福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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7月19日 ≪聖霊降臨節第8主日礼拝≫ 『愛されて、赦されて』 マタイによる福音書9章1~8節 沖村裕史 牧師

7月19日 ≪聖霊降臨節第8主日礼拝≫ 『愛されて、赦されて』 マタイによる福音書9章1~8節 沖村裕史 牧師

■その人たちの「信仰」を見て
 イエスさまは、ガダラ人の地を離れ、ガリラヤ湖を渡り、第二の故郷カファルナウムに戻って来られました。その時のことです。
 「すると、人々が中風の人を床に寝かせたまま、イエスのところへ連れて来た。」
 この時の様子を、マルコとルカは、マタイよりも詳しく描いています。 しかしマタイは、そうした状況説明の一切を省きます。そしてひと言、
 「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される』と言われた」
 そう書くだけです。
 そうすることで、マタイは「罪の赦し」という一点に視線を集中します。
 そのきっかけとなったのは、「その人たちの信仰」をご覧になられたことでした。イエスさまはここで、何をご覧になっていたのか。マルコやルカによれば、屋根をこわして、病人を吊り降ろす四人の男たちの行為を見て、です。乱暴で、人の迷惑も考えない、直情的な行為です。マタイによれば、寝たきりの人を床(とこ)に寝かせたまま、連れてきたことです。そのどこに、「信仰」が見えたというのでしょう。少なくとも、わたしたちがイメージするような信仰深さや信仰的な態度は、ここにはまったく示されていません。
 イエスさまが、この人たちの中に見た「信仰」とは、いったい何なのでしょうか。
 何度かお話をしてきたことですが、「信仰」と訳された言葉の意味について確認しておきたいと思います。ギリシア語のピスティスという言葉、これを「信仰」と訳すことに、わたしは違和感を持っています。日本語訳の聖書はいずれも、ピスティスを「信仰」と訳します。でも、この「信仰」という日本語は「信じ仰ぐこと」と書く通り、何かを信じて仰ぐ態度、あるいはその行為を表わすものです。一方、このピスティスを辞書で引くと、最初に「信頼や信仰を呼び起こすもの」と記されています。ピスティスは、何かを信仰するというよりも、むしろ、誰かから信頼され、信用されるに足る事実、現実、有様を指す言葉のようです。「本当に信ずるに足る確かなもの」「疑う余地のない事実」「誠実で信頼の置ける態度」「見るからに本気で、一途で、ひたむきなさま」といった意味の言葉です。
 ちなみに、旧約聖書のエムーナーというヘブライ語が、このピスティスに相当しますが、旧約聖書の日本語訳では、エムーナーという言葉は「真実」とか「まこと」とか「確かさ」という日本語に訳され、驚くべきことに、「信仰」という訳はほんの数回しか出てきません。それが新約聖書になると、なぜか、繰り返し「信仰」という日本語が使われます。しかもそのほとんどは、旧約聖書のエムーナーと同じく、「信仰」と訳すよりも、「信実」とか「まこと」、それがわかりにくければもっと噛(か)み砕いて、「誠実さ」「確かさ」「ひたむきさ」と訳す方が自然に思えます。
 ここも、「彼らの信仰を見て」ではなく、「彼らのひたむきさを見て」と訳すべきでしょう。イエスさまならきっと癒してくださる、そう深く信頼している彼らの姿、態度を見て、また、寝たきりの人をその寝床ごと運んで連れてくるほどに、その人を癒していただきたいと願う、彼らの切実な愛を見て、つまり、彼らの誠実で、ひたむきな愛の姿、愛の業を見て、イエスさまは「あなたの罪は赦される」と言われたのでした。

■「罪の赦し」のしるし
 それにしても、「あなたの罪は赦される」というこの言葉は、そこに居合わせた人々の意表を突くものだったのではないでしょうか。なぜなら、彼らの願いは、ただ病が癒されることだったからです。ところが、イエスさまは、そうはなさらず、「罪の赦し」を宣言されます。ちょっとしたすれ違いが起こっているようにも見えます。
 それともイエスさまは、この病は罪の引き起こした結果であると考えて、その赦しを宣言されたのでしょうか。そんなはずはありません。ヨハネによる福音書9章の冒頭、目の不自由な人について言われた、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」というイエスさまの言葉からすれば、何らかの罪ゆえにこの人が罰として病を患っている、そう考えておられたとは到底思えません。
 わたしたちは、この人そのものの姿に、深く注目しなければなりません。彼は身体(からだ)が麻痺(まひ)しているため、働くことはもちろん、日々の生活の中で自分ができることなど何一つとしてありませんでした。それは、単なる病人というのではなく、その全存在が鉄のような縄目に縛られ、深い闇の中にとじ込められていた、そう言うほかない状況です。しかもユダヤ教社会では、そのような不幸を罪の結果と見る、因果応報の考えが浸透していたため、世間の人々からの断罪のまなざしに晒(さら)されていたに違いありません。いわば、死の呪縛(じゅばく)に閉じ込められた、そんな存在でした。
 イエスさまによる「罪の赦し」の宣言は、この縄目を断ち切り、そのいのちを死の呪縛から解き放ち、いのちの尊厳、かけがえのなさを取り戻すものでした。この人は、神の裁きによって打たれていると、世の人々は見たかも知れません。そして、この人自身もそう思い込み、自分を蔑(さげす)み、悩み苦しんでいたことでしょう。しかし、そうではない、あなたは神の赦しにあずかっている。そうイエスさまは宣言されるのです。
 イエスさまは、あらゆる癒(いや)しの業を通して、「時は満ち、天の国は近づいた」という福音を、つまり、神の愛による支配を宣言し、今ここの出来事としてそれを示そうとしてくださるのです。「罪の赦し」は、「天国行きの切符を取得する」というようなものではありません。「罪赦される」とは、破壊された人と人の関係が回復され、孤立していた人が神によって健やかな関係の中に引き戻される、ということ以外の何ものでもありません。中風の人が、彼をなんとか助けようとする人たちに運ばれ、イエスさまの前に置かれているという愛の業それ自体が、彼の罪が赦されているということのしるしであり、この場面そのものが、神の国―神の愛の御手がここに差し出されていることのしるしなのです。
 辞書によれば、罪と訳されるハマルティアの意味として第一に挙げられているのは、「罪」と並んで「(罪深い)行為」です。罪とは、単なる概念ではありません。それは何よりも、具体的な行為です。聖書は、人と人との間に生まれる、差別やむさぼり、傷つけ合いや殺し合い、尊厳の蹂躙(じゅうりん)、そういった愛の業に対立する行為を「罪」と考えているようです。
 神に逆らうことが罪であるという考えが間違いと言うのではありません。その意味で、罪ゆえに裁くことも、その罪を赦すことも、それができるのは神のみであるということも間違いではありません。しかし、であればこそ、裁くことも赦すことも、人がなすべきことではありません。それはすべて、神に委ねる他ないことです。しかも、聖書に繰り返し語られる神は、「裁きの神」であるよりもむしろ、「赦しの神」です。それなのに、世間の人々が、律法学者が、この人は罪人だと裁くとすれば、それは愚かなこと、それこそ「罪」です。
 このように、「罪」が、人と人との間に生ずる、愛に敵対する行為であるとすれば、その「罪の赦し」は、人間同士の罪が告白され、謝罪され、それが相手に受け入れられることによって示されることになります。だからこそ、イエスさまは「互いに赦し合いなさい」と繰り返し教えられるのです。神の赦しは、人間同士の愛の業、赦しとして示されるのです。イエスさまにとって、「罪の赦し」は、ただ神がなさるものですが、そのしるしは、人と人の間の「愛の業」として、わたしたちに示されるものでした。
 であればこそ、イエスさまはここで「あなたの罪は赦されている」と言われました。「…赦される」と未来形で訳し、あるいは「…赦された」と過去形で訳す聖書もありますが、ギリシア語の原文は、未来形でも過去形でもなく、現在形です。
 ひとりの貧しく、中風に苦しむ人のために、イエスさまによる癒しを切望する人々の、ひたむきな愛の業―信仰を見て、イエスさまは「あなたの罪は今、赦されている。あなたのことを思う彼らの切なる愛の美しさこそ、罪の赦しのしるしに他ならない」、そう言われたのではないでしょうか。

■愛されて、赦されて
 しかしこの言葉に、律法学者が心の中でこう呟きます。
 「この男は神を冒涜(ぼうとく)している」
 律法学者が激しく反発したのは、イエスさまが自分で罪の赦しを宣言した、と考えたからです。神のほかに罪を赦すことのできる者は誰もいない、その彼の考えは決して間違ってはいません。ただ、イエスさまは今、この人はもうすでに神の赦しの中にある、神によって赦されているという事実を告げられたのであって、わたしが罪を赦すと言われたわけではありません。ここにもすれ違いがあります。
そこで、イエスさまはこう問いかけられます。
 「『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか」と問われます。ここも現在形、「あなたの罪は赦されている」です。罪を赦されていることは現実のことです。そのことは、彼らの愛の業によってはっきりと示されているのですから、どちらか易しいか、言うまでもありません。
 この福音書の中には他にも、罪赦された人の話やたとえがたびたび出てきます。その中のひとつに、ある主人がしもべの一万タラント(今でいう数十億円)もの負債をすべて「赦した」というたとえがありますが、そのたとえは、主人のこんな言葉で締め括られていました。
 「わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか」(18:33)。
 憐れむとは、愛することです。
 愛することは、赦すことでした。
 神の御子キリストは、「神の国はもうすでに、今ここに来ている」、だから「あなたの罪は赦されている」と宣言してくださるのです。
 そう、愛され、赦されている―それがわたしたちの現実なのです。出発点です。その出発点にくりかえし立ちかえって、事に処していくことが、たぶん正しいことなのです。
 「どんなに大きな愛を賜わったか」―それはわたしたちがいくら考えても、生涯にわたって考えても―信仰というのはおそらくそのことを考えつづけることがらだろうと思いますが―考え尽くせないでしょう。
 わたしたちは「赦されている」存在です。
 それは驚くべき恵みです。
 恵みですが、また問いでもあります。与えられている恵みの重さゆえに、その問いから逃れることができません。
 主の祈りの中に「われらに罪を犯すものをわれらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ」という一項があります。はじめはとまどいます。なぜだ!なんて思います。ここのところにくると、今も喉(のど)にひっかかりそうになります。
 わたしたちの罪をゆるしてください、そうすれば、わたしたちに犯された罪をゆるすようにします、というのではないのです。「われらに罪を犯すものをわれらがゆるすごとく」―「われらの罪をもゆるしたまえ」というのです。
 逆転できないのです。
 だから苦しい。
 苦しいけれども、いや苦しいからこそ、この祈りには意味があるのです。
 赦す苦しみを負え、というのです。赦す痛みを担え、というのです。
 赦すということは生易しいことではありません。ことに「われらに罪を犯すもの」を赦すなんてことは。それは自分が破れることです。自分が傷つくことです。自分自身と闘うことなしに、自分に罪を犯した者を赦すことはできません。
 そういう苦痛を負え、というのです。
 そういう闘いをしろ、というのです。
 赦すための苦しみを担っていく中で初めて、神の赦しが分かるのです。赦すための破れを経験していく中で初めて、十字架の愛の意味が分かってくるのです。少しずつ分かってくる。そうしなければ分からないのです。
 『カラマーゾフの兄弟』の中の長老ゾシマの言葉が思い出されます。
「・・・人間の罪を恐れてはならない。罪あるがままの人間を愛するがよい。なぜならば、これはすでに神の愛に近いもので、この地上における最高の愛であるからである・・・あらゆるものを愛するならば、あらゆるもののうちに神の秘密を見出すであろう」
 「罪あるがままの人間を愛する」―それが愛するということです。わたしたちが生きて関わっているのは、「罪あるがままの人間」以外ではありえないからです。
 苦しみと痛みを伴う「愛する-赦す」、その闘いの中でくずおれそうになるとき、もうすでに愛され、赦されているという驚くべき神の愛の秘密の中に、今も、わたしたちは招かれています。感謝です。

お祈りします。父なる御神。今、あなたの愛のみ言葉と、み業のなかに、わたしたちがこの身を置く、そんな信仰に生きることができますように。わたしたちの信仰を見ていただくことができますように。そのようにしてわたしたちちも、健やかな思いで、自ら横になっていた罪の床を払い、立って、あなたのみもとに帰ることができますように。どうぞあなたが、わたしたちを顧み、支え、愛し、赦してください。主のみ名によって。アーメン