福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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3月17日 ≪受難節第5主日礼拝≫『喜ばれるために…』 コリントの信徒への手紙一 7章 25~40節 沖村 裕史 牧師

3月17日 ≪受難節第5主日礼拝≫『喜ばれるために…』 コリントの信徒への手紙一 7章 25~40節 沖村 裕史 牧師

■結婚の苦労

 今、パウロは未婚の人に対して、現状に留まっているのがよい、独身のままでいるのがよい、と教えます。それは、結婚に価値を認めないからでも、また結婚することが「罪を犯す」こと、信仰者として相応しくないからでもありません。彼は結婚を、神から与えられている祝福として大切にしています。「妻と結ばれているなら、そのつながりを解こうとするな」とある通りです。パウロは、結婚を信仰にそぐわないと考える人たちが信仰ゆえに離婚しようとしたり、相手を遠ざけたりしていたことに対して、結婚を、夫婦の関係を、たとえ相手が信仰者でなくても大切にするべきだと教えていました。

 ではなぜ、独身のままでいることを勧めるのか。その理由が28節後半です。

 「ただ、結婚する人たちはその身に苦労を負うことになるでしょう。わたしは、あなたがたにそのような苦労をさせたくないのです」

 結婚する者は苦労を負う。確かにこれは、誰もが味わうことかもしれません。結婚生活は決してバラ色のものではありません。生まれも育ちも違う二人が一つ屋根の下、生活を共にしていくということは、そう簡単なことではありません。また家庭を築き守っていくことは、独身で自分一人の生活のことだけを考えていればよかった時とは比べものにならない負担を背負うことです。こどもが生まれれば、子育ての苦労が加わります。結婚すること、およそ人と共に生きるということは本来、そういう苦労を背負うことです。

 しかしここで言われているのは、そうした苦労のことではありません。もしそうなら、パウロの結婚観は偏っていると言わなければなりません。結婚にそうした労苦が伴うことは事実ですが、そこにはまた、共に生きることの大きな喜びや慰め、確かな平安や充足があることも事実だからです。その喜びを見ないで苦労だけを見て、独身のままの方がよいと言うことは、偏った意見、偏見の誹(そし)りを免れないでしょう。今パウロが、「結婚する人たちはその身に苦労を負う」と言っているのは、そういうことではないようです。

 

■時は迫っている

 では、彼が言う苦労とは何でしょうか。ヒントとなるのが29節の言葉です。

 「定められた時は迫っています」

 同じような言葉が26節にもありました。「今危機が迫っている状態にあるので…」。パウロは、危機が迫っている、時が迫っているという意識を強く持っています。そしてそれが、現状に留まっているのがよい、独身のままでいるのがよい、という勧めの根拠なのです。

 時が迫っている、危機が迫っているとはどういう意味でしょうか。この世の終わり、終末のことです。 そしてそのことを、誰よりもはっきりと示されたのが、他ならぬイエス・キリストでした。

 「小黙示録」とも呼ばれるマルコによる福音書13章に記されているイエスさまの言葉によれば、定められた時が迫っているとは、この終末が近づいていることです。しかしそれは、恐ろしい破局が迫っていることではなく、むしろわたしたちの救いの完成、神の恵みの支配の完成の時が近づいているということでした。しかし、それがここで「危機が迫っている」と言われているのは、この救いの完成に伴う苦しみが見つめられているからです。

 その苦しみは、当時の教会の人々がすでに体験していたものでした。そしてわたしたちもその苦しみを今、別の形で体験しています。戦争の騒ぎや戦争のうわさは、今ひときわ高まっています。集団的自衛権の行使容認が閣議決定され、いつ戦争に巻き込まれてもおかしくないという不安を多くの人々が抱いています。「民は民に、国は国に敵対」することも世界各地で起っています。大地震が起り、聖書の時代の人々が知らなかった原発事故による放射能被害にも苦しんでいます。異常気象や食糧の問題、飢饉さえもが外交的な駆け引きの手段となるような時代になりました。また「平和憲法を守ろう」と叫ぶ青年は「利己的だ」と国会議員が批判するなど、自由にものが言えない社会になってきているようにも感じられます。福音書が書かれた時代に教会の人々が感じていた苦しみは、いつの時代にもあり、今のわたしたちにもあるのです。

 それら苦しみは、世の終わりが、神の国の到来が今、もうすでに始まっていることの徴です。世の終わり、神の国の完成がいつなのかは誰も知ることはできません。だからこそ、これらの苦しみが襲って来た時に「もうこの世も終わりだ」と慌てふためいてはならない、いや意外にも、「逃げなさい」とイエスさまは言われます。家に何かを取りに戻ることなく、一目散に逃げなさいと教えられます。そのように急いで必死に逃げていく時に、身重の女性や乳飲み子を持つ女性は不幸だ、そのことが冬に起るなら、より大きな苦しみが目に見えている、と語られます。恐ろしい大津波に襲われた東日本大震災では、まさにこの通りのことが起りました。それに加えて、目に見えない放射能からも逃げなければならず、身重の女性や乳飲み子を持つ女性たちは深い恐怖に慄(おのの)かなければなりませんでした。いつも弱い者こそが最も大きな苦難に見舞われる、そういう苦しみが、今も続いています。そうした苦難、苦しみこそ、「結婚する人たちはその身に苦労を負う」と言われていることの理由でした。

 

■終末を意識して生きる

 しかし、それだけではありません。「結婚する人たちはその身に苦労を負う」と言う時、パウロは、信仰生活と、結婚して家庭を持って生きることとの間に起ってくる、あるジレンマのことを考えています。

 結婚することによって、人は妻を持ち、夫を持ち、家庭を持つことになります。子どもも与えられていくでしょう。そのようにして、この世における人間の営みが広がり、深まっていきます。しかし信仰者は、この世の営みにどっぷりと浸って、それに心を奪われて、終わりの時が迫っていることを見失ってはなりません。イエスさまが、さきほどのマルコ13章の中で「目を覚ましていなさい」と繰り返されたように、この世の営みに深く関われば関わるほど、常にそこで、その終わりを見つめなければなりません。

 そこに戦いがあります。葛藤があります。結婚し、家庭を持つことによって、ともすればこの終わりを見失ってしまい、この世の生活に心が完全に奪われてしまい、目に見えない神の支配を信じ、世の終わりの救いの完成を待ち望みつつ、主に仕え従っていくということが疎かになってしまうことを、パウロは危惧しているのです。29節の後半から31節に語られているのは、そのことです。

 「今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです」

 「妻のある人はない人のように」。それは、妻があっても無視し、関わりを持たずに生きなさいということではありません。妻との関係、夫婦、家庭の営みは大切です。それは神からの祝福です。しかしそれと同時に、信仰者はそれが自分を救うのではないことを知らなければなりません。すべては終わっていくものです。夫婦の関係は終わっていきます。それは、この世の終わりを待たなくても、死のときも起ることです。どんなに仲の良い、ずっと一緒に歩んできた夫婦であっても、どちらかが先に死ぬということが起こります。人間の営みとしての夫婦、家庭はそのように終わっていくのです。

 しかしそれは、わたしたちの絶望ではありません。この世の終わり、人間の営みが終わるところに、神の業としての救いが完成することを信じるわたしたちは、夫婦の関係、家族の交わりを感謝しつつ、それに埋没してしまうことなく、その終わりを受け入れることができます。

 終わっていくのは夫婦の関係だけではありません。「泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように」と言われます。わたしたちは、この世の営みの中で、悲しみにうちひしがれて泣くこともあるし、喜びに有頂天になることもあります。しかしどのような悲しみも絶望ではないし、どのような喜びも救いの完成ではありません。それらはみな、終わっていくものです。それらが終わるところに、神が与えてくださる救いが実現するのです。

 また「物を買う人は持たない人のように」とも言われています。買うとか持つという人間の経済的な営み、所有、それらも、この世と共に終わるのです。この世でどんなすばらしものを持っていても、それがわたしたちの救いにはなりません。それもまた、自らの死を見つめれば、はっきりとわかることです。わたしたちがこの世で持っているもので、あの世にまで持っていけるものは何ひとつないのです。わたしたちは死によって、この世のすべてを失います。しかしそのようにわたしたちの一切の所有が失われるところにこそ、神の救いの業が実現するのです。そこでは、わたしたちが何かを所有するのではなく、神がわたしたちをご自分のものとして所有してくださるのです。

 だからこそ、「世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです」と言われます。この世の事柄は終わるものだということを、いつも覚えていなければなりません。もはや、結婚するかしないかという問題ではありません。結婚していようと独身であろうと、この世の事柄、人間の営みに埋没してしまうことなく、常にその終わりを見つめ、そこに与えられる神の救いを待ち望みつつ生きることが求められています。

 大切なことは、それぞれが、この世の営みには救いがないことを醒めた目で見つめつつ、世の終わりにおける救いの完成を待ち望む確かな希望をもって、自分に与えられているこの世の生活を精一杯生きていくことです。

 

■思い煩い

 では、それでもなお、結婚しない方がよいとパウロが言うのはなぜでしょう。その理由の一つが32節です。彼はここで「思い煩わないでほしい」と言っています。結婚は思い煩いを生むということです。その思い煩いとはどういうものでしょう。 32節の続きにこう語られています。

 「独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣いますが、結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣い、心が二つに分かれてしまいます。独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心を遣いますが、結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を遣います」

 思い煩うとは、心を遣って、心が二つに分かれてしまうということです。いろいろなことで心配し、どうしようどうしよう、と心が乱れてしまうことが思い煩いです。パウロは、結婚することで、そのように心が二つに分かれてしまうと言います。

 何によって心が分かれてしまうのか。それは、生活の上の具体的な問題のためではなく、誰に喜ばれようとして生きるかということによってです。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと主のことに心を遣いますが、結婚した男は、どうすれば妻に喜ばれるかと世の事に心を遣います。そうして、主に喜ばれようとするか、妻に喜ばれようとするかということの間で、心が二つに分かれるのです。それは女も同じです。

 しかしここでも、パウロは結婚している男や女が妻や夫を喜ばせようとして心を遣うことを罪だと言っているのではありません。結婚生活の中で、相手を、自分の妻や夫を喜ばせたいと願い、そのために尽くそうとすることは自然なことです。それは旧約聖書にも語られる神の御心です。 結婚生活とは、互いに支え合い、互いを喜ばせるための生活に入ることです。それが結婚する者に神から与えられている義務です。 と同時に、主を喜ばせ、主に仕えて生きることも、信仰者の当然の義務です。これはどちらもなすべきことです。

 どちらもが正しい、なすべき二つのことを背負うことになる、それが結婚です。その二つのなすべきことの間で心が二つに分かれてしまう。そこに思い煩いが生まれるのです。主に喜んでいただき、主に仕えようとすることと、夫や妻、家族を喜ばせていくこととの間に、時に食い違いが起こり、矛盾が起こる。その矛盾に苦しむことが起こっていくのです。

 これが、「結婚する人たちはその身に苦労を負うことになるでしょう」とパウロの言う、もう一つの理由です。パウロは、このような思い煩いはできるだけ少ない方がよい、そのために独身でいる方がよい、と言っているのです。

 従って、それは人を束縛する掟ではありません。パウロの教えの目的は、結婚することがいいとか悪いとかいうことではなく、35節の後半にある「品位ある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるため」です。この「品位ある生活をし、ひたすら主に仕える」ということこそ、パウロが結婚している者にも、未婚の者にも求めていることです。

 「品位ある生活をし」とは、直訳すれば「美しい姿で」ということです。パウロは、キリストを信じて生きる信仰者の生活が、美しい姿になることを願っています。その美しさとは、どのようなものか。それは、思い煩いがないことです。「心が二つに分かれない」ことです。主に仕え、主に「喜んでいただく」ことに集中している姿です。それが「ひたすら主に仕える」ということです。まっすぐに主に仕えて生きる。そこに、信仰者としての美しい姿がある。そのような美しい姿で生きるためには独身でいた方がよい。独身の方が主に喜ばれることを求め、主のことに心を用いることができる。それがパウロの意見です。パウロ自身はそのような思いによって、独身を貫きながら、主に仕えていたのでしょう。

 

■主に仕える

 そしてここで注目していただきたいのは、「ひたすら主に仕えさせる」と言っているその「仕える」という言葉です。この言葉は、「品位ある」という言葉の場合と同じく、「美しい」という意味を表す言葉がまずあり、そこに「傍らに座っている」という言葉が付け加えられたもので、「美しく、傍らに座っている」という意味の言葉です。主の傍らに美しく座っている、あるいは、主の傍らに座っている姿こそ美しい、そういうことをこの言葉は示しています。

 ルカによる福音書10章38節以下の「マルタとマリア」の話を思い出します。イエスさま一行がある家の客となったとき、その家のマルタが一行の接待のために忙しく立ち働いていました。ところがもう一人の姉妹マリアは、主の足もとに座って、その話に聞き入っていました。マルタが、マリアはわたしにばかりもてなしをさせています、手伝うようにおっしゃってくださいと言うと、イエスさまは「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」と言われた、そんな話です。

 「多くのことに思い悩み、心を乱している」。これは心が分かれて思い煩っているということです。マルタは、イエスさまのために忙しく立ち働いているつもりでいましたが、それが実は思い煩いでしかなかったのです。本当に必要なことはただ一つ、主の傍らに座ってみ言葉に聞き入ることでした。

 パウロが言う「品位ある生活をし、ひたすら主に仕える」とは、このことです。 わたしたちは、結婚するにせよ、独身であるにせよ、この本当に必要なただ一つのことを見失うことなく歩みたいものです。そこにこそ、品位のある、本当に美しい生活が生まれるのです。本当に美しい、品位ある姿は、わたしたちがイエス・キリストの傍らに座って、その言葉に聞き入りつつ、ひたすら主に仕えていく者となるところにこそ、実現していくのです。