■証人としての使徒
第一の手紙を終えて、今日から第二の手紙に入ります。しかし、この第二の手紙は、パウロがコリント教会に出した第一の手紙の、すぐ後に書かれた手紙というわけではありません。第一の手紙が書かれてから、第二の手紙が書かれるまでの間に、様々な出来事や事件が起きていました。今日はまず、そうした手紙の背景からご一緒に学んでいきたいと願っています。
この手紙の差出人は言うまでもなく使徒パウロですが、問題はこの「使徒」という呼び名です。最初期の教会では特別な意味を持つ、権威ある呼称です。使徒というのは、イエスさまの宣教活動に同行し、そのすべての出来事を見届け、そこで語られた言葉のすべてを耳にした人たちだけに許される呼び名でした。
教会では証人、証し人が重んじられました。使徒たちはイエス・キリストが奇跡によって多くの人々を癒し、驚くべき良き知らせ―福音を語り伝え、十字架で確かに死なれたけれども、その三日後にはよみがえられたのだ、と証言していました。これらイエスさまに関わる出来事や言葉を知るためには、現代のようにテレビやインターネットはもちろん、録画や録音のない時代にあっては、伝聞、証人の証言に頼るほかありませんでした。
英国の聖書学者ボルンカムによれば、当時の情報の大半はそうした口伝え、噂でしたが、特に、どこそこの、だれそれが、こういうことを見た、聞いたという、情報源が特定されるものは信頼性が高いと考えられていました。徴税人ザアカイやベタニアのラザロ、サマリアの女やシリア・フェニキアの女などです。とりわけ、イエス・キリストに従い、氏素性もはっきりしている使徒たちの証言は大変重んじられ、その証言は権威あるものとして受けとめられました。
■パウロの使徒性
では、パウロには「使徒」と呼ばれる資格があったのでしょうか。厳密に言えば、パウロは使徒ではありません。彼は生前のイエスさまに会ったことも、イエスさまを見たこともなかいからです。イエスさまは主にエルサレムの北部、ガリラヤ地方で活動されていましたから、都会育ちのパウロはその噂を聞くことがあったとしても、実際にはどんな人かを知りませんでした。
それどころか、パウロにとってイエスさまは、ユダヤの最高法院、今の最高裁判所で、救い主を自称する偽メシアとして断罪され、ローマ帝国の手によって最も残酷な極刑、十字架刑で殺された、いわくつきの罪人です。その罪人をメシア・救世主として崇めるキリスト教は怪しげな宗教にしか見えず、その上、ユダヤ教で罪汚れた者と見做されていた、病人やしょうがい者、異邦人たちと親しく交わり、交際する、とても危険な宗教でしかありません。パウロは、他のユダヤ人がこの危険な宗教に惑わされることのないよう、自ら進んで徹底的にキリスト教を弾圧していました。
そんなパウロに、天に昇られたイエスさまが突然現れ、なぜわたしを迫害するのかと問われたのです。使徒言行録9章に記されるダマスコ途上での出来事です。パウロは、それまでの自分の生き方を根底から問い直さざるを得なくなります。自分はこれまで他の誰よりもユダヤ教の教えに精通していると誇っていたのに、神がイエスを救い主キリストとして選んだことに全く気がつかなかった。自分は大きな勘違いをしたまま生きてきたのではないか。彼は必死に祈り、これから自分はどうすればよいのかと、神に、イエス・キリストに真剣に問いかけました。
その時、神から彼に使命が与えられたことを、パウロはガラテヤの信徒への手紙1章15節から16節にこう告白しています。
「わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた」
パウロに与えられた使命とは、ユダヤ人と外国人の区別なく、すべての人に神の救いがもたらされていることを告げる、イエス・キリストの福音を一人でも多くの人に宣べ伝えることでした。パウロにとって、この福音を宣べ伝える使命を与えられた者こそが「使徒」でした。パウロは紛れもなく使徒でした。
■時間がない
こうしてパウロは、小アジアと呼ばれる地域、現在のトルコで伝道活動を行っていましたが、それからしばらくして、ヨーロッパのギリシアに活動の拠点を移します。パウロはまず、かのアレクサンダー大王を生んだマケドニア地方で伝道をします。フィリピやテサロニケという都市で伝道に励みますが、迫害が激しくなり、逃げ延びるようにしてギリシアを南下します。辿り着いたのがギリシア南部、地中海世界の交易・交通の要衝に位置する大都市コリントでした。当時としては破格の50万人もの人口を擁するコリントでの伝道にパウロは大きな期待をかけ、またヨーロッパ伝道の拠点にしたいと考えていました。パウロは1年半の時間をかけてコリントの地に教会を立ち上げ、そして他の町へと去って行きます。
それにしても、パウロが1年半というわずかな時間で、また次の町へと去って行ったのはなぜだったのか。パウロに時間が、余裕がなかったからです。このときパウロは、自分が生きている間にイエス・キリストが再びやって来られると堅く信じていました。パウロの願いは、その再臨までに全世界に福音を宣べ伝えることでした。全世界と言っても、それはパウロの生活圏、地中海世界のことです。そのすべての地に、最西端のスペインまでできる限り早く福音を伝えたい、それが願いでした。
そこで交通の要衝に位置する大都市に狙いを定めて、伝道活動を進めていきました。とはいえ、地中海は広大です。海の荒れる11月から3月まで船旅はできません。基本、徒歩で移動することの多かったパウロにとって、全世界への伝道は時間との勝負でした。そのため、個々の教会に仕える時間は長くても二年が限度でした。二年間は長いようで、あっという間です。
■第一の手紙から第二の手紙まで
できたばかりのコリント教会の人々にとっては、なおのことでした。パウロが去った後、彼らは教会の運営や毎週の説教にも苦労したにちがいありません。そんな中、新しい宣教師のアポロがやって来ました。雄弁家のアポロに魅了された人たちの中には、わたしはあのパウロ先生よりもアポロ先生の方がいい、と言い出す人もいました。そうして教会にはパウロ派、アポロ派のような派閥ができました。パウロは1年半しかいなかったので、すべてのことを教会の人々に教えることもできず、信仰の基本的なことしか伝えられなかったようです。そのため、信徒たちの間にいろいろと問題が生じたときも、教会としてどう対応していいのか分かりません。こうして混乱に陥ったコリント教会の様子を聞き知ったパウロは、コリントを去ってから約1年半後に、小アジアの大都市エフェソで第一の手紙を書き、いろいろな問題について細かい指示を書き送り、書くだけでなく自分の右腕であるテモテをコリント教会に遣わしました。これが第一の手紙が書かれたときの状況です。
しかし、この第一の手紙が書かれてから第二の手紙が書かれるまで、またも、いろいろな出来事が起こりました。パウロの代理としてコリントに向かった若きテモテですが、彼はそこで事態が予想以上に悪化しているのを知ることになります。第一の手紙のときには分からなかった、新しい問題が生じていました。
パウロに敵対する新たな宣教師たちがコリントにやって来て、信徒たちにパウロの人格を、その使徒性を疑わせるようなことを吹き込んでいたのです。かつて、パウロの後にコリント教会に来たアポロは決してパウロを悪く言うようなことはしませんでした。しかし今度の宣教師たちは違っていました。
実際、パウロという人は敵を作りやすい人でした。彼は空気を読むとか、忖度(そんたく)するといったようなことをしません。相手が誰であろうと、自分が信じることをはっきり言う人でした。安倍首相の時の文科省の役人たちのように、空気を読むことを重んじる今の日本では、間違いなく嫌われるタイプの人だったと言えるかもしれません。
特にパウロは、外国人には旧約聖書の教えであるモーセの律法、割礼や食事の規定などを守らせる必要はない、イエス・キリストは神の愛と救いがすべての人にもたらされていると告げられ、律法を盾に人を罪に定め、人と人との絆を分断するファリサイ派や律法学者を批判されたのだ、と強く主張していました。このパウロの教えが気に食わない人たちがいました。律法は聖書に書かれた神の言葉です。パウロはかつての迫害者であって、使徒でもなんでもない、それなのに何の権利があって聖書の教え、律法を守らなくていいなどと言えるのかとパウロを攻撃したのです。彼らから吹き込まれた人たちは、パウロに疑念を抱くようになります。コリンの人々には、パウロから十分に教えてもらえなかったという不満もありましたから、ある人たちはこの宣教師たちの言葉を信じ、パウロから離れて行ってしまったのです。
この危機的状況をテモテから知らされたパウロは、居ても立っても居られません。同じく問題を抱えていたフィリピやテサロニケの教会から訪問しようと考えていたパウロでしたが、予定を変更し、急いでコリント教会に向かいます。しかし、この訪問は最悪の結果に終わりました。それが2章1節にある、「あなたがたを悲しませる訪問」でした。
コリント教会の皆が、パウロを拒絶したわけではありません。しかし、もともとパウロ派とかアポロ派とかペトロ派に分裂していたような教会でしたから、パウロに不満を持つ一定数の信徒がいました。彼らが中心になって、「わたしたちはあなたを使徒とは認めない。偉そうにしないでいただきたい」というようにパウロを傷つけることを言い放ったのでしょう。もちろんパウロを慕い、擁護する信徒たちもいました。こうして教会はますます混乱に陥り、パウロの二度目のコリント訪問は最悪の結果となりました。
パウロはここで一旦コリントを退き、エフェソに戻ってしばらくしてから、涙ながらの手紙を書き送ります。そのことが2章4節に書かれています。残念ながら、この涙の手紙は残されていません。今、わたしたちが読んでいるのはその涙の手紙に続く、もう一つの手紙です。パウロはこの涙の手紙をテモテではなく、もう一人の同労者であるテトスに持たせます。しかし、その返事を待つパウロは気が気ではありません。テトスがなかなか帰ってこないので、コリントでテトスの身に何かあったのではと不安になります。テトスに会えるのではと思ってマケドニアに行き、そこでようやくテトスに会います。
テトスからコリントの様子を知ってパウロは喜びます。パウロの悲痛な手紙を受け取ったコリント教会の多くの人たちが反省し、パウロをひどい言葉で侮辱した人を処罰することにし、パウロと和解しようとしているというのです。こうして一難去ったかのように見えましたがしかし、パウロに反対する宣教師たちもまたコリント教会に影響を持ち続け、まだパウロに対して腹に一物をもつ信徒たちもいて、油断できない状況だということも聞かされました。
こうした緊迫した状況で書かれたのが、この第二の手紙なのです。
■慰めと苦しみ
そんな第二の手紙の冒頭、1節から7節だけを今日は読んでいただきました。冒頭だから形式的な内容だと思われるかもしれませんが、決してそうではありません。3節から7節までのわずか5節の間に、パウロは「慰め」という言葉を9回も用います。また「苦しみ」や「苦難」という言葉が7回も出て来ます。そう、第二の手紙のキーワードは、「慰め」とその対になる「苦しみ」です。パウロは何度も何度も自分が苦しみに遭っていること、そして苦しみにあるその自分を神が慰めてくださっているのだ、と繰り返し語ります。
なぜ、パウロはこんなにも「苦しみ」や「苦難」を強調するのでしょうか。その理由の一つはやはり、敵対する宣教師たちの存在です。彼らはパウロが使徒であることに疑問を投げかけましたが、それだけではありませんでした。パウロが伝道のために至るところで迫害を受け、多くの苦しみを味わい、体に持病を抱えていることも広く知れ渡っていました。パウロに反対する人たちは、パウロがあんなに苦しむのは彼に何か問題があって、神が彼を守らないからに違いない、と仄めかします。ちょうどヨブ記のような話です。義人であると信じられてきたヨブが突然の災いに遭ったのを見た友人たちは、ヨブが何か罪を犯していて、それを神が裁いたのだと噂をしました。それと同じです。
そんな中傷に対してパウロは、繰り返し自分の苦しみの意味を説明します。パウロは自分の苦しみを通じて、キリストの苦難の生涯、とりわけその十字架での死が明らかになる、自分は苦しみを通じてキリストを証ししているのだ、と主張します。と同時に、苦しみに遭っている自分を神は慰めてくださる、神はわたしと共におられる、ということを強調します。パウロは、神が自分をこの苦境から救い出す力があるし、また救ってくださると確信しています。イエス・キリストを十字架の死という最悪の状況からすら、復活によって救ってくださった神を信じているからです。パウロの語る「慰め」とは、神が苦難から救う神であることを確信していることから来るものでした。
■道を開いてくださる
大学を卒業したものの、うつ病にかかり、仕事を断念して、治療に専念せざるを得なかった、教会の友人がいます。彼から送られてきた手紙の中に、「元気な時は、人は生きていけますが、世の中の厳しい現実に気づいて自分が弱い者だと知ったならば、希望を持って生きるということは、なんと難しいことでしょう」と、心の病気をもってこの世で生きることが、いかに困難で苦しいことかと訴えていました。社会の厳しい現実、襲いかかる病魔、無力な自分。なんと重い現実でしょうか。
ある人は、信仰を持ったら、悩みも苦しみもなくなると思っています。しかし、それは事実ではありません。この世の不正やこの世の虚しさに目を留めないで、また自分の罪にも気づかず、目に見える幸福のみを追い求めている人々には、イエスさまの生き方も、弟子たちの生き方も、全くナンセンスで、馬鹿げて見えるかもしれません。
けれども、働き盛りの父親をガンで失った家族や、ひとり淋しく死を迎えるご高齢の方は、より永遠的で、確固たる真実や幸福とは何かを求めずにはいられません。また、人を破滅に落とし入れるような激しい苦難がやってきても、決して動揺しない生き方とは何かを考えないではいられないのです。
パウロは、極限状況に置かれた時の唯一の救いは、「死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となること」であると教えます。ここに、すべてのものを失った厳しい現実の中でも、なお無力なわたしたちが生きる道があるのです。死者をさえ、生かすことのできる神がいるとは、全くの暗闇の中での光であり、希望ではないでしょうか。
わたしたちの信仰の道、神を信ずる道は、この死に体(たい)から繰り返し生かされる、思いがけない形で道が開かれる、そういう形で生きていく道なのです。そしてその道が、永遠のいのちにつながるのです。そして実に、苦難をわたしたちが生きていくということが、わたしたちの信仰の証しです。信仰を持って幸せ、苦しみは一切ない、そんなのはわたしたちの信仰の証しでもなんでもないのです。楽に生きている、そんなことは信仰の証しでもなんでもない。苦難を生きていくのです。苦艱の中に、神は道を開いてくださいます。わたしたちがたとえギブアップしても、必ず神はわたしたちのために前方に道を開いてくださいます。わたしたちはその道を歩いていくのです。それが信仰によって生きるということだ、この手紙を通してパウロはそう教えるのです。感謝して祈ります。