■「ダビデの子」から「主」へ
27節から28節、「イエスがそこからお出かけになると、二人の盲人が叫んで、『ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください』と言いながらついて来た。イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、『わたしにできると信じるのか』と言われた。二人は、『はい、主よ』と言った。」
目の不自由な二人がイエスさまに「叫んで」「ついて来た」と記されています。この「叫ぶ」という言葉は、金切り声でどなるとか、絶叫するといった意味を持っています。また「ついて来る」は、仲間として同行するという意味です。大声で叫びながら、イエスさまから離れまいと必死について行く、そんな二人の姿が見えてきます。そしてそこに、彼らの、イエスさまの癒しの力に対する大きな期待、すがるような信仰を窺い知ることができます。
そんな二人が、家に入られたイエスさまに近寄って来た時、イエスさまはご自分の方から、ひとつの問いを投げかけられます。
「わたしにできると信じるのか」。
懸命に、イエスさまの憐れみを求めて叫んでいる二人にとって、それは、確かめられるまでもないこと、言わずもがなのことです。イエスさまはなぜ、そんな問いを投げかけられたのでしょうか。しかしこの問いが、大切な言葉を引き出すことになります。彼らは答えます。
「はい、主よ」。
二人は、「はい、ダビデの子よ」ではなく、「はい、主よ」と答えます。するとイエスさまは、二人の目に触れ、「あなたがたの信じているとおりになるように」と癒された、とあります。
「主よ」という二人の言葉に応えて、「信じているとおりに」と癒されたのです。ということは、イエスさまを「ダビデの子よ」と呼ぶ信仰と、「主よ」と呼びかける信仰との間に、大きな隔たり、違いがあるということです。イエスさまが、「わたしにできると信じるか」という言わずもがなの問いを投げかけられたことの意図が、ここにありました。イエスさまは、そう問いかけられることによって、彼らの信仰を「ダビデの子よ」から「主よ」と呼ぶものへと深めようとされたのです。
■注文なしに委ねる
では、「ダビデの子よ」と呼ぶことと、「主よ」と、呼びかけることの間にある違いとは、どのようなものなのでしょうか。
「ダビデの子」は、救い主に対する一般的な呼称でした。「ダビデ」とは、イスラエルの二代目の王、旧約聖書に名を連ねる王たちの中の王、特別な存在でした。福音書の冒頭1章1節に「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」とあるように、ダビデの子孫から救い主・メシアが生まれる、ユダヤの人々はそう信じ、その誕生を待ち望んでいました。イエスさまの時代、その期待は、政治的な解放者という意味合いを強く持つようになっていました。エルサレムに入城するイエスさまを迎えた群衆の叫びが「ダビデの子ホサナ」-「ダビデの子よ、今、救いたまえ」であったことが、そのことをよく示しています。ローマの圧政下にあったユダヤの人々は、入城するイエスさまの救いに、政治的、民族的解放の願いを込め、そう叫んだのでした。
二人も最初、「ダビデの子よ」とイエスさまに向かって叫んでいます。しかしその叫びは、人々がイエスさまに期待したものと違ったものとならざるを得ません。なぜなら、二人にとって救いは、政治的解放ではなく、盲目ゆえの苦しみと悲しみからの解放だからです。それを癒していただきたい。二人の声は、「わたしたちがここにいるのを見落とさないでください、目の見えないわたしたちを忘れないでください」と自分たちに注意を引こうと、大きな声にならざるを得ません。
そのとき二人が口にした「ダビデの子よ」という呼びかけには、イスラエルの民全体の解放者であるという信仰はあっても、今ここにいる一人ひとりのための救い主であるという信仰はありません。「ダビデの子よ」と叫ぶとき、盲目ゆえの苦しみと悲しみからの解放を願う二人の祈りは、ただ虚空に漂うだけの頼りない、空しい響きを帯びることになります。だからこそ、彼らはより大きな声にならざるを得ません。
その二人の願いをじっと見つめつつ、イエスさまは「わたしにできると信じるのか」と言われたのでした。つまり、「わたしは、世間一般、社会一般の期待に応えるために来た救い主というのではなく、あなたの悲しみに触れ、あなたの苦しみに寄り添い、慰めるために来た救い主なのだ、そのことを信じるか」、もっと短く言い換えれば、「わたしが来たのはあなたのため、それをあなたは信じるか」とイエスさまは言われたのです。「わたしにできると信じるのか」とは、そういう問いでした。
社会全体が変えられ、救われても、憐れみを求めている一人には、届かないという救いが世の中にはあるものです。例えば、社会全体が解放の喜びに沸いている大勝利の陰で、泣いている戦死者の妻がいるように、一人に届かないような救いが、世の中にはあります。イエスさまは、「わたしは、一人の悲しみに届かないような、そんな大きな救いをもたらす救い主ではなくて、まさにあなた一人に届く、慰めをもたらす救い主として来たのだ。そのことを信じるのか」と言われたのです。
そしてそのとき、二人は「はい、主よ」と応えます。「ダビデの子」とは言いません。それは、「あなたはわたしのために来てくださいました。そのことを信じます」という意味です。一人ひとりに注がれる、イエスさまの憐れみに、愛にこの身を委ねますという告白です。
「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」という最初の言葉には、「憐れんでください」という、イエスさまに対する注文が付けられていました。しかし、「はい、主よ」、この二回目の告白には、もはや注文はありません。ただ、委ねることだけです。
それは、イエスさまがわたし一人のために来られた方であることを、彼らが信じたことを意味します。イエスさまが、世直し的な救い主ではなく、わたしたち一人ひとりの苦悩に届く、憐れみの方であることを信じたということです。信じたそのとき、彼らの目が開かれました。彼らは救われたのです。
とすれば、救いとは、注文を引っ込めて、お任せすること、お委ねすることによって開ける世界、見える世界である、ということです。なぜなら、救いはすでに、イエス・キリストによって、一人ひとりに与えられているからです。
■問いの中に共いてくださる
とはいえ、わたしたちは人生に対して、実にいろいろな注文を付けます。そして、思いどおりに万事順調という人も中にはおられるかも知れませんが、大半の人はそうは行かないと思っています。真面目に、こつこつと丁寧に生きているのに、思いがけないことに遭遇する、そして一切がご破算。「どうしてこんなことになったのか」「どうして、わたしがこんな目に遭うのか」「どうしてわたしだけに起こり、他の人には何事も起こらなかったのか」…。人生の不可解に直面して、「どうして、どうして」と問わざるを得ないことがしばしばです。
しかし、「どうして」という問いを出すということは、問えば分かるはずだという前提があってのことです。けれども、よく考えてみてください。人生は、わたしたち人間の理解で答えが見つかるものと考えることほど、傲慢なことはない、そうは思われないでしょうか。
イエスさまがお生まれになった時にも、「どうして」という事件が起こりました。2章16節に、ベツレヘム近辺の二歳以下の男の子が、ヘロデ王の恐れから、皆殺しにされたという話が記されています。神が人間を救おうと御子イエスをこの世に遣わしてくださったばかりに、こんな筋の通らない無残なことが起こったのです。イエス・キリストは救いをもたらすためだけに来られたのではありませんでした。人の世は解答不能な問いそのものである、そのことを明らかにするためにも来られたのではないか。そう思うほかないような出来事です。またイエスさまが十字架上で叫ばれた、最後の言葉を思い出してください。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(27:46)。イエスさまのご生涯、最後の言葉は、答えではなく、問いでした。
人生とは、「どうして」と問えば答えが分かるようなものではない。そうではなくて、そういう答えのない人生のただ中に、問うても分からない人生の真っただ中にこそ、イエスさまの誕生があり、そこにこそ、イエスさまの十字架が立っている。とすれば、その「どうして」と問わざるを得ないところにこそイエスさまが共にいてくださるのであり、それこそがわたしたちの引き受けるべき人生なのだ、ということでしょう。
それが、イエスさまの与えられる答えであり、救いであり、イエスさまをメシア・キリストと信じるということなのではないでしょうか。
■だれにも知らせてはいけない
そのことが、最後にイエスさまが言われた言葉に、端的に示されます。癒されて終わりではありませんでした。目が見えるようになった二人に対してイエスさまは、「このことは、だれにも知らせてはいけない」とお命じになります。それも「厳しくお命じになった」とあります。 イエスさまは、なぜ、「だれにも知らせてはいけない」と言われたのでしょうか。
それは、群衆のイエスさまに対する勝手な期待ゆえではなかったでしょうか。奇跡の御業、癒しの御業は、イエスさまが一体誰であるのかを指し示す「しるし」でした。つまり、そうした「しるし」をなさるイエスさまこそ、救い主・メシアであるということを意味していました。ところが、イエスさまは、そのしるしが広く伝えられることを望んでおられません。そうした期待が沸き起こって来ることをむしろ、イエスさまが怖れ、警戒なさったのだ、ということです。
それは、群衆の勝手な解釈によって、「しるし」それ自体が一人歩きするからです。この時も、群衆たちはイエスさまのことを、どんな病気でも癒し、どんな願いでもかなえてくれる、スーパーヒーローのような存在として受けとめていたことでしょう。しかしイエスさまは、そのような方ではありませんでした。イエスさまは、わたしたちの心の願いを叶えるために、簡単に利用できるお方ではないのです。
仮にそのようなお方だとすれば、わたしたちの方が主人の立場に立つことになります。主人の座についたわたしが、イエスさまに、また神様に向かって、「こうしてください」「ああしてください」「こうしてもらっては困ります」と、「祈り」という手段をもって自由自在に、イエスさまを、神様を動かしていくことを信仰だと思うとすれば、それは大きな間違いなのだ、イエスさまはそのことを強く戒めておられるのです。
■主と共にある救い
なぜなら、わたしたちが願う前に、救いはすでに、イエス・キリストによって、わたしたち一人ひとりに与えられているからです。イエスさまは、そのことを信じ、わたしたちがこの身を委ねて生きることをこそ求めておられます。
わたしたちの信じて歩むべきは、たとえどんな人生を生きるようになろうとも、イエス・キリストの救いを信じ、自分の人生に注文をつけず、これがわたしの人生だと受けとめ、置かれたその所でそれぞれの「花」を咲かせようとすることです。言い換えれば、「いま」を大切にすることです。
それは、希望を失い、達観を決め込んで、ただ諦め、ただ空しさの中に、日々を生きるということとは、まったく異なるものです。ともするとわたしたちは、ぶつぶつと自分の人生に不満を眩き、運命を呪い、注文をつけ、そのために、今日という一日、いまというこの時を、どんなにおろそかに空しく過ごしていることでしょう。ストレスを溜め込んでいることでしょう。
いまをよく見る。いまを本当の意味で大切にする。過ぎたことを悔いず、明日のことを思い煩わず、不安といらだちに苛まれることなく、今日をしっかり生きる。それは、わたしたちの人生があるがままの姿で見えているということです。
二人は、その目の不自由さにおいて、そのことを経験したのです。「主よ」と告白すること、イエスこそ救い主であるという信仰に生きるということは、そういうことでした。不自由さゆえに、いまを、救われている人生として見る目が開かれました。目の見えない彼らの人生が、そのまま、これがわたしの人生だと見えました。自分を咲かせる所は、イエスさまが共にいてくださる、ここなのだ、ここしかない、と受け止められたのでした。救いとは、そのことでした。