福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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10月5日 ≪聖霊降臨節第18主日礼拝/世界聖餐日≫『第二幕の始まり物語』 井ノ森高詩 役員

10月5日 ≪聖霊降臨節第18主日礼拝/世界聖餐日≫『第二幕の始まり物語』 井ノ森高詩 役員

 使徒言行録を書いたのは「ルカによる福音書」の著者と同じ人物だと言われています。著者にとっては「ルカによる福音書」が上巻、使徒言行録が下巻という感覚だったのかもしれません。使徒言行録はイエス様が復活、昇天なさった後の使徒たちの働きを後世に伝えるもので、前半はペトロを中心とする使徒たちがエルサレムを主な舞台としてユダヤ人を対象に伝道に励む姿を描く一方、後半はパウロが外国人を対象に地中海伝道旅行を3度敢行した様子を伝えています。言行録はその名の通り使徒たちの「言葉」と「行い」の記録と言えますが、英語の聖書では Acts と呼ばれます。この単語には、この他にもお芝居の第一幕、第二幕の「幕」という意味もあります。

 さて3章の冒頭は、ペトロとヨハネが足が不自由な男性を癒す場面を取り上げていますが、この場面の直前の2章ではどんな出来事があったかというと、あの有名な聖霊降臨:ペンテコステが書かれています。使徒たちが熱心に祈っていると、舌のような炎のようなものが使徒たちに降り、彼らが突然様々な外国語を語り始めるというお話です。つい「外国語を語り始める」に注目しがちですが、大切なのは語る中身内容です。この後、ペトロは雄弁に大説教を行い、その日だけで3000人の入会者が与えられたと書かれています。イエス様が捕らえられたときに「お前もイエスの仲間だろ」と言われ、3度否定して逃げ隠れたあのペトロが大勢の前で堂々と説教を行えたのは、彼が急に成長したからではなく、聖霊が降ったからでした。そしてこの大説教の数日後が3章の冒頭の今日の場面なのです。12使徒のリーダー格のペトロはともかく、なぜ著者はここでその同行者としてヨハネを描いているのでしょうか。ヨハネは使徒の中の最年少で主イエスが一番可愛がった弟子だったと言われています。おそらく筆頭弟子と最年少弟子を並べることで、著者はこの業が使徒全体によるものだったというふうに表現したかったのかもしれません。さて、二人が午後三時に神殿に上っていく、とありますが、当時のユダヤの人々は朝9時に始まり日中数回神殿に祈りに行っていたようです。エルサレム神殿の東側に位置していたとされる「美しい門」は毎日何百人何千人もの人々が通過する場所だったわけです。そこに足の不自由な人が施しを乞うために毎日運ばれてきていたわけです。4章22節に書かれていますが、この人は40歳を越えていたのです。当時の平均寿命を考えれば、現代人に置き換えれば生まれてからずっと70年、80年毎日神殿の門のそばで朝から何時間も施しを乞うていたと推測できます。その前を、大説教をして大勢の支持者に囲まれたペトロが通るわけです。「お願いします」を連呼していたであろう彼の声がペトロの耳に届くのは物理的に大変困難だったろうと思いますが、ペトロはその助けを求める声に(あるいはその姿に)気づき、近寄って「私たちを見なさい」と声をかけるのです。「あなたが期待しているのは金銀かもしれないが、そうではなく私が持っているものならあげられるよ」と言い「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がりなさい」と命じるのです。そしてその人に手を差し伸べて、立ち上がるのを支えるのです。同じような癒しの場面を私たちは何度も福音書の中で読んできました。でも癒していたのはペトロではなくイエス様でした。そのイエス様の役割を使徒言行録の中ではペトロが演じているのです。これは急にペトロが立派になったからでしょうか。違いますね。ペトロ本人が言った通り「ナザレの人イエス・キリスト」がこの癒しの業を、ペトロたちに送った聖霊の力によって成し遂げているのです。癒された人は、「喜び踊り、神を賛美して、二人と一緒に神殿に入っていった」とあります。例えばプロ野球の新人投手がプロ初勝利をあげた試合後のインタビューで「この勝利を誰に真っ先に報告したいですか」と問われ、たいていの場合「まず両親に最初に報告します」などと答えますよね。この人も足が癒されて、「いやぁ、ありがとうございました。では失礼します。」と言って一目散に自宅に帰ることも出来たかもしれない。しかし彼は「神を賛美して、二人と一緒に神殿に入っていった」のです。つまり、信仰の道に入った、キリスト者になったということです。

 使徒言行録を示す英語 Acts にはお芝居の幕の意味があると申しました。ルカによる福音書を含む四つの福音書が第一幕だとすれば、使徒言行録は第二幕と言えるでしょう。そしてこの話には続く第三幕があるのです。それは使徒言行録の後に続く約1900年に渡る、教会の、私たちの物語です。第一幕の主人公は紛れもなくイエス・キリストです。第二幕の主人公は誰でしょうか。ぺトロかな、パウロかな。いやいや、第二幕の主人公は聖霊なる神=イエス・キリストの霊です。イエス様は何度もパウロの前に現れ「あっちに行きなさい」とか「ここにもう少し留まりなさい」とか指示を与えています。では第三幕の主人公は?これもやはり聖霊なる神=イエス・キリストの霊です。

 第三幕の具体的な「場」を二つ紹介します。私が滞米中にお世話になったホストファーザーのJさん。高校卒業後すぐにベトナム戦争に従軍したJさんは、帰還後工場で働くのですが、ほどなく業績不振で工場が閉鎖され失業することになったそうです。工場閉鎖まで約一か月間通勤バスの中の会話は不安や不満を語る声ばかりだったのですが、Jさんはある同僚一人だけが解雇されるとわかっているのに毎日元気に朗らかに同僚たちに話しかけ元気づけているのに気が付きます。そしてある日勇気を出して話しかけたそうです。「あなたは、私が持っていないもの、しかも私に今一番必要なものをお持ちなようだ。どうぞその何かを私に分け与えてください。」それがJさんの教会生活の始まりでした。その後Jさんは大学で学び直してエンジニアになり、教会の信徒リーダーとなったのです。もう一人はこの教会の教会員だったNさんです。2001年の3月に84歳で天に召されました。亡くなる3か月前の2000年のクリスマス礼拝に病院から一時外出許可をもらったNさんが出席して、私たちは久しぶりに再会することができました。驚いたことにNさんと一緒に病院の医師や看護師の方がたが、一人二人ではなく、十名近く礼拝に参加されました。おそらくNさんはペトロのように病室で「私を見なさい。私には金銀はないが、持っているものをあなたにあげますよ」と病を得ながらもイエス・キリストの福音を伝えていたのだと思います。

 私たちも聖霊の助けを得て「私たちを見なさい」という信仰生活を、私たちの第三幕を、それぞれの生活の場で力強く生きていきたいものです。