■十字架への道
「山上の説教」の後(あと)、8章1節からこの9章38節まで、マタイは、イエスさまによる数々の癒しと奇跡の御業、その一つひとつの出来事を簡潔に、しかし力強く描いて来ました。その小見出しを追ってみれば、重い皮膚病の人の癒しに始まり、百人隊長の僕、多くの病人、嵐を静める、悪霊に取りつかれた人、中風の人、指導者の娘、房に触れた女、盲目の二人……そして、今朝の32節から34節「口の利けない人をいやす」は、その最後の癒しの出来事です。僅か三節の短い出来事ですが、これまでの癒しの御業、奇跡の御業を締めくくる出来事として、マタイはここに、大切な意味を込めて書き記しています。
「二人が出て行くと、悪霊に取りつかれて口の利けない人が、イエスのところに連れられて来た。悪霊が追い出されると、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆し、『こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない』と言った。しかし、ファリサイ派の人々は、『あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している』と言った。」
ここでも、苦しみと悲しみの中を生きていた人が、自分からやって来るのではなく、その人のことを気遣う人に連れられて、愛の内に連れられて、イエスさまの所にやって来ます。どのようにして癒されたのか、ただひと言、「悪霊が追い出されると」とだけマタイは記します。
印象的なのは、この癒し-悪霊追放の出来事を見ていた「群衆」と「ファリサイ派の人々」の、イエスさまへの評価・反応です。真反対です。
当時、口の利けないのは悪霊の仕業で、悪霊を追い出すことによって初めて癒されると考えられていました。それが常識でした。その常識を前提に、群衆は、イエスさまこそがその「悪霊を追い出す力」を持っておられるお方だ、これほどのお方はひとりとしていないと賞賛しました。ところが、ファリサイ派の人々は、そのイエスさまの御業自体を「悪霊の頭」の力によるものだと非難します。
しかもファリサイ派の人々によるこの非難が、この後「ベルゼブル論争」へと発展し、さらにはイエスさまに対するその敵意が殺意として燃え上がり、ついには十字架へとつながっていくことになります。
しかし、イエスさまの十字架は何も、ファリサイ派の人々の敵意だけが原因なのではありません。イエスさまの御業を見て驚き、「こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない」と賞賛した群衆もまた、イエスさまを十字架に追いやることになりました。こののち、人々の期待―目の不自由な人が「ダビデの子よ」と呼びかけたのと同じ期待―と、イエスさまご自身との間にズレが生じます。イエスさまというお方が、人々にとって自分の願いを叶えるスーパーマンのような存在でないことが徐々に明らかになるにしたがって、イエスさまを賞賛していた彼らも、イエスさまを憎み始めます。それは、彼らの勝手な期待―エゴイズムの投影-でしたが、でもその期待が大きかっただけに、憎しみもさらに大きくなりました。そしてついには、「ピラトが、『では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか』と言うと、皆は、『十字架につけろ』と言った。ピラトは、『いったいどんな悪事を働いたというのか』と言ったが、群衆はますます激しく、『十字架につけろ』と叫び続け」(27:22-23)、イエスさまの十字架を決定づけることになりました。
マタイによる福音書8章からここまで続いた、イエスさまの癒しの御業、奇跡の御業を締めくくる、この最後の出来事が、実に不思議な仕方ではありますが、裏切りと失望、嘲りと蔑み、血と苦しみに彩られる、あの十字架への道をはっきりと指し示します。
■痛みの愛
暗い闇を覗き込むようなこの出来事に続いて、マタイはこう記します。35節、
「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。」
さらに続けて、36節、
「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」
わたしたちが注目しなければならない点、それは、イエスさまが8章から9章まで、いくつもの心を込めた愛の御業をなさったにもかかわらず、その御業を目撃した人々の誰一人、イエスさまのことを正しく理解することがなかったという事実です。
人々の愚かさと言うほかありません。イエスさまは、わたしたちの愚かさを、過ちを、罪を見抜かれるお方です。しかしそのイエスさまが、わたしたちの、その愚かさと向き合ってくださるのです。
「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言って、イエスさまを悪霊の仲間扱いしたファリサイ派の人々に対して、「なんて馬鹿なことを言う」と反論されてもよかったはずです。しかし、イエスさまはそうはなさいませんでした。イエスさまは、悪をもって悪に報いようとはなさらず、今まで通りに、「町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされ」ます。イエスさまは、なすべきことを為し続けられたのです。
それは、群衆に対しても変わりません。将来、自分につまずき、裏切り、自分を十字架へと決定的に追いやることになる、言わば「敵のような存在」となる、群衆の悲惨な姿、絶望的な姿をご覧になっても、変わることはありませんでした。 いえ、そればかりか、「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」、その姿をご覧になって、深く、激しく心を揺さぶられるという体験をされるのです。
「深く憐れまれた」という言葉は、あの善きサマリア人が、追いはぎにおそわれ瀕死の重傷を負って倒れていた人を見た時、「憐れに思い」近寄ったと同じ言葉です。ギリシア語によると、「はらわた」「内臓」のことです。その内臓が「痛む」という言葉です。
わたしたちも時に、激しい同情によって胸が熱くなることがあります。しかし、内臓が痛むほどに、同情を寄せることがあるでしょうか。どこかで防衛反応が働き、これ以上、感情移入するとマズイと思い、少し手前のところで、のめり込まないようにセーブするのではないでしょうか。
ところがイエスさまは、ご自分をセーブすることなく、行くところまで行かれます。それが「深く憐れまれた」ということです。イエスさまのことを悪霊の頭呼ばわりする人々の無理解や、自分の願い、欲望が叶うことだけを求めてイエスさまを賞賛する愚かさに囲まれながら、そうした人々を馬鹿にしたり、軽蔑したりすることをせず、愚かなことしか言えないような、そうした行動しかとれないような人々の、わたしたちの惨めさに、ご自分の身も心も切り刻まれるような痛みをもって愛してくださった、ということです。これが、「イエスは、…深く憐れまれた」という言葉の意味です。
この世に痛みを感じない人は、誰一人いません。ということは、これほど普遍的な感覚はないということです。その意味で、「痛い」というひと言は、とても尊い言葉だとも言えます。すべての人が共感して分かち合える言葉だからです。「わが身をつねって人の痛さを知れ」ということわざがありますが、今さらわが身をつねらなくても、人はみな「痛い」ということがどういうことなのか、いやというほど知っているはずです。
問題は、わたしたちがその痛みを徹底して避けるうちに、他人の痛みに鈍感になり、痛みが秘めているその本当の意義をも見失ってしまったというところにあります。人は、痛みによって自分を知り、他者を知り、世界を知ることができます。生きていくうえに欠くことのできないまことの知恵はすべて、この痛みが教えてくれるのです。
もちろん、痛みそのものに価値があると言っているのではありません。痛いことは誰だっていやだし、痛みを避けることは人として当然のことです。しかし、痛みこそが愛をもたらすことを忘れて、ただいたずらに痛みを避けていたら、思いやる心が滅びてしまうに違いありません。
「おなかを痛めたわが子」という言い方があります。わが子を愛する親心を表すには、このひと言で十分でしょう。肉体的に精神的に、親がどれだけ、この自分のために痛い思いを引き受けてくれたかで、子どもは親の愛を知ることになります。愛とは相手のために痛みを引き受けることなのです。十字架のイエスさまが痛みを引き受けている姿に、今、ここで腸(はらわた)が千切れるほどの痛みをもって愛してくださっているイエスさまの姿に、わたしたちはまことの親の愛を見て、生かされます。
イエスさまは、そんな深い憐れみに生きられました。神の御子がこの世にお生まれになり、しかも、糞尿の匂いの漂う、みすぼらしい飼い葉桶の中に寝かされました。最初の礼拝者は何と、人口調査の対象から外されていた、あの羊飼いたちでした。不安に苛(さいな)まれたヘロデ王に追われ、エジプトで難民生活を強いられました。成長されてからも、人々から苦しめられ続けられた。そして最後には、十字架につけられて殺されました。
これほどまでに神らしくない神など他にいるでしょうか。十字架に磔(はりつけ)にされたイエスさまを見たひとりの人がこう言いました。
「神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから」。
その通りです。誰もがそう思ったことでしょう。しかしイエスさまは、そうはなさらなかったのです。そのような神であることにこだわらなかった。むしろ、ご自分を無にし、「深い憐れみ」の中、ご自身の肉体が裂かれるほどの痛みの愛に生き抜いてくださったのでした。
聖書の語るイエス・キリストの神とは、そういう愛の神でした。
■暗い出来事の向こう
イエスさまの御心も悟らず、その言いつけを無視し、自分勝手に言い広める群衆、愛される理由などないような群衆に対して、しかしそれでもなお、痛むほどの愛の心をもって、イエスさまは深く憐れんでくださるのです。
人間的に見れば、この時の群衆の状況は絶望的です。「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」、まさに絶望的な状況です。
しかし、そうした状況をご覧になったイエスさまは、37節「収穫が多い」時だ、と言われます。
驚くほかない言葉です。しかしそれは、ある人の言葉を借りるならば、イエスさまは今ここで、目に見える絶望的な状況の、さらにその向こうをご覧になって、「困難が大きい時こそ、それは収穫の前触れなのだ」、そう言われているのです。そして、収穫の主の約束を先取りされながら、「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」と言って、今、なすべき具体的な一歩を、希望の一歩をわたしたちに示しておられるのです。
わたしたちは今一度、イエスさまの語られる言葉を、注意深く、丁寧に聴かなければなりません。イエスさまは、目先の状況がどんなに厳しくても、その先をご覧になりながら、「収穫の主に願いなさい」と教えてくださいました。「願いなさい」、つまり「祈りなさい」と言われるのです。
「神様、わたしが働きます」「わたしにもできます」と、勢い込んで申し出なさいというのではありません。わたしたちの力でできることではありません。ただ神様が収穫を与えてくださるのです。そこでこそ、神様が深く憐れんでくださるのです。その憐れみゆえに、「弱り果て、打ちひしがれている」わたしたちをその御許に招き、救ってくださるのです。救うこと、救われることは、わたしたちにできることではなく、ただ神様のなさることです。わたしたちはただ、「どうぞ、御心ならば」と祈るだけです。そう祈ることを止めるとき、わたしたち教会は、福音伝道に生きることができなくなり、主の愛に生かされ生きることもできなくなるでしょう。
「弱り果て、打ちひしがれている」わたしたちの状況を嘆かずに、そこに示され、与えられる神様の深い慈しみを、神様の収穫の豊かさだけをしっかりと見据え、希望と愛をもって、手を携え共に歩んでいきましょう。羊飼いなるイエスさまに従い、そのお働きの一端を担いながら、できる限りのことをなし、天に召されるその時まで、平安の内を歩ませていただきましょう。
お祈りします。愛の主よ、人の愚かさばかりに目が行く、愚かなわたしたちです。悪に悪をもって報いようとする、愛から遠いわたしたちです。どうぞ、御子イエスの深い慈しみの中で、祝福をもって日々の生活を歩むことができるようにしてください。どうか、わたしたちを憐れんでください。あなたのその憐れみを携えて、病める者、苦しむ者の傍らに、静かに座り、手を取り、あなたの慰めを分かち合う者となることができますよう、あなたが支え、導いてください。主の御名によって。アーメン。