■最も大切なこと
パウロは、コリント教会の中にキリストが復活されたことを否定している人たちが存在することを聞いて、驚きと憤りを感じ、キリストの復活こそ福音の中心であると語ります。
「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです」
パウロはこう語り、具体的に「聖書に書いてあるとおり」と二回くり返し、キリストが「わたしたちの罪のために死んだこと」「葬られたこと」「三日目に復活したこと」をあげています。
この言葉は、パウロがエルサレム教会の人たちから「受けたこと」であること、つまり、最初期の教会に伝えられていた信仰告白の、その中心にあったものであることが分かります。
「復活したこと」という言葉は、「復活させられた」と受け身の形で、しかも完了形で語られています。復活は神によりなされたことであり、かつ復活は過去の出来事ではなく、イエス・キリストは今も生きておられることが、継続を意味する完了形によって示されています。
その復活のキリストが、ケファことペトロをはじめ、十二使徒に、さらには五百人以上の人々に同時に、その後、イエスさまの弟であるヤコブに、また福音を宣べ伝えるよう召されたすべての使徒たちに、そして最後にパウロ自身にも現れたと宣言しています。
この手紙が書かれたのは紀元55年頃のことですから、復活の出来事の後、25年くらいしか経っていません。当時、ほとんどの証人は生きていたのです。つまり、イエス・キリストの復活がどれほど確かな証人の証言によっているかということです。それなのに、コリント教会の中には「最も大切なこととして…伝えられている」イエス・キリストの復活を認めない人たちがいたのです。
■福音によって救われる
パウロは、イエス・キリストの復活を中心とするこの福音を信じなければ、「あなたがたが信じたこと自体が、『無駄』になってしまう」と言います。そして、「あなたがたはこの福音によって救われます」と念を押します。
ここで気を付けていただきたいのは、福音とは「これこれのことをしなさい、そうすれば救いが得られますよ」という、いわゆる教えや戒めではないということです。教会が受け継いでいる福音は、救われるためには、神の恵みを受けるためには、こうすればよいというノウハウ、言い換えれば倫理や道徳の教えではありません。
ここにキリスト教信仰の難しさがあります。人に親切にしなさいとか、親を敬いなさいとか、敵をも愛しなさいといった戒めが語られ、そのように努力していけば、神様が守ってくださいますよ、恵みを与えてくださいますよ、救われますよという教えなら、分かりやすいでしょう。ところが、教会が教える福音とはそういうものではありません。
教会が「最も大切なこと」として伝えていることは、そのようなノウハウ、倫理や道徳ではなく、キリストがわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、三日目に復活したこと、弟子たちに現れたことです。これは、救われるためにわたしたちがどうしたらよいかではなくて、神がわたしたちの救いのために何をしてくださったのか、ということです。教会の信仰で「最も大切なこと」は、わたしたちが何をするかではなくて、神が何をしてくださったか、なのです。
だからこその「福音」「よい知らせ」です。パウロはその福音を聞いて信じ、その福音によって生かされ、その福音を宣べ伝えたのです。
■このわたしにも
何よりも、復活のキリストが自分に「現れた」ことによって使徒とされ、「今日のわたしがあるのです」とパウロは告白します。
パウロはいつ、どのようにして復活したキリストと出会ったのでしょうか。イエスさまの復活から昇天までの40日の間も、あのペンテコステの時も、パウロの姿は弟子たちの中にはありませんでした。サウロことパウロは、キリスト教会に敵対し、その群れを叩き潰そうとしていました。彼は、ユダヤ教ファリサイ派の若きエリートでした。律法を厳格に守り行うことによって神の民として生きようとするファイサイ派の彼にとって、十字架につけられたイエスが救い主であるなどということは神への冒涜でした。ステファノという信仰者が石で打ち殺され、最初の殉教者となった時、そのステファノを殺す側の人間でした。その後も、サウロはキリスト教撲滅の使命感に燃えて、ダマスコという町へと向かいます。
その途上で、彼は復活のキリストと出会ったのでした。彼は、自分が神のみ心に逆らい、神である方を迫害してきたことを知らされ、愕然とします。もうおしまいだ、神に背き逆らった自分は滅ぼされる他ないと思ったのです。しかし、イエスさまは彼を滅ぼすのではなく、新しく生かし、新しい道―福音伝道という新しい使命を与えてくださったのでした。
■神の恵みによって
そのパウロが告白します。9節、「わたしは神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です」。そんな自分が今、復活されたキリストとの出会いを与えられ、その証人として立てられ、使徒として遣わされている。それはただ、神の恵みによることです。それが10節です。「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」。パウロはここで、「神の恵み」です、と三回も繰り返します。
わたしたちも時々、「自分が今日あるのは何々のおかげだ」というような言い方をすることがあります。しかしこれは、功成り、名遂げた人が過去を懐かしんで、自分もいろいろと努力してきたが、神様の恵みのおかげもあって、現在の自分があると感慨に耽っている、そんな言葉ではありません。今日のわたしがあるのは、神に敵対し滅ぼされるしかない罪人である自分が、今、生かされて使徒として立てられているのは、徹頭徹尾、完全に、百パーセント、神の恵みによることであり、それ以外ではない。自分の力や働きは何の役にもたっていない。神が恵みによって、彼の救いのためのみ業をすべて為してくださったのです。
パウロは、この復活のイエス・キリストとの出会いによって、到底赦されるはずもない罪の赦しと、死に勝利する新しいいのちの恵みを与えられ、その恵みによって、今ここに新しく生かされているのです。それが、パウロが受け、宣べ伝えている、キリストの福音でした。
そして、その神の恵みは、彼の罪を赦し、新しく生かしてくださっただけではなく、彼に豊かな働きを与えました。コリントの町に教会が生まれたのも、パウロの働きによることでした。新約聖書に入れられることになったたくさんの手紙を書いたのもパウロです。そんなすばらしい働きはしかし、わたしの働きではなく、わたしと共にある神の恵みの働きなのだ。わたしの罪を赦し、新しいいのちに生かしてくださったキリストの福音―キリストによって与えられている神の恵みが、わたしにこのような豊かな実りを実らせてくださっているのだ。それがパウロの、誇りでも謙遜でもない、偽らざる思いでした。
福音とは、そのような力を持つものです。
■ある赤ん坊の死
その上で、最後に申し上げておかなければなりません。キリストの復活は神の恵みであり、キリストの復活は福音の中心です。それ以外に、神の恵み、福音はありません。しかし、「復活」という出来事が本当に起こったのかどうかを、わたしたちが客観的に証明することはできません。
復活はあくまでも、わたしたちがそれを信じるかどうか、という一点にかかっています。そして、復活を信じるかどうかということは、わたしたちが人間というものをどう見るのか、この世界をどう理解するのか、そしてわたしたちはどのように生きるのか、という問いに結びつく問題です。
そうした意味で、復活信仰はキリスト教の中心に位置する問題であり、また復活信仰はまさに、わたしたち自身の生き方の問題なのだということを申し上げて、ひとつの事件についてお話をさせていただきたいと思います。
今から二十年ほど前、横浜で事件が起こりました。一歳と七ヵ月になる男の子の焼け焦げた遺体が川に投げ捨てられているのが発見されました。解剖の結果、この子は焼かれる前にすでに死亡しており、死因は頭部の出血によるものと診断されました。その後、警察の調べでこの男の子の身元が分かり、この子を殺害した容疑者も逮捕されました。その容疑者とは33歳の男で、この男の子の母親と同棲し、その女性の収入で遊び暮らしていました。
男の子の通っていた保育園の関係者や、彼らが住んでいたマンションの住民によれば、この子の頭のてっぺんの毛がむしられていたり、体にアザがあったり、タバコの火を押しつけた傷があったり、また子どもの激しい泣き声が頻繁に聞こえていたといいます。警察の捜査関係者によれば、この男は「赤ん坊の頭を拳で殴ったり、哺乳瓶でひっぱたいたり、頭を壁にぶつけたりしていた。それから天井に向けて投げ、落ちてくるところを足で受けとめたり、わざと落としたり、蹴ったりしていた」と供述しています。
こうした虐待のあげくに、一歳七ヵ月の子どもが死にました。死後、一週間ほど遺体を自動車の中に隠したのち、この男はライター用のオイルをふりかけて遺体を焼き、それをバスタオルに包み、さらにバッグに入れて、川から捨てました。
■復活を信じるということ
しかし、このように「悪しきもの」としか思われない人間存在や現実世界に対して、キリスト教信仰は、それでもなお、究極的にはこの世は「良いもの」であり、人間は「良いもの」であるという信仰を告白し続けてきたのであり、これからも告白し続けていくのです。
イエスさまは、神は「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5:45)と語りました。そして、そのような限りない恵みと憐れみに富みたもう神に信頼することを教えてくださいました。さらにまたイエスさまは、やがて来るものが「サタンの国」ではなく、「神の国」であるという「福音」を宣言されました。
と同時にイエスさまは、この現実に深く、深く食い入った罪の力によって、この世界が今もなお様々な問題の中にもがき続け、苦しみ続けているという事実を知り、ご自身でそうしたものを経験してこられました。十字架につけられたイエスさまの姿は、先ほどの一歳七ヵ月の子どもと同じように、罪の犠牲となって、虐待され、殺され、捨てられていく、弱い者、小さな者、力のない人々の象徴そのものです。
しかし、そのように罪の犠牲となったイエスさまを、神は決してそのままにしてはおかれませんでした。それが復活です。復活は、虐待され、殺され、捨てられていった、弱く、小さな、力のないイエスさまの生涯こそが、まさに神の支持されるものであったことを宣言する出来事です。そして復活とは、罪の力がどんなに支配的な力を振るおうとも、最後の最後に成就するものが悪意や憎しみや破壊ではなく、愛によって成り立つ世界であるというイエスさまの福音を、神が肯定されたことを告知する出来事なのです。
わたしたちが「主の復活を信じる」ということは、人間が、この世界が、究極的には「良いもの」であることを信じるということです。そして、わたしたちが「主の復活を信じる」ということは、主がそうなさったように、わたしたち自身もまた隣人を愛して信じて生きていく、そういう生き方を選び取るということです。
この世にあっては、人間と人間の信頼を打ちのめすような出来事、愛を破壊するような事件が、それこそ絶望的なほどに繰り返し、繰り返し起こります。しかし、それに挫折してはならない、絶望してはならない、投げ出してはならないと教えてくださったのもまた、イエスさまご自身です。そして神は、イエス・キリストをよみがえらせることによって、愛は何ものにも勝るという事実を決定的なかたちでお示しになったのです。
パウロは、その復活の福音を、わたしたちに教え示そうとしているのです。このことを深く思いめぐらし、「三日目に復活された」としっかりと告白する者であり続けたいと願います。