■結婚についての教え
この7章のテーマは、結婚についてです。コリント教会からパウロのもとに、信仰に生きる者として結婚をどのように受けとめ、考えたらよいのかという問い合わせがあり、パウロはそれに答えようとしています。前回読んだ7章1節から7節には、結婚についての基本的な考え方が示されていましたが、一転、今日の8節からは、未婚者とやもめの場合、既に結婚している人の場合、また結婚した片方だけが信仰者である場合というふうに、様々な具体的なケースについて語られていきます。
その最初、未婚者とやもめ、つまり今、独身である人たちのケースですが、この人たちに、8節「皆わたしのように独りでいるのがよいでしょう」とパウロは教えます。この手紙を書いているパウロは独身でした。その自分と同じように、今、独身である人は独りでいるのがよい、そう教えるのです。
ところが続く9節には、「しかし、自分を抑制できなければ結婚しなさい。情欲に身を焦がすよりは、結婚した方がましだからです」とあります。独身でいる方がよいが、しかしどうしても自分を抑制することができず、性的な欲望が内に燃え上がって、みだらな行いに陥りそうになるなら、むしろ結婚した方がよい、と言います。パウロにとって結婚は、なるべくしない方がよいが、やむを得なければ仕方がないから認める、というものであるように思えます。しかし前回1節以下でもお話ししたように、それはパウロが本当に言おうとしていることではありません。1節にも「男は女に触れない方がよい」とあり、結婚は基本的にしない方がよいと語られているように思えます。そして2節には「しかし、みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、女はめいめい自分の夫を持ちなさい」と言われているので、結婚はやはり「みだらな行いを避ける」ための必要悪のようなものだと考えられているようにも思えます。
しかしそれは、創世記2章にある、神が人間を男と女、互いに違う者として造られた、その二人が互いに向き合い、互いに支え合うために一つとされた神の御心―神が結婚を祝福してくださっているという聖書の結婚観と矛盾するものです。そして2節以下でパウロが教えていることも、むしろ結婚を積極的に勧め、結婚した夫婦の肉体的な交わり、関係を大切にしなさいということでした。パウロは、結婚や肉体的な関係を悪とみなし、しない方がよいと言っているわけではありません。
■離縁してはならない
今日のところも同じです。10節以下は、既婚者、結婚している人に対する勧めですが、そこには、妻は夫と別れてはいけない、夫は妻を離縁してはいけないと教えられます。また結婚している人は独身に戻ろうとするな、とも言います。結婚が悪であって、独身であることの方が信仰的によいのなら、むしろ離婚を勧めたらよいわけですが、そうは言いません。
むしろ10節に「こう命じるのは、わたしではなく、主です」とあるように、離婚の禁止はイエス・キリストの命令である、と言われます。ここで意識されているのは、マルコによる福音書10章2節以下の教えでしょう。
イエスさまは、旧約聖書の律法には、夫は離縁状を書いて渡せば妻を離縁できると書かれているが、そのように離婚を認めた掟こそ、人間の罪に対するやむを得ない妥協だったのであって、本来の神の御心はそうではない、とはっきりと語られます。そして「神が結び合わせてくださったものを、人が離してはならない」と宣言されます。このイエスさまの教えからは、結婚がやむを得ない必要悪であるというような考え方は決して出てきません。結婚はむしろ神が二人を結び合わせ、一体としてくださることであって、そこには神の祝福がある。人間はその神による祝福を大切にすべきで、万やむを得ない場合以外には結婚を解消してはならない。パウロはこのイエスさまの教えに基づいて語り、教えています。
続く12節以下には、「主ではなくわたしが言うのですが」とパウロ自身の言葉として、夫婦の片方だけが信者であるケースのことが教えられています。
そこでも、信者である夫あるいは妻が、信者でない妻あるは夫と、信仰のゆえに離婚してはならない、と言います。信仰を共にすることができなくても、相手が共に生きることを望んでいるなら、別れてはならない。しかし、自分の信仰のゆえに相手が去っていくのなら、その場合には離婚することも仕方がない、と続けます。
ここに示されている基本的な姿勢は、信仰のゆえに結婚を軽んじたり、それを解消しようとすることがあってはならない、ということです。
当時、実際にそういうことがあったのでしょう。それに対してパウロは、それは正しい信仰のあり方ではない、と言います。キリストを信じる信仰者は、結婚を、たとえそれが信者でない人との結婚であっても、決して軽んじたり、解消しようとしたりするべきではない、それがパウロの教えでした。
■結婚に縛られない
12節以下には主(おも)に、既婚の人、特に信者でない妻を持つ夫、信者でない夫を持つ妻に対する勧めが語られていますが、初代の教会の時代、そのようなケースが沢山あったようです。そしてそれは、今の日本の教会、わたしたちの状況でもあります。夫婦の片方だけが信仰者であるというケースの方がわたしたちの中では圧倒的多数です。ここに語られていることはわたしたちにとって、とても身近な、また切実な問題であると言えるでしょう。
そんな問題の一つが、信者ではない相手が、信仰を持っている人間とはとても一緒には暮らせない、共に生きることなどできないと言って去っていく、という場合です。15節です。
「しかし、信者でない相手が離れていくなら、去るにまかせなさい。こうした場合に信者は、夫であろうと妻であろうと、結婚に縛られてはいません」
思わず「おやっ?!」と立ち止まりそうになる言葉です。ここまでのところでパウロは、信仰のために自分から結婚を解消してはならない、と繰り返し教えているからです。それなのに、ここでは信者でない相手が離れていくなら去るに任せなさい、つまり別れなさい、と言います。
おそらく結婚していた夫婦がいたのでしょう。二人とも信仰者ではありませんでした。ところがその夫か妻がキリストの言葉を聞いて、信仰を持つようになりました。しかし相手は理解してくれません。理解してくれないどころか、「クリスチャンになったあなたとは一緒に生活できない」と言って離婚を申し立てます。そのときには、その人の望み通りに別れなさいと言うのです。
そうすると、10節でパウロが伝えている離婚を禁止しているイエスさまの言葉に背くことになるのではないか、どう考えたらいいのであろうか。そういう問いが、コリントの教会からパウロの下に送られてきていたのかもしれません。そこでパウロが答えています。この中にとても大切な言葉があります。
「結婚に縛られてはいません」
この「縛られている」という言葉は、もともと「奴隷のように縛られている」という意味です。つまり、あなたたちは結婚という事柄の奴隷ではない、ということです。奴隷ではないということは自由だということです。結婚生活においてあなたたちは自由だ、自由な決断ができるはずだ、と言います。
■平和な生活を送るように
その上で、もうひとつここで大切なのは、15節後半の言葉です。
「平和な生活を送るようにと、神はあなたがたを召されたのです」
この原文はもっと簡潔な言葉で、「平和において、神はあなたがたを呼ばれた」という言葉です。「平和において」です。この「平和において」とは、神に呼ばれ、召されることによって初めて、平和、平安の中にあるということが確保される、そんな意味でしょう。
考えてみてください。今まで二人とも信仰を持っていなかったときの方が平和であったかもしれません。その内のどちらかが信仰を持ったために家庭に波風が立った。今まで仲良くやってきた結婚生活が崩れようとして、信仰が平和を破っている。
しかし、ここで言われている「平和」とは、そのような意味での平和ではありません。何よりも神との平和のことです。そして、その神との平和、神との和解、神との確かな絆を持ったときに、実は、相手に対しても自分が平和な態度を取ることができるようになる、ということでしょう。
その意味で、もっと興味深いのは16節です。
「妻よ、あなたは夫を救えるかどうか、どうして分かるのか。夫よ、あなたは妻を救えるかどうか、どうして分かるのか」
様々な解釈があります。読む人の立場や生活によって、変わってくるのかもしれません。ある人はこう考えます。自分だけが信仰を持って洗礼を受けた。この夫、この妻に対してどうしたらよいか。わたしたちが一所懸命に真面目に考えれば、伝道しなければならないと考える。わたしひとりが救われているわけにはいかない。わたしは夫も救わなければならない。わたしは妻も救わなければならない。そのように勢い込むが、それがうまくいかない。一所懸命に教会に行ってもらおうと思うが、夫はますます頑固になってしまう。そういう体験をしている方が、この中にもおられるかもしれません。
そのときにパウロが言うのは、それは、もしかするとあなたの思い上がりではないか、ということです。自分がどうして夫を救えると思い込んでいるのか。夫を救わなければいけないと勢い込むから、かえって夫に対して、あなたの心は穏やかではない、平和ではないのではないか。
ちょっと違ったニュアンスですが、ある人はこの言葉についてこういう読み方をします。あなたが夫を救えるかどうかが問題ではない。あなたが妻を救えるかが問題ではない。それは神がしてくださる。神になぜお任せすることができないのか、と。
■神に任せる
この神にお任せするということから、15節の前、14節の言葉を読んでみましょう。これも興味深い言葉です。
「信者でない夫は、信者である妻のゆえに聖なる者とされ、信者でない妻は、信者である夫のゆえに聖なる者とされているからです。そうでなければ、あなたがたの子供たちは汚れていることになりますが、実際には聖なる者です」
ここには、結婚する前か、結婚してからかどうか分かりませんが、信仰を持っていない人と信仰を持っている人が結婚生活をしていて、しかもこどもがいます。そのこどもは救われているのだろうか。おそらく、このこどもたちはまだ洗礼を受けていないのでしょう。パウロははっきりと言います。
こどもたちは「聖なる者」です。それは「清く正しい」という意味ではありません。もう「神のもの」だ、ということです。そして、もし、こどもが神のものだと信じられるのなら、まだ信仰を持ってくれない夫も、もう神のものとされていることを信じることができるのではありませんか、と。
こうした問題を抱えている家族、クリスチャンは、日本にとても多いと思います。夫が妻を会堂にまで車で運んで来てはくれるものの、中には入らずそのまま帰ってしまうとか、あるいは一緒に礼拝には出るけれども、なかなか洗礼は受けないとか、そのために妻が夫のために祈りながら悩んでいるということがあります。
そんなとき、わたしは少し冗談めかして言うことがあります。
あまり自分の夫の救いについて気を病まないほうがいい。たぶんあなたの夫は、自分の妻は自分の代わりに信仰まで持ってくれている。あれだけ妻が熱心に教会生活をしているから、わたしの魂も安全だと思っているかもしれませんよ。それならそれでもいいではないですか。夫が信仰を持つようになることをいい加減にするというのではありません。むしろ、そのことに気づかうことができれば、夫もまた安んじて洗礼を受けてくれる時が来るかもしれません、と。
けれども、パウロがここで言っているのは、そのようなことに先んじて信ずべきことがある、とある人がこう説明しています。
あなたが神との平安を得て、神との救いの契約の中にもうしっかり捕らえられているのなら、そしてあなたが愛し続け、そのために祈り続けている夫がいて、こどもがいるなら、その夫もこどもも神に決して見捨てられてはいない。神のものだ。そのように信じることが、ここでは許されている、と言います。
ここに、とても広やかな大きな心がありますし、その心の根底にあるのは、これこそ、深い平安であると思います。
その平和に向かって、わたしたちは召されています。いえ、もう平和の中にある者として、わたしたちが召されているのですから、何も心配することはないのではないでしょうか。そういう広やかなゆったりした思いで、まだ信仰を持てない夫や妻、またこどもと一緒に過ごしていれば、もしかすると、いえ、きっと神がそこで御心を行ってくださって、わたしたちの願いにまさる信仰の奇跡を呼び起こしてくださることでしょう。まるで何もかも自分がやらなければならないように、まるで自分が夫や妻やこどもの魂の救いの全部の責任を背負ってやらなければならないように思って、あくせくする必要はありません、苛立つ必要はないのです。
神は、何のふさわしさもないわたしたちを恵みによって導いてくださり、御子イエスがわたしたちの罪を全て背負って、十字架の苦しみと死を引き受けてくださったことによって、わたしたちを救いにあずからせてくださいました。わたしたちがこの信仰を与えられたことによって、わたしたちの家族にも、神の恵みの御手が差し伸べられているのです。
わたしたちはその神の恵みを信じて、広やかな心と希望をもって、家族のために祈り続けたいものです。