつまれる。風にふかれて、雨に洗われる。みんなでダンスをおぼえて、みんなで笑う。そして死んでいくんだよ」
「ぼくは死なないぞ!」フレディはきっぱりと言いました。
「きみはどうするの、 ダニエル?」
「ぼくは死ぬよ。そのときがきたらね」
「それはいつくるの?」フレディは気が気ではないようです。
「はっきりしたことは、 だれにもわからないんだ」ダニエルは答えました。
フレディは、ほかの葉っぱがつぎつぎと散っていくのに気がついて、ふと思いました。「きっとこれが葉っぱの死ぬときなんだろうな」、と。…やがてフレディのいる木には、葉っぱはほとんどなくなりました。
「ぼくは死ぬのがこわいよ」フレディはダニエルにいいました。
「死んだあとどうなるのか、わからないんだもの」
「フレディ。ぼくらはだれだって、よくわからないことはこわいと思うものなのさ。あたりまえだよね」
ダニエルは、フレディの気持ちをやわらげるようにいいました。
「でもきみは、春が夏になっても、こわくはなかっただろう。夏が秋になったときも、そうだったよね。季節がかわるのは自然のなりゆきなんだ。だから、いつの日か、ぼくらが死ぬ季節というのがやってきたとしても、こわがることなんかないんだよ」
「ぼくたちがいるこの木も死ぬのかな?」フレディはたずねました。
「いつかはね。でも、この木よりもっと強いものがあるよ。それはいのちなんだ。いのちは永遠(とこしえ)につづくんだ。そしてぼくらはみんな、そのいのちの一部分っていうわけなのさ」
「ぼくたちは、死んだらどこへ行くのかな?」
「はっきりしたことは、だれにもわからないんだよ。なにしろこれは昔から、 とっても大きななぞなんだから」
「ぼくたちは、春になったら、またここへもどってこれるのかな?」
「ぼくらはだめかもしれないね。でも、いのちはまた、もどってくるだろう」
「じゃあ、なんのために、こんなことがおこっているの?」
フレディはさらに、たずねつづけました。
「ぼくたちはけっきょく、落ち葉になって死んでいくだけだとしたら、じゃあいったい、なんのためにこの世に生まれてきたんだろう?」
ダニエルは、いつものように淡々と答えました。
「お日さまやお月さまだって、生まれてきても、いつかは消えていかなくっちゃならないんだ。みんなでいっしょにすごす、しあわせなひとときだって そうなんだ。木かげや、お年よりや、子供たちだって、そうなんだ。秋のあのあざやかな色どりだって、そうなんだ。春、夏、秋、冬の季節だって、そうなんだ。どれもこれも、昔からぜんぶ、ずっとそうだったんだ。さあ、これだけいうと、もうわかっただろう」
その日の夕方、金色の夕日をあびながら、ダニエルはそっとしずかに、枝をはなれていきました。そして落ちる間じゅうもずっと、おだやかにほほ笑んでいるように見えました。
「それじゃあ、またね、フレディ」ダニエルはそう言いました。
こうしてフレディは、一人ぼっちになりました。あの枝にのこっている、たった一枚の葉っぱでした。…
さて、このお話し、みなさんはどう聞かれたでしょうか。
■今この時を生きる
わたしたちの人生には、その時々にふさわしい「時」、神が与えてくださる「時」があります。ポール・トゥルニエという人も、著書『人生の四季』の中で、ライフ・サイクルというものがある、と言います。それによれば、〇~二十歳は春、人生の準備期間。二十~四十歳は夏、活動の期間。四十~六十歳は秋、人生の収穫の期間。そして六十歳からは冬、人生の成熟の期間。平均寿命も延び、それぞれの期間を少しずつ後ろにズラしてもよさそうですが、いずれにせよ、このわたしも今、人生の「冬」を、成熟の季節を迎えています。
今年91歳を迎えた作家・黒井千次(くろいせんじ)が、78歳の時に著した随筆『老いのかたち』の中に、「崩れゆく老いの形」という一文を書き記しています。
「…年齢相応に老いていくことの困難な時代が到来した。若さや体力ばかりが尊重され、歳にふさわしい生の形が見失われようとしている。幼年期や思春期や壮年期に、それぞれの季節にだけ実る果実があるのだとしたら、老年期には老年の、老いに特有な美しい木の実があっても少しもおかしくはない筈だ。そしてかつて存在した老いの形とは、その実を収穫するための身構えでもあったのだろう。…」
黒井はさらに、「齢重ねての誕生日」と題して、こう記します。
「…幼い子供の誕生日が無事の成長を喜び、将来に向けての夢や望みに支えられた祝いの日であるとしたら、老いてからのそれは過去を振り返り、自らの生の輪郭を再確認しつつ、これまでの上に更に一年を重ねようとする覚悟の日であるに違いない。
子供の一年は変化に富んだ急流の時間である。老いたる一年は、時の流れの澱(よど)んだ淵(ふち)に近いものかもしれない。しかし動きの鈍いその分、水の密度は濃いのではあるまいか。幼い日の一年には、成長を時間が追いかけている慌しさがある。それに対して老いてからの一年は、時間の中に命の影を覗き込もうとするような静けさを孕んでいる。どちらの一年がより貴重であるかを論ずることにはあまり意味はあるまい。ただ、いずれがより切実な時間であるかを問うとしたら、それは老いてからの一年であるといえよう。そしてその年毎の目盛りが他ならぬ誕生日であるのだろう。…老いを重ねるにつれ、同じ一年にこめる思いの切実さは増すように思われる」
秋がきて、冬がくる。寂しく思われるかもしれません。けれども、人生の完成へ向けての季節です。葡萄の実がいつまでも枝にぶらさがっていたら、人を喜ばせる葡萄酒になれないように、人間も熟成の時を迎えて人生の仕上げをしなければなりません。苦しいことや悲しいことが続くと、さっさと仕上げてしまいたいと思うこともありますが、時をかけ、シワを刻んで初めてできあがってくるものがあります。春や夏の季節だけに価値があるのでなく、秋、何よりも冬にも価値があるのですから、そのためにこそ、「今、この時」を精いっぱい生きたいものです。
■愛の後ろ姿
そう願うわたしたちに、聖書は時に、ドキッとする言葉を語ります。聖書の最後に収められている、ヨハネの黙示録3章1節の言葉です。
「あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」
この言葉はサルディスの教会の人々に向けて語られました。サルディスはとても豊かな町でした。しかし、自分たちの欲望が満たされることだけを求める、退廃的で堕落した町でもありました。そんな町の中で、教会も生命力を失い、愛の福音を伝える教会ではなく、自己保全の教会になっていました。どんなに人が集まり、立派な会堂を持ち、献金が多かったとしても、イエスさまの愛が語られ、行われないのなら、それは「死んだ教会」「死んだ人生」です。
この世的に富み、勢いがあり、力に溢れていることが駄目だというのではありません。ただ、与えられた人生を仕上げていくために大切なことは、イザヤ書46章3節以下にある、わたしたち一人ひとりにいのちを与え、そのいのちゆえに慈しんでくださる神を知り、その神の愛によって、かけがえのない「今ここ」を大切に生きようとしているかどうか、この一点にかかっています。
そのことをパウロは、コリント第二の手紙6章9節に、「死にかかっているようで、このように生きており」と語っています。
日々の生活というものは、決して頑張ってできるものではありません。意志が強いから人生をまっとうできるなんてことはありません。かろうじて踏みとどまるところで、愛の神が支えてくださるから、与えられたこのいのちを全うすることができるのです。踏みとどまる時に、そこで神が一緒に働いてくださる、神が力を添えてくださるから、わたしたちは信じることができるのです。自分の力や自分の知恵で、自分を守っているかぎり、神の愛、神の恵み、神の守りを知ることはできません。
そして10節、「悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています」とパウロは続けます。
信じる者の姿が描かれています。信じる者は、世の力に対抗する何物も持っていません。だから、いつも押されているように見えるのです。いつも圧倒されているように見えます。世に対抗するための力も富も、武器も何も持っていない姿で、信じる者はこの世を生きています。まるで弱者のように、貧しい者のように、まさに老いた者のように、自分たちは生きているとパウロは言います。
けれども同時に、その貧しさや弱さ、老いゆえに、何かを与えていると言います。物乞いのようだけれど富んでいる、無一物だけれど人々に与えているのだと言います。世と世の力に対して、力をもって闘って勝つことによって、何かを与えるというのではありません。世に圧倒されている者であるかのように生きることによって、信じる者は世に何かを与えている人間なのだと言います。そういう形で人々に何かを与えて行くのだ、とパウロは言うのです。
たとえ、どんなに貧しく、弱く、老いて死にかかっているようであったとしても、そこで真理が語られ、愛が求められていることが大切なのです。パウロはそう教えます。イエスさまの愛を信じる人は、何も持っていないようでも、すべてのものを持っていて、何もできないようでも、人々を幸せにするために、どんなことでもできるからです。
わたしたちの現実の社会、日々の生活には、年老いた今はいよいよ、いろんな苦しみや悲しみ、困難や不自由があるものです。暴力、差別、貧しさ、しょうがい、人権侵害、飢え、孤独に苦しむ数多くの人がいます。しかしそれらは、誰かの問題ではなく、自分の問題です。無関係ではありません。それなのに、自分のことだけを考え、自分の利益ばかりを求めて、イエスさまが生きられた「神の愛」に背を向けて生きるとすれば、その生活は、たとえどんなに富んでいて、気楽そうにみえても、それはもう「死んでいる」人生です。
そうならないために、わたしたちに求められていることは、イエスさまの後ろ姿を追うことです。パウロはまさに、そのような歩みをした人でした。イエスさまの愛の後姿を追い続けつつ、思いもよらず身にかかるこの世の苦難、具体的で、生々しく、重い困難と闘い、真正面から向き合いました。そのパウロが今、イエスさまの後ろ姿を追いかけていくとき、わたしたちに問われることは「愛」だ、と教えます。
そして、その「愛」は年老いてこそ、発酵した葡萄酒のように、より豊かな香りを醸し出すようになります。年老いた兄弟姉妹から、キリストの香りが豊かに醸し出され、その香りから神の愛と恵みが注ぎだされ、それぞれの家庭を、この教会を満たしてくれています。そのことに心から感謝して祈りましょう。