■クリスマスの季節
クリスマスは楽しい季節です。また美しい季節でもあります。そのことは、教会で古くから作られ、歌い継がれてきた讃美歌を聞くとよく分かります。
「きよしこの夜」をはじめ、パウル・ゲルハルトが作詞し、バッハが作曲した「まぶねのかたえに」、あるいは「あら野のはてに」といった歌に代表される民衆のキャロルなど、讃美歌の中でも最も美しいもの、有名なものがいくつもクリスマスのために作られ、歌われてきました。またポピュラー・ミュージックの中にも、「赤鼻のトナカイ」とか「ホワイト・クリスマス」「サンタが町にやって来る」といったクリスマスにちなんだたくさんの歌があり、また日本にも、松任谷由美の「恋人はサンタクロース」という曲がヒットしていたことを思い出します。数え上げれば切りがありませんが、こうした歌、メロディーに象徴されるような、美しい、楽しい、そして何かいいことがあるような感じのする季節…、それがクリスマスです。
と同時に、昔、あるラジオ局のフランス特派員がパリのクリスマスの様子を伝えていたこんな言葉を今も忘れることができません。
「パリではクリスマスは残酷な季節である。豪華なレストランで家族だんらんの食事を楽しむ人々がいるそのすぐ外で、寒空の下、ホームレスの一団が仕事を求めて立っている」
新聞にもこんな全面広告が出ていました。ユニセフの広告で、路上生活を送るひとりの女の子の写真があって、その下にこんな言葉が記されていました。
「貧困社会に生まれた子どもたちは、労働や兵役にかりたてられ、ストリートチルドレンとしてすておかれ、買春宿にわずかなお金で売られていきます。そうした過酷な状況のなかで何百万人もの子どもたちが、病気や身体障害などの死の危険にさらされ搾取されています。お腹がすいても、学校に行きたくても、どうすればいいのか子どもには解決できません」
外国だけではありません。日本でも、7人に1人の子どもたちが、貧困家庭に生まれ育ち、ひもじさを噛みしめています。ダウンタウンの浜田雅功(まさとし)とシンガーソングライター・槇原敬之(のりゆき)による「チキンライス」という歌を思い出します。
「親孝行って何?って考える/
でもそれを考えようとすることがもう/親孝行なのかもしれない
子供の頃たまに家族で外食/いつも頼んでいたのはチキンライス/
豪華なもの頼めば二度とつれてきては/もらえないような気がして
親に気を使っていたあんな気持ち/今の子供に理解できるかな?
今日はクリスマス/街はにぎやか お祭り騒ぎ/
七面鳥はやっぱり照れる/俺はまだまだチキンライスでいいや」
クリスマスは美しく、楽しい季節です。でも、それが美しければ美しいほど、楽しければ楽しいほど、それにあずかることのできない人々の現実が、いつも以上にくっきりと浮かび上がってしまう、悲しく、残酷な季節でもあります。クリスマスという季節は、わたしたちの信仰というものを根底から大きく揺さぶる季節でもあります。
■クリスマスの衝突
そんなクリスマスは、天使ガブリエルがナザレに住む一人の女性に告げた、こんな言葉から始まりました。
「おめでとう、…その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」(ルカ1:28, 32-33)
クリスマスを伝えるのはマタイとルカ、ふたつの福音書です。そしてそこでは、よく知られたクリスマスの出来事がその時代の支配者たちと深く結びつけられて語られます。マタイには「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった」(2:1)とあり、ルカには「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である」(2:1-2)とあります。
『最初のクリスマス』という本を書いたクロッサンとボークは、「紀元後一世紀のローマ帝国は、たんに歴史的というだけでなく、神学的な文脈を読者に提供しています。この文脈においては、皇帝崇拝を支える神[観]と聖書に記されるイスラエルの神[観]が衝突します」と書いています。
聖書では、イエス・キリストに対していろいろな呼び名、称号が用いられています。特に、今日お読みいただいた僅か13節の中に、「偉大な人」「いと高き方の子」「神である主は…ダビデの王座をくださる」「永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」「聖なる者」「神の子」とあり、少し後に「救い主」と出てきます。そして実は、これら称号の多くは当時のローマの皇帝カエサル・アウグストゥスに対して用いられた称号でもありました。「神の子」「神から生まれた神」「主」「贖うもの」「解放者」「救世主」といった皇帝の称号を、父親が誰かもわからない、馬小屋で生まれた幼子に用いるなど、悪ふざけか、大逆罪とみなされるかのどちらかであったことでしょう。
クロッサンたちは「クリスマスの物語の重要な特徴は、ローマ帝国という『王国』と神の終末的『王国』との激しい衝突です」と書いています。その衝突がすでに、あの幼子の身の上で始まっているのです。それがクリスマスの出来事なのです。その衝突は、言葉を換えて言えば、神の権威に立ちながら、ローマ帝国は暴力的な力によって平和を約束し、一方、神の国は非暴力の正義によって平和を実現すると告げる、そのような衝突です。
ローマの歴史家タキトゥスが「ローマ人は『世界の盗賊』で、飽くことを知らず土地をむさぼる。盗みと殺人と強奪を『統治』と偽り、住民を絶やしてそれを『平和』と呼ぶ」と書く、独裁者の「力」による平和と、イザヤが「そのとき、荒れ野に公平が宿り、園に正義が住まう。正義が造り出すものは平和であり、正義が生み出すものは、とこしえに安らかな信頼である」(32:16-17)と預言した、愛なる神の「公平と正義」による平和との衝突、それがクリスマスの日に起こった出来事なのです。
■マリアのLet It Be!
そして、クリスマスで起こった最初の衝突が、母マリアの上に起こりました。今日の場面を語る時によく紹介されるのが、ポール・マッカートニーによるビートルズ・ナンバーの一つ、〝Let It Be″です。
「私が苦しみに出会う時/母マリアが現れて
知恵に満ちた言葉をかけてくれる/〝Let It Be″(みこころのままに)
暗闇の中に包まれてしまう時/彼女は私の前に立ち
知恵に満ちた言葉をかけてくれる/〝Let It Be″
すべてはみこころのままに/知恵ある言葉をつぶやいてごらん
〝Let It Be″」
この歌のタイトルともなっている、リフレインの〝Let It Be″という言葉は、幼子イエスの懐妊を知らされた時、マリアが語った言葉「お言葉どおり、この身に成りますように」(“Let it be to me, as the word of you.”)から取られたものです。
婚約中の女性が婚約相手以外の子どもを懐妊するということは、当時の社会では大変なことでした。法という「秩序の論理」、世間の常識という「同調圧力」に従えば、マリアは、相手の男性を探し出され、一緒に「石打ちの刑」に処せられねばならないような立場にありました。マリアには身に覚えがなかったこととはいえ、人の目にはそれは「掟破り」であり、「大変な罪」と見られる、そんな出来事でした。自分の身にいきなり降りかかったそんな大変な運命を、けれども「受け入れましょう」という言葉、それが〝Let It Be″でした。
このマリアの態度は、神様が与えられる「定め」に従順に従う人の姿として、信仰者の模範として読まれてきたように思います。しかし「ホントにそうなのだろうか」と思わずにおれません。誰だって逃げ出したくなるような運命です。できればご免被りたい展開です。マリアも最初は「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と言っています。それは「不思議に思っている」といった程度の軽い感じではなく、あきらかに戸惑っており、拒否するような印象さえ受けます。ところが、さらに続く天使からの「聖霊があなたに降り、あなたは身ごもったのだ」というお告げを聞くと、すぐに「お言葉どおり、この身に成りますように」となります。
この「どうしてそんなことが…」という思いと、「お言葉どおり…」との間に、何の障壁もなく、何の葛藤もなく、スッと流れるようにマリアは気持ちを変えられたのでしょうか。もしも彼女の心が、まるで水が上から下に流れるように、何の抵抗もなく変わったのだとしたら、言われるとおり、それは「従順な信仰者のモデル、模範的な姿だ」ということができるでしょう。
しかし同時に、もしそうであるなら、この物語はわたしたちにとって何も学ぶことのないものになってしまいます。なぜなら、わたしたち一人ひとりは正直に言えば、そんなに簡単にすべてのことを「みこころのままに…」などとは言えない、そんな弱い心を持って生きているからです。何一つ迷うことなく信頼に満ちて、「みこころのままに…」と言えるマリアは確かに模範的ではありますが、しかしわたしたちにとってはあまりにも完璧で、かえって遠い存在となってしまいます。
「おめでとう!恵まれた方」、そんな祝福の言葉に続いて告げられた「やがて救い主となる幼子の懐妊」という出来事は、マリアにとっても、必ずしも100パーセント心から喜べるものではなかったのではないか。受胎告知の言葉をマリアは、「お言葉どおり(〝Let It Be″)」と言って受け入れるわけですが、それは模範的な信仰者の「100パーセントの〝Let It Be″」ではなく、心のどこかに不安や恐れを抱えながらの〝Let It Be″ではなかったか。そう思えるのです。
人間にとって、不安な恐れや逃げ出したくなるような気持ち、そういった思いを抱えつつも、それでも〝Let It Be″とつぶやく、つぶやくことができる。そんなところにこそ、信仰という支えが必要なのではないでしょうか。
■平和があるように
平和とは、イザヤが預言したように「剣(つるぎ)を打ち直して鋤(すき)とし、槍(やり)を打ち直して鎌(かま)とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」(2:4-5)を実現していくことです。しかしそのことは、そこで起こる衝突や対峙を回避して、そこから逃げて実現されることはありません。とはいえ、わたしたちは決して強い人間ではありません。わたしたちの人生には、時に苦しいこと、辛いことが起こります。試練の道もあります。できることなら、わが身に起こってほしくない、ご免(めん)被(こうむ)りたい、逃げ出してしまいたい様々なこと…。でも投げ出してしまったら、何も始まちない、何も変わらない…。そんな時、わたしたちの歩みを支え、背中をそっと押してくれる祈りの言葉があります。
〝Let It Be″「神さま、あなたのみこころのままに」
神の御心は、愛による平和のうちにわたしたちが生きることです。この祈りの言葉があるから、わたしたちは弱い自分の心を抱えながらも、きっと行く手に答えが示されることを信じて、明日に向かって、このクリスマスから始まる新しい日々を、平和のうちに、希望をもって生きていくことができるのです。新しく生まれようとする幼子のいのちを受け入れたマリアのように。そして自分のいのちを人々のために捧げた御子イエスのように。そのことを感謝して祈ります。