■神の業が現れるため
道端に盲人が座っていました。エルサレムの神殿に向かう道を大勢の人が行き来しています。彼の膝下に小銭を投げる人があり、また目をそらして急いで通り過ぎる人もいます。立ちどまろうとした子どもが母親に手をひかれて立ち去ります。そこを通りがかったイエスさまがこの盲人に目を向けられた時、弟子たちはとっさに日頃抱いていた疑問を口にします。
「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」
「生まれつき」というのは、なにか運命とか宿命とかを思わされます。だれのせいでこうなったのだろうか。本人が持って生まれた宿命なのか。両親に罪があったのか。それとも先祖のだれかに…。昔の人がそう考えたという話ではありません。洋の東西、時代を問わず、今も受け継がれている感覚です。
だれのせいでこうなったか。第三者のそういう好奇心による問いは、病む人を苦しめます。そういう問いが、苦しみを負っている人をさらに追い詰めます。そんな問いを、病んでいる本人や家族が抱くようになれば事態はより深刻です。そういう心理を利用して、物を売りつけたりする人がいます。「この家の先祖が大罪を犯しているのでこういうことになっています。この壺を買えば呪いは解けます」というわけです。
だれのせいでこうなったのですか。巷(ちまた)で様々に呟かれるその問いに答えて、イエスさまは言われます。
「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」
本人のせいでも、両親のせいでも、先祖のせいでもなんでもない、と言われます。そして続けて、「神の業がこの人に現れるため」という不思議な言葉を口にされます。
どういう意味でしょうか。「神の業が人に現れる」と言われて、わたしたちが普通に考えるのは、何かが良くなる、不安が消える、あるいは何かわたしたちに幸運がもたらされる、といったことではないでしょうか。しかしここでこの言葉が意味することは、この目の不自由な人の困難自体に、神の業が現れるということです。
人生の歩みの中で、わたしたちは目の不自由さだけでなく、実に多くの不自由さを感じます。自分の思いのままにならないこと、挫折や失敗、人生の設計ミス、人間関係の中で起こってくるストレス、あるいは人生の終りが数えられるようになった時に感じる、これでいいのかという不安などなど、次から次へと起こってきます。ときに理不尽にも思える苦難に、わたしたちはたじろぎ、できるならばそのようなことが起こりませんように、と祈ることでしょう。
ところがイエスさまは、そういう中にこそ、神の業が現れるのだ、と教えられます。神の業は、わたしたちの思い通りに、平安の内に現われるのではない、ということです。むしろ、わたしたちが困難を覚える、その困難の中にこそ、神の業は現わされる、そう言われるのです。
■目が見える
イエスさまは今、この目の不自由な人をシロアムに送ります。
「シロアムの池に行って洗いなさい」
標高八百メートルの岩の上に建てられたエルサレムの城壁の一部、あの「嘆きの壁」から南東に百メートルほど降った場所から、紀元前1世紀の初頭に建設されたローマ様式の大規模な石造プールの遺跡が発掘されました。神殿に参拝する人々が手足を清めた場所、そこがシロアムの池です。
そこに行って目を洗いなさい、とイエスさまは言われた。そうすると目が見えるようになった。そのままに読めば、「よかった、よかった」と言うことでしょう。そしてそこで「アーメン」と言えば、何とありがたい、恵みに満ちた奇跡物語だろう、ということになるでしょう。
しかし、ヨハネはそうは書きません。シロアム、これはヘブライ語で、その意味は「遣わされたもの」だ、とわざわざ書き加えています。意図をもって書き加えた「遣わされたもの」とは、「神から遣わされたもの」という意味で、イエス・キリスト、その人を指すであろうことは明らかです。
この出来事はただ単に、身体的な目によって見えるか、見えないかという問題ではなく、この目の不自由な人が「神から遣わされた」イエス・キリストと出会うことによって、「本当に永遠のいのちを見ることができるようにされた」のだ、ということです。
ヨハネは周到に、6節の「目が見える」、10節の「目が開く」、そして11節の「目が見える」という言葉に、すべて異なるギリシア語を使っています。特に最後の11節は、単なる「見える」ではなく、直訳すれば「視界が与えられる」です。また1節の「生まれつき目の見えない人を見かけられた」の「見かけられた」も別の言葉で、じっと見つめるというニュアンスの言葉です。イエスさまがこの人に目を留め、じっと見つめておられるのです。
目の不自由な人がイエスさまによって目が見えるようにされた、これはこれで素晴らしいことですがしかし、ここでヨハネがわたしたちに教えていることは、本当に何も見えない状態―真っ暗闇の中にあって、ただ一方的に、ただ一方的な愛ゆえに、光なるイエス・キリストが出会ってくださって、永遠の世界に招き入れられるのだ、ということです。肉体の終わり、現実の不自由さの中にあってなお、永遠のいのちに抱かれているという、真の希望に生かされているのだ、ということです。
■見守られている
このことは、物語がさらに進んでいく中で、さらにはっきりとしたものとされていきます。
この人が目の見える状態になって帰って来た時に、皆が、どう言ったか。あれは「座って物乞いしていた人ではないか」、「いや違う。似ているだけだ」。一つの出来事について、いろいろな人がいろいろなことを言うものです。しかしこの目の見えるようになった当人は、「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです」と言うだけです。
この人は、イエスという人がどういう人物であるのか、ということを知らないままに語っています。思えば、イエスさまの指示通りに彼がシロアムの池で洗って目の開いた時も、それを見て近所の人々が騒ぎ出した時も、今日の出来事の後、ファリサイ派の人々がその事情を調べた時も、彼の両親が調べられた時も、彼が「イエスは神のもとから来られた方」と告白して譲らず、ついに街から追放された時も、イエスさまは彼のそばにいませんでした。つまり、彼の目は開きはしましたが、彼自身は一度もイエスさまを見たことがなかったのです。彼が実際にイエスさまを見たのは、街から彼が追放されるという意外な結果になった、その時でした。その時、その彼を心配してイエスさまが現れて初めて、彼はイエスさまをその目で見ることになります。
ということは、イエスさまは彼のすぐそばにはおられませんでしたが、ずっと、彼を見守り続けていてくださったということです。そうでなければ、彼が追放された時、すぐにそれを聞いて現れてくださるということもなかったでしょう。彼にすれば、その時初めてイエスさまを見たのですが、イエスさまのほうは彼を見守り続けていてくださったのです。その意味で、開いた彼の目が見たのは、イエスさまというよりは、見守り続けていてくださるイエスさまであったと言うべきです。
その時の彼は、自分の存在が「イエスさまに見守られているもの」として見えたのです。そしてそれこそが、まさに彼の目が開いたということであり、彼の困難の中に現れるとイエスさまが言われた、「神の業」に他ならなかった、ということでしょう。
■苦難の中にあってなお
最初に赴任した教会の礼拝に、目の見えない一人の女性が出席していました。名古屋の教会で洗礼を受け、鍼灸の資格を取るために学校の寮に入っていました。その女性が、学校の友人の話として、こんな質問を投げかけてきました。
友人の目が見えなくなったのは親の罪のためだ。親が小さいときに十分栄養を与えてくれなかったからで、聖書には本人が罪を犯したためでもなく、親が罪を犯したのでもないと書いてあるが、友人の場合は、親が罪を犯したから不幸になったのだ、そうではないか、と言います。
その友人の話は彼女自身のことではないのか、そして彼女自身がそう思っているのだろうと思いました。病気になること、障がいを負うことは決して楽しいことではありません。辛いことです。しかしイエスさまは今、苦難の中にある人に対して、そのような中にあってなお、そここそが神の栄光の現れる場なのであって、決して希望のない世界ではない、と言われます。
その苦難がなくなるというのではありません。その苦難を神の御心としてありがたく受け取れと言うのでもありません。それでもなお、その苦難の中にあってなお、あるがままに、かけがえのないものとして、あなたは今も神に生かされている、神の恵みが溢れ出ている、と宣言してくださっているのです。
神は一向にわたしを癒そうとはしてくださらないという不満の中にある彼女はまだ、この奇跡の出来事の一面しか理解していませんでした。そして彼女のこの姿は、わたしたちの姿でもあります。不平や不満、不安や恐れにとらわれることの多い、わたしたちです。肉眼が見えていても、日々の不安や恐れゆえに、真実を見誤ってしまいます。自分の健康に欠けが多いことを嘆き続ける、わたしたちです。肉体の健康が確かであっても、心の力が萎えていることを呟き続ける、わたしたちです。魂の力が乏し過ぎると言って、まるで生まれつき目の見えないこの人のようにうずくまる、わたしたちです。
しかし、誰の因果がそこに現れたわけでもありません。神の業は、そこにこそ、現れるのです。イエスさまがご自身の存在を賭けて、そうあの最も惨めな十字架を栄光に輝くものとしてくださって、よみがえらされて、この約束を決定的なものとして示してくださっているのです。
わたしたち(教会)は、そこにこそ立ちます。
遣わされた者として、生きる喜びの中にあり続けることができます。
レント・イースターを控えるこの季節、この光栄を思い、共に励まし合って、「神のみ業」を担い続けていきたいと願います。イエスさまはいつも、わたしたちを見守り続けてくださり、わたしたちが求めさえすれば応えてくださっているのですから。