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8月11日 ≪聖霊降臨節第13主日礼拝『自然って何?』 コリントの信徒への手紙一 11章 2~16節 沖村 裕史 牧師

8月11日 ≪聖霊降臨節第13主日礼拝『自然って何?』 コリントの信徒への手紙一 11章 2~16節 沖村 裕史 牧師

 

■意外な返答

 コリントの教会に仲間争いや対立があったことが、何度も語られてきましたが、そのような争いが礼拝の中に持ち込まれたため、礼拝が混乱していたようです。11章から14章にかけてパウロは、教会の礼拝が「すべてを適切に、秩序正しく」(14:40)行えるよう、使徒として指導しています。そうした礼拝問題のトップバッターとして取り扱われたのが今日の箇所、女性が礼拝の中で祈ったり、預言したりするとき、頭に物をかぶるべきか否かということでした。

 冒頭、パウロは「あなたがたが、何かにつけわたしを思い出し、わたしがあなたがたに伝えたとおりに、伝えられた教えを守っているのは、立派だと思います」とコリントの人々のことを褒めています。パウロはここで、コリントの人々が彼に手紙で書いてきたことに答えているようです。その手紙の内容について、ヘイズという学者が、恐らくこんなことを書いていたのではないかと想像を膨らませます。

 「親愛なるパウロ。わたしたちはあなたのことを懐かしく思い出し、またお会いしたいと願っています。わたしたちのある者は、あなたから受けた伝承を守ろうと頑張っています。キリストにおける洗礼についての伝承では、もはや男も女もない(ガラテヤ3:27-28)と教えられました。わたしたちが礼拝に集まった時は、女性も共同体の中で男性と同じ役割を果たし続けていることを、ご報告したらきっと喜んでいただけると思います。あなたがわたしたちと共にここにいらした時と全く同じように、女性も集会では霊によって激励され、祈り、自由に預言しています。けれどもこの点について議論が起こっています。自由に霊の力において振る舞っている女性の中で、預言する時に、頭のおおいを取り、髪を下ろす者が出てきました。キリストにある自由を表すためです。共同体の中でも臆病で、保守的な者はこれに反対しています。女性が人前で髪を下ろすのは、見苦しく、不名誉なことだと考えてのことです。ところで、わたしたちの大部分は、あなたがこの行いに必ずや賛成するだろうと信じています。なぜなら、これはあなたから受けた伝承が真実であることの、外に向かった目に見えるしるしだからです。このことに関して、直接あなたが何か批評をしてくださったら幸いです。どんな疑いも晴れることでしょう。いつまでもあなたの忠実な信奉者より」

 しかし、パウロの返答は意外なものでした。3節、

 「ここであなたがたに知っておいてほしいのは、すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神であるということです」

 男女平等を掲げる者には、聞き捨てならない言葉から始まります。「かしら」と聞くと、何かしら上下関係、縦の関係を連想してしまいます。ただ、ここでは上下関係を連想する必要はありません。むしろここは、「代表している」と訳した方がよいかもしれません。夫婦がホテルに宿泊する時に、夫が妻を代表して署名する、というような具合です。二人の人、または二つのグループがある場合、だれか代表を決めなければなりません。神の創造の秩序においては、男性が女性の代表となるとパウロは言っているのであって、男女の優劣を論じているわけではありません。

 とはいえ、パウロの返答は明らかに手紙を書いた人々の期待を裏切るものです。問題は、パウロがこの後語る、その「創造の秩序」です。

 

■かぶり物

 その前に、続く4節から6節のパウロの言葉に目を留めておきましょう。ここで語られていることこそ、女性が祈ったり、預言したりする際に頭に物をかぶるべきかどうか、ということでした。

 第一に注目いただきたいのは、コリントの教会の礼拝では、女性も男性と同じように祈ったり、預言したりしていること、またそのことをパウロは承認しており、女性のそのような働きを制限したり、抑制しようとはしていない点です。旧約時代にも女性の預言者はいましたが、イエス・キリストの救いが到来し、聖霊が降った今は、男女の間に霊的次元での優劣、差別は存在しないということです。そのことは、ガラテヤの信徒への手紙3章28節にもはっきりと語られていました。

 「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」

 この言葉は、他の世界的宗教、例えば仏教やイスラームと呼ばれている宗教と比べても、どれほど革命的であることでしょう。わたしたちプロテスタント教会では、女性牧師や役員がいるのは当たり前のように思われますが、伝統を重んじる他の教派には、女性の聖職者や役員を教会が生み出すのは容易ではありません。女性の聖職者を認めるか否かは、教会の分裂を引き起こすほどの重大事です。逆を言えば、男女が共に同じ霊的祝福と霊的働きを受けているということが、どれほどの恵みであるかが分かります。

 次に、女性が礼拝の中で祈ったり、預言したりするとき、「頭に物をかぶる」ことが、なぜ求められているのか。その理由としてパウロが持ち出している論拠はいくつかありますが、注意していただきたいのは、「かぶり物」とはそもそも何のことを言っているのか、ということです。

 伝統的な解釈によれば、それは女性が頭にヴェールをかぶることであるとされてきました。しかし原文をよく読んでみると、「ヴェール」という言葉は一度も出てきません。単に、頭を覆うか、覆わないかが問題とされているのです。そこから出てきた最近の有力な解釈は、女性が髪を結ばないでいることが物をかぶらないことであり、髪を結んで頭の上に括っておくことが物をかぶることだ、というものです。そう受けとめると全体が分かり易くなります。

 コリントの女性のある人たちは、「すべてのことが許されている」という自由と解放を表現するために、礼拝中に髪を結ばないで祈り、み言葉を語っていたと考えられます。しかし公共の場で髪を結ばないことは、当時の文化や慣習からすると恥ずべきことであり、娼婦の姿を連想させました。ルカによる福音書7章36節以下にも、「後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」「一人の罪深い女」の話が出てきますが、この女が髪の毛をほどいて、それでイエスさまの汚れた足を拭うという行為を受け入れたイエスさまのことを、ファリサイ派の人が厳しく批判しています。ユダヤでも、女性が人前で髪の毛を解くことはありません。あるとすれば、それは娼婦など卑しい女のすること、まさに「罪の女」であることのしるしでした。

 この段落に「侮辱する」「恥ずかしいこと」「恥」といった言葉が何回も出てくることに気づかされます。パウロは、女性が礼拝中に髪をきちんと結んでいないことが、教会という神の神殿で祈ったり、み言葉を語ったりするのにふさわしい姿なのかどうか(13節)を問題にし、またその姿が当時のコリントに数多くいた神殿娼婦と呼ばれた女性たちのことを連想させ、教会が当時のギリシア・ローマ世界の中で恥をもたらすようなこと、あらぬ誤解を招くようなことをしないように、という意図があったのでしょう。

 そのことで、教会内に混乱と対立が生じることがないように、別の言葉で言えば「教会を建てる」ということが、パウロの発言の意図であったのだろうと思われます。

 そして、その勧めは女性だけではなく、男性に対しても与えられます。

 「男はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶるなら、自分の頭を侮辱することになります」

 男が女のまねをするということです。創造の秩序に反した、不自然なことをする。それは自分自身のことを侮ることになるのではないか。それに対して、女もまた集会で自由に話すことはできるけれども、そこでも髪を結びなさい。もし、そうしないのなら、髪の毛をそり落とすように、女性が女性であることを否定するようなことになるのではないか。髪の毛を切ることは、女にとって恥ずかしい、女にとって、創造の秩序に反すること、不自然なことをすることになるのではないか。そう言います。

 髪型、服装には、長い間の民族的、宗教的な伝統がありますので、現代の自由な社会や地域からの一方的な批判は保留することも必要です。今でも、ユダヤ教では祈るときには男も女も頭につけ、イスラム教では女性のヴェールが常用化し、イスラム原理主義が権力を握るアフガニスタンでは、ヴェール撤廃運動が命がけであることも知っておくことが大切でしょう。フランスがナチスから解放された直後、ドイツ人と通じた女性が市民から丸坊主にされるリンチを受けたこともありました。髪は女性にとって貴重なしるしであり、「女にとって髪の毛を切ったり、そり落としたりすることが恥ずかしいことなら…」(6節)という感覚は、スキンヘッドの女性が受け入れられている現代はともかく、ほんの数十年前までずっと変わりがありませんでした。

 

■創造の秩序

 そう語りながらパウロが思い起こすのは、神がわたしたちをどのように造ってくださったのかということです。問題の核心となる「創造の秩序」「自然」とは何か、ということです。7節です。

 「男は神の似姿であり、神の栄光の現れ」であるのに対し、「女は男の栄光の現れ」だ、とパウロは言います。しかし、創世記1章27節には、「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」とあります。神のイメージ、神の似姿に創造されたのは男だけでなく、「男と女」だとはっきりと書かれています。ですから男だけが神の栄光を映し、女は男の栄光を映す存在だ、というわけではありません。聖書的にもそうですが、男女平等の意識が進んだ今日ではなおのこと受け入れがたい箇所だと言えるでしょう。パウロが今、思い出しているのは、創世記2章18節以下です。

 「主なる神は言われた。『人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。』…主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」」

 この箇所を念頭にパウロは言います。7節から8節です。男から女が生まれた。だから、「女は男の栄光を映す者」として神の栄光を映すのだ。男が女から出てきたのではなくて、女が男から出てきたという順序がある。男が女のために造られたというのではなく、先に男があって、その男を助けるために女が造られたという順序があるのだ。それが創造の秩序だ、と。

 現代のフェミニストが聞いたら卒倒しそうな言葉ですが、このパウロの教えは、コンテキスト・文脈を無視した聖書理解に基づくもので、非常に保守的で、また多くの問題を抱えていると言わざるを得ません。

 その最も大きな問題は、男と女の位置づけです。まず、アダムが創られ、「人」と呼ばれています。創世記1章27節に「神は御自分にかたどって人を創造された」の「人」が「アダム」です。原文には「ハ・アダム=その人」と定冠詞付きとなっています。人は、漠然と創られたのではなく、その人として、かけがえのない存在として創られたことを示すものです。

 その「人」アダムが出会う相手として、女が創造されます。そうすると、パウロと同じように、「人」とは男のことで、女は「人」ではないのかということになって、男性中心の、女性を人間と思っていない古代の差別的感覚がここにはある、と読まれてしまうことになります。

 しかしこのことは、男こそが本来の人間であり、女は補助的な存在にすぎない、ということを意味しているのではありません。神は「彼に合う助ける者を造ろう」と言われます。この「彼に合う助ける者」とは「彼のために、ふさわしい者」「彼に向き合えるような者」という意味です。互いに向かい合って、相手のことを見つめつつ共に生きる、そういう存在です。「助ける者」とは、どちらかが主体でもう一方は補助者ということではありません。向かい合って、互いに助け合って生きる相手です。言わば、「ヘルパー」ではなく「パートナー」です。神は人間のために、そのようなパートナーを造ろうと言われたのです。

 そしてついに、人間アダムは女と出会うことによって男となり、向かい合って共に生きるパートナーを見出します。そのようにして人間は男と女という「性」をもって生きる存在となった、と創世記は語ります。とすれば、男が先に造られ、女が後から造られたことは、上下関係を意味するものではありません。この時点で、「人」は初めて「男」となります。これまでは単にハ・アダムだったものが、「女」に向き合うときに「男」と呼ばれるようになるわけです。アダムは、神が造ってくださった女との出会いにおいて初めて、自らが男であることを知った、と言ってもよいかもしれません。考えてみれば当然のことです。男しかいなかったら、そもそも男であることに意味はないのです。逆も同じです。どちらか片方だけなら、「人間」という言葉だけで済むのであって、男とか女という区別はいらないわけです。男は女との関係において初めて男なのであって、女は男との関係において初めて女なのです。神が人間を、男と女という「性別」を持った者としてお造りになったのは、男は女と、女は男との出会いと交わりに生きるためです。そのようにして人間は、自分と同じ人間でありつつ、自分とは全く違う他者との出会いと交わりに生きる者とされているのだ、ということです。それが創世記2章の語っていることです。

 

■あるがままの、神に喜ばれる礼拝

 パウロもまた、男と女を、神の創造の秩序によって異なった存在として造られている、そう考えているように思えます。たしかに、男と女がいろいろな面で異なっていることは誰もが認めるでしょう。しかし、男が女の上にあるように言われると反発を覚えざるを得ないというのが、現代人の感覚だと思います。

 さきほどもご紹介したガラテヤ書にあったように、パウロは、人種や民族、社会的階級や身分、性別の違いを乗り超える革命的とも思えるほどの見方を示しながら、実際上は人種、社会的身分、性別の違いをしっかり意識しているように思われます。これはどういうことなのでしょうか。

 続く11節から12節です。やっと、わたしたちにも共感できる言葉が出てきます。

 「とはいえ、主にあっては、女は男を離れてあるものではなく、男も女を離れてあるものではありません。女が男をもとにして造られたように、同様に、男も女によって生まれるものだからです。しかし、すべては神から発しています」

 男女の相互性、同質性が謳われています。男と女はどっちが上か、というようなことは、神のみ前では虚しい問いです。しかし、神は男と女を異なる存在として造られたのも、紛れもない事実です。ですから、その創造の秩序を尊重するように、とパウロは締めくくります。14節以下です。

 「男は長い髪が恥であるのに対し、女は長い髪が誉れとなることを、自然そのものがあなたがたに教えていないでしょうか。長い髪は、かぶり物の代わりに女に与えられているのです。この点について異論を唱えたい人がいるとしても、そのような習慣は、わたしたちにも神の教会にもありません」

 パウロが言いたいことは、主にあって男女は平等である、優劣はない、男女とも礼拝で積極的な役目を果たすべきだということと同時に、神が定めた男女の違いということも尊重しなさい、ということでした。特に、わたしたちは来るべき時代を、希望をもって待ち望みつつも、いまだに古い時代に生きているという現実を、しっかりと受け止めなければなりません。わたしたちは、この世界に備わっている創造の秩序、あるがままの姿というものも尊重しなければなりません。と同時に、それが「自然だよね」「当たり前だよね」という言葉に対して、いつも、十二分に気を付けなければなりません。来るべき時代を待ち望むものとして、今の時代が持っている問題、ジェンダーの問題や身分や階級の問題などを、争いや対立、暴力や破壊によってではなく、平和的に克服していく努力をする責務、使命がわたしたちには与えられています。わたしたちは今の時代と来るべき時代が重なりあう、緊張感のある時代に生きています。そのような時代認識を下に、パウロもまたそうした生きていた時代の文化や価値観の枠、限界の中に生きていたことを前提に、この手紙を改めて受け取り直すべきではないでしょうか。

 パウロの今日の教えの目的は、「秩序ある、神に喜ばれる礼拝」とはどのようなものかを示すことでした。女性は頭にヴェールやかぶりものをすべきだ、というある種のルールを定めることがパウロの目的ではありませんでした。むしろ、神に喜ばれ、またこの世界にも好感と良い影響を与えるような礼拝を捧げることこそがその目的でした。わたしたちの時代にも、わたしたちの生きる時代に相応しい礼拝のあり方があるはずです。それは神に喜ばれ、礼拝者の徳を高め、また周囲の人々からも厚意を得られ、共に平和をつくっていくことのできるような礼拝です。そのような礼拝のためにこそ、上からの知恵を求めて参りたいと願うものです。