お話し(こども・おとな)
■裏切る弟子たちと共に
昔からたくさんの人たちが、今日読んでもらった「最後の晩餐(ばんさん)」の場面を描いてきました。そして、ダ・ヴィンチやギルランダイオなど最後の晩餐を描いた画家(がか)たちの誰もが、イエスさまを裏切って、イエスさまを神殿の指導者たちに売り渡したユダを、その食卓を囲む一人として描いています。しかも、その食卓を囲む十二人の弟子たちみんなが、同じ態度でその食卓を囲んでいたわけではありません。眠りこけているように見える者、そっぽを向いている者、隣の人と話し込んでいる者……。パンとぶどう酒を差し出すイエスさまに、全員が真剣なまなざしを注いでいるわけではありません。そういう弟子たちにイエスさまは、「これはわたしの体です」「これはわたしの血です」と言いながら、パンと杯(さかずき)を差し出しておられます。
そのときの様子がこう描かれています。
「一同が食事をしているとき、イエスは言われた。『はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。』弟子たちは非常に心を痛めて、『主よ、まさかわたしのことでは』と代わる代わる言い始めた」
誰ひとり、「わたしは決して裏切りません」とは言えない弟子たちでした。この後、ユダだけでなく、すべての弟子が十字架の上で殺されるイエスさまを見捨てて、逃げ出してしまいました。そんな弟子たちが今、イエスさまに招かれ、イエスさまと一緒に食事にあずかっています。画家たちは、そんな弟子たちの姿を描こうとしました。しかしそれは、十二人の弟子たちだけのことではありません。わたしたちも、同じかもしれません。
考 えてみれば、イエスさまが食卓を共にしたのはいつも、当時の社会で罪人と罵(ののし)られ、のけ者にされていた、病気や障がいを抱(かか)える人、貧しい人や弱く小さな人たちでした。イエスさまの食卓は、そんな差別や抑圧からわたしたちを解放する、とても温かくて安らぎに満ちた出来事、まさに神の国そのものでした。イエスさまは、差別され、いじめられていた人と共にいてくださり、すべての人を豊かで喜びに満ちた食卓へと招いてくださるのです。
そんなイエスさまが、自分を裏切ることになる弟子たちと共に囲んでくださったあの食卓を、今日の映画『バベットの晩餐会』が再現してくれます。
■分かち合いの食事
最後の食事―十二弟子たちとイエスさまの最後の晩餐を下敷(したじ)きにしてつくられたのが、アイザック・ディネーセン原作、ガブリエル・アクセル監督のデンマーク映画『バベットの晩餐会』(1987年)です。
その晩餐会に招かれたのは、イエスさまの弟子の数と同じく、全部で十二人でした。牧師の娘で、その父亡(な)きあとデンマークの小さな村に暮らす人々の信仰を支え導いてきた年老いたふたりの姉妹、近くの館(やかた)に住む貴族の年老いた女性とそれを訪ねてきた将軍(しょうぐん)、それに四組の貧しい村人夫婦たちです。
晩餐会を催(もよお)したのは、かつてパリで名シェフとして知られたバベット。彼女はフランス革命を逃(のが)れ、二人の姉妹の料理人となってこの村に住みついていました。そんなある日のこと、彼女は予想もしなかった宝くじに当たります。さて賞金を何に使おうか。思案(しあん)したバベットは、そのお金で、今は亡き牧師の生誕(せいたん)百年の記念に晩餐会をしたい、と姉妹に申し出ました。
いよいよ晩餐会当日の夕方。これまで味わったこともない、おいしい食事がバベットの手によって調理され、魔法のように次々と食卓に登場します。天国でもこれ以上においしい料理は望めない、かつてそう誉(ほ)めそやされた名シェフが作るフランス料理の数々です。それを前に舌鼓(したつづみ)を打つうちに、人々は知らず知らず幸せな気持ちになり、生きる喜びを、神様への信頼を取り戻していきます。そして互いに手を取り合い、抱き合い、赦(ゆる)し合います。それはまさに、イエスさまがなさった弟子たちとの奇跡のような晩餐でした。
「いつどこにいてもわたしはあなたと一緒でした」
晩餐会が終わった時、将軍は、牧師の姉妹のひとりにそう言って、こう言葉を継ぎました。「そのことをあなたもご存じですね」
将軍は若かった頃に、美しい彼女と出会い、恋をしました。しかし、その想(おも)いは実(みの)りませんでした。彼女が父親の牧師を助けるため、村にとどまることを選んだからです。若い士官(しかん)だった彼は傷心(しょうしん)を抱いたまま異国にとどまり、彼女の面影(おもかげ)を忘れようと懸命(けんめい)に軍での務(つと)めに励みました。その甲斐(かい)あって国王のおぼえもめでたく、やがて華(はな)やかな異国の都で結婚もしたのですが、その心はいつも、あの小さな村とそこに住む彼女のもとに帰っていたのでした。
「ええ」かつての恋人の問いかけに、彼女は微(かす)かにうなずきます。
「これからも毎日あなたと共に生きていく。それもご存じですね」
「ええ」
「これからは夜ごと、わたしはあなたと食卓を共にする。肉体がどんなに離れていようとかまわない。心はひとつなのです。今夜、わたしは知りました、この美しい世界ではすべてが可能なのだと」
老いた将軍はそう言うと、実らなかった恋の相手の手をとって、そっと口づけをしました。彼がつぶやいたこの言葉は、十字架の後、よみがえられたイエスさまと出会ったときの弟子たちの心の声そのものではないか、そう思えてなりません。
この映画には、ダ・ヴィンチの絵にあるような食卓の中央に座(すわ)るイエスさまの姿はありません。しかしイエスさまはちゃんといます。魂をとろけさせるような食事を次々と調理して人々をもてなし、その心を慰(なぐさ)めるシェフのバベット。彼女はイエスさまと同じように、人に仕(つか)えられるより仕えることで、将軍と姉妹の魂の傷を癒し、仲たがいをしていた村人たちがふたたび愛をもって共に生きることができるよう、和解(わかい)の力を発揮(はっき)したのでした。
ここで、今お話をした、いくつかの場面をご覧いただきましょう。
いかがでしたか。
わたしたちが食事をするのは、与えられたこのいのちを生きるためです。食べるということは、いのちの主である神がわたしたちに与えてくださった賜物です。それは良いもの、神の恵みのしるしそのものです。その意味で、食べることはとても大切です。そしてそこで問題になるのは、「何を食べるのか」ということよりも、「だれと食べるのか」「どのように食べるのか」です。イエスさまのように、親しい家族や友人だけでなく、のけ者にされている人、喧嘩をしている人、嫌いな人、貧しく飢えている人、そんなすべての人と一緒に、互いに分かち合って、愛と感謝をもって食事をすること、そのことが何よりも大切なことでした。
世界には、食べるものも飲むものもなく飢え苦しんでいる人が7億3500万人もいて、日本でも、最近の物価高のために日々の食べものにも事欠く人が増えているといいます。そんな人たちのことを心にとめ、バベットのように、わたしたちが持っているものを少しでも分かち合うことができれば……そう心から願わずにおれません。祈ります。
メッセージ(おとな)
■最後の晩餐の情景
この福音書を読んでいるわたしたちは、結局、この弟子たち全員が、イエスさまの言葉どおり、イエスさまを裏切り、イエスさまを見離すに至ったという事実を知っています。
この食事の数時間後に、ゲッセマネの園でイエスさまが逮捕された時、弟子たちは皆、イエスさまを見捨てて逃げ出しました。イエスさまの裁判が行われている時、弟子たちは誰ひとりとして、イエスさまのために証人として立ちませんでした。
ゴルゴタに向かうイエスさまの十字架を運んで、ヴィア・ドロローサ「十字架への道」を歩いたのは、ペトロではありませんでした。イエスさまがつけられた十字架の左右にあって一緒に処刑されたのも、弟子たちではありませんでした。そして、イエスさまの遺体を取り降ろしたのも、その体を清めて墓に納めたのも、弟子たちではなかったのです。
福音書の中で、再び弟子たちがイエスさまのまわりに集うことになる場面は、主の復活の時に至るまで、どこにも描かれません。
最後の晩餐をめぐる伝承の中から浮かび上がってくる現実は、このように、やがてイエスさまを見限ることになる弟子たちの姿であり、しかもそのことを知らずに虚勢を張る弟子たちの姿であり、他方「やがて起こるべきこと」をよくよく知りながら、自分を見限る者たちと共に生涯最後の食卓を囲んでくださるイエスさまの姿です。
同じ時間を過ごしながら、同じ場所にいながら、そして同じパンとぶどう酒にあずかりながら、思いが通じない。それが、最後の晩餐でした。
彼らがイエスさまの弟子でなかったなら、イエスさまに従う者たちでなかったなら、その罪はもっと軽かったことでしょう。しかし、彼らはイエスさまの弟子でした。イエスさまに従った者たちであったからこそ、そこに大きな問題が生じたのでした。
また、彼らが自分たちの弱さを自覚し、いたずらに自負心を振り回すようなことをしなかったなら、やはり、彼らの罪はもっと軽かったでしょう。しかし、彼らは「決してつまずきません」と言い、「あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と断言した人たちだったからこそ、そこに大きな問題が生じたのです。
弟子でありながら、弟子として従い続けることのできない弟子たち。そして、その弱さを知らず、おのれを知らぬ弟子たち。イエスさまの弟子とは、ひとりの例外もなく、「そんな人間たち」の集まりだったのです。
「そんな人間たち」ばかりが集まって、イエスさまと共に、イエスさまの人生最後の食卓を囲んでいる。それが最後の晩餐の情景でした。
■「取って食べなさい」
そのような食卓の場で、イエスさまはひとかたまりのパンを手に取り、感謝の祈りをささげ、それを裂き、弟子たちめいめいに与えつつ、「取って食べなさい。これはわたしの体である」と勧められました。
パンを裂いて渡すのは、その家の主人の仕事、父親の役割でした。同じように、イエスさまはぶどう酒の入った杯を取り、感謝の祈りを唱えてから、「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と言って、それを弟子たちに飲ませたとあります。
この時イエスさまがなさった、これらの象徴的な行為と言葉が「聖餐」というかたちで現代のわたしたちにまで受け継がれています。
マタイによる福音書の文脈を追っていく時、この時の食事について、そしてまた聖餐の意味について、わたしたちは大切なふたつのことを教えられます。
第一は、最後の晩餐にあずかった弟子たちの誰もがイエスさまを理解できず、誰もがイエスさまを見限った人間だったということです。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(9:13)というイエスさまの言葉がここに当てはまります。イエスさまは、弱く愚かな人間を、ご自分を見捨てて裏切るであろう人間をも、ご自分のもとに招く方であることを、この食卓の場面ははっきりと描いています。
イエスさまのもとに集うのは「罪人」であり、そんな「罪人の主」、弱さや愚かさを抱えたわたしたちの主として、イエスさまは今、その食卓の真ん中にお座りになっているのです。
そして第二は、「そんな人間たち」であったにもかかわらず、イエスさまが「皆」に、すなわち誰ひとりの例外なく、ペトロに対してもユダに対しても、その場にいたすべての人に、パンとぶどう酒を分かち与えられたということです。
イエスさまは、わたしたちの思いによらず、またわたしたちの功績や熱心さによらず、ただイエスさまご自身の恵みと憐れみによって、わたしにもパンを与え、杯を与えてくださるのです。
「取って食べなさい。これはわたしの体である」
それは、「わたしはあなたを養う者、あなたを生かす者」ということです。そしてそれは、「わたしはいつでもあなたと共にいる」というイエスさまからのメッセージではないでしょうか。
「この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」
それは、「あなたにはやり直すチャンスがある」ということ、そしてまた、「あなたは今までと違った自分になれる。神の恵みのもとで、新しい人間として生きることができる」というメッセージではないでしょうか。
「そんな人間たち」にも、「こんなわたし」にも、イエスさまは「共にいてくださる」と約束し、失敗しても見捨てないと約束し、神に結ばれて生きる人間となる可能性を示してくださったのです。
■最初の晩餐
同じく、最後の晩餐の場面を伝えているルカによる福音書によれば、イエスさまは弟子のペトロに向かって噛んで含めるように教え諭されたと、こんな言葉が伝えられています。
「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(22:32)
最後の晩餐の場面に込められたイエスさまの思いは、このひと言に凝縮されているようにさえ感じられます。まさに、「あなたのために」、そして「わたしのために」祈ってくださるイエスさまの熱い祈りが、まず最初にあるからこそ、わたしたちは立ち直ることができるのです。そのように祈られているからこそ、愚かな者であるにもかかわらず、わたしたちは信仰を失わずにいることができるのです。祈られているからこそ、わたしたちは兄弟姉妹のために祈り、また祈られ、そして互いに励まし合うことができるのです。
人間的に見れば、最後の晩餐の雰囲気は、不安に満ちた不気味なものであったと言えるでしょう。誰ひとりイエスさまの思いを理解せず、また自分自身を知ることもできない人間が集まっていたというのが、最後の晩餐の現実でした。イエスさまが死を目前に控えつつ迎えた食事は、そういうことから言えば、二重の意味で絶望的な「最後の晩餐」にも見えます。
けれども、弟子たちにとってそれは、イエス・キリストの赦しと約束を受け、やがて後になって立ち直るための最初のきっかけとなった食卓だったのであり、彼らが信仰に立ち帰るための「最初の晩餐」となったのでした。
無理解と混乱に陥った「そんな人間たち」が、主の祈りによって支えられ、主の「体と血」を繰り返し分かち合い、そして新しい希望を受け継ぐ者へと変えられていった。その原点となったのが、この「最後の晩餐」だったのです。
この、「最後の晩餐」であり「最初の晩餐」という経験の中から生まれたものこそ、キリストの教会にほかなりません。
わたしたちは「罪人」として招かれ、たとえイエスさまの御心をまだ知り得ない時でさえも、イエスさまに招かれ、イエスさまを中心に食卓を囲む「神の民」です。わたしたちは、イエス・キリストの「体と血」を分かち合うことによって生かされ、主の祈りによって支えられ、主の赦しと約束によって歩み続ける群れなのです。
先週の世界聖餐日を振り返りつつ、イエスさまの人生最後の夜に起こったこの食卓の情景を想い起こしつつ、わたしたち自身の姿を顧みるとともに、わたしたちが主イエス・キリストにあって生きる者であることを、もう一度しっかりと確認したいものです。感謝して祈ります。