福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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8月10日 ≪聖霊降臨節第10主日礼拝/聖餐式≫『キリストの手紙』コリントの信徒への手紙二 3章 1~3節 沖村 裕史 牧師

8月10日 ≪聖霊降臨節第10主日礼拝/聖餐式≫『キリストの手紙』コリントの信徒への手紙二 3章 1~3節 沖村 裕史 牧師

 

■推薦状

 1節、

 「わたしたちは、またもや自分たちを推薦し始めているのでしょうか。それとも、ある人々のように、あなたがたへの推薦状、あるいはあなたがたからの推薦状が、わたしたちに必要なのでしょうか」

 なぜ、パウロは突然、推薦状の話を始めたのでしょうか。

 ここでもう一度、コリント教会の状況について振り返ってみましょう。コリント教会は、パウロの1年半に及ぶ開拓伝道によって立ち上げられた教会です。教会が立ち上がった後、パウロは他の場所へと移動して精力的に開拓伝道に励むことになるのですが、パウロが去ったその後、コリントに別の宣教師たちがやってきました。すぐ後にやって来たのはアポロでした。そのアポロがコリントを去ると今度は、エルサレム教会と関係の深い宣教師たちがやって来ました。当時のエルサレム教会は、十二使徒のペトロやヨハネ、主の兄弟ヤコブによって率いられる、いわばキリスト教の総本山です。彼らは、自分たちがエルサレム教会から派遣された、正統な権威と地位にある宣教師だと自負していましたし、そう吹聴していたのでしょう。彼らは、エルサレム教会と関係の薄いパウロのことを見下していたのかもしれません。コリント教会の人々から、この教会の創立者はパウロだと聞かされた彼らは「パウロとはどんな人物か。彼は然るべき人物か。十二使徒の誰かから推薦状をもらった上で、コリントに来たのか」と尋ねたのでしょう。

 コリント教会の人たちはパウロからはそんなものを受け取っていませんでしたので、今からでもパウロのための推薦状をもらっておいた方がいいのではないか、そういう話になったようです。その話がパウロにも伝わり、それを受けてパウロは、今日の箇所を書いています。

 

■あなたがた自身

 「わたしたちは、またもや自分たちを推薦し始めているのでしょうか」の「またもや」とは何のことでしょうか。おそらく、パウロが直前2章16節で「このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう」と語り、その後に、わたしたちこそそのような務めにふさわしい、と続けていることでしょう。ここだけを読めば、パウロが自分で自分を推薦しているかのようにも聞こえます。しかしパウロは、わたしにはそんなつもりはないと改めて断った上で、思いがけないことを語り出します。

 自分で自分を推薦しないのであれば、ではパウロは他の人たち、例えばエルサレム教会の誰かから推薦状をもらう必要があるのでしょうか。あるいはパウロが他の都市で開拓伝道する時に、コリント教会の人たちから「パウロはコリントで立派に伝道しました」といったことが書かれた推薦状をもらう必要があるのでしょうか。いえ、そんな必要はありません、とパウロは推薦状の必要性を否定します。なぜか。パウロはその答えを2節にこう記します。

 「わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています」

 「わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です」。心に深く染み入るような言葉です。その意味を説明するようにパウロの言葉が続きます。

 「それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています」

 「わたしたちの心に書かれている」とは、どういう意味でしょうか。この「書かれている」という言葉を直訳すると「刻み込まれている」となります。コリント教会の人たちのことが、パウロたちの心に刻み込まれている、それがこの言葉の字義通りの意味です。

 どういう意味なのか、はてなマークが浮かんできそうですが、「わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です」と同様、これももちろん、比喩表現、メタファーです。文字通りに、パウロの心にコリント教会の人々の名前が刻み込まれている、ということではありません。この「わたしたちの心」とは、「パウロとその同労者たちの働き」のことを指す比喩だと言ってよいでしょう。

 パウロたちの働きがどんなものだったか。それを最も雄弁に示すのは、他でもない、コリント教会の人たち自身なのです。彼らがどんなクリスチャンであるのか、その存在、その姿によって、パウロたちの働きが目に見えるものとなり、その内容が明らかになるのだということです。パウロたちの働きの「実」であるコリント教会は今すでに、すべての人に知られ、見られているのです。

 とすれば、続く3節の「あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています」という言葉もまた、キリストご自身がパウロのために推薦状を書いてくださるのですが、その推薦状の中身が「あなたがた」、コリント教会そのものだということです。ですから、使徒であり、福音宣教者であるパウロへの信頼、信用は、ひとえにコリント教会、「キリストの手紙であるあなたがた」にかかっているのです。

 

■キリストが

 そんなコリントの教会の姿を思い浮かべつつ、パウロは彼らに「キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙」と呼びかけます。

 「わたしたちが」福音の言葉を刻んだのではありません。イエス・キリストがわたしたちを用いてくださった。「わたしたちを筆記具として」、「わたしたちを書記としてお書きになった」と言います。その表現に倣えば、イエス・キリストが口述をしておられるご自分の言葉を、パウロたちによってコリントの教会の人々の心に書き記してくださったのだ、そう読むことができます。

 つまり、「わたしたち」パウロたちの確かさは、キリストの確かさゆえです。そしてそれは、「あなたがた」コリント教会の人たちに真実のキリストに向かう信仰を呼び起こしてくださった、キリストご自身の働き、キリストの愛ゆえなのです。

 そんなキリストの働きを繰り返すようにして、3節後半にこう続けます。

 「(あなたがたは、)墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です」

 キリストがパウロのために書いた推薦状は、神の霊である聖霊によって書かれているということです。これも文字通りに取ると少し分かりにくいのですが、キリストの手紙、推薦状がコリント教会のことだと分かれば、その意味もおのずから明らかになります。コリント教会は聖霊の「実」なのです。コリント教会の人々が信仰に導かれたのは、もちろんパウロたちの働きを通じてですが、しかし彼らの心に直接働きかけたのは、パウロではなく聖霊だということです。彼らの心に聖霊が働いたからこそ、彼らは信じたのです。パウロの話がうまかったから、巧みだったからではありません。「生ける神の霊によって…書きつけられた」とは、そういう意味です。

 続く「石の板ではなく人の心の板に、書かれた」という下りでパウロは、新しい、とても大切なことを語っています。

 「石の板に…書かれた」とは十戒のことです。ユダヤ教の土台はモーセの律法にあり、モーセの律法のエッセンスを凝縮したのが十戒です。十戒がモーセに与えられた印象的な場面が出エジプト記32章15節から16節に描かれていますが、今ここでパウロは、キリスト教は石の板に書かれた十戒に基づくのではなく、人の心に直接、聖霊によって書かれたものに基づくものなのだ、と言っています。この言葉の背景に、エレミヤの預言があると言われます。31章31節から33節です。

 「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」

 ここに「エジプトの地から導き出したときに結んだ」とあるのが、モーセの契約です。モーセはイスラエル人をエジプトから導き出し、シナイ山で神の手によって書かれた十戒の石板を受け取り、神とイスラエルとの契約の仲介者となりました。しかしイスラエルは、モーセが神から与えられた十戒を守ることができず、モーセの契約は廃れてしまいました。エレミヤは、この破られた契約に代わって、神は新しい契約を結ばれるだろう、その新しい契約において、神は今度は石の板に戒めを刻み込むのではなく、信じる者一人ひとりの心に戒めを刻み込むことになる、と預言しました。

 その約束の成就がまさにコリント教会の人たち、あなたたちなのだ、とパウロは語ります。今や神は聖霊によって、信じる者一人ひとりの心に、神の新しい戒め、キリストの福音を刻み込まれたのだ、とパウロは宣言するのです。

 

■キリストの福音

 キリストの福音が、キリストに導かれた「わたし」「わたしたち」という存在において、その証し、目に見えるものになっている、とパウロは言います。

 では、キリストの福音とは何でしょう。それは、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という「救いの宣言」のことです。その救いは、わたしたちがそれにふさわしいから与えられるのではありません。救いは、何の条件も資格もなしに、ただ、いのち与えられたわたしたちへの溢れるほどの「神の愛」ゆえに、今ここに差し出されています。後は、ただわたしたちが悔い改めて、自分のことしか考えない人間にではなく愛の神に生きる向きを変えて、神の愛に応え、その愛に相応しく歩むことだけが求められています。

 とすれば、キリストの福音がわたしたちという存在、わたしたちの姿において目に見えるものになるということは、わたしたちが神の愛に倣って生きてゆく、歩んでいく、そんな愛の姿を指し示しています。

 しかしわたしたちは今、物質万能主義ともいえる風潮の中に生きていて、目に見えるもの、はっきりした形のあるものに根拠をおいて生活することに慣れています。「見えないものはない」というのが一般的な常識です。そして「ないものはない」というのがやはり常識です。

 こうした常識に対して、サン=テグジュペリの『星の王子さま』のセリフを持ち出すまでもなく、「見えないものこそ大切なんだ」という反対の主張がなされます。キリストもパウロも、教会もまたそう主張します。愛、希望、信仰、そして神。憎しみ、怒り、恐れ、悩み、そして悲しみ。これらも見えません。見えないのだから、こういうものも「ない」としたら、わたしたちの人生は、どれほど苦しく困難なもの、味気ないものになることでしょうか。しかし、こうしたものは厳然として存在します。だれでも心の中を覗き込めばすぐに分かることです。とすれば「見えないからない」とは言えません。同じように「愛」にしても「見えないからない」「見えにくいからない」とは言えないのです。

 

■福音は、愛は見える

 しかしある時、こんな言葉を聞いて、さらに「愛」について考えさせられたことがあります。ずいぶん前のこと、テレビの深夜放送で立川談志という落語家がこんなことをしゃべっていました。

 「見えないものはないんでしょうか、って聞かれたから…。『ないよ。情熱は見えるよ。怠惰も見えるよ』って言ってやったんだ。おれは見えないものはないと思ってる」

 ずいぶんあっさりしたものの言い方ですが、「情熱は見えるよ。怠惰も見えるよ」と聞いて、「なるほどそうだなあ」と思いました。この言葉に妙に納得して、わたしはそれ以降、考え方を少し変えました。

 それまでは、「見えなくても、信仰や希望や愛はある」と思っていました。しかし、「見えないような信仰や希望や愛なら、やはりそんなものはないのだ」と考えるようになりました。談志流の言い方に倣えば、「情熱は見えるよ。怠惰も見えるよ。そして愛も見えるよ」ということです。

 そう考えてみると、「信仰や希望や愛は見えないけれどもある」といった回りくどい表現よりも、「信仰や希望や愛は実際に見たり、聞いたり、触れたりできるものだ」というストレートな言い方の方が、本当は聖書に相応しい、聖書に沿った考え方だということに気づかされました。

 今日のパウロの言葉はもちろんのこと、ヨハネの第一の手紙にも「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません」(4:20)と書かれています。ヤコブの手紙にはもっとはっきりと、「わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか」(2:14)とあります。イエスさまの教えの中にも、神に受け入れられる人とは、飢えた人々に食べさせた人であり、渇いた人々に飲ませた人であり、友なき者の友となった人である、とはっきりと語られています(マタイ25:31以下)。その一方で、信仰や道徳について議論はするが、そのために指一本動かそうとしない人々に対して、イエスさまはそうした生き方を見倣ってはいけない、と厳しく戒めておられます(同23:1以下)。イエスさまもまた「信仰は見える。希望も見える。愛だって見えるよ」と言われるのです。

 聖書の「愛」は、気分や感情のことではありません。相手を「大切にすること」です。そこから引き起こされる行為や出来事を通して表われてくる、ひとつの現実なのです。わたしたちが隣人のために時間を割き、言葉をかけ、家を訪ね、共に悩み、共に喜び、そして祈ることを通して、愛は目に見えるものとして、そこに立ち現れてきます。あるいは、戦争や貧困、さまざまな世界の矛盾に嘆き悲しむ人々の声に耳を傾け、小さなことであってもわたしたちが持っている力や持っているものを捧げて、正義と平和の実現を求めて祈り行動するとき、そこに「愛」が立ち現れてくるのです。

 「愛、愛、愛…」と愛がしきりに語られる時代。それゆえにかえって、「愛」が陳腐に見える時代。しかしそんな時代だからこそ、「愛すること」「大切にすること」が目に見えるかたちで立ち現れてくるのを、世界は、わたしたちのだれもが待ち望んでいるのではないでしょうか。思えば、イエス・キリストは「愛」という言葉をほとんど使うことのなかった方でした。にもかかわらず、なさったことは、だれにもまさって隣人を「大切にすること」そのものでした。

 パウロは今、信仰に導かれたわたしたちこそ、愛に生きた「キリストの手紙」「キリストの福音」そのものであると言います。わたしたちもまた、いささかなりとも、キリスト愛の行い、キリストの福音の働きに倣う者でありたいと願いつつ、祈ります。