福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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1月18日 ≪降誕節第4主日礼拝≫『シンフォニーを奏でるように』 コリントの信徒への手紙ニ 6章14節~7章1節 沖村 裕史 牧師

1月18日 ≪降誕節第4主日礼拝≫『シンフォニーを奏でるように』 コリントの信徒への手紙ニ 6章14節~7章1節 沖村 裕史 牧師

 

■同調圧力

 今日のパウロの言葉を読みながら、ふと、ルカによる福音書19章1節以下を思い出していました。ザアカイとイエスさまの出会いの場面です。世の多くの人々から、汚れた人、罪深い人として忌み嫌われ、その交わりから遠ざけられていた徴税人ザアカイに、イエスさまの方から声をかけられ、彼の家にまで泊まって、「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」と、その救いを宣言されました。それに対して今日の言葉は、世の中となれ合うな、罪深い人たちとは距離を取りなさいと、それとは正反対のことを教えているように思われます。

 どちらが正しいのでしょうか。罪人と呼ばれる人たちと親しく交わり、彼らを新しい人へと造りかえていかれたイエスさまに倣うべきか、あるいは「朱に交われば赤くなる」という古くからの諺通りに、悪い人たちとの付き合いを避けるべきだというパウロの勧告に従うべきなのでしょうか。難しい問題ですがしかし、どちらにも大切な真理が含まれています。

 わたしたち人間は社会的な生き物です。一人では生きていけません。世の中との関わりの中で生きるほかありません。わたしたちは関わり合う人から影響を受け、またわたしたちも周囲の人たちに影響を与えます。イエスさまのように非常に強い人格、感化する力を持った人は、ご自分の愛に満ちた性格で他の人々をよい方向に変えていきます。ザアカイのケースはその典型でした。

 しかし、多くの人はむしろ、周りの人々に感化されて、悪い言い方をすれば、流されてしまうことがあります。特に、日本人はそうかもしれません。よく、日本人の間には暗黙の二つのルールがあるといわれます。一つは、「自分がしてほしくないと思うことは人にしてはいけない」というものです。これは聖書の教えと同じで、まさにアーメンと言えるでしょう。しかしもう一つのルールは、日本独特で「人と違ったことはしてはいけない」というものです。最近の言葉でいえば「同調圧力」ということでしょう。空気を読んでみんなに合わせる、みんなと同じように行動しなければならないという暗黙の圧力です。コロナ・ウィルスが流行したとき、アメリカと違って、日本ではマスクの着用率が際立って高かったのも、このためだといわれます。

 こうした、人と違ったことはしてはいけないという暗黙のルールは、よい方向に働くこともありますが、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」にように、自分で考えることをせずに、間違った方向へと流されていく力として働くこともあります。太平洋戦争のときも、こんな戦争は負けるからやるべきではないと内心では思っていたのに、周りの雰囲気に負けて何も言い出せなかったというのは、その最悪の例でしょう。

 こういう時に、神を、神への信仰を第一とすることで、世の中の雰囲気に流されてはいけないという意識を持つことは、とても大切ではないでしょうか。

 

■信仰者の問題

 とはいえ、14節以降のパウロの言葉は、突然、何か調子が変わってしまったかのようです。直前13節で「あなたがたも同じように心を広くしてください」と求めた後で、冒頭14節「信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません」と続きます。

 厳しい言葉です。信仰のない人と一緒に何もしてはならない。考えようによっては、心を狭くすることを求められているとさえ感じる言葉です。信仰する者と信仰のない者とを厳しく線引きする、受け取りかたによっては極端な言葉に聞こえます。

 しかし当たり前のことですが、キリスト教信仰を持たない人がみな不法を働くなどということは、もちろんありません。他の宗教の方や無宗教の方でも、立派な人はたくさんいます。むしろクリスチャンであっても、とんでもないことをする人もいます。

 また、人口の99パーセントの人がキリストを信じていない日本で、99パーセントの日本人は不法の人、闇の人、ベリアルの人、悪魔だから付き合ってはいけないなどと言えば、誰も心を開いてくれないでしょう。むしろ、ザアカイとイエスさまの場面にあったように、神は、ベリアルのしもべと軽蔑されているような人にこそ手を差し伸べるお方だというのが、聖書の、イエス・キリストのメッセージです。神から離れて生きている人は、神からの明確なメッセージを持たないという意味では、霊的な暗闇の中にいて、サタンの悪い影響を受けやすいということも、聖書が教えていることです。だからこそ、神はそういう人たちに手を差し伸べて、光の下に来るようにと招いてくださるのです。

 けれども、ある人の持つ闇があまりにも強く、わたしたちの方がかえって闇の力、サタンの深みに引きずり込まれてしまうような場合もあります。ミイラ取りがミイラになってしまうということです。

 実際、パウロがこのような厳しい言葉を語らなければならなかったのは、コリント教会の特別な事情ゆえでした。この手紙が書かれた頃のコリントの町は、有数の商業都市として経済的に繁栄していましたが、その反面、道徳的には頽廃していました。そして教会も、その影響を受け、多くの問題を抱えていました。クリスチャンでありながら、不品行な生活に陥る人がいましたし、また、異教的な生活習慣から抜け出すことのできない人も少なくはありませんでした。

 そんなコリント教会の様子が、第一の手紙に詳しく書かれていました。例えば、ある人は父親が再婚した義理の母と性的な交わりをしたり、また、ある人は遊女と遊んだりというようなことがありました。偶像に献げられた物は食べないように慎んでいる人たちがいる一方で、ある人たちは本来偶像などというものは実在しないのだから何を食べてもさしつかえない、と主張していました。

 パウロは、洗礼を受けてクリスチャンとなった人たちが、キリストを知る以前の不品行な生活や偶像崇拝の生活に逆戻りして行くことに、黙っていることができなかったのです。パウロは第一の手紙5章11節にこう書いています。

 教会の外の人々が、たとえ不品行であったり、貪欲であったり、泥棒をする人々であったり、また偶像崇拝をする人々であったとしても、そういう人々と交わりをしてはならないとは言わないが、「兄弟と呼ばれている人で、不品行な者、貪欲な者、偶像礼拝をする者、人をそしる者、酒に酔う物、略奪をする者があれば、そんな人と交際をしてはいけない」と。

 信仰のない人々を軽蔑して、そういう人々と交わらないようにしなければならないというのではありません。そうではなく、何によって生かされ生きているのかということです。これは、わたしたちクリスチャンの問題でした。

 

■主と共に歩む

 「不釣り合いな軛につながれる」とは、クリスチャンが、あたかもクリスチャンではないかのごとく、信仰のない人々と同じように、自分が自分がというエゴイズムに囚われ、自分のことだけを主張しようとすることです。そうやって、クリスチャンが信仰のない人々と自分とのバランスを取ろうとして、不信仰な生活に妥協するようになることです。

 その意味で、「不釣り合いな軛につながれてはなりません」とは、クリスチャンでない人とは親しい付き合いを避けなさいということではありません。しかし他方で、自分の弱さ、自分の罪深さを忘れ、自分の強さ、悪への耐性を過信してはいけない。強い悪の力、自分が圧倒されてしまうような悪い影響力には十分気を付けて、そうしたものとは慎重に距離を置きなさいという戒めとして受け止めるべきでしょう。

 しかし実は、信仰のない人々と不釣り合いな軛を共にするなということには、もっと重要な理由がありました。

 それは、わたしたちには、軛を共にしなければならないお方がいるからです。わたしたちは、まず何よりも、イエス・キリストと共に歩まなければなりません。イエスさまは、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言われた時、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11:28-30)と言われました。イエスさまの軛を共に負うということは、イエスさまと共に歩むということです。

 コリント教会の問題は、イエスさまと共に歩むことを忘れたことにあります。イエスさまと共に歩まなければ、信仰が分からなくなります。そして、義と不義とを混同するようなことにもなるのです。不義の中にありながら、自分が正しい人間であるかのような錯覚に陥るのです。これが、イエスさまと一緒に歩くことをしない人々に起こっている「転倒」です。

 イエスさまと共に歩む時、わたしたちは主の足もとにひれ伏します。もし、わたしたちがイエスさまと共に歩みつつ、何か正しいこと、善いことをしたとしても、それはわたしたち自身の誇りにはなりません。わたしたち自身はイエスさまが一緒にいてくださって、この方に用いていただくことで、はじめてよい業をなすことができるのであって、決して自分から何か神に喜ばれることをすることなどできないからです。

 ですから、わたしたちが、このイエスさまと共に歩みながら、まずすることは「悔い改め」です。一緒に歩ませていただきながら、自分の方がイエスさまと釣合いがとれていないために、何度もイエスさまから離れ、何度も迷惑をかけてしまう。そういう悔い改めの心こそ、イエスさまと共に軛を負う者にふさわしいものです。

 そしてまた、そのように悔い改めつつイエスさまと共に歩む限り、わたしたちが闇の中を歩くことはありません。また悪魔がわたしたちの主人になることもありません。信仰とは、このようにイエスさまと共に歩むことなのです。

 

■生ける神の神殿

 しかし、イエスさまと共に歩むとき、わたしたちはさらに重要な役割を担わせられることを知らなければなりません。

 それは、「生ける神の神殿」とされることです。神が、愚かで貧しいわたしたちを通して語り、また働くということが起こるのです。この時、わたしたち自身は、世の人々には愚かで、貧しく、まったく目立たない存在かも知れません。そうであっても、いえ、そうであればこそ、神の恵みがわたしたちを通してより一層明らかとなり、人々は神に立ち帰るのです。その意味で、パウロの言うように、わたしたちは人に知られていないようで、知られ、神のために重要な働き人とされるのです。

 それこそが、16節に引用された「わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。そして、彼らの神となり、/彼らはわたしの民となる」という言葉の意味なのです。そして、17節の「だから、あの者どもの中から出て行き、/遠ざかるように」もまた、14節で語られている「信仰のない人と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません」と同じ意味です。

 自分から人々のところへ出ていって、人々と一緒に、人々と張り合って歩くのではありません。それは、人間的には、格好いい、見栄えのよいことかも知れません。そのような生き方によって、わたしたちは人々から賞賛されるかも知れません。しかし反面、わたしたち自身が人々から感化され、巧みな言葉で不信仰な生活へと同化されることになりかねません。そして人々に対しては、本当の意味では何も与えることのない生活を歩むことになるのです。

 だから、彼らの間から出て、彼らから離れなさい、とパウロは勧めます。それは、ただ一人、孤独の道を行くためではありません。そうではなく、共に歩むべき神と、イエスさまと「かかわり」、「つながり」、「関係」し、「一致」し、「調和」するためです。

 「調和」と訳されているギリシア語は、「シンフォニアス」という言葉です。そう、シンフォニーという言葉のもとになった言葉です。日本語では、「交響曲」とも訳されます。さまざまな楽器が調和の取れた響きを立てたときに初めて、わたしたちが聴いて喜べる、美しい音楽がそこに生まれてきます。しかし、キリストと悪魔とが同じ席に座って、交響曲を奏でるわけにはいきません。完全な不協和音になってしまいます。この「キリストとベリアル」に対する人間の態度、それは「信仰と不信仰」です。ベリアルの支配のもとに立つ人は、イエス・キリストを信じません。光の中に生き、正義の中に生きようとする人は、イエス・キリストの光の中に立って、イエス・キリストに対する信仰に生きます。そのときはじめて、わたしたちの魂は満たされ、わたしたちは「生ける神の神殿」となることができるのです。