福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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1月11日 ≪降誕節第3主日/新年「家族」礼拝≫『待っててね!』(こども・おとな)『喜びに満たされて』(おとな) ヨハネによる福音書 2章 1~11節 沖村 裕史 牧師

1月11日 ≪降誕節第3主日/新年「家族」礼拝≫『待っててね!』(こども・おとな)『喜びに満たされて』(おとな) ヨハネによる福音書 2章 1~11節 沖村 裕史 牧師

お話し 「待っててね!」(こども・おとな)

■喜びの婚礼(こんれい) 

 みなさんは、結婚式(けっこんしき)に出たことはありますか。結婚式は式だけで終わりではなく、その後に披露宴(ひろうえん)という、2時間から3時間は続くお祝いのパーティーがありますよね。この結婚式と披露宴をひっくるめて婚礼(こんれい)といいます。

 日本でも二十年くらい前まではそうでしたが、婚礼は、結婚する二人だけのものではなく、家族と家族、家と家とのお祝い事(ごと)でした。イエスさまの時代、二千年前のユダヤでも、家と家との祝い事として婚礼が行われました。その婚礼には、小さな村であれば、村中の人が集まってきました。貧しい村の人々にとって、婚礼の席は飲み食いのできる、とてもうれしい、喜びの時です。当時、この地方の婚礼の宴(うたげ)は、何日にもわたって行われていました。ですから、婚礼は、これを準備する花婿(はなむこ)の家にとっては、家族の名誉(めいよ)、家名をかけた祝い事で、家が傾くほどの出費を覚悟しなければならないほどでした。

 さて今日はここで、映画『屋根の上のバイオリン弾き』をご覧いただきながら、そんなユダヤ人の婚礼の様子を味わっていただきたいと思います。

 『屋根の上のバイオリン弾き』は、ブロードウェイで大成功したミュージカルで、日本では森繁久弥(もりしげひさや)という俳優のあたり役でしたが、これを映画化したのがノーマン・ジュイソン監督。1970年公開のこの映画は、アカデミー賞で撮影賞、音楽賞などを獲得し、映画で流れる「サンライズ・サンセット」は今もポピュラーな曲のひとつです。

 物語の舞台は、今も激しい戦争が続く、ロシア革命(かくめい)前のウクライナ。アナテフカという貧しい村に、ユダヤ人の一家(いっか)が暮らしていました。父親のデビエは牛乳屋を営み、信仰深い生活をしています。彼と暮らすのは妻のゴールデと五人の娘たち。そのデビエが、ユダヤ人にとっていかに伝統が大切かを切々(せつせつ)と説くのは、そのオープニングのシーン。

 鶏が鳴いて朝になり、屋根の上でひとりのバイオリン弾きが演奏を始めると、そこに登場して家々に牛乳を配り始めるのが、主人公のデビエです。

 「屋根の上のバイオリン弾き。バカげとるだろ?だがな、この小さなアナテフカの村では、わしらはみんな屋根の上のバイオリン弾きさ。どうすれば、そんな危なっかしい屋根から落ちないで、バランスをとって暮らしていけるのかって?それはな、ひと言でいえば伝統(でんとう)!」

 デビエがそう叫ぶと、「伝統(トラディッション)」の歌が流れて、ユダヤ教の数々のシンボルがスクリーンいっぱいに映し出されます。ダビデの星、メノラー(七枝の燭台(しょくだい))、ヘブライ文字、そしてトーラー(聖書の律法(りっぽう))。

 「この伝統のおかげで、わしらの誰もが自分が誰かを知り、神がわしらに何を望まれるかを知ることができる」。デビエの説明はさらに続きます。ユダヤ人には一にも伝統、二にも伝統。「伝統なしでは、わしらの生活の不安定なこと、まるで屋根の上のバイオリン弾きのようだ」。デビエはそう言って、屋根の上の危なっかしいバイオリン弾きの姿を指差します。

 まず、ここまでをご覧いただきましょう。

 さて、そんな伝統に基づいたユダヤ人の婚礼の様子を、この後ご覧いただきます。デビエの長女ツァイタルと仕立屋のモーテルが結婚することになりました。いよいよ結婚式の当日、二人とも朝から断食(だんじき)してそれまでの数々の罪を神に悔い、独身生活に別れを告げます。結婚式が始まるのは日が沈んだ後、それも天に星が輝き出す頃が理想的とされます。大きな夕日が地平線に落ちた夕べ、村人総出(そうで)で、伝統に従った結婚式が始まります。いつもはあまり付き合いのないロシア人もいっしょに祝います。四本の柱の上に天幕が張られた「フッパー」の下、ユダヤ教の教師・ラビのリードで厳かに、笑顔いっぱいの式が進められ、明日に希望をつなぐ「サンライズ・サンセット」の歌がその映像に重なるように流れます。そして式の後、宴が始まります。花婿も花嫁も、そこにいるすべての人の顔が喜びにあふれます。

 では、そのシーンをご覧いただきましょう。

 

■待っててね!

 婚礼は、神様が備え、祝福してくださる、まさに喜びの時です。その婚礼の席で、祝いのぶどう酒がなくなりかけていました。花婿にとっては一大事(いちだいじ)、名誉に関わる出来事(できごと)です。きっと台所近くにいて、そのことを知らされた母マリアが、わが子イエスに伝えたのでしょう。

 「母がイエスに、『ぶどう酒がなくなりました』と言った」

 単なる報告ではありません。イエス・キリストに対する切(せつ)なる願い、祈りです。喜びにあふれるせっかくの祝いの席でぶどう酒が切れてしまう。どうしよう。どうしたらいいの。神様、助けて!

 わたしたちも経験することです。どうしようもないことがあります。だんだん気力も体力も尽きてきます。弱ってきます。今までは気持ちで突破できていた問題が、分厚い壁になってきます。そこにぶつかっていけば、もっと傷ついてしまいそうです。行き止まり、どん詰まりです。

 そんな状況が目の前にありました。喜びの祝いの席でぶどう酒がなくなってしまえば、いっぺんに空気が冷えてしまう。マリアの切なる祈りでした。

 しかし、イエスさまの答えはこうでした。

 「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」

 ずっと長い間、わたしもこの言葉につまずきました。なんてつれない言葉だろうと思いました。でも、そんなわたしたちの思いをスルーするかのように、イエスさまはこう言われます。

 「わたしの時はまだ来ていません」

 イエス・キリストの時がある。イエス・キリストが応えられる時があるのです。マリアが願う時ではなく、わたしたちが願う時ではなくて、イエス・キリストの時が、神様の定められた時があるのだということです。

 「だから、待っててね!」といわれるのです。

 母マリアは拒絶されたとは思いませんでした。マリアは備えました。

 「しかし、母は召し使いたちに、『この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください』と言った」

 これは、イエス・キリストの時、神様の時を信じて待つ人の言葉です。

 思うとおりには応えられないけれども、イエス・キリストの時を信じて待つ。その時が来ることを信じるから、彼女は備えて待つのです。

 「わたしの時はまだ来ていません」

 ということは、神様の、イエスさまの「その時がある」ということです。わたしたちの願う時というのは、たいてい「今、すぐ」です。すぐ応えてくださらないといけない、そうしないと困る、とわたしたちは考えるでしょう。

 でも、心配はいりません。イエス・キリストの時、救い主の時はあるのです。それも、あなたの思うよりも、はるかによい時、あなたにとって最もふさわしい時、その時を神様は、救い主キリストは備えてくださり、その時に応えてくださるのです。

 だから心配いりません。大丈夫です。安心して、自分にできることを精一杯にしながら、「その時」を楽しみにしながら、祈って備えて待ちましょう。みんなで、そんな新しい年にしていきましょう。お祈りします。

 

メッセージ 「喜びに満たされて」(おとな)

■祈りつつ待つ

 祈る人は前を向いています。待っています。助けを受け取るように備えています。それが、信仰者のこの世に生かされ生きる姿だと思います。本当に待つ人というのは、身を乗り出して待ちます。何もしないで寝て待つなど、本当に待っている人の姿ではありません。それが、待つということです。

 祈りつつ待つ人は、前方を見ながら生きます。救い主が「時」を備えていてくださるからです。応えていただく、その「時」があるからです。

 わたしたちの生きている現実の前には壁があります。自分の思いどおりにならない、避けることのできない、ただ不条理だと叫ぶほかない壁です。その壁を、こちらから破ることはできません。先ほども言いました。こちらから何とかして破ろうとすれば、こちらが傷ついてしまうだけです。絶望、虚無、孤独に苛まれるだけのことです。向こうから破っていただくほかありません。向こう側から、救い主の方から破っていただいて前に進むのです。イエス・キリストは言われました。

 「求めよ、そうすれば与えられる。門をたたけ、そうすれば開かれる」

 求めるということは、ただ欲しいと思うことではありません。祈ることです。祈りつつ待つということです。そうして、わたしたちは神の門をたたきます。門は向こう側から開いていただけるのです。向こう側から、わたしたちには開けないと思った扉を一つひとつ開いていただきながら、わたしたちは前に向かって歩いていきます。それが信仰によって生かされ生きるということです。

 

■わからないままに

 壁を開かれた、そんな出来事を体験した人々の姿が、ここに描かれています。

 「そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。イエスが、『水がめに水をいっぱい入れなさい』と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした」

 1メトレテスは39リットルですから、80リットルから120リットルにもなる、それも大きな石の水がめです。清めに用いるものです。ユダヤ人たちは外に出たら汚れると考え、それで手や足を洗いました。手を洗うのも、いわゆる食事の時にちょっちょっと手を洗うというのではなくて、手の付け根からしっかりと洗います。外で何に触れたか分かりません。その汚れを落とすのです。だから多量の水が清めのためにありました。

 町は、たいてい川のそばにできます。そこに水があるからです。村にはたいてい井戸があって、その周りに小さな村ができるのです。だから、水を汲みなさいと言われれば、その井戸まで何回も往復しないといけません。召し使いたちはそうやって、何度も何度も井戸のところまで往復しました。彼らは黙々と水を運びました。なぜ、水を運ばなければならないか、おそらく彼らには分からなかったでしょう。何でこんなことをしているのだろうと思いつつも、しかし、彼らは黙って運びました。そして、その水がめに運んだ水を、宴会の世話役のところに持っていきなさいと言われたので、彼らはそうしました。

 こう書いてあります。

 「イエスは、『さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい』と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。『だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました』」

 良いぶどう酒がどこから来たのか、世話役にはわかりませんでした。しかし、水を汲んだ召し使いたちは知っていたと書かれています。水を運んだ召し使いたちは、なぜ、水がぶどう酒になったかということを知っていました。召し使いたちは自分たちがどうして水を運ばなければならないのか、その「時」が来るまで、訳が分かりませんでした。なぜ、こんな重たい物を運ぶのか。ぶどう酒を運ぶように言われたのであれば、彼らは喜んで運んだことでしょう。しかし、なぜ、水を運ばなければならないか分かりませんでした。

 

■信じて運ぶ

 ただ、自分たちには分からないけれども、イエスさまはその訳を知っていてくださる。それを彼らは信じたのです。この重い荷物の意味を知っていてくださる方がいる。それを信じた。信じたから、彼らは黙って、黙々と運んだのです。

 今の自分には分からないのです。けれども、この意味を知っていてくださる方がいる。信じるということは、そういうことです。何もかも訳が分かって、わたしたちは生きているのではありません。

 訳が分からないことはいっぱいある。ことに、思いがけない荷を自分が負わなければならないとき、ドサッと何かが自分の肩にかぶさってきたとき、わたしたちはだれだって、「なぜ」と思います。そして、「なぜ自分が」と思います。

 しかしその時にも、わたしたちは信じるのです。今、その意味は自分には分からないけれども、その意味を知っていてくださる方がいる。そのことを信じるのです。信じるから、わたしたちは水を運ぶのです。黙って、耐えて、水を運ぶのです。

 この水が、最上のぶどう酒になっていました。わたしたちの、今、運んでいる重たい水。それは、どこかでいつの日か、ぶどう酒に変えていただく水なのです。悩みながら、そして苦しみながら運ぶ、その水がそっくりぶどう酒に変えられるのです。変えていただけるのです。「その時」が備えられているのです。

 そういう水を、わたしたちは今、運んでいるのだということを忘れてはなりません。

 

■喜びに満たされて

 世話役は言いました。

 「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置がれました」

 初めはよい、しかしだんだん味が薄くなる。それは、多くの人が考えている人生観です。みんな、そう思って生きています。

 しかし、しかし救い主イエス・キリストにある人生というのは、そうではありません。最後に、一番よいぶどう酒に変えていただけるのです。それが、わたしたちに与えられている約束です。すべての労苦がひっくり返って、最上のぶどう酒になる。その時を、わたしたち一人ひとりのために備えていてくださる方がいる。その方に向けて、その時に向けて、わたしたちは歩いているのです。

 この婚宴の席にいる大勢の客、それは、わたしたちです。そして、この婚宴の席の主としてイエス・キリストがいてくださるのです。その婚宴の席に、わたしたちの誰ひとり例外なく、好きな人も嫌いな人も、仲のよい人も喧嘩している人も、愛している人も憎んでいる人も、すべての人がいるのです。

 そして、最上のぶどう酒を準備していてくださるのです。最上のぶどう酒に変えていただけるこの道を、みんな、それぞれが歩ませていただいているのです。そんな約束に満ちた喜びの道を、みんな、歩ませていただいているのです。

 今日も、最後にご紹介したい一文があります。若松英輔の著書『光であること』からの引用です。

 「キリスト者が日曜日にミサや礼拝に行くように、ユダヤ教徒は毎週土曜日を安息日とする。安息日に労働は禁じられているのである。人はその日を自分たちのためにではなく、大いなるものに捧げなくてはならない。

 『愛するということ』の著者として知られている精神分析家エーリッヒ・フロムは、ユダヤ教の伝統のなかで育った。親族には伝説的なラビ(ユダヤ教の聖職者)もいる。ユダヤ教の歴史は、彼の思想にも色濃く影響を与えている。フロムは『生きるということ』で安息日にふれ、次のように述べている。

 シャバット〔安息日〕には、人はあたかも何も持ってはいないかのように生活し、あること、すなわち自分の本質的な力を表現することのみを目標として追求する。すなわち祈ること、勉強すること、食べること、飲むこと、歌うこと、愛の行為を行なうこと。

 シャバットは喜びの日である。というのはその日に人は十全に自分自身となるからである。(佐野哲郎訳)

 自分自身になる、これ以上の『よろこび』はない。そして、内なる自己へと私たちを導く営みとは『祈ること』『学ぶこと』『食すること』『歌うこと』そして『愛すること』である、とフロムはいう。また、ここでフロムが穏やかに遠ざけているのは、何かを必要以上に所有すること、権力を有すること、そして、自分自身と誰かを比べることでもあるだろう。

 自分は、世にただ一つの存在である。このことを真に認識したとき、その人の前には、それ以前とはまったく異なる世界が開けてくる。もちろん、世界が変わったのではない。変わったのは人間である。しかし、だからこそ、すべてが変わったともいえるのではないだろうか。こうしたとき人は、深い悲しみのなかに尽きることのないよろこびを見出すのである」

 新しい年の始まりの季節に与えられた婚礼の出来事が、まさに婚礼のドイツ語「ホッホ・ツァイト/喜びの時」であることを、わたしたちは心から喜び合いたいと願います。祈ります。