≪お話し(こどもとおとな)≫
■「エヴァンゲリオン」は「よい知らせ」
イエス・キリストの生涯(しょうがい)をくわしく書いているのが、新約(しんやく)聖書(せいしょ)の最初にある四つの「福音書(ふくいんしょ)」だってこと、知っていますか?聞いたことある、教えてもらったという人も結構(けっこう)いるんじゃないかな。その四つの福音書の中で、最初に書かれたのが「マルコによる福音書」だって言われていて、そこにはこう書き始められています。
「神の子イエス・キリストの福音の初め」(マルコ1:1)
これは、「これから書こうとしているのは、神様のこども、イエス・キリストの福音についてだ。その始まりはこうだ」っていうこと。新約聖書は、もともとはギリシア語で書かれていて、「福音」という言葉のギリシア語は「ユウアンゲリオン」。「ユウ」は「よい」、「アンゲリオン」は「知らせ」で、「よい知らせ」という意味になります。「イエス・キリストのよい知らせの始まり、始まり~!」ってことだね。
■アニメ・『ヱヴァンゲリヲン』
そして、「福音(よい知らせ)」=「ユウアンゲリオン」の英語読みが「エヴァンゲリオン」です。
「エヴァンゲリオン」。50代以下の人で、この言葉を知らない、聞いたことがないって人はまずいないでしょう。『エヴァンゲリオン』というのは、1995年から1996年にかけてテレビで放送(ほうそう)された、ぜんぶで26話(わ)のテレビアニメのタイトルです。放送された後、2021年までの間に7本のアニメ映画がつくられ、日本の第3次アニメブームのきっかけになりました。その影響(えいきょう)は今では日本から世界へと広がっています。
今から見てもらうのはその映画の一つ、2007年9月に上映(じょうえい)された『ヱヴァンゲリヲン新劇場版・序(しんげきじょうばん・じょ)』の最初のところ。あらすじはこうです。
ときは2015年、人類(じんるい)は、南極の氷が溶け出して海水面が上昇(じょうしょう)し、世界中の多くの都市が海の中に沈んでしまうセカンド・インパクトと呼ばれる世界的危機(きき)から、ようやく立ち直ろうとしていました。
そこに登場するのが主人公の碇(いかり)シンジ。両親と離れて暮らす14歳の少年です。自分の存在価値(そんざいかち)を見いだせない彼はこの先、誰とも関(かか)わらず、孤独(こどく)に生きていくことになる、そう思っていました。この物語は、そんな寂(さみ)しい少年シンジが父親に呼び出されて、箱根(はこね)の山の中に建設中(けんせつちゅう)の未来都市(みらいとし)、第3新東京市を訪れる所から始まります。
何も知らされないまま迎えを待つシンジの前に、正体不明(しょうたいふめい)の巨大生物が突然(とつぜん)現れます。それは「使徒(しと)」と呼ばれる、人類を襲(おそ)う未知(みち)の生物でした。シンジを迎えにやってきたのは葛城(かつらぎ)ミサト。彼女は、国連直属の「特務機関(とくむきかん)ネルフ」と呼ばれる、使徒殲滅(せんめつ)のための秘密組織の職員でした。見ず知らずの大人に連れられシンジは、ネルフの奥深くにある第7ケージまでやってきます。そこに待っていたのは、父親である碇ゲンドウと、エヴァと呼ばれる「汎用(はんよう)人型決戦兵器人造人間」のエヴァンゲリオンでした。
街を破壊(はかい)していた「使徒」を、このエヴァに乗って殲滅する。それがシンジに与えられた父からの任務(にんむ)でした。いきなりの任務にパニックになるシンジ。エヴァへの搭乗(とうじょう)を拒否(きょひ)します。そこで父ゲンドウは、実験で怪我(けが)を負ったもうひとりのパイロット、綾波(あやなみ)レイを呼び出します。自力(じりき)で立つこともできない少女がエヴァに搭乗しようとする姿を見たシンジは、エヴァに乗って戦うことを決意します。こうして初めてエヴァに乗り、命(いのち)からがら使徒を殲滅するシンジでした。
では、ここまでのシーンを見てもらいます。
さて、エヴァに乗れるのは、特務機関ネルフに認められ、エヴァと交信のできる、ごく一握りの少年少女だけ。はたして彼らは使徒の企(たくら)みを阻止(そし)して人類を救うことができるのでしょうか。結末(けつまつ)は、どのようなエヴァンゲリオン、「福音」になっているのでしょうか。
このアニメ、「使徒」だの「アダム」だの「死海文書(しかいぶんしょ)」だのと、新約聖書のキーワードに満ちあふれています。また登場する「使徒」にはそれぞれ名前がつけられていますが、その名前のすべて、聖書偽典(ぎてん)と呼ばれる文書(ぶんしょ)のひとつ、エノク書に出てくる天使の名に由来(ゆらい)しています。これ以外にも、聖書に由来する言葉がたくさん出てきますが、大切なのはやっぱり「エヴァンゲリオン」です。「福音」「よい知らせ」です。
■あなたのことを愛してる!
聖書の「よい知らせ」って何でしょう。神の子であるイエス・キリストが、悪の支配を打ち破り、すべての人を罪から救い出し、苦しみや悲しみ、不安や恐れから解放してくださるってことです。イエスさまが告げられた福音、それは「神の国が近づいた」ということでした。「神様の愛の手が、神様の救いが今ここにもたらされている」という、新しい世界、救いの到来を告げる「よい知らせ」のことです。そんな福音の言葉が、さっき読んだ聖書の中にもありました。45節のイエスさまの言葉です。
「父は悪人(あくにん)にも善人(ぜんにん)にも太陽を昇(のぼ)らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降(ふ)らせてくださる」
神様は、いのちを与えてくださった人すべてに、分け隔(へだ)てなく、どんな人にも愛を注ぎ、恵みを備(そな)えてくださってる、って言います。「こんなわたしなんか」「だれも愛してくれるはずない」と、自分のことを大切にできずにいるわたしたちに、神様は「あなたのことが大切」「あなたのことを愛してる!」って言ってくださるのです。そして、だから「あなたも、今、嫌っている人のことを大切にしてほしい」「互いに大切にし合って、平和に暮らしなさい」と教えてくださるのです。それこそが「イエス・キリストの福音」でした。そんな「福音」をもたらして人類を救うという意味で、アニメの「エヴァンゲリオン」というネーミングはぴったりのものでした。
≪メッセージ(おとな)≫
■イエスは貧しい者の味方—『デッドマン・ウォーキング』
さきほどお話をしたように、聖書の中にさえ、イエス・キリストの伝記が四つもあるのですから、二千年に及ぶキリスト教の歴史の中に、無数のイエス・キリストに対する解釈が生まれても当然と言えば当然です。実際、神の子から始まって、人類の預言者、無限の愛の人、禁欲的な宗教家、はては革命家からヒッピーと、実に様々な仕方でイエスさまは語られてきました。
このあと見ていただく映画、『デッドマン・ウォーキング』(1995年)の中で、シスター・ヘレンが死刑囚のマシューに説いているのは、貧しい者と共に生きたイエスさまでした。
ご覧いただく前に、少しご紹介をしておきましょう。
修道女のヘレンは、死刑執行を三日後に控えた殺人犯マシューと、イエスさまのことを語り合います。マシューは―この名は聖書のマタイの英語読みです―「神の御子」「地上で善を行ない、天の国へと昇りたもう方」と、教会学校で習うような正統的な理解で答えたのですが、ヘレンはそれに満足しません。十字架での処刑を前にしたひとりの人間として、イエスさまのことをもっと考えてちょうだい、そう言ってから、彼女はイエスさまが「反抗する人間が好きだったのよ」と付け加えました。
馬鹿を言っちゃこまる、そんな話はこれまで聞いたこともないぜ。マシューが思わず、ふふんと笑うと、ヘレンは大真面目で「危険人物だったのよ」と言って、こう説明しました。
「売春婦、貧乏人、物乞い。愛に無縁の人々がはじめて愛を知り、自分自身にめざめたの。誇りを得た彼らは強くなり、それを不安に感じた支配者がイエスを殺したのよ」
シスター・ヘレンが語ったイエス・キリストは、その当時のユダヤ社会では、社会的にも宗教的にも「無資格者」となっていた人々、犯罪者呼ばわりされていた人々にこそ、神の愛があらわれると説いた、解放者としての姿です。イエスさまはこのために、当時の有資格者—ファリサイ派や祭司といった「敬虔で正しい者」を自認する人々から危険視され、ついに十字架につけられたのでした。シスター・ヘレンが口を酸っぱくしてマシユーに言っていたのは、イエス・キリストは疎外された者たちのために神から世に遣わされた人、だからあなたを決して見捨てない、ということでした。
では、ここで映画を見ていただきましょう。
マシユーは最後のぎりぎりのところで、自分が犯した過ちを告白して死刑台にのぼりましたが、この映画は死刑制度の是非というテーマを掲げて、社会的に大きな波紋を投げかけた映画でもありました。実際に幾人もの死刑囚たちに付き添い、そのカウンセラーをした修道女シスター・ヘレン・プレイジョーンの同名の本をもとにした作品なので、とても説得力があります。この脚本を書き、制作・監督をしたのは、『ショー・シャンクの空に』(1994年)で高く評価された、俳優のティム・ロビンス。死刑制度という非常に重い主題を扱いながら興行的に大成功を収めたのも、加害者と被害者それぞれの立場を公平に、しかも入念に描き切った結果です。若い男女を惨殺した死刑囚の孤独と死への恐怖。肉親を殺された遺族たちの、決して癒すことのできない悲しみと犯人への憎しみ。そして社会から冷たい目で見られる死刑囚の家族たち。そうした立場の異なる人々の間で揺れ動くシスターの心の葛藤と、カウンセラーとして死刑囚に寄り添う尋常ならざる勇気が、そして愛が誠実に描かれています。
死刑執行までの時間が刻々と過ぎていく中で、死刑囚のマシユーは自らの心の遍歴を辿ります。不幸な家庭に生まれたことから社会に対する憎しみが消えず、あくまで犯行を否認し続け、そのことでまた自分を偽って無罪になろうとする。そんなマシユーが恐怖と苦悩に翻弄されながらも、シスターの努力によって、ついに閉ざされていた心の扉を開き、愛を知り、人間としての感情に目覚める。衝撃のラストシーンで、死刑囚マシユーの横たわった姿は、両手を十字架上に広げたキリストの姿でした。
法とは何か、正義とは何か。そして国家が行う殺人である死刑制度とは?死にゆく死刑囚の姿は、わたしたちに根源的な問いを投げかけています。
■できる限り
そんな根源的な問いと重なるようなマタイ福音書の言葉、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」、このイエスさまの教えの美しさに心打たれながらも、後ずさりしそうなわたしたちに、パウロがイエスさまの言葉を言い換えるようにして、こう言っています。
「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい」
ローマの信徒への手紙12章17節の言葉です。「心がける」とは、あらかじめ考える、用意する、心をくばる、という意味です。「善」とは、化粧や芝居のことではありません。心の内の善が外に滲み出て美しい言葉となり、よい行いとなることです。気高く凛とした姿、その行為です。見えない神への愛と信仰と服従とにつながるものです。たとえ人の悪に直面しても、仕返しではなく、その人が神に心を開くよう、少なくとも神に心を向けるべき責任を負うよう、そのような心と善い行いとを用意せよ、ということです。
そして「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」と続けます。直訳すれば「あなたがたとしては」です。相手の人がどうであれ、この世の仕方が何であれ、あなた自身としては、「できる限り、すべての人と平和に過ごしなさい」と言います。
わたしたちはいつも、独りよがりと無知と利己心と虚栄と傲慢に苦しめられています。そして自分の中に、恨みや不満や軽蔑や怒りや憎しみが働いています。この世には、いろいろな矛盾や罪や不信や無神がわが物顔に活動しています。わたしたちはその渦の中にあります。それでも、そのすべてから守ってくださる方がいるのです。この世に生まれ、苦しんで死なれたけれども、神によって甦えらされたイエス・キリストです。これが、聖書の中心となるメッセージ、福音です。
だからこそ、わたしたちもイエスさまの言葉に従いたいと願います。「できれば」「できる限り」です。絶対にというのでありません。平和には相手があります。相手が平和を求めなければ仕方がありません。自分の方では、できる限り、努めて仲よく、和らいで、平和であるように努力する。もうこれでいい、これ以上は自分としては我慢がならないと言わないで、自分の方では、最後まで「できる限り」努力しなさい。聖書はそうわたしたちを励まします。
神が、イエスさまがわたしたちに一切の復讐を禁じられるのは、人間が弱いからではなく、人間が限りなく美しく、尊い、かけがえのないものとして創られたからです。その生涯はたとえ短く、弱く、汚れているように見えたとしても、一瞬でも取り返しのつかないほど、大切なものだからです。それぞれに自分自身を、またその一度限りの時間と生涯を大切にしなければなりません。どんなに辱められ、害を加えられても、いちいち腹を立て、復讐を思い続けて、いのちを消耗する愚かさを夜まで続けてはなりません。
気がついたらすぐに祈りましょう。神は、このわたしを愛してその独子を賜ったのです。そしてわたしたちの心も体も、持っているすべてのものも、キリストのもの、神のものです。自分の怒りや復讐、利己心や欲望のためではなく、愛と真実とをもって人に仕え、ただ神の栄光のためにのみ、用いるべきものです。福音の言葉はそのことをわたしたちに教えてくれています。