第一テモテ、第二テモテ、テトスの三書は牧会書簡と呼ばれる。全体的に牧会上の注意や勧めが記されているところからそのように呼ばれるのであるが、うち二通はテモテ宛、一通はテトス宛であり、この二人は共にパウロの同労者であった。本書の受取人であるテモテは、現在のトルコ出身と考えられている。この手紙はパウロの手紙の中でも最後期に書かれたものであり、当時パウロは、キリストの教えに対する抵抗が大きい世俗にあって逮捕され、獄中にいる。そこから彼は信頼できる同労者に、具体的諸問題について手紙を書き送ったのである。
本書一章は挨拶、警告、感謝と続き、いよいよ二章から本題に入る。ここでパウロが最初に取り上げるのが祈りの問題である。ここには教会がどのように祈るべきかについて幾つかの示唆が書かれている。
一節「そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい」。自分の知人や友人のためだけでなく「すべての人々」のために祈るというのは大変裾野が広い。本当に世界中の何十億人のために祈るとなれば、どんなに早口で祈っても千年以上かかるというつまらない計算結果があるが、パウロは別にそんなことを言っているのではない。自分だけの小さな世界で祈りを完結させてはいけない、と言っているのだ。
マタイ五・四四でイエスは「自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われた。自分の好む者、また自分を好む者だけで世界を完結させるなという教えは、パウロにおいても同様である。続く二節で「王たちやすべての高官のためにもささげなさい」と言うのは、王や高官が偉いからといった価値観からの言葉ではない。王や高官たちが民衆をどのように悪し様に扱うのかを承知の上で、その連中のために祈るというのは、イエスが「自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われた姿勢と重なるのである。
こうした祈りの姿勢というのは、祈りによる自己欺瞞や現実逃避を斥け、祈りによって自分の進むべき道や為すべき事が明確にされるという事につながる。だから八節「だから、わたしが望むのは、男は怒らず争わず、清い手を上げてどこででも祈ることです」。念のために確認するが、では女は祈らなくても良いのか。いや、女は祈ってはいけないのか。
祈りについての示唆に富む教えを語るパウロの頭の中に見えているのは、おそらく男性信徒の姿だけなのだ。ここにこの時代の現実を生きるパウロの限界が垣間見える。パウロは女性を視野の外に置いている。いや、そればかりではない。今日は八節でテキストを区切ったが、それは九節以下がとても朗読する気になれないからだ。読みたい人は各自で読んでいただければ良いが、パウロはそこで女性に対する、今日ではおよそ考えられないような差別的観念を得々と披露するに至るのだ。何だこれは。
現代の私達の感覚ではまことに大きな抵抗を覚えざるを得ない九節以下の記述であるが、しかし実は、ほんの一〇〇年前までおよそ誰も問題を感じていなかったのだ。女性自身もこの箇所を読んで、救われるためには子どもを産まなくてはと出産に励み、子どもを産めない女性を障害者扱いして排斥する、そういう世の中だったのだ。日本だけではない。世界中がそうだったのだ。
たとえば本日は参議院選挙の投票日であるが、民主主義の根幹ともいうべき参政権(選挙権、被選挙権)を日本の女性が得たのは一九四六年四月一〇日からだ。いま七九歳以上の女性は、参政権を持たなかった時代に生まれておられるわけだ。そんなに大昔の話ではない。
女性を見下して差別する男性が、その価値観のまま聖書を読めばどうなるか。一番最初の創造物語において、まず男が造られ、女が後から造られた。それも男の一部から造られた。だから男が上で女が下、女は男の付属物、そうした価値観が聖書の言葉によって強化される。何しろ聖書にそう書いてあるんだから、という宗教的理由で性差別が正当化され、それに対して疑問を挟もうものなら「神に逆らう不届き者」と断罪されてしまう。そういった歴史を人類は長く長く、本当に長く歩んできたのだ。いま現在もなお女性に完全な参政権を与えていない国はバチカンとレバノンである。その根底に宗教的〝戒律〟が大きく横たわっていることが見て取れる。宗教は差別を固定化し、再生産するのだ。
しかし神様は果たして女性差別を望まれたのであろうか。女は男よりも劣った存在だとお考えなのだろうか。勿論現代神学ではそうは考えない。神が女性を差別しているような記述があれば、それは女性を差別している男性によってそのように表現されているだけのことであって、神様ご自身の御旨とは別の話だと考える。
では何故このような性差別的表現が聖書には残されたままになっているの。これが教科書であれば、誤った記述に対してはすぐさま書き直しが求められるのに、聖書はそのまま放置で良いのか。やはり不可侵領域だからなのか。そうではなく、安易に書き換えないことに積極的な意味があるからである。人間の限界を後世に留めるという意味を持たせるためである。
聖書は誤りうる人間が編集した神の言葉である。人間が「誤りうる」証拠が、今日のテキストも含めて様々な箇所に残されている所謂「問題表現」である。ここのこれは「おかしいよね」と注釈を貼り付けて、その上でその誤った時代になお人間が神の言葉を求めようとしたナマの姿を留め置くことが重要なのだ。差別をしていた過去を隠蔽する、つまり差別なんかしていなかったことにしてしまうのではなく、こんな差別をしていたんだという人間の不完全さを明示することで、反対に神の完全性が示される。聖書の完全性とは、そういう逆説的な意味を持つものなのだ。
だから私達は祈らねばならない。もし人間が完全であれば、祈る必要はない。人間が祈るのは不完全だからだ。不完全な者が神の完全を求めて祈るのだ。今日のテキストにおいても、不完全なパウロが、不完全な私たちに、不完全な形で神の完全性を何とか示そうと書き送っている、そのメッセージをしっかりと受け止めるべきであって、「パウロってアウトだよね」で済ませてしまってはいけない。
男は清い手を上げて祈れ。女のためにも祈れ。女を差別する男のためにも祈れ。男だ女だと性別を決めつけようとする奴のためにも祈れ。そしてもちろん、女も祈れ。そうやって皆で祈る中に、神様が求めておられる完全な姿が少しずつ形をもって現れてくる。そのことを信じて祈り続ける者でありたい。