■ガダラという町
「イエスが向こう岸のガダラ人の地方に着かれると、悪霊に取りつかれた者が二人、墓場から出てイエスのところにやって来た。二人は非常に狂暴で、だれもその辺りの道を通れないほどであった。」
イエスさまはカファルナウムを後にし、家族や故郷の安穏(あんのん)とした空気の中にとどまろうとする思いを断ち切るようにして、異邦の地へと船出されました。目指す先は、「向こう岸のガダラ人の地方」、ヨルダン川東岸、古来よりアンモン人の住む異邦の地で、そこでは豚飼いたちが無数の豚を飼育している、と言われています。ユダヤ人から見れば、受け入れることも交わることも難しい、汚れた罪人たちが住んでいる土地でした。しかし、イエスさまは今、激しい嵐を乗り越えてまで、あえてそこに渡られます。
ガダラは、ガリラヤ湖畔の南東に位置する町です。マルコとルカは、この地を「ゲラサ」と呼んでいます。しかしゲラサは、デカポリス地方、ガリラヤ湖の南東55キロにある内陸の町です。舟で渡られたことを考えれば、マタイの言う「ガダラ」の方が正しいのかもしれません。もともとは、カナン人やペリシテ人の町でしたが、時代に翻弄され、目まぐるしく入れ替わる支配者に翻弄され、搾取され、幾度も戦争に巻き込まれてきました。
聖地を巡る旅行に参加された方から、このゲラサやガダラのことをお聞きしたことがあります。いずれの町にも大変立派な遺跡があり、ギリシア風の都市として栄えていたことが伺えるものだった、とのことでした。今朝の話だけを読んでいると、ガリラヤ湖の向こう岸の、豚しか住んでいない辺鄙な田舎に行ったかのように錯覚してしまいがちです。しかし当時、この地は圧倒的な軍事力に踏みにじられた、しかし文化的にも、経済的にも豊かな地域でした。
そして今も、ガダラの町をはじめとするデカポリスの町々は、ヨルダン王国に属し、イスラエルから追い出されたパレスチナ難民、またシリアやイラクから逃れてきた多くの難民を抱える地域となっています。そこには、戦争や紛争の傷が深く刻まれ、軍隊によって土地や家や肉親を奪われた人々の怒りや悲しみがあふれています。その地は、今も、憎しみと暴力の連鎖に支配された悪霊が多くの人々にとりついている、そう言えるのかも知れません。
■悪霊に取りつかれた二人
舟を下りたイエスさまのところに真っ先にやってきたのは、その悪霊にとりつかれ、戦争の傷と悲しみ、怒りをにじませる、二人の男たちでした。
その姿を、マルコが詳しく書き留めています。
「墓場に住みついており…鎖をもってしても彼をつないでおくことができなかった。彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまった…彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた。」
墓は不浄な場所、汚れた悪霊の住処です。彼らは、その墓場に自分から住み着いたのでしょう。周りの人が墓場に追いやり、縛り付けておこうとしても、鎖を引きちぎるほどの力を持った彼らです。鎖を引きちぎり、行きたいところ、快適なところに行くことができたはずです。彼らはきっと、自分から暮らしていた町を捨て、家を飛び出し、墓場に住み、自分の体を石で打って傷つけ続けるほかなかったのでしょう。それが、どんなに悲しく、つらいことであったのか、マルコの文章は彼らの姿をよく伝えています。
しかしマタイは、それをたった一行の言葉で表現します。
「非常に狂暴で、誰もその辺りの道を通れないほどであった。」
たったこれだけです。墓場に住むこの人たちがどんなに苦しみ叫んでいたか、どんなに自分を傷つけていたかということには一言も触れません。ただ、彼らがどれほど狂暴であったか、そのため、だれもその辺りの道を通ることもできず、周りの人にどれだけ迷惑をかけていたことか、そのことだけを伝えます。
しかしそうすることでかえって、禍々しいほどの暴力の姿がはっきりと浮かび上がってきます。暴力そのものといってよい彼らは、人々にとってはもはや、恐怖の対象でしかありません。彼らに近寄る者など、だれ一人いません。だれかに触れられることも決してなかったでしょう。嫌われ、疎んじられ、除け者にされます。そうされればされるほど、ますます頑なになり、憎しみを募らせ、暴力を振るうようになります。だれもその辺りの道を通れなくなります。そうすることで、ますます遠ざけられます。
一人の若い精神科医が、病院に勤務するようになって最初に衝撃を受けたことは、三十年も四十年も入院している患者がいるという現実であった、と語ってくれたことを思い起こします。心の病のために暴力を振るうようになり、家族が限界を覚え、入院したものと思われます。でもそのあとも、家族が不安を覚え、家に帰ることができません。そのうち、親も高齢になり、そのため、人生の大半を病院で過ごすようになった人がおられるのです。そう話してくれました。事実、わたしの関わりのある人も、四十年近く入院しています。二十代の時に入院していますから、人生の三分の二は入院生活です。墓場を住みかとしている人というと、わたしはいつも、その人たちのことを思い浮かべます。
恐れが恐れを、憎しみが憎しみを、暴力が暴力を生み出してしまう。そんなわたしたちの罪深さをマタイは、「狂暴で、誰もそのあたりを通れないほどだった」という、この一言に込めているのではないでしょうか。
■今こそ、解放の時
そんな二人が、突然叫びます。
「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時でもないのにここに来て、我々を苦しめるのか。」
二人は、イエスさまの救いを求めてやって来たのではありません。彼らは言葉も行動も悪霊に支配されているのですから、これは悪霊の行動、言葉です。悪霊の方から、イエスさまのもとにやって来たのです。悪霊は、イエスさまが何者であるかを知っていました。「神の子」と呼びかけます。 そして「かまわないでくれ」と言います。「かまわないでくれ」、これを原文のままに訳せば、「わたしたちとあなたにどんな関わりがあるのか」となります。拒絶の言葉です。あなたとわたしには何の関係もないのに、どうして介入するのか、放っといてくれ、ということです。
悪霊はそう願う理由を続けます、「その時でもないのに」と。「その時」とは、「世の終わりの時」という意味です。 悪霊は、イエスさまが神の子であること、終わりの時には、その神の子がやって来て、自分たちが滅ぼされること、天におけるように地に神の御心がなされる「神の国」が到来することを知っているのです。けれども、神の子であるイエスさまが、今、目の前においでになったとき、悪霊は、早すぎると思い、狼狽えます。
狼狽えた悪霊が見渡すと、はるかかなたで多くの豚の群れがえさをあさっているのが見えました。そこで、悪霊たちは、イエスさまに、「我々を追い出すのなら、あの豚の群れの中にやってくれ」と願います。イエスさまが「行け」と言われ、悪霊は二人から出て、豚の中に入りました。すると、豚の群れは、崖を下って湖になだれ込み、悪霊も豚も死んでしまいます。
この箇所をギリシア語原文で読んでいて、「あれっ」と思いました。「崖を下って湖になだれ込み」という文の主語は単数形なのに、「水の中で死んだ」の主語が複数形になっているのです。「豚の群れ」は集合名詞ですから、集合体をひとつの塊と捉えて単数形で表わすのは、当然です。ところが、その同じ豚の群れが溺死したことを、マタイはあえて複数形で表現しています。文法的な誤りを冒してまで、マタイがここで強調したかったことは何か。それは、単数形としての豚の群れの死ではなく、複数形の悪霊、つまり悪霊たちが滅んだという事実なのではないでしょうか。
悪霊たちは滅び、イエスさまが勝利されたのだ、ということです。悪霊たちが、今はまだ自分たちの時だと思っているのに対して、神の子が出現したことによって、世の終わりの時、神の国は、もうすでに、今ここに始まっているのだ、という現実がここに示されているのです。そのようにして、悪霊に取りつかれていた二人が正気を取り戻した。
つまり、憎しみと暴力という罪の連鎖から解き放たれた。この事実が大切なのだ、マタイはそう言いたかったのでしょう。
■憎しみは悪霊の働き
まさに12章28節で、イエスさまが「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と言われているように、神の国はまだ完成していませんが、確かに今ここに始まっているのです。ところが、町の人は、「あいつのお蔭で、豚が死んでしまった。大損だ」と、目先の損失に心を奪われ、怒りにその身を震わせます。目の前の出来事を、「損得勘定」「恐れと憎しみ」でしか受け取ることのできないガダラの人々の罪が、ここに露わになります。
そして今も、わたしたちの国でも、世界でも、悪霊の仕業としか思えない出来事が相次いでいます。
今から5年前、イスラム過激派のISIL(イスラム国)にシリアで拘束され、殺害された後藤健二さんというフリーランスジャーナリストがいます。わたしたち教団の田園調布教会で洗礼を受けられた方です。その後藤さんが、かつてこういうことを言っています。
「目を閉じて、じっと我慢。怒ったら、怒鳴ったら、終わり。それは祈りに近い。憎むは人の業にあらず、裁きは神の領域。―そう教えてくれたのはアラブの兄弟たちだった。」
創世記4章に、「カインとアベル」という小見出しの記事があります。
弟アベルを殺したカインが神に、「わたしの罪は重すぎて負いきれません。今日あなたがわたしをこの土地から追放なさり、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう」と訴えます。弟アベルを殺すという罪の大きさに慄(おのの)くカインの言葉です。しかし神は、カインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた、といいます。カインに代表されるような弱さを、醜さを人間、だれもが持っています。わたしたち人間はカインの末裔です。だれにも、カインと同じようにしるしがつけられているのではないでしょうか。神がカインにしるしをつけられたということは、どんなに憎むべき出来事に直面しても、人間は報復してはならない、憎んではならない、ということです。それが聖書の教えることです。報復すると、また報復されます。報復の連鎖は断ち切らなければならないのです。 その人が憎むべきことをしているのは、豚二千匹を動かすほどの悪霊が、その人に取りついているからです。
後藤さんの言われるように、裁きは神の領域です。イエスさまは、悪霊に豚の中に行けと言われ、そのため多くの財産、お金が失われたのですが、悪霊に取りつかれていた人が、その憎しみから解き放たれて、人間としての姿を回復されました。裁きはイエスさまにお委ねして、祈らなければならないのです。
悪霊の働きはいろいろな方面に及びます。79年前の1941年、日本に真珠湾を奇襲攻撃されたアメリカが、第二次大戦に参入することを議会で決議した時、反対したのはジャネット・ランキンさんという女性議員一人だけでした。388対1でした。そして、2001年9月11日の同時多発テロのあと、ブッシュ大統領がどんな軍事力を使ってもよいことを決めた時、上院では反対がゼロでした。下院では、バーバラ・リーさんという黒人の女性議員がたった一人、反対をしました。420対1でした。
報復せよ、というのは悪霊の促しです。 ひとりのこどもが見も知らぬ青年によって殺され、逮捕されました。その時、ほとんどすべての人がその青年を憎み、死刑を望む声が世に満ちました。幼い子どもが殺されるというのですから、当然です。 けれども、その青年に取りついている悪霊が追い出されるよう、わたしたちは祈らなければなりません。もちろん、かけがえのないいのちを守れなかったわたしたちは、その子どもに、その家族に、心からお詫びしなければなりません。 今日の箇所でも、町の人がすべて、イエスさまにこの町から出て欲しいと願いました。悪霊は、こうした町の人にも、わたしたちにも働くのです。
けれども、イエスさまは悪霊が取りついている人と全力で対決します。悪霊に取りつかれた人に癒しを与えられています。そのため、町のすべての人からここから出て欲しいと求められます。イエスさまは争うことなく、舟に乗ってカファルナウムに戻られました。
後藤さんからあらためて教えられたことは、憎しみではなく、祈ることです。裁きを人間にさせることは悪霊の業です。どんなに時間がかかっても終わりの時、神が御国を来たらせてくださる、その日が来ることを望み見て悪霊がこれ以上活躍しないように真剣に祈る、そのことの大切さを覚えたいと願うものです。
お祈りします。愛の主よ、あなたから溢れ出る力が、悪霊の重い絆からふたりの人を解き放ってくださったように、あなたの御手によってわたしたちを解き放ってください。病に勝たせてください。罪から解き放たれますように。今ここであなたの御国に繋がれている、わたしたちにいつも愛と平安が注がれているというメッセージを、何にもまさる賜物として受け入れ続けることができますように。主のみ名によって。アーメン。