福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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2月16日 ≪降誕節第8主日礼拝≫『復活とわたしたち—希望』 コリントの信徒への手紙一 15章 20~34節 沖村 裕史 牧師

2月16日 ≪降誕節第8主日礼拝≫『復活とわたしたち—希望』 コリントの信徒への手紙一 15章 20~34節 沖村 裕史 牧師

 

■わたしたちの土台

 20節から28節、「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。…最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。…最後の敵として、死が滅ぼされます。…すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです」

 人々が心から待望していた救い主キリストが、わたしたちのところに来てくださり、その身をもってお示しくださったこと―それは十字架と復活でした。聖書は、キリストが十字架につけられて殺され、墓に葬られ、三日目に甦(よみがえ)らされたことを、様々な人々の言葉として証言しています。このキリスト・イエスの十字架と復活こそ、わたしたちクリスチャンの土台です。

 ところが、十字架の出来事は自己犠牲という大いなる愛の御業として理解しても、復活の出来事はどうしても理解できない、受け入れることができない、それを信仰の躓(つまづ)きと感じる人々がいました。それは、この手紙を受け取ったコリントの教会の中にも、そしていつの時代にもいました。現代にも「科学的に復活は…」と言う人がいますし、人体の生理的な面、あるいは目撃した人々の心理学的側面から復活を証明しようと試みる人もいます。

 しかし、キリストの復活はそういうこととは次元を異にするものです。わたしたちが経験する事実とは、その経験した事柄そのものであるというよりも、むしろその事柄を経験したわたしたちにとっての意味そのものです。大切なことは、復活という出来事そのものではなく、それがわたしたちにとってどのような意味を持つのかということです。

 パウロはここで、復活に躓きを感じていたコリントの教会の人々に、人類の「死」は罪の結果であり、罪のゆえに死がこの世界に入ってきた、しかし、その「罪」を贖(あがな)うためにキリストが来られ、己(おの)が身を捧げて十字架に身代わりとなって死んでくださった、そして、そのキリストが三日後に復活なさり、わたしたちの罪の結果である最後の敵「死」を打ち破ってくださったのだ、と教えています。

 

■罪―いのちは自分のもの

 そもそも罪とは何でしょうか。それは、守るべき法律に違反するといったことではなく、神ならぬものを神とし、神なきが如(ごと)くに振舞い、まことの神との関係を断ち切ってしまうということでした。全能の神を見失い、いのちの源である神を忘れ、溢れるほどの神の愛に気づかない人にとって、すべては自分のものでした。いのちさえも自分のものです。

 とすれば、いのちは自分のこの肉体にしか宿らないことになります。そして、死とともに肉体は腐り、滅ぶゆく死によっていのちもまた終わることになります。人々は、自分のいのちを自分のものであると考える傲慢、自分を神の如きものと考える罪によって、死という自分の知恵も力も超えてもたらされるものに対して、決して拭うことのできない絶望と不安を抱き続けざるをえなくなりました。神に背き、神を忘れ、神から逃れようとしたアダムの罪によって、人類に「死」がもたらされたとは、まさにそのことでした。

 そして、耳を塞ぎたくなるほどのそうした罪と死による悲鳴が、あちらこちらから、自分の中からさえ聞こえてきます。罪意識もなく、自分の欲望や快楽のために平然と人のいのちを傷つけ、奪うことも、また苦しみや悲しみのあまりに自分のいのちを軽んじ、断ってしまうことも、そのいずれもが、いのちを自分のものだと考える罪から出て来てはいないでしょうか。

 しかし、いのちは決してわたしたちのものではありません。いのちは神が与えてくださった、かげかえのないものです。

 

■永遠のいのち

 とすれば、キリストの復活が意味することとは、いったい何なのでしょうか。一言で申しあげれば、それは、神による永遠のいのちへの招きです。

 キリストの復活はわたしたちに、神が永遠なるお方であると同時に、いのちの主であることを明らかにしています。御子キリストは死から復活させられたのです。神は、すべてのものにいのちを与えられるお方です。そして生だけでなく、死をも司られるお方です。

 そのような神との断絶という、決定的な罪に陥っていたわたしたちが、キリストの十字架の死によって、その罪の一切を赦されました。わたしたちの罪がどれほどのものであろうとも、今も神は、愛のみ手によってわたしたちを救い出し、キリストの復活を通して新しいいのちへと招いてくださっているのです。

 パウロが「神がすべてにおいてすべてとなられる」と語るように、今ここに生きている者も、今まで死んでいった者も、すべてものがその御手の中に招き入れられるのです。それは、すべてのこと、すべてのものが神の支配に組み入れられる、神の国が成就する、ということへの確信であり、希望の言葉です。

 わたしたちの生も死も、この世の力も富も権威も、生きている者も死んでいる者も、そのすべてが神のものとされるという信仰は、わたしたちをあらゆる不安と絶望から自由にし、わたしたちに苦難に打ち勝つ希望を与えてくれます。すべては主のものです。わたしたちの体も心も、身に着けているものも自分で得たと思っているものも、すべて主のものです。わたしたちのいのちは、主が与えてくださったものです。だから、わたしたちは安んじて、すべてを主に委ね、わたしたちに与えてくださったこのいのちを、生きている今も、死して後も、かけがえのないものとして大切に生きていくことができます。

 人のいのちが軽く扱われる、現代のような憂鬱で、悲観的な時代にあって、わたしたちはとくに、神が最終的にはすべてを支配されておられ、やがては平安と安らぎの時がもたらされるのだ、そして今ここに、そのような神の支配がすでに始まっているのだ、という希望を忘れてはなりません。そのような希望の信仰に生きるとき、そのときまで、羊のように弱く愚かなわたしたちであっても、「御国が来ますように。御心が行われますように」と祈りつつ、この人生を歩んでいくことが赦されるのです。

 

■日々死んでいる

 だからこそ、パウロは31節に、「わたしは日々死んでいます」と書くことができました。これはもちろん、本当に死んでいるという意味ではなく、比喩的な言葉です。日々死ぬとは、自分を捨てている、という意味にとることができるでしょう。あるいは自分を委ねている、自分を任せて生きている、というふうに読むこともできるのではないかと思います。

 誰もが一所懸命、自分の力で道を切り開きながら、頑張って生きてきたと思い、そう信じています。信仰を持つ前には、パウロもそうだったと思います。しかし、今、彼はそうではありません。日々死んでいる、と言います。自力では生きていない、と言います。

 関西にいる時のこと。阪急神戸線に乗ったのですが、残暑厳しい午後、立っている人も多くいるような状況でした。ある駅から、ベビーカーを押して女性が入ってきました。見ると、そのベビーカーの中で赤ちゃんが眠っています。いくらか疲れた表情の電車の中の人々の中で、それはとても印象的でした。ぐっすりと眠り込んでいるのです。自分を守っていてくれる存在―この時はもちろん母親ですが―その存在を信じていればこそ、赤ちゃんはぐっすりと眠っていました。

 聖書の言う、「日々死んでいる」という言葉が指し示しているのは、その状態のことではないでしょうか。自分で、周囲の危険や敵から自分を守るべく、目を覚まして身構えているというのではありません。よく見れば危険はあるのです。でも、そのことに対して身構えるのではなく、そもそも、そんな力も知恵もまったく持ち合わせていません。ただ自分を守っていてくれる、自分と一緒にいてくれる者への絶大な信頼において生きている。自分を任せるということにおいて生きる。信仰というものは、そういうものではないかと思えます。

 

■野獣と戦う

 続く32節にこうありました。

 「単に人間的な動機からエフェソで野獣と戦ったとしたら、わたしに何の得があったでしょう」

 パウロがエフェソという街で、イエスさまのこと、イエスさまの福音を語り伝えた時、彼は大変な迫害に遭いました。大勢の群衆がパウロに追い迫る、という出来事がありました。神殿の銀細工職人たちがパウロの言葉に大そう腹を立て、このままでは自分たちの職業が成り立たなくなると言って暴動を起こした、と使徒言行録19章21節に書いてあります。

 本当の所、パウロたちにそれほどの影響力があったかのどうか、分かりません。パウロは様々な困難の中で、エフェソで三年間伝道しました。これは、パウロの伝道の中でも最も長い伝道であったと言われます。パウロはそのことを、エフェソでの出来事を「野獣と戦った」と言っているのでしょう。

 強大な力が突然、目の前に現れて、それと戦ったのだと言います。わたしたちの人生には、自分である程度処理できることもあります。しかし、処理できない大きな力、処理できない大きな敵というのは、本当にあるものです。パウロが野獣と戦ったように、わたしたちの力や知恵では処理できない大きな力、大きな闇というものがあって、そんな大きな闇に取り囲まれるようにして、わたしたちのいのちはあります。

 そのことに気づかされる時、わたしたちは本当に自分の弱さを感じ、自分の限界を思い知らされ、なんて自分は無力なのだろう、と考えさせられます。ちょうど、小さな子どもが暗闇の中で急に目が覚めて、泣き出し、そして叫ぶように、人間のいのちは圧倒的な闇の中にあるのだということを、誰もがどこかで知らされます。堂々と自分の力で何もかも突破して生きていく、そんなことなどできません。

 

■自分を委ねて

 そんな中にあって、「日々死んでいる」とパウロは言います。

 これは、先ほど申しあげたように、自分を捨てているという意味であり、同時に自分を任せているという意味です。それが信仰です。信仰は自分が強くなって、力を蓄えて、そして様々困難を一つひとつ突破していくというようなことではありません。信仰によって、次第に自分の中に力が蓄えられてきて、何が来ても恐れない力を得るというのが信仰でもありません。自分を任せて生きていく。神に自分を任せることができることを知るということが、信仰です。

 イザヤ書30章15節の有名な言葉です。

 「お前たちは立ち返って/静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」

 神に信頼する。それが信仰、信じる者の力、信じる者の強さです。

 自分の力で立っていると思っている人は、どこかでポキリと折れてしまうでしょう。なぜなら、耐え難い風が吹いてくるからです。誰にでも、到底耐えられないと思える風が吹いてきます。もはや自分は何の頼りにもなりません。自分以外に頼るものを持たない人は、折れて、落ちて、絶望するほかありません。

 しかし委ねている人は、たとえ自分が倒れたとしても、そこでなお支えられて、また起き上がることができます。したたかと言えばしたたか、しぶといと言えばしぶとい強さです。

 パウロが「日々死んでいる」と言うのはそういう意味です。そしてここでは、「復活されたキリストに自分を委ねている」という意味の言葉です。

 十字架にかかり、このわたしの罪を贖い、罪を赦してくださったその救い主が、すべてが終わり、すべてが闇の底に沈められたと思われたとき、死の中から甦らされて、今もここに一緒にいてくださっている。その方に自分を委ねる。自分を預けるのです。

 

■復活という希望

 生きることが、楽しく愉快である人もいれば、苦しくて悲惨でしかない人もいます。けれども、想像を絶するほどの苦悩を体験しながらも、明るく輝いている人もいます。そんな人に出会うと、こちらの心が明るくなり、勇気がわいてきます。そして、どこにその秘訣があるのかと思います。

 「生きているより、死んだほうがずっと楽です」と言って、病気を抱えて生きることの苦痛を訴えた方がいました。「自分自身を引き受けるって、しんどいですね」と、十年来、脳腫瘍と戦ってきたその女性は話されました。

 最初の手術でいのちは取り止めたのですが、腫瘍を全部取り出すことができず、二度目の手術を受けました。闘病生活が始まると、彼女の夫はたったひとりの娘を引き取り、病気の妻を捨てました。

 「悔しくて、つらくて、何度も死んでしまいたいと思いました。けれどもそのたびに父が『それだけはするな』と叱りつけました」

 夫に捨てられ、娘をとられたこの女性にとって、頼りは自分だけでした。けれども、その自分自身を引き受けることが難儀なことだったのです。彼女にとっては、生きることが地獄でした。

 人間の生は地獄のようです。病気、家庭崩壊、社会不安は際限がありません。人間の心には罪があり、そして死がわたしたちを襲ってきます。それでもパウロは、「私はこう確信しています。死も、いのちも…今あるものも、後に来るものも、力ある者も…私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」(ローマ8:38-39)と、神の愛こそが、苦難の中にあって勝利者となる秘訣であることを証しています。

 そうです、死の陰の谷もまた、その向こうのいのちにつながる道でした。

 パウロは言います。30節、

 「なぜわたしたちはいつも危険を冒しているのですか」

 危険を冒すのは前に進むからです。前に進もうと思えば、敵がいます、障害があります、獣がいます。しかし、その危険の向こうがあるのです。この危険を超えて、永遠のいのちがあるのです。だからわたしたちはあえて危険の中を行くのです。危険に向けて歩きます。困難に向けて進んで行きます。この生きていく人生の試練、困難の向こうに、いのちが、永遠のいのちがあるからです。

 もし復活がなければ、いのちがその先で終わるものであるならば、危険は冒さない方がいい。目の前の困難があれば、困難には立ち向かわない方がいい。逃げればいいでしょう。そこで踏みとどまって、闇の中にただうずくまってしまえばいいのです。

 しかし、復活はあるのです。わたしたちのこの罪のいのちには、復活が約束されています。キリストによって贖われて、いのちが約束されています。だからわたしたちは、この道を前に向かっていくのです。だから、闇の中にうずくまりません。難しいけれども、問題はあるけれども、危険だけれども、その向こうに、キリストが一緒に歩いていてくださるからです。

 「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる」(詩編23:4)

 これが、わたしたち一人ひとりのいのちに与えられている約束、わたしたちの希望です。