福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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★9月5日 ≪土曜礼拝―SATURDAY WORSHIP≫ 『山の頂から見渡せば・・・』イザヤ書40章12~17節 沖村裕史 牧師

★9月5日 ≪土曜礼拝―SATURDAY WORSHIP≫ 『山の頂から見渡せば・・・』イザヤ書40章12~17節 沖村裕史 牧師

■すごい!!
 みなさんにとって、この世の中で一番「すごい」と思われるものはどんなもの、どんなことでしょうか。
 何と言っても、この大宇宙だ、と言う人は多いのではないでしょうか。わたしも、生まれてこのかた、いろんな「すごい」ものを見聞きし、感動し、すごい、すごいと言ってきましたが、満天の星空を仰いだときに思わず口をついて出る、「すごい!」は別格なものだという気がします。
 考えてみれば、もともと、この地球の素材は、宇宙の塵や隕石からできています。今は、いろいろな生き物が繁殖し、複雑な生態系へと進化していますが、その素材となっているのは、もとはといえば、すべて宇宙を漂っていた星くずなのです。つまり、このわたしたちは、星くずでできているのであって、星くずの集まりとして宇宙で生まれ、宇宙で死んでいくわけです。その意味で言えば、人間もひとつの星です。
 そして、宇宙を見上げて、「すごい」と言えるわたしという星こそが、「すごい」という気がしてきます。すごい宇宙を「すごい」と思えるこのわたしが、たしかに、ここで生きていることが、奇跡的な「すごい」ことだ、という気がしてきます。
 実は、この世で最もすごいことは「自分がいる」ということなのではないか。そうです。そのことが、今日のみ言葉で、わたしたちに語られていることです。

■自然
 さて、ここに描かれているイザヤの自然の中には、当時、この宇宙を形づくる要素だと考えられていた「天」と「地」と「山」のすべてが出てきます。その高い山の頂きから「天と地と山」を望む光景が、人々の、そして、わたしたちの視野だけでなく、心を、生き方を、信仰をも、伸びやかに広げてくれます。
 イザヤがこの預言を語ったとき、イスラエルの人々が奴隷としてバビロンに連れ去られてから、五十年という歳月が過ぎ去っていました。人々は過酷な苦役に疲れ果て、すっかり希望を失い、天を見上げることも忘れ、うつむき、自分たちの足元しか見えていませんでした。
 イザヤは、そんなイスラエルの人々の心と目を、広大な自然へ向けさせようとしています。冒頭12節、
 「手のひらにすくって海を量り/手の幅をもって天を測る者があろうか。
  地の塵を升で量り尽くし/山々を秤にかけ/丘を天秤にかける者があろうか。」
 自然は、なんと大きく広く、なんと美しいことだろう、そう賛美して終わりというのではありません。わたしたち人間にそれを測ることができるだろうか、人間の力や知恵は神には到底及ばない、そう教え、最後17節では、こう告げます。
 「主のみ前には、もろもろの国民は無きにひとしい。
  彼らは主によって、無きもののように、むなしいもののように思われる。」
 イザヤはここで、わたしたち人間の限界と、神の比べようのない大いなる創造のみ業を証しするために、そしてまた、わたしたち人間の罪を贖(あがな)ってくださる神の限りない愛と、それを必ず成し遂げてくださる神のみ力への信頼を思い起こさせるために、わたしたちの目の前に拡がる雄大な「自然」への新しいビジョン-新しい理解の仕方を教えようとしています。
 そもそも聖書には、「自然」そのものを意味する言葉がありません。自然はただ「造られたもの」として表現されます。つまり、人や生き物、いのちあるすべてをそのふところに抱く自然は、大いなる神の創造のみ業という出来事の中に定められているのです。
 確かに、大自然-例えば、アメリカのヨセミテ国定公園-の中で、わたしたちが痛感することは、自分の無力と小ささです。
 高い山の頂き近くから、後から登って来る人を眺めれば、その姿はまるで蟻(あり)のようです。雲と風が行く手を遮(さえぎ)り、ときに渓谷で雪が溶けて崩れ、また岩山が唸(うな)りでもすれば、わたしたちは恐れに身が竦(すく)むばかりです。予測することのできない力を秘めた山や海は、人間に自然というものを考え直させてくれます。もはや、美しい、雄大だとだけ言ってはおれません。
 緻密(ちみつ)な測量に基づいて建てられた都市から目を逸らせ、荒々しい大自然に、測ることのできない海や山に目を向けさせて、人間にそれを測りうるかと預言者イザヤが問いかけるのは、造り主なる神にのみ、そのことが可能なのだ、ということを強調するためでした。

■いのちへのまなざし
 神の御子イエスもまた、日々、思い悩み、苦しみ、打ちひしがれるわたしたちに、こう語り掛けてくださっています。
 「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。鳥のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、烏よりもどれほど価値があることか。あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか。野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。」(ルカ12:22-28)
 鳥(からす)や草は「いのち」として、このわたしと何ひとつ変わらない。イエスさまの目には、空の鳥も野の草も、そして人間も、共に造られたものであり、生かされてある「いのち」なのだという根源的な真理を、わたしたちに教え示すものとして、映っています。
 ここでご注意いただきたいのは、五回も繰り返される否定形です。「種も蒔かず」「刈り入れもせず」「納屋も倉も持たない」「働きもせず」「紡ぎもしない」。この「せず、しない」という否定形が意味することは、何もしない、何もできない、ということです。何もなにもなさず、ただ今ここに生かされ生きている。そのような「いのち」の姿をイエスさまは見ておられます。そしてそのことを、イエスさまは、「奇跡」「神のみ業」として受け取っておられます。わたしたちという存在は、「いのち」はまさに「奇跡」そのものなのです。
 イエスさまが神のみ前にある人間を語る時、野の百合、空の鳥が導き手として語られているように、イザヤもまた「われ山に向いて目を挙(あ)ぐ」と叫びました。この叫びは、山の頂に上って、この世界の広さを見渡すときに、創造の主なる神の愛を、神から救いがもたらされることを、希望をもって告白する、喜びの言葉だったのです。

お祈りします。創造の主なる神よ、あなたの愛ゆえに、あなたからもたらされる救いを、希望をもって確信しつつ、どのようなときにも、み霊のお働きを頼りに、与えられているいのちに目を注いで歩んでいくことができますように。主の御名によって、アーメン。