福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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3月9日 ≪受難節第1主日/レント「家族」礼拝①≫『わたしを食べなさい!』『あなたの手で—十字架』 ヨハネによる福音書 6章 52~59節 沖村 裕史 牧師

3月9日 ≪受難節第1主日/レント「家族」礼拝①≫『わたしを食べなさい!』『あなたの手で—十字架』 ヨハネによる福音書 6章 52~59節 沖村 裕史 牧師

 

お話し「わたしを食べなさい!」(こども・おとな)

■肉を食べ、その血を飲む

 イエスさまの言葉、53節をもう一度読んでみましょう。

 「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」

 「人の子」というのはイエスさまのことです。えっ?イエスさまの肉を食べ、イエスさまの血を飲む?!ちょっと待って、そんなひどい…。だれもが眉(まゆ)をしかめるような言葉です。ユダヤの人たちが、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と騒(さわ)ぎ出したのも、当たり前だと思いませんでしたか。

 でも、心を静めて考えてみてください。わたしたちはみんな、他の生き物を、他のいのちを食べて生きてはいませんか?日曜日の夜7時30分から始まる「ダーウィンが来た!」という世界中のいろんな生き物が出てくる番組を見たことはありますか。その番組の中にときどき、動物が動物を食べるシーンが出てきます。残酷(ざんこく)で嫌(いや)だな、恐いなって思うこともあるかもしれません。でも、でも、動物だけじゃなくて、わたしたちを含めてこの地上の生き物はみんな、他のいのちを食べて生きています。植物であろうが動物であろうが、他のいのちを犠牲(ぎせい)にして食べて、生きています。いのちあるものしか、いのちは養(やしな)えません。家や机や鍋を食べることはできません。他の動物や植物の生きたいのちを、いわば奪(うば)い取って食べて、わたしたちのいのちは保たれています。

 この世界の生き物は、神様によってそう創(つく)られてる、ということです。勝手(かって)に奪い取って食べる、何の断(ことわ)りもなしに食べてるわけですから、わたしたちは、他の動物や植物のいのちに、心から感謝するほかありません。そして、そのいのちを与えてくださっている神様に感謝しなければなりません。それが食事の前に手を合わせて「いただきます」という、祈りの言葉の意味です。

 ということは、「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」というのは、イエスさまのいのちを犠牲にして、それをいただいて、わたしたちのいのちが保たれる、生きていくことができるんだ、という意味になるよね。

 イエスさまって、どんな人だったかな?病気や不自由を抱(かか)える人に手を差し伸べて、その苦しみを癒(いや)したり、愛する人が死んで悲しんでいた人のために、死んだ人をよみがえらされたり、食べる物がなくて飢えていたたくさんの人たちにパンと魚を与えて、そのいのちを養ってくださったり、罪人(つみびと)だと言われて差別されていた人たちを招いて、慰めてくださったり、争い、対立している人をも赦(ゆる)して、互いに愛し合いなさいと教えてくださったり…そんな驚くほどの愛に生き、限りない神様の愛を教えてくださった人でした。

 ところが、そんなイエスさまを妬(ねた)み、恐れた人たちによって、イエスさまは十字架につけられ、殺されてしまいます。イエスさまは、苦しみ、悲しむ、困っている人たちを救おうとして、人々からののしられ、はずかしめられ、ご自分の肉のからだを槍(やり)で貫(つらぬ)かれ、血を流して、そのいのちを奪われました。

 イエスさまの肉を食べ、イエスさまの血を飲むっていうのは、その十字架のことです。十字架の刺し貫かれた肉、流された血は、わたしたちの救いのためでした。わたしたちのいのちのためでした。わたしたちが人として、自分らしく、愛に生きることができるようになるための犠牲のしるしでした。そんな神様の愛を信じなさいって、イエスさまはここで教えてくださっています。

 

■アンパンマンとやなせたかし

 自分を犠牲にして、困っている人を救う人って、どこかで見たことありませんか。そう、アンパンマンです。

 パンをつくっているときに、餡(あん)に「生命(いのち)の星」が入ることで誕生した正義のヒーローです。困っている人を助けるために、自分の顔―あんパンを差し出します。あんパンだけに、その顔の中には美味しくて、栄養たっぷりのつぶあんが詰(つ)まっています。その顔を食べて助けられた人たちは、お腹いっぱいになって元気になり、アンパンマンに心から感謝します。

 そんなストーリーをもとに、たくさんの絵本やテレビのアニメ番組、映画、キャラクター・グッズが生み出されました。1973年に、フレーベル館の月刊物語絵本「キンダーおはなしえほん」シリーズとして、やなせたかし『あんぱんまん』が出版(しゅっぱん)されました。やなせさんが初めて描(か)いた幼児(ようじ)向け絵本でした。ここで、最初の絵本をスライドでご覧いただくことにしましょう。

 この絵本、最初は、貧しく困っている人たちを助けるという内容が幼児には難しすぎる、顔を食べさせるなんて残酷だ、と幼稚園の先生や絵本をつくっている人たちからは散々(さんざん)でした。ところがその予想に反し、子どもたちの間で人気を集め、幼稚園や保育園などからの注文が殺到(さっとう)するようになります。

 そしてついに、テレビアニメ『それいけ!アンパンマン』第一話「アンパンマン誕生」が1988年10月に初登場します。今なお日本テレビで放映され、映画も1989年から毎年上映される、大人気アニメになりました。このテレビアニメの第一話の最初の所を、少しだけ見ていただきましょう。

 そういえば、今年4月から始まるNHKの朝ドラのタイトルは、『あんぱん』。アンパンマンの作者・やなせたかしとその妻・小松(こまつ)暢(のぶ)をモデルにした物語です。やなせたかしと言われて、わたしがすぐに思い出すのは「手のひらを太陽に」という歌です。

 「ぼくらはみんな 生きている/生きているから 歌うんだ/ぼくらはみんな 生きている/生きているから かなしいんだ/手のひらを太陽に すかしてみれば/まっかに流れる ぼくの血潮(ちしお)/ミミズだって オケラだって/アメンボだって/みんな みんな生きているんだ/友だちなんだ」

 すべてのいのちの大切さ、かけがえのなさを謳(うた)う歌で、小さいころ、いじめられっ子だったわたしはこの歌から勇気をもらい、救われました。こんな歌をつくるやなせさんが、わざわざ自分の顔を食べさせて困っている人、貧しい人を救おうとするアンパンマンを描(えが)くようになったのは、どうしてでしょう。

 やなせさんは第二次世界大戦のとき、兵隊として中国にいました。この戦争は正義の戦争だという宣伝(せんでん)をするための紙芝居を描いたり、泥だらけの道を延々(えんえん)と歩き回ったり、一睡(いっすい)もせずに暗号解析(あんごうかいせき)に取り組んだりしていました。そのときのことをやなせさんは、いちばん辛(つら)かったのは飢(う)えだった、食べる物がなくてタンポポなど野の草を食べていたこともあった、と振り返っています。戦争が終わりを迎えると、日本軍は「悪魔の軍隊だった」と言われるようになり、自分が正義だと信じていたこととはいったい何だったのか、そう自分に問いかける日々が続くようになります。そして、本当に困っている人に対して何をしてあげるのかが大切だ、ということに思うようになったと言います。

 実際、戦中から戦後、復興がある程度進むまでの日本は、今日食べる物も住む家も、寒さをしのぐ衣類もない、極貧(ごくひん)の生活が続き、追い詰められた人たちにとって、何よりも必要なのは「食べ物」でした。アンパンマンが自分の顔をちぎって与えるのは、「ヒーローは、自身が傷つくことなしに正義を行うことができない」という信念からのものだ、とやなせさんは語っています。

 やなせが1973年の絵本『あんぱんまん』のあとがきにこう書いています。

 「子どもたちとおんなじに、ぼくもスーパーマンや仮面ものが大好きなのですが、いつもふしぎにおもうのは、大格闘しても着ているものが破れないし汚れない、だれのためにたたかっているのか、よくわからないということです。

 ほんとうの正義というものは、けっしてかっこうのいいものではないし、そして、そのためにかならず自分も深く傷つくものです。そしてそういう捨身、献身の心なくしては正義は行なえませんし、また、私たちが現在、ほんとうに困っていることといえば物価高や、公害、餓えということで、正義の超人はそのためにこそ、たたかわねばならないのです。

 あんぱんまんは、やけこげだらけのボロボロの、こげ茶色のマントを着て、ひっそりと、はずかしそうに登場します。自分を食べさせることによって、餓える人を救います。それでも顔は、気楽そうに笑っているのです。

 さて、こんな、あんぱんまんを子どもたちは、好きになってくれるでしょうか。それとも、やはり、テレビの人気者のほうがいいですか」

 こんなアンパンマンの姿にイエスさまの今日の言葉が重なってくる、そうは思いませんか。わたしたちも人のために、少しでも自分の持っている何かを削(けず)って差し出すことができれば…、いえ、そうしたい、そうさせてくださいと願わずにはおれません。

 

メッセージ「あなたの手で―十字架」(おとな)

■いのち、生き方への問いかけ

 今日の言葉、52節以下には「わたしの肉を食べる」「わたしの血を飲む」という言葉が繰り返されます。この言葉は、単に主との交わりととどまらない、聖餐式でいつも読まれ、わたしたちがいつも耳にする、コリントの信徒への第一の手紙11章23節から26節の主の晩餐の言葉を思い起こさせるものです。

 最初期の教会に語り伝えられていたイエスさまの最後の晩餐の言葉を、パウロが引用したのは、コリント教会の人々が教会に集まって食事をするときに「仲間割れ」があり、「食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末」(11:21)だったからでした。パウロの願いは、教会で共に食事をするときには、ご自身の血と肉とを分かち合われたイエスさまの愛を思い起こし、イエスさまの体に共にあずかることを通して、貧しい人が惨めな思いをするようなことのないよう、愛をもって持てるものを互いに分かち合って欲しい、ということでした。

 今日の教会ではもちろん、コリント教会で起こったようなことはよもや起こらないでしょう。主の晩餐にあずかるたびに、わたしたちは溢れるばかりのキリストの愛を受けます。そして、愛餐という言葉があるように、教会ではときに、喜びと愛を分かち合いながら食事を共にします。

 「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」というこの言葉は、わたしたちのあずかっている聖餐が、わたしたちのいのちが何によって生かされているのか、わたしたちの生き方そのものを、鋭く、また根源から問うものであることを思い出させてくれます。

 

■シークレット・サンシャイン

 先週の第一回目の受難節連祷会で、最相葉月『証し―日本のキリスト者』の中の、こんな一文をご紹介しました。

 「話を聞きながら、ある映画を話題にしたこともある。2007年に製作され、日本でも上映された韓国の巨匠イ・チャンドン監督の「シークレット・サンシャイン」である。

 主人公のシングルマザーには幼い息子がいるが、目を離したすきに何者かに誘拐され、殺された。犯人は逮捕されたものの、母親の怒りと悲しみが収まるわけではない。周囲の慰めの言葉も素通りしていく。あるとき、隣人に誘われて教会に出向いたところ、この苦しみを受け取ってくれるのは神様しかいないと気づき、信仰にのめり込んでいく。聖書の話を聞き、讃美歌をうたい、牧師に胸の内を打ち明け、兄弟姉妹との交わりに加わって、共に祈りを捧げる。イエスが弟子たちに教えたとされ、礼拝では必ず唱和される「主の祈り」である。…(略)…

 キリスト教では、すべての人間は罪深い存在であり、自らの罪を認め、悔い改めることによって神に赦され、神の国に入れると説く。回心、あるいは神との和解と呼ばれる。神が創造した最初の人間であるアダムとイヴが楽園で犯した罪責が、すべての人に及ぶという意味での「原罪」については、教派によってとらえ方が違う。…(略)…違いはあるものの、悔い改めて神から赦しを受けることは、キリスト者として神に向けて歩む前進であることに変わりはない。神に赦されたことに感謝し、私も人を赦します、と祈るのである。

 しかし、人を赦すほどむずかしいことはない。映画「シークレット・サンシャイン」では、主人公の母親も信仰を深めるうちに、神が汝の敵を赦し、愛せと教えたことを知り、自分も犯人を赦そう、犯人に神の赦しについて伝えようと思い、まわりの反対を押し切って刑務所に面会を申し込む。犯人と向き合ったその日、母親があなたを赦すといおうとしたとき、思いがけないことが起きる。犯人は柔和な笑みを浮かべ、自分もまた刑務所で神と出会い、自分の罪を懺悔したといい、至福の表情でこういった。

 「神はこの罪人に手を差し伸べ、その懺悔をお聞きになり、罪を赦したのです」

 「神が、罪を赦したですって?」

 「涙を流して懺悔し、神の赦しを得ました。そして、心の平安が訪れました。起きると祈りを捧げ、毎日感謝して過ごしています。神に懺悔し赦されてから、心はやすらかです」

 自分が赦すより前に、神は息子を殺した犯人を赦していた。私が赦していないのに、なぜ神は赦したのか。私が苦しんでいるとき、犯人は神に赦されて救われていたなんて……。母親は茫然とし、口から出かけていた赦しの言葉を飲み込み、失意の日々を送ることとなった―」

 

■あなたの手で!

 誰にも、傷つけられ、痛めつけられた経験というものがあるものです。そしてそれらが気づかぬ間に、たくさんの恨み、憎しみ、怒りを体の内に造り出します。「いや、そんなことはない。わたしはひどいことをされたけれども、もう怒ってなどいない。わたしはもうこの人を赦しました」と言われるかもしれません。でも、その言葉自体が抑え切れない怒りを表わしています。

 赦すとは本来、赦した行為さえ記憶しないことです。七回ぐらい他人を赦せばいいと考えていたペトロは、イエスさまに兄弟姉妹を何回まで赦せばいいのかと尋ねました。彼にとって赦しとは、その一つひとつを計算し、記憶する類のものでした。そのペトロにイエスさまはこう答えられます。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍赦しなさい」(マタイ18:22)。それは、四百九十回、赦せ、ということではありません。赦しとは、赦した回数をも、赦した事柄すらも、忘れてしまうものだ、という意味です。

 その意味で言えば、自分が誰かを赦したという記憶、そこには、自分の味わった痛みや怒りを決して忘れるものかという心が見え隠れしています。実際のところ、わたしたちは解決されない怒りを溜め込み、それをどこに向ければいいのか、いつもそれを探しているのかもしれません。わたしたちは、自分の意地悪さに、自分の悪魔性に、自分の罪に気づかなければなりません。

 イエスさまがそんなわたしたちに語りかけられます。それが今日の言葉です。

 「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。…わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」

 イエスさまは神からのさまざまな祝福を受けるための条件として、アンパンマンのように、イエスさまの肉と血を食べなさいと命じられます。イエスさまの肉を裂き、その血を流すことを、イエスさまを殺して、十字架に架けることを勧められるのです。わたしたちは、怒りを発散するための相手を無意識のうちに探し、格好の弱者を見つけ、襲いかかろうとします。その時にこそ、イエスさまはわたしたちの前に立ちはだかり、こう語られます。

 「わたしを殺しなさい!あなたの手で!」

 神は決断されました。最も無力な姿で、わたしたちの怒りを十字架という形で全面的に受けとめる、と決断されました。その怒りをわたしに全て向けなさい。わたしを殺しなさい。わたしがあなたの罪を全て背負おう、と。

 十字架は悲劇だ、と遠くから評論家のような口振りをするのはもう止めましょう。イエスさまを十字架に架けた、当時の人の残酷な気持ちが分からないなどと、自分を欺くのも止めましょう。こう告白すべきです。

 主よ、わたしたちは弱い者いじめが、復讐が大好きでした。わたしたちは人生への恨みを晴らしたかったのです。今、あなたがその怒りを全て受けとめると言われます。それで、最も弱い姿を取られたあなたを、二千年前のユダヤの人々と一緒に、今もこの手で殺し続けています。そうしないと、イエスさま、わたしたちは死ぬまで、人を呪い、関係のない人をいじめ抜きそうです。

 ペトロの第一の手紙にこう記されています。

 「主のお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」(2:24)

 わたしたちは主の受けた傷によって癒される、ペトロはそう語ります。そしてその傷は、わたしたちがつけるのです。釘だらけの十字架に、自分の罪が見えてきます。あなたが自分の怒りに気づいていれば、いのちを投げ出してまでわたしたちの愚かさを受けとめでくれる方に出会うことができるはずです。そして自分の涙で十字架が見えなくなるはずです。

 どうか、あなたの驚くべき愛を、感謝をもって受け取り続けることができますよう、わたしたちを導いてください。