■秘められた計画
パウロは今、ローマの信徒たちに親しみを込めて「兄弟たち」と呼びかけ、「次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい」と語り始めます。「ぜひ知ってもらいたい」、どうしてもわきまえてほしい。そうパウロが語り、願っているのは、「秘められた計画」についてです。
ギリシア語のミスチューリオンです。今日のミステリーという言葉の語源となるものですが、もともとは「閉じる、閉ざす」という意味を持つ言葉です。では一体、何を閉ざすのか。「口を」です。「黙る」ということです。つまり、沈黙の中でこそ、知りえることについてです。
パウロがここで語るミスチューリオンとは、誰も聞いてはいけない、見てもいけない、資格のない者は触れてもいけない、といった「秘儀」を意味するものではありません。続く26節に「全イスラエルが救われるということです」とあるように、それは、救いそのものを指し示す言葉です。救いについての知識と言ってもよいかも知れません。黙っていなければいけないどころか、大いに語られるべきことです。喜びをもって、伝えずにはおれません。ひとりでも多くの人に聞いてほしい、知ってほしい、共にその喜びに触れてほしい、そう思えることです。
とすれば、ミスチューリオンとは、ここで「秘められた計画」と訳されているように、わたしたち人間には計り知ることなどできない、隠された神様の御計画、神様の御心のことです。「隠された」という意味で秘されたものですが、しかしそれは、愛の神様の不思議な計らい、御心のことを意味しています。
つまり、パウロがここで語るミスチューリオンとは、単に秘されるべきものとしての奥義ではなく、神様の御前で、わたしたち人間の知識、知恵の言葉が沈黙せざるをえないような、わたしたちのどんな行いや知識や知恵も何の意味も持たず、誇ることなどできない、計り知れないほどの大いなる神様の愛としての奥義のことです。
わたしたちには知ることなどできないけれども、神様はわたしたちのことをよくよく知っていてくださるのだということです。
■知られている
このことは、とって大切なことです。
教会に夜遅く電話がかかってくると、ドキッとします。それでも、受話器を取るほかありません。深呼吸して、よしっ、と気合を入れて取ります。気合いを入れていますから、どんな内容の電話でも、大抵はたじろぐことはありません。それでも一度だけ、腹の虫が収まらなかったことがあります。夜八時過ぎ、女性からの電話は、資産運用の勧誘でした。
そのとき腹が立ったのは、その人が、わたしの名前や年齢などの情報を一方的に知っていることでした。知らない人にわたしのことが「知られている」という現実は、気味悪く、腹立たしい…と興奮冷めやらぬわたしでしたが、しばらくして落ち着いてくると、待てよ、わたしは知らないのに相手はわたしを知っている、この状況がいつも腹立たしいというわけでもないと思い直します。
もし、瓦礫のなかで身動きが取れない状況だったとしましょう。暗闇の中、周囲の状況すら全くつかめません。しかし、GPS機能の付いた携帯が手の内にあり、誰かにだれかにわたしの所在が正確に知らされているとします。そうすれば、「必ずだれかが助けにきてくれる」と信じ、孤独のなかでも希望を持ち続けることができるはずです。
わたしが一方的に知られているという状況。それが投資の勧誘電話であれば、不愉快このうえもありません。しかし自分が心細く迷っているときに、助けてくれるだれかがわたしを知っているとなれば、「知られている」、そのことは、かけがえのない喜びと希望の根拠へと変わります。
パウロは、この「知られている」ことの幸いを深く味わった一人でした。パウロは繰り返し語ります。わたしたちは神様を知って、理解してから、神様を愛するというのではない。神様に自分が知られている!という事実によって、喜びに包まれ、神様を愛するようになるのだ、と。パウロは、わたしたちが神様を知っていることよりも、神様によって「知られている」ことを強調します。
なぜなら、それこそが信仰だからです。信仰とは、わたしたちが神様を知る営みではありません。わたしたちが神様を知るまえに、神様がわたしたちをすでに知っておられる。わたしたちが神様を選ぶまえに、神様がすでにわたしたちを選んでくださっている。わたしたちが神様を愛するまえに、神様がすでにわたしたちを愛してくださっている。そのことに日々気づかされることです。
神様から、「きみのこと知ってるよ」と声をかけられているという「奥義」に、驚きと安心を味わう日常こそが、「信仰」です。
「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた」とエレミヤが預言したように(1:5a)、どうあがいたところで、わたしたちが神様を知ることなどできませんが、神様は、わたしを知っていてくださるのです。そのことに、あなたたちも気づくことができる、いや、そのことを「ぜひ知って欲しい」、パウロはそうわたしたちに語りかけるのです。
■神に愛されている
その意味で、 32節の「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです」という言葉は大切です。神様は「すべての人を憐れんでくださる」お方だと言います。キリストを十字架につけて殺し、今もローマの信徒たちを差別し、時に迫害するユダヤの人々も、そんなユダヤ人たちを拒み続ける頑ななローマの信徒たちも、そして罪深く、欠け多いこのわたしたちも、そればかりか信仰とは程遠いところを生きているように思われる人々さえも、決して神様に見捨てられることなく、神様の憐れみを受けている。すべての人が、神様の憐れみの中に、神様の愛の中にある、と言います。
パウロがわたしたちに語りかけていることは、すべての人が必ず神様からあわれみ、愛を受ける、そのことをはっきりと知るところに、奥義が、神様の秘められた御心、秘められた計画があるのだ、ということです。
神様の真実は、神様の愛は、イスラエルのどんな不実よりも大きく、わたしたちのどんな頑なさや不従順よりも大きいのです。ですから、わたしたちがこの世で経験し、目の前にしていることはすべて、つまずきにみちた偶然や不運などではなく、神様の御心、ご計画です。低い者が高くされるのが神様の憐れみの業であるとともに、高い者が低くされることも神様の憐れみの業にほかなりません。今、泣いている者が笑うようになり、今、笑っている者が泣くようになることもまた、神様の愛ゆえなのです。
どんな不従順や頑なさにおいても、神様の栄光が、その慈しみの勝利が輝いています。神様の知恵とその知識の富は、なんと深いことでしょう。それに比べて、人間の計画と判断はなんとちっぽけなものでしょうか。
ですから、わたしたちはただ、「わたしはあなたの思いを理解することはできませんが、わたしのすべてをもって、あなたの愛に信頼します。どうかあなたの御旨がなりますように。あなたの御国がもたらされますように」と祈りましょう。そう祈りつつ、喜びと感謝をもって新しい週をご一緒に歩んで参りましょう。
お祈りをいたします。父なる神よ、どのようなときにも、あなたの愛の御計画をひざまずいて受け入れることができますように。まだ受け入れていないあなたの愛を、まだゆるしていない隣人を、ここに思い起こして、妨げるわたしたちの罪をあなたが取り除いてくださることを知ることができますように。あわれみの奥義において、この世のすべての人々がひとつに結ばれ、喜びと感謝を持って、あなたの愛を証しするものとなることができますように。主のみ名によって。アーメン