福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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6月22日 ≪聖霊降臨節第3主日/トリニティ・三位一体「家族」礼拝≫『僕は見たんだ!』(こども)『まだ遅くない!』(おとな)ヨハネによる福音書 19章 23~27, 38~42節 沖村 裕史 牧師

6月22日 ≪聖霊降臨節第3主日/トリニティ・三位一体「家族」礼拝≫『僕は見たんだ!』(こども)『まだ遅くない!』(おとな)ヨハネによる福音書 19章 23~27, 38~42節 沖村 裕史 牧師

 

お話し 「僕は見たんだ!」(こども・おとな)

■ルーベンスの『キリスト降架(こうか)』

 今日読んでいただいた聖書の箇所には、イエスさまを十字架につけるローマの兵士たちとそれを命じたローマの総督(そうとく)ピラトの他に、十字架の下からイエスさまを見上げる四人と、十字架からイエスさまの亡骸(なきがら)を下ろして墓に埋葬(まいそう)する二人の、合わせて六人の人が出てきます。

 この六人の姿が描(えが)かれた『キリスト降架』という絵があります。描(か)いたのは、ベルギー、オランダ、フランスに跨(またが)るフランドル地方の画家、ピーテル・パウル・ルーベンスです。四百年以上も前に描かれたこの絵は今も、ベルギーのアントワープにある聖母大聖堂(せいぼだいせいどう)に飾られています。

 真ん中、左、右の三つのパネルに描かれた三面鏡のような、その真ん中の絵が、からし種通信に載(の)せ、前のスクリーンに映し出している絵です。縦4メートル、横3メートルを超える大きな絵には、イエス・キリストの亡骸が、八人の男女によって十字架から降ろされている場面が描かれています。キリストの手や足、脇腹(わきばら)からは血が滴(したた)り落ちています。

 一番上に描かれている二人は名前も分からない人物ですが、そのうちの一人、白い布を左手で握っている人物の下、キリストの左側に描かれた男性が、アリマタヤのヨセフです。身分の高い、ユダヤの最高裁判所・サンヘドリンの議員にふさわしく、長いひげを生やしています。白い布を口でくわえている人物の下、キリストの右側に描かれた男性は、ユダヤ人の学者であるニコデモです。

 アリマタヤのヨセフのすぐ下で、悲痛(ひつう)な表情でキリストのほうに腕を伸ばしている女性は母マリア。西洋絵画では、母マリアはいつも青い衣装を身にまとった姿で描かれます。キリストのすぐ下で彼を受け止めている男性は、キリストの愛弟子(まなでし)。赤い衣服を身にまとっていることからそのことが分かります。キリストの左足を支えているのは、マグダラのマリア、彼女の後にいるのが、クロパの妻マリアです。

 

■僕は見たんだ!・『フランダースの犬』

 ルーベンスのこの絵を見て、すぐに思い出すのが、この後見ていただくアニメ映画『フランダースの犬』のラストシーンです。

 ひとりの少年が弱りきった体で、気が遠くなりそうになるのを懸命(けんめい)にこらえながら、やっとアントワープの大聖堂にたどり着きました。そして、聖堂の内に入って、夢にまで見たルーベンスの絵『キリスト降架』が掲(かか)げられているところまで、ふらふらしながらやってきました。すると、どうしたことでしょう。いつもならカーテンに覆(おお)われて厳重に隠されているはずのその絵が、カーテンも取り払われて、そこにあるではありませんか。

 「とうとう、僕は見たんだ。ああ、なんて素晴らしい絵なんだろう。マリア様ありがとうございます。これだけで、もう僕は何もいりません」

 少年が絵をじっと見つめていると、そこに、老いた一匹の犬が残された力を振(ふ)り絞(しぼ)って、後を追うようにして入ってきます。大聖堂の奥に少年を見つけて駆(か)け寄(よ)る老犬。少年もそれに気づいて、犬を抱きしめました。

 「パトラッシュ、お前、僕を捜(さが)しにきてくれたんだね」

 老いた犬はうれしそうにクウーンと答えます。

 「わかったよ。お前はいつまでも僕と一緒だって、そう言っているんだね。僕は見たんだよ。一番見たかったルーベンスの二枚の絵を。だから僕はすごく幸せなんだ」

 しかし、その犬はとうとう力尽き、床に横たわってしまいます。

 「パトラッシュ、疲れたろう。僕も疲れた。何だかとても眠いんだ。パトラッシュ…」

 犬のかたわらに身を寄せて、静かに目を閉じて死んでいく少年、それをルーベンスの『キリスト降架』の絵がじっと見守っていました。

 これは、イギリスの女性作家ウィーダが1872年に発表した児童文学をもとに、『ゲゲゲの鬼太郎』や『母をたずねて三千里』などのアニメを手がけた黒田昌郎(よしお)監督のアニメ映画、『フランダースの犬・劇場版』(1997年)のラストに近いシーンです。

 物語の主人公の名前はネロ。足の不自由なおじいさんと二人で、ミルクの配達で生計(せいけい)を立てながら、貧しい生活をしていました。そんな二人と一緒に暮らすのが、パトラッシュという年老いた犬。パトラッシュは、人に辛い仕事を強いられ、捨てられていたところを二人に保護されて、家族の一員のように大切にされていました。

 絵が大好きなネロのただひとつの夢は、アントワープ大聖堂にある、厚いカーテンに覆(おお)われたルーベンスの『キリスト降架』を一目でいいから見ること。そして将来は、ルーベンスのように人を感動させるような素晴らしい画家になることでした。でも、その絵画を見るのにはお金が必要です。貧しいネロにはとうてい叶(かな)わない夢でした。

 ネロには、風車小屋の一人娘でアロアという、とても仲の良い友だちがいました。しかしアロアの父親は、貧しいネロのことをあまりよく思っていません。そんなある日、風車小屋の敷地(しきち)内で火事が発生します。アロアの父親から、ネロはその火事の犯人だという濡(ぬ)れ衣(ぎぬ)を着せられます。

 そんなとき、少年ネロの夢を打ち砕く出来事が起こりました。おじいさんが体調をくずして寝込んでしまい、ほどなく看病の甲斐(かい)もなく天国に召されてしまったのです。なんとかお金を得ようと応募(おうぼ)した絵も落選。火事の犯人の濡れ衣を着せられたために仕事もなくなり、家賃(やちん)の払えないネロは、住んでいた家も追い出されてしまいます。

 すべてを失ったネロは、クリスマスの雪の中、どうしても見たかった絵を見ようと大聖堂に向かうその途中、大金がはいった財布を拾います。それは、風車小屋一家のものでした。ネロは財布を届けるついでに、パトラッシュの世話を一家に託します。財布が届けられたアロアの父親は、それまでの自分の仕打(しう)ちを恥じ、ネロの身元引受人になることを決心します。また絵画コンクールでは、ネロの絵を見た一人の画家がその才能を見込んで、村を訪ねてきます。しかし、どちらも手遅れでした。餓(う)えと疲れがたたって、とうとうネロも愛犬パトラッシュもその場に横たわり、そのまま死んでしまうのです。

 ここで、大聖堂での最後のシーンをご覧いただきましょう。

 

■あなただったらどうしますか?

 いかがでしたか。このアニメの山場は何と言ってもこのシーンで、何回見てもジワッと涙がにじみ出てしまいます。

 さて原作の小説では、その翌日、大聖堂に駆けつけた村人たちは、その光景を目にし、それまで何の手助けをしてこなかったばかりか、ひどい仕打ちをしてきた自分たちの振舞(ふるま)いを心から悔やんで、ネロとパトラッシュをおじいさんの眠るお墓に手厚く葬ったところで、この物語は終わります。

 悲しく心を締め付けるようなラストシーンを通して、この作品はこう問いかけているようです。あなたは、最後までやさしさと愛を失わなかったとネロやパトラッシュですか、それとも理不尽(りふじん)ないじめや仕打ちをし、そのことを後悔するしかなかった村人たちですか、って。

 今日の聖書の場面を描いたヨハネも、そう問いかけます。マタイ、マルコ、ルカ福音書では、十字架の時、弟子たちはみな怖くなって逃げ去り、何人かの女性たちもただ遠巻きに眺めるだけでした。十字架の下にはイエスさまに従ってきた人は誰一人いなかったということです。

 ところがヨハネは、イエスさまの十字架の下にとどまっていた女たちと愛弟子、四人の姿を描きます。それだけではありません。その十字架の下には、イエスさまの服を分け合った四人のローマ兵がいたことも分かります。四人と四人、あなたはそのどっち、とヨハネは問かけます。

 でもそれは、罪を犯した人たちを責めるためではありません。聖書は、そんな過ちを犯す、自分のことばかりを考える、弱いわたしたちが、その罪を赦されて、何度でも新しく生き直すことができるようにと、愛の神が、わが子イエス・キリストを十字架につけられ、生き返らせてくださったのだと教えています。そんな大きな愛が神の霊によって、今もここに注がれています。

 さて、そのことを知らされて、あなただったらどうしますか?

 

 

メッセージ 「まだ遅くない!」(おとな)

■十字架の下に

 さきほど、この福音書を書いたヨハネは、イエスさまの十字架の下にとどまっていた女たちと愛弟子の四人と、その十字架の下でイエスさまの服を分け合った四人のローマ兵を描き、四人と四人、あなたはそのどっち、と問かけていると言いました。

 でも、それって厳しすぎはしないか、そう思われた方がおられるかもしれません。四人のローマ兵は下っ端で、上の命令に従わないわけにはいかなかったのです。それでもヨハネはその責任を問います。彼らは、十字架の上で想像もつかないほどの苦しみを受けているイエスさまを尻目に、イエスさまから剝ぎ取られた服を嬉しそうに分け合っています。何の後ろめたさもなく、自分の背後で苦しんでいる人からむしり取った、そのわずかな利益を分け合い、奪い合っているその姿に、人間の醜くさ、恐ろしさを感じないでしょうか。そしてわたし自身、そんな一人であるような気がしてなりません。

 もっと言うと、この十字架の下に描かれていない人たち、そこから逃げ出してしまった弟子たちを含めて、あなたはどこにいるのか、と問いかけてきます。

 イエスさまが人々からもてはやされているときは喜んで従い、イエスさまが王位に就くときには誰がその右と左に座るのかと言っていた弟子たちのすべてが、イエスさまが捕らえられた途端、どこかに逃げ去ってしまいました。あの十字架の下に赴(おもむ)こうとさえしません。これが弟子たちの現実でした。それがわたしの姿ではないと、どうして言えるでしょうか。

 ヨハネはしかし、自分の夢に描いた姿をそこに描きます。ここに描かれる「愛弟子」こそ、ヨハネ自身だと言われます。

 「わたしはあの十字架の下に立つべきだった、あの女たちのように」

 『フランダースの犬』の村人たちと同じように、ヨハネは心を刺し貫かれるような深い後悔と共に、自分の夢に描く願望の姿を、ここに書き込みました。極悪人として十字架で殺された人の母を、自分の母として自分の家に引き取るということは、誰もしたくはないことです。でも、この愛弟子はそうします。ヨハネは今、あなたはどっちと問いかけながら、自分はそんな愛弟子でありたい、と強く願っています。

 そして、まだやり直せる、遅くはない、そう呟いているのではないでしょうか。

 

■今さら何を

 アリマタヤのヨセフは、ユダヤ教最高法院の位の高い議員でした。年齢的にもかなりの年長だったようです。彼はイエスさまに共感を覚え、密かにイエスさまの弟子としてその教えを聞き、憧れを抱いていました。しかし、その思いを公言することはできませんでした。最高法院がイエスさまの死刑を決議したときも、彼は反対の声を挙げることをしませんでした。その彼がイエスさまへの思いを初めて公にしたのは、皮肉なことに、イエスさまが十字架の上で亡くなった後のことでした。

 「何を今さら」「もう遅すぎる」とわたしたちは言うでしょうか。

 ヨセフと共にイエスさまの葬りをしたニコデモも、ユダヤ教の学者であり、議員でした。3章では、彼は夜の闇に紛れてイエスさまのところを訪問しています。誰にも見つからないように、ひそかにイエスさまの話を聞きに行ったのでした。そのときのことです。

 「新たに生まれなければ神の国を見ることはできない」

 そう言われるイエスさまに、ニコデモは「もうこんなに年をとっているのに、今さら新しく生き直せと言われても遅すぎますよ」と捨て台詞を吐いて立ち去ります。

 しかしその後も、イエスさまの言動に密かに共感し、惹かれ続けていたのでしょう。7章では、同僚の議員たちがイエスさまを亡き者にしようと企み、議論をしていたとき、ニコデモは勇気を振り絞って、イエスさまの弁護に立ち上がります。しかし同僚たちから怪訝(けげん)な目を向けられ、「お前ももしやガリラヤ出身なのか」と言われると、その口を閉ざしてしまいます。結局、最期まで同僚たちの企みに反論することなく、イエスさまを十字架の上に見送ってしまいました。

 そのニコデモが漸くイエスさまへの思いを公にしたのは、ヨセフと同じく、イエスさまが死んだ後のことでした。

 「何を今さら」「もう遅すぎる」とわたしたちは言うでしょうか。

 

■遅すぎることはない

 しかし、ヨハネはそうは言いません。

 イエスさまの遺体の葬りを買って出ることは、弟子たちさえ躊躇(ためら)うほど、極めて大胆なことでした。それを、この年老いた二人の議員はやってのけたのです。

 「後の者が先になる」と言われるように、最初に弟子になった人々は逃げ去っていましたが、最期にやって来たこの二人が、イエスさまが殺された後、もう遅すぎるような時に勇気を振り絞ってやって来たこの二人が、弟子としての務めを担ったのです。

 時はすでに夕暮れ。その夕暮れに、年齢から言えば人生の夕暮れを迎えているこの二人の議員が、イエスさまの葬りのためにやって来たのです。それは葬りの儀式であるとともに、彼らが新しく生き直すための儀式でもありました。彼らが新しく生き直すことに遅すぎることはなかったのです。

 ニコデモのこの時の思いが、新約聖書偽典に数えられている紀元四世紀から五世紀頃に書かれた「ニコデモの告白」に的確に表現されています。

 「彼が都で語っていたときに、私はよく隠れて聞きに行ったが、(中略)私は自分の立場を失うのが怖くて、彼にはそれ以上ついていけなかった。そうしているうちに、彼はつかまって死罪にされてしまった。私はその断罪の場でも、声高に反対と叫ぶことができなくて、最期は皆に巻かれて同意してしまった。なんという卑怯さか。そしてあげくがあの十字架だ。私はあの日、持病の偏頭痛がひどく、まともに歩くことすらできなかったが、隠れて遠くから彼の十字架の姿を見に行った。彼が死んだ後、民衆は過ぎ越祭が始まると縁起が悪いからといって、彼の死体を共同墓地の穴の中に投げ捨てようとしているのがわかった。私はこれだけは見過ごせないと思った。私は前から同じように彼に惹かれていた同僚議員のアリマタヤのヨセフを誘って、彼の死体をもらい受けてきた。恐ろしかった。一味扱いされて殺されても仕方ないと思っていたからだ。(中略)ヨセフも私も、ほとんど終始無言だったが、私は心の中で『ごめんなさい、許してください』と唱え続けていた。こうして夕暮れになる頃、埋葬し終わった。どういうわけか、彼の高弟とか言われている人々は、一人も現れなかった。あの『愛弟子』と言われていた人物ですら姿を見せなかった。人が十字架につけられたら普通は埋葬なぞされずに、呪いの中で抹殺されるはずで、彼がもしそうなったら一番負い目に苦しむのは、お弟子方であろうけれども。ただ、あのマグダラの女だけが、私たちの作業を遠くから見ていた」

 この告白文は、夕暮れ時、最後に駆けつけたニコデモとヨセフこそが、真の弟子であると告げています。

 そう、新しく生き直すに、遅すぎることはないのです。

 むしろ、夕暮れ時であっても、そこで勇気を持って新しい道へと歩み出すときにこそ、人としての道が、まことの人生の道が開けてくることを教えています。ヨハネは、そのことはわたしたち一人ひとりにも当てはまるのだ、と教えています。

 わたしたちの生きる世界、すでに破局が目の前にぶら下がっているかのような夕暮れ時のこの世界においても、二人の年老いた議員は今も「新しく生き直すのに、まだ遅くはないよ」と励ますように告げているように思えてなりません。感謝して祈ります。