お話し 「いのちはだれのもの?!」(こども・おとな)
■生きることと死ぬこと
みなさんは身近で、いのちが生まれる瞬間や場面を見たことはありますか?わたしが小学校五・六年生の頃、ニワトリが大事にお腹の下で暖めていた卵からヒヨコが出て来たり、シロという犬が子犬を産んだ時のことを、よく覚えています。からだがヌルっと濡れていて、とっても小さくて…。小さいのに、ぴーぴー、くぅんくぅんと鳴きながら、一生懸命(いっしょうけんめい)、母親の体にしがみつくようにします。母親も、翼(つばさ)で覆(おお)うようにしたり、舌でやさしく嘗(な)めてやったりしているその姿を見て、何だか感動して、涙が出そうになりました。
小さないのちの終わりを、死んでいるのを見たこともあります。飼っていたカブトムシや金魚が虫かごや水槽(すいそう)の中で死んでいるのを見つけたり、ツバメのひなが家の軒先(のきさき)の巣から落ちて死んでいるのを拾ってお墓をつくったり、近くの裏山にある秘密基地に行く小路(こみち)のそばに大の苦手だったヘビが死んで干からびているのに驚いたり…。いのちの終わりを目撃したときのその光景は、今もはっきりと思い出すことができますし、死はいつも、悲しくて、恐くて、わたしを不安にさせました。
いのちの始まりと終わりを身近に見ていた小学生のわたしは、そんな体験を通して、ぼんやりとですが、生きることと死ぬこと―いのちについて考えるようになっていました。
そんなわたしが中学校になって、一年に10センチずつも背丈(せたけ)が伸びていった、思春期(ししゅんき)真っただ中の中学二年生のときのこと。国語の先生が、志賀直哉(しがなおや)の『城崎(きのさき)にて』という小説を授業で取り上げ、蜂(はち)の死、鼠(ねずみ)の死、いもりの死を目のあたりにした主人公が口にした、こんな言葉を読み上げます。
「死ななかった自分は今こうして歩いている。そう思った。自分はそれに対し、感謝しなければ済(す)まぬような気もした。しかし実際喜びの感じは湧(わ)き上がっては来なかった。生きていることと死んでしまっていることと、それは両極(りょうきょく)ではなかった。それほどに差はないような気がした」
鼠の無残(むざん)な、しかしそれでも必死に生きようとする姿に、心を鷲掴(わしづか)みにされていたわたしの耳に、先生のこんな言葉が続けて聞こえて来ました。
「すべてのものにいのちがあり、そのいのちを生きています。あなたたちが歩いている足もとにも、見えないかもしれないけれども蟻(あり)が生きています。そしてあなたたちは、それと知らずに蟻を踏みつぶし、そのいのちを奪っているかもしれません。もっと言えば、すべて生きとし生けるものは、生きるために他の生き物を殺し、そのいのちを食べています。そうするほかありません。皆さんはそのことをどう思いますか?」
それからしばらく、この言葉が耳から離れず、学校からの帰り道、足もとを見つめながら恐る恐る歩き、いのちの儚(はかな)さと重さ、生きることと死ぬこと―いのちについて思いを巡らしていました。そうして、生きることと死ぬことは、別々のものじゃない、それはひとつ、いのちの「表と裏」じゃないのか、そう思うようになりました。
■人間が造った人間『フランケンシュタイン』
さて、みなさんはどう思いますか。今のわたしたちは、生きることと死ぬこととを切り離し、死を悪いものと考え、死を遠ざけることばかりを求めてはいないでしょうか。生きることや若さや健康ばかりに目を向けることでかえって、生きて死ぬことの大切さ、いのちのかけがえのなさを見出しにくくなってはいないでしょうか。
そんな、死ぬことを恐れて、生きることばかりを願うあまり、人間が人間のいのちを造り出そうとして、悲惨(ひさん)な破滅(はめつ)を迎えてしまうことになるのが、今日の映画、『フランケンシュタイン』(1994年)です。
舞台は18世紀末のヨーロッパのある町。裏町の一角(いっかく)にひそかに建てられた実験室には、迷路のようにのびた電気の配線と、ベルトコンベアーを走る巨大な水槽箱。そんな工場のような実験室では、主人公の科学者ヴィクター・フランケンシュタインが上半身裸になって、髪を振り乱して飛び回っています。水槽に漬(つ)けられているのは絞り首の刑で死んだばかりの男の体で、そのクライマックスは稲妻(いなずま)を利用して死体に電気ショックを与えるところです。体をつぎ合わせた死体にいのちを与えようと、ヴィクターは高圧(こうあつ)の電気を流します。体に放電(ほうでん)される凄(すざ)まじい電流の火花。そして、一度は失敗したかに見えたものの、水槽箱の中から立ち現われたクリーチャー。しかし成功に喜んだのも束(つか)の間(ま)、その恐ろしい姿を見たとたん、科学がいのちを創造するべきだと信じていたヴィクターも、ことの重大さに驚いてパニックに陥(おちい)って気絶。気がついたときはすでに遅く、「愚かなるヴィクター・フランケンシュタインよ」と、実験に反対した教授たちの声がスクリーンいっぱいに鳴り響きます。「いのちを与えられた怪物が君に感謝するとでも思っているのか。奴は君に復讐(ふくしゅう)するぞ。……君の愛する者たちに神の加護があらんことを」。
ここで映画を見ていただくのですが、取り寄せていた1994年制作の『フランケンシュタイン』のDVDが間に合いませんでした。大変申し訳ありませんが、今日は2015年制作の『ヴィクター・フランケンシュタイン』を見ていただくことにします。
さて、どうでしたか。
ヴィクターが、亡くなった兄への想いを告白するシーンがありました。
イゴール「お兄さんは君を救ったんだろう?」
ヴィクター「違う、俺は兄のいのちを奪ったんだ……だから、バランスを取らなければならない。いのちを創り出さなければならないんだ」
ヴィクターは、愛する兄を死なせてしまったという深い悲しみと、自分の罪を償(つぐな)おうとする強い想いから怪物(クリーチャー)を生み出してしまいます。怪物に涙ぐみながら「おいで」と手を差し伸べるヴィクター。しかし悲しいかな、その怪物に魂がないこと、いのちのないことに気づかされます。
ここには、死ぬことを恐れ、死の悲しみを遠ざけようとするばかりに、生きることと死ぬことそのものである、いのちのかけがえのなさを見失った姿が、描かれているように思えてなりません。
■いのちは神様のもの
先ほど読んでいただいた聖書には、そんなかけがえのないいのちを与えてくださったのは神様だった、とあります。
「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」
わたしたちのいのちは、わたしたちの力の及ばないものです。自分のものであれ、他人(ひと)のものであれ、いのちはすべて、ただ与えられたものとしか言うほかないものです。神様が望まれて、わたしたちに与えてくださったのだ、と聖書は教えます。
そう、いのちはわたしたちのものではなく、神様のものです。
だからこそ、いのちはわたしたち人間が自由にしてはならない、かけがえのないものです。奪ったり、傷つけたりすることは、だれにも赦されません。
だからこそ、生きることも死ぬことも恐れる必要はありません。いのちのことは神様にお任せして、ただ感謝し、精一杯、いのちを生き抜けばいいのです。たとえ、現代医学で少しだけいのちを先延ばしすることができるとしても、それは、たとえば平均寿命とか、平均生存率といった数値の上でのことで、わたしたちの力ではどうしようもないものであることに変わりはありません。
あなたもわたしも、すべてのものが、そのかけがえのないいのちを与えられ、生かされ生きています。だからこそ、互いのいのち、互いの人生、互いの生と死、それを大切にしていきたいと心から願います。祈ります。
メッセージ 「いのちの息―土の器」(おとな)
■生命創造の是非
数々のフランケンシュタイン映画で、クリーチャーにいのちをもたらすのはきまって、電気の衝撃です。電気がいわば「命の息」の役割を担っています。1994年の『フランケンシュタイン』でも、ヴィクターが恋人のエリザベスと連れ立って、山に散策していく場面がありますが、そこでおもむろに鞄から取り出しだのが避雷針。にわかに雲が天を覆って雷がゴロゴロと鳴り響くや、いきなり避雷針に落雷し、ヴィクターとエリザベスが互いに指と指とを近づけると、青白い静電気が二人の指先にスパークします。「どうだい?」とヴィクターが尋ねると、エリザベスは感極まって「いのちの力!」と叫びました。
指と指とを近づけると、そこにいのちの力が通い出す。そんな仕草を、どこかで見た覚えはありませんか。そう『E.T.』のポスターでも使われていた、システィーナ礼拝堂にあるミケランジェロの有名な『アダムの創造』です。
ところで、生命の創造に魅せられた天才科学者ヴィクター・フランケンシュタインは、メアリー・シェリーが創作した19世紀初頭のフィクションですが、しかし今や、フランケンシュタインなんて空想の産物と、鼻先で笑って済ますわけにはいきません。遺伝子の操作まで可能にした最先端のバイオテクノロジー、科学は驚異的な成果をとげて、映画の中で起こっていた生命維持装置の開発や臓器移植、クローン人間などは急速に現実のものになりつつあります。
いったい人間が人間を造ることなどできるのか。生命操作は倫理的に許されるのか。映画『フランケンシュタイン』が問いかける一番の問題は、なんといっても、こうした科学による生命の創造の是非についてです。
「19世紀の夜が明け、世界は大きな変革を目前にしていた。政治や社会面に加えて、科学が躍進しようとしていた。未知の世界へ踏み入ろうとする貪欲な探求―探検家ロバート・ウォルトンの夢は北極点に立つことだった。だがあと一歩というとき、未知に挑戦する者に恐怖の警鐘が鳴ったのだ」
1994年制作『フランケンシュタイン』は実際にこうした警告で始まります。19世紀のヨーロッパは科学の幕開けの時代で、人々は科学を信じ、その発展が人類に限りない幸福をもたらすと信じていました。しかし、素晴しいはずの科学がその使われ方次第では、人を不幸にするということが次第に分かったのがその後の歴史でした。この映画は、ヴィクターが自分の犯した過ちを、探検家ウォルトンに告白するという回想の形式をとっていますが、そのテーマは、科学はどこまで生命創造に関わることができるのか、いや、そもそも科学が生命領域へと入っていくことなど許されるのか、ということです。
そんなわけでこの映画も、いたるところに創造物語の主題がちりばめられていて、「クリーチャー」は、字幕では「怪物」と訳されていますが、もともとは「造られたもの」「被造物」という聖書的意味を含んでいます。そして、このクリーチャーたるフラッケンシュタインが、ヴィクターを「父」と呼ぶのも、「父なる神」が人間を創造されたと語る、聖書の延長にあります。それだけでなく、いのちを造る等とんでもないことをしでかしてしまったと神に赦しを請うヴィクターにしても、クリーチャーが女を造れと迫る場面にしても、失楽園やアダムとイヴの物語が下敷きで、随所に聖書が隠されています。
主人公ヴィクターは、科学の力で人間を造ろうと挑みました。しかしヴィクターが神の領域に踏み込んだとき、その結果はすべてのものが「極めて良かった」(創世紀1:22)という神のわざとは、まったく逆を生み出してしまいました。はたして、ヴィクターは悲劇的な死を遂げ、その埋葬に立ち会った探検家ウォルトンが口にしたのは、人間の知の有限性を語る旧約聖書の数節でした。
「わたしの心は知恵と知識を深く見極めたが、
熱心に求めて知ったことは、結局、知恵も知識も
狂気であり愚かであるにすぎないということだ。…
知恵が深まれば悩みも深まり、
知識が増せば痛みも増す」(コヘレト1:16-18)
そして『ヴィクター・フランケンシュタイン』でも、ヴィクターに「悪魔もいない、神もいない、いるのは人間、俺だけ!」と語らせます。わたしたちは、生命科学だけでなく、AIや量子コンピューター等、情報科学の急激な発展を目の当たりにしています。そんな時代を生きるわたしたちであればこそ、人間としての限界を、人間の罪を深く自覚することが求められているのではないでしょうか。
■土の器と主の息
そして、今日お読みいただいた聖書は、そんな人間の限界、有限性を、はっきりと記しています。
「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」
人間は、土の塵によって形づくられた、とあります。コリントの信徒への第二の手紙4章7節に記される、パウロの言葉が思い出されます。
「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために」
土の器という言葉が出てきます。言うまでもなく、器というのは入れ物のことです。入れ物というと、輪島漆や加賀蒔絵などそれ自身で大変高価な物が多くあります。ただ、それ本来の役割はその中に物を入れるということです。つまり、その中に何を入れているかということによって、その入れ物のその時の値打ちは決まるのではないかと思います。[iv]
単なる素焼きの土の器は、土の色そのままで、たいして美しくもありません。土ですから、落としてしまえば簡単に砕けて壊れ、そうでなくても時にひび割れ、水を入れれば漏れ出して、何の役にも立たなくなります。けれどもその中に、わたしたちは宝を持っている、だから特別な存在なのだ、と言います。
さらにこうに続けます。「この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために」。並外れて偉大な力。わたしたち人間は並外れて偉大な力によって生かされ生きているのだ、と言います。普通の力ではありません。並外れて偉大な力によって生きている。その力は、ですから自分のものではありません。自分の力ではなく神の力です。
これこそ、「その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」ということでしょう。わたしたちのいのちこそ、神が与えてくださった宝、並外れて偉大な力そのものなのだ、ということでしょう。
だから8節から9節、
「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」
与えられたこのいのちゆえに、生きているがゆえに、四方から苦しめられる経験をし、途方に暮れ、行きづまったことが何度もあったことでしょう。しかし、この与えられたいのちゆえに、四方から苦しめられても行きづまりはしなかったし、途方に暮れても失望してしまうことはなかった、と言います。
虐げられるとは言うまでもなく、人間から虐げられることでしょう。打ち倒されるというのも、いろいろな人間によって、社会や人間によって打ち倒されるということでしょう。しかし人間から虐げられ、見捨てられたとしても、神からは見捨てられない、ということです。
なぜなら、神がいのちを与えてくださったからです。このいのちゆえに、神は、無条件にわたしたちを愛し抜き、決して見放すことなく、どんなときにも支え、導いてくださるのです。自分では先が見えない、しかし神は自分がどこにいるか知っていてくださるのです。自分は行きづまって、もう道がないように思えて、本当にここで弱り果てていても、神が自分のことを見出していてくださるのです。
一つ一つの苦難を超えさせていただきながら、わたしたちは神の力を知らされます。わたしたちの土の器の中に宝を持っていることが本当に分がるために、生きているのです。神が与えてくださったこのいのちのかけがえのなさを知るために、生かされているのです。自分の力を知るのではありません。苦難に直面しながら、自分の無力をますます思い知らされながら、同時に、神の力を深く知らされて行くのです。わたしたちはこの土の器にそういう宝を、かけがえのないいのちを抱いているのです。感謝して祈ります。