福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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6月15日 ≪聖霊降臨節第2主日礼拝≫『涙の手紙』 コリントの信徒への手紙二 1章 23節~ 2章 4節 沖村 裕史 牧師

6月15日 ≪聖霊降臨節第2主日礼拝≫『涙の手紙』 コリントの信徒への手紙二 1章 23節~ 2章 4節 沖村 裕史 牧師

■誹謗中傷

 パウロが第一の手紙を書いていた頃、思いもよらぬ事態が生じていました。パウロ不在のコリント教会に、新しい宣教師たちがやってきていたのです。ユダヤ人で、律法主義的な傾向を強く持っていた彼らは、パウロに批判的でした。彼らはコリント教会にやって来て、いわば無牧の状態にあった教会の信徒たちに、律法に定められた割礼や食事に関する掟を固く守るよう求め、そのことに反対するパウロについて、様々な非難や中傷を吹き込んだのでした。結果、コリント教会の少なからぬ人々が、彼らの語ることを鵜呑みにしてしまいました。

 パウロという人は、後代の教会ではイエスさまに次いで強い影響力、権威を持つ人物だと申し上げてよいでしょう。新約聖書の約半分がパウロの手紙で占められているほどです。しかしパウロが実際に宣教活動に携わっていた頃は、事情が大きく異なっていました。

 パウロは十二使徒のようにイエスさまから直接教えを受けたわけではありません。また主の兄弟ヤコブのように、イエスさまと血のつながった兄弟であったわけでもありません。それどころか、かつてはキリスト教会を滅ぼすために積極的に弾圧を加えていたユダヤ教のエリートであり、異端審問官のような人物でした。パウロのために仲間が傷つけられ、痛めつけられた、そんな個人的な怨みを抱いていたクリスチャンも少なからずいたことでしょう。そんな人ですから、いくら復活のイエス・キリストに出会って回心し、福音宣教のために目覚ましい働きをしているとはいえ、教会のリーダーとは容易には見なされませんでした。

 コリント教会の人たちにとっても、パウロとの付き合いはせいぜい1年半です。パウロのことは何でも知っていると言えるほど、親しい間柄ではありません。そんなコリント教会の人々のところに、モーセ律法に精通している宣教師たちがやって来て、パウロからは聞いたこともなかったことをあれやこれやと教えられ、彼らもだんだんと新しい宣教師たちの言うことに耳を傾けるようになっていきました。そうして、パウロから第一の手紙を託されたテモテがコリントにやって来た頃には、コリント教会の人たちの心はパウロからすっかり離れてしまっていました。

 

■予定変更

 そんな状況を聞きつけたパウロは、当初はマケドニア教会に行ったその後にコリント教会に行く予定にしていたのですが、その予定を急遽変更し、急ぎコリント教会に駆け付けたのでした。これが、前回の説教でもお話しした、「パウロの第一の予定変更」です。

 急いで駆け付けたパウロでしたが、このコリント教会への訪問は最悪のものとなりました。コリント教会の人たちのパウロに対する態度はよそよそしく、冷たく、中にはパウロに面と向かって罵倒する人さえいました。この胸のつぶれるような状況に、パウロはもちろんのこと、コリント教会の心ある人々もひどく胸を痛めました。今日の2章1節に「そこでわたしは、そちらに行くことで再びあなたがたを悲しませるようなことはすまい、と決心しました」とある、その「再びあなたがたを悲しませるようなこと」とは、その訪問のことです。

 コリント教会で悲惨な目にあったパウロは、再度、予定の変更を余儀なくされます。最初の予定は、エフェソからマケドニア、次いでコリント、そして諸教会からの献金を携えてエルサレムに向かうはずでした。しかし一度目の予定変更によって、エフェソから直接コリントへ、次いでマケドニア、そこからもう一度コリントに戻り、その後、エルサレムに行くことにしました。ところが、予定を変更して向かったコリントの状況が、パウロの予想をはるかに超えて厳しいものであったため、パウロはマケドニアに行くことを断念し、出発地点であるエフェソへと戻ることにしたのです。

 この相次ぐ変更を見て、パウロを批判する人たちはその批判の声をさらに強めます。パウロは予定をコロコロ変えて、いったい何を考えているのか、と。彼らは、パウロが臆病だと非難しました。コリントの信徒たちから面と向かって批判されたことに恐れをなして、マケドニアの教会に行くことも、またコリントの教会を再び訪問することもできないでいる、と非難したのでした。

 

■思いやり

 この厳しい状況の中、この二度目の予定変更がどうして必要だったのか、そのことを切々と訴えているのが、今日の箇所です。冒頭23節、

 「神を証人に立てて、命にかけて誓いますが、わたしがまだコリントに行かずにいるのは、あなたがたへの思いやりからです」

 パウロはここで神に誓っていますが、パウロがこの手紙で神に誓うのは二度目です。直前の18節に「神は真実な方です」とありましたが、これもまた、神への宣誓でした。聖書は神に誓ってはならないと教えています。ただ、文字通りに誓いを禁止しているわけではありません。それはむしろ、誓いなど必要としない関係を築きなさいという勧めでした。この手紙で二度も誓わなければならなかったことに、パウロも忸怩たる思いを抱いていたことでしょう。なぜなら、自分とコリント教会との人々との間には、誓いを必要としないような確かな信頼関係が育っていない、ということを自ら認めるようなものだからです。それでも、パウロは誓わずにはおられませんでした。自分が言っていることが自分のいのちに賭けて、また神に賭けて真実だ、ということをコリントの人々に伝えたかったからです。

 パウロは、自分がコリント教会を再び訪れるのを先延ばしにしているのは、彼らから拒絶されることを恐れてのことではなく、彼らに対する「思いやり」のためだと言います。パウロは彼らを力づくで支配しようとしているのではありません。むしろ優しく、親しい気持ちで仲間として呼びかけます。続く24節、

 「わたしたちは、あなたがたの信仰を支配するつもりはなく、むしろ、あなたがたの喜びのために協力する者です。あなたがたは信仰に基づいてしっかり立っているからです」

 裁きを仄めかし、彼らを恐怖で縛り付けようとするのではなく、むしろ信仰に堅く立つ同労者、友として語りかけています。協力者、ギリシア語ではスネルゴスという言葉ですが、これはパウロがテモテやプリスカとアクラなど、親しい同労者に対して使う言葉です。パウロはあえて、この言葉をコリント教会の信徒たちにも用いることで、彼らに対する権威を振りかざすのではなく、主にある兄弟姉妹としての仲間意識と尊敬を込めて語りかけています。

 

■すべての喜び

 そんなパウロの思いが、よりはっきりと、心を込めて語られているのが、2章1節から4節です。

 パウロが訪問を遅らせているのは、コリント教会の人が誰も悲しまないようになるためだと言います。コリント教会のすべての信徒たちがパウロを拒絶したのではありません。むしろパウロを支持していた人たちの方が多かったでしょう。しかし、パウロを支持して応援していた人たちにとっても、先のパウロのコリント訪問はある意味、パウロ以上に失望させられるものでした。せっかくパウロが何年かぶりにコリント教会に戻ってきて、旧交を温めようとしたのに、一部の人の心ない振舞によって、すべてが台無しになってしまいました。パウロはすぐにエフェソに戻ってしまって、いつまたコリントに来てくれるかもわかりません。こんな状況に心底がっかりしたことでしょう。

 パウロとしても、彼らが二度とこのような失望を味合わないことを願っていました。そのためには、彼らのようにパウロに好意的な人たちだけでなく、パウロに疑問を抱いている人やパウロを批判している人たちに、心を入れ替えてもらう必要がありました。パウロが次に訪問してくれた時に、その訪問が素晴らしいものとなる条件は、コリントの一部の人だけがパウロを歓迎するのではなく、皆が心を一つにして、パウロを迎え入れることでした。

 イエスさまの九十九匹の羊と一匹の迷える羊のたとえのように、一人でもコリント教会の信徒がパウロに対して敵意を持っている状態では、パウロの再度の訪問は祝福されたものとはなり得ないからです。3節後半、

 「わたしの喜びはあなたがたすべての喜びでもあると、あなたがた一同について確信しているからです」

 「すべて」という言葉を強調しているのは、そのためです。第一の手紙でもパウロが強調したように、教会はキリストの体であり、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」(12:26)。

 

■涙の手紙

 パウロは、自分のコリント伝道は失敗であったのかと嘆きます。しかし、とパウロは言います。わたしがあなたがたのゆえに悲しむその悲しみは、あなたがたによってしか癒やされない悲しみです。あなたがたが喜びに向かって生きてくれるということがあって初めて、わたしもまたそこで喜びへと新しく歩み出すことができるのです。だからわたしはあなたがたを悲しませたくありません。あなたがたと喜びへの協力者であり続けたいと願っています、と言います。

 そのためにこそ、パウロは自分のコリント訪問が成功するようにと祈りつつ、涙ながらの手紙を書いたのでしょう。

 そちらに行って、喜ばせてもらえるはずの人たちから悲しい思いをさせられたくなかったからです。「わたしの喜びはあなたがたすべての喜びでもあると、あなたがた一同について確信しているからです」。パウロは自分が喜ぶとき、その喜びは喜びに生かされている、すべてのクリスチャンの喜びであると信じていました。コリントの教会の人たちへの、その確信は揺らぐことはない、とパウロは言います。1章24節の「あなたがたは信仰に基づいてしっかり立っている」との確信を、ここにも見ることができます。

 そしてこの3節の言葉が、4節の最後の言葉によって受け止められます。

 「あなたがたを悲しませるためではなく、わたしがあなたがたに対してあふれるほど抱いている愛を知ってもらうためでした」

 あなたがたを悲しませるためではなく、あなたがたによって喜ばせてもらいたかったからです。しかしここではその喜びについて語らず、わたしがあなたがたに対して溢れるほど抱いている愛を知ってもらうためだ、と言います。わたしがあなたがたを訪ねるとき、それはあなたがたを責めるためではない、悲しませるためでもない、ましてやもう一回論争をするためでもない。ただ、あなたがたに対して抱いている溢れるほどの愛を、あなたがたによく分かってもらうためです、と言います。

 喜びとは言うまでもなく、愛の喜びです。それ以外の喜びは考えられません。愛し、愛されている喜びです。そのような愛をコリントの教会の人々がたとえ失ったとしても、神がその愛を呼び覚ましてくださる、と神のみわざを確信しています。パウロはそのことを確信し、また願っていたからこそ、涙を流さずにはおれなかったのです。

 

■恵みの涙

 コリントの教会には明らかに過ちがありました。罪を犯した人々がいました。それをどのように解決するのか。難しいことです。罪は罪としてきちんと問い質(ただ)さなければなりません。しかしそのことは、この教会を建てたパウロにとっては、自分のからだを切られるほど辛いことであったに違いありません。しかし、その罪を深く悲しみながら、悲しんで悔い改めながら、喜びへともう一度立ち上がる道を、コリント教会の人々のために開いていかなければなりませんでした。

 どうしたらよいのか。本当に辛かったことでしょう。「涙ながら」という、この「涙」はその辛さから流れる涙であったと見ることができます。また「悩みと愁いに満ちた心」とも書いています。罪を分かってもらうということは、その罪がその人にとって本当に悲しいことであるということを分かってもらう、ということです。そうであるなら、その人、その人たちに先立って、パウロが深い悲しみの中に立たざるを得なかったのも当然のことでした。

 パウロは、回心前に自分が犯した罪をよくよく知っていました。パウロは今、その悲しみの中に、その罪を犯した人たちを誘(いざな)っているのです。そして、その「悲しみの彼方にある喜び」へと導かなければなりません。

 若松英輔の「見えない涙」という一文に、こんな言葉が記されています。

 「人は、悲しいときにだけでなく、心の底から喜びを感じるときにも泣く。さらにいえば、悲しみの底にいながら幸せをかみしめることもある。

 涙を流しながら、亡き人の喪失を嘆きながら、出会ったことの意味をかみしめ、深い幸福を感じる。そうした出来事はけっして珍しいことではない。

 悲しみの対義語を問われれば、喜びと答える人もいるかもしれない。だが、人生はまったく別種の真実を告げる。ほととぎすが生者の世界と死者の世界をつなぐように、涙によって、悲しみと喜びは、深いところで、分かちがたくつながっているのではないだろうか」

 パウロもまた、自分自身に注がれているキリストの恵みのために涙を流すことを知っていました。そしてその恵みに向かって、喜びに向かって、コリントの教会の人々が導かれるために、自分がその協力者として立たされていることを知るとき、そこでも涙を流さざるを得なかったのでした。

 パウロは伝道者として、悩みと憂いを心いっぱいに持たなければなりませんでした。しかしパウロはそこで、愛を疑うことはありませんでした。喜びを疑うことはなかったのです。コリントの教会の人々がその喜びから落ちているなどとは考えてもいないのです。

 あの人たちのところから喜びが来る。あの人たちのところからイエス・キリストに生かされる者の喜びが来るはずだ。それをわたしは待つ。待ちながら、わたしは涙ながらの手紙を書いたのだ。今、パウロはそう語っているのです。