■支えるもの
聖徒の日、永眠者記念礼拝に与えられたみ言葉は、「ノアの物語」です。 と言いながら、ノア自身がどんな人生を歩んだのか、ここには一言も触れられません。人生の片鱗どころか、ノア自身、一言も口を開きません。6章の始めから、9章29節の終わりまで、ずっと沈黙のままです。
しかしその沈黙ゆえに、わたしたちはまるで自分がノアになって、神のみ言葉の前にこの身を晒しているような気持ちにさせられます。そればかりか、沈黙ゆえに、この物語の本当の主人公が実はノアではなく、神ご自身であること、つまり神が創られたこの世界のすべてのものの主人は、わたしたち人間ではなく、神であるということに気づかされます。
わたしたちは、自分の力で、自分の意思で生きている、と当然のように思っています。日常生活の様々な場面で、人生の選択を迫られる至るところで、誰か他の人の意思によってではなく、自分の意思で物事を判断し、自分の責任として、己が人生を歩んできた、そうしていると思っています。しかし本当のところは、どうなのでしょうか。それは真実でしょうか。
冷静に考えてみれば、誰もがすぐにお気づきになるでしょう。わたしたちの人生には、自分の思い通りにならないことがある、いえ、その方が多いのではないかとさえ思えるほどです。まず何よりも、わたしたちが生まれ、そして死に逝くこと、自分のいのちを、わたしたちは些かなりとも自由にすることなどできません。そしてわたしたちが経験する出来事のすべてを、自分の意志と決断によって予測し、選び取ることなど、できようはずもありません。
人の死や重い病や深刻な苦悩に直面するとき、わたしたちはそのことをはっきりと思い知らされます。ことに愛しあった家族、長年生活を共にしてきた肉身、慈しみ育てた、愛する我が子と別れを告げなければならない悲しみほど、大きな悲しみはありません。年若い子どもが、たったひとりの親を失って勉学が続けられないばかりか、たちまち明日の生活にも困ると嘆く姿は同情に耐えません。また長年労苦を共にしてきた、愛する夫や妻と別れる悲しみは、何ものにも喩えられません。
避けようとして避けることのできない、こうした悲劇が人生にあるのは、なぜなのでしょう。昔の人は「何事も前世の因果だ」と諦めようとしましたが、現代に生きるわたしたちが、そのような考え方で納得できるはずもありません。またある人たちはこのような悲劇について、「それは罪の報いだ。悔い改めよ」と説きますが、愛する者の死と罪の報いとを結びつけることなどとても考えられないことです。果たして、わたしたちのいのちを、わたしたちの人生を支えているものとは、いったい何なのでしょうか。
この根源的な問いに真摯に向かい合わざるをえない時、わたしたちは、わたしたちを超える、わたしたちを根こそぎ支えてくれるもの、つまり神に出会うことになります。なぜなら、わたしのいのち、わたしという存在は、決してわたしの自由にはならない、ただ与えられたと言う他ないものだからです。たとえば、父親と母親の生い立ち、出会いを考えればすぐにおわかりいただけるのではないでしょうか。数えきれぬほどの偶然が積み重なって、二人は出会い、結ばれ、わたしは生を享けました。いのちはまさに奇跡、神のみ業です。だからこそ、わたしたちのいのちと人生は、それがどのようなものであっても、この世の価値や基準とは全く関わりなく、かけがえがないものです。かけがえのないいのちを与えてくださった神が、このいのちを生かしてくださり、いつの日かこのいのちをもう一度、みもとへと召してくださるのです。それがわたしたちの人生です。
そしてそれこそが、わたしたちの信仰です。信仰とは、根源的な不安と恐れの中で、神と出会い、神に信頼することです。それは、人生を歩む時、時計の振り子のように耐え難い悲しみや苦しみに大きく揺らぎながらも、それでもなお、憧れをもって待ち望む、確信をもって待ち望む、希望をもって待ち望むことです。 苦難にあってなお抱く、希望に満ちた信仰です。その信仰に生き生かされた皆様の愛する方々を想い起しつつ、今朝のノアの物語を共に味わいたいと願います。
■しるし
ノアの物語は、地上に人の悪が増し、神が地上に人を造ったことを後悔する言葉から始まっていました。6章13、17節、
「神はノアに言われた。『すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている。彼らのゆえに不法が地に満ちている。見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす。…見よ、わたしは地上に洪水をもたらし、命の霊をもつ、すべて肉なるものを天の下から滅ぼす。地上のすべてのものは息絶える。』」
神ご自身が「心を痛められ」(6:6)るほどの人の罪ゆえに、 すべてのものが滅ぼされてしまう。そんな恐ろしい光景、激しい神の怒りが、今、わたしたちの目前に起こります。
ところが、この厳しく、徹底的な裁きの後に、すべていのちあるものが滅び、死んでしまったその後にもたらされたものは、なんとも驚くべき神のみ言葉でした。8章21節以下です。
「主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。『人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも/寒さも暑さも、夏も冬も/昼も夜も、やむことはない。』」
洪水の後の、冷え冷えとした荒涼たる裁きの大地に降り立ったノアの家族を、危険から守り、安堵させて、さらには、その前途に希望をとの神のみ心が、ここには記されています。これが、審判を下された神のみ声とは、とわが耳を疑います。審判の後に、わたしたちが予測することは、暗い呪いの言葉のはずです。それがなんと、約束と祝福の言葉でした。しかも「人が心に思うことは、幼いときから悪い」ことを百も承知の上での、愛のみ言葉です。
わたしたち人間は、いかにも弱く、脆(もろ)く、頼りない存在です。見えないものを信じるのが信仰であることを分かっていながら、なお、何か目に見えるしるしで支えられる必要がある、弱いわたしたちです。そのわたしたちの弱さ、かたくなさまで慮(おもんばか)ってくださる、それこそが神の神たるゆえんでもあると言うのは、言葉が過ぎるかもしれません。しかし、そんな溢れるほどの、無条件の愛を信ずることこそ、聖書がわたしたちに語る信仰です。
そして、そのしるしこそが「虹のしるし」でした。天空にまだ残る黒雲を背景に、くっきりと浮かび上がる七彩の虹、誰もがご覧になったことのあるはずの光景です。創世記の中でもひときわ美しい場面だと言ってよい、この「虹」は、「今後、二度と世界を審くことはない」という神の約束のしるしでした。
■虹
虹。虹は、太陽を背に、雨雲の方を見るときに見えてきます。
黒雲を背景にして、音もなく架かる虹の妖しさ。少年の頃、何度もその虹を追って行ったことがあります。虹を手に掴んでみたいと本気で願っていました。しかし近づいてきたと見えたその虹は次第に薄れ、ついには消えていきます。自分の手の届かないところにあるもの、そう感じた、忘れられない体験です。
そのとき、雨上がりの空にかかる七色の帯が描くゆるやかな半円は、心の中にやさしい気持ちを生み、あそこには平和があるんだ、そう思えました。何より、それぞれ色が違っていても、決して互いを打ち消し合うようなことがありません。神は、清いものも清くないものも、方舟(はこぶね)の中に入れるようにと命じられました。人の悪を承知の上での祝福でした。まさに和解と平和の虹です。
小学生の時、初めて手にした十二色の絵の具に胸がときめき、高学年になって、二十四色の色鉛筆を並べてみたら、新しい世界が見えるようだった時のことを思い出します。いったいこの世には何種類の色があるのか。『日本の色辞典』という本をひもといてみると、なんと四百六十六色もの色が紹介されています。色彩に関する日本人の感性は驚くほど繊細です。昔の人の色の捉え方、その表現の仕方には息を呑みます。その多くは、花や草や木や鳥などの自然の中から採られます。蓬(よもぎ)色は早春の野辺を思い出し、露草(つゆくさ)色は夏の朝を思い出します。照柿(てるがき)色と聞けば、なつかしい田舎の、秋の風景が目に浮かんできます。その柿もしばらく経てば、熟柿(じゅくし)色。凛とした冬景色に映える南天の実は、唐紅(からくれない)です。 自然の中の色は言葉では捉えきれません。何千何万という色彩が降り注いでいます。それでいて、そこには驚くほどの調和があります。四季の流れとともに移り変わっても、その安らかさが失われることはありません。
そして、その中に生きるわたしたちもまた、移ろい、変わっていきます。様々な色合いを輝き出しながら、変わっていきます。自分は今、何色だろう。自分のいのちは今、何色だろう。そんな思いが心の中に浮かびます。瑞々(みずみず)しさが優しい若葉のような時、風までも焦がす太陽のような時、触れ合う音が寒い落ち葉のような時、流氷の声まで凍(こお)らす青い海のような時…この世にいのち与えられ、いのち生かされて、いつしかいのちを天に召される時がくる。それでもいつも、どんなときにも、あの雨上がりの空のように七色の虹が架かって、安らかさと平安に満たされることを、心から願わずにはおれません。
■大丈夫
いえ、わたしたちが願わずとも、神はもう既に約束してくださっていました。
虹は「もはや、二度と洪水によって地が滅びることはない」というしるし、神の約束として示してくださったものでした。
「さあ、わたしはわたしの契約を立てよう。あなたがたと、そしてあなたがたの後の子孫と。また、あなたがたといっしょにいるすべての生き物と。鳥、家畜、それにあなたがたといっしょにいるすべての野の獣、箱舟から出て来たすべてのもの、地のすべての生き物と。わたしはあなたがたと契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない」(9:15改)。
語るのは神だけです。人であるノアは、祝福と恵みに満ち溢れる言葉を、神のなさる約束を、ただ受け取るがままです。これでもかと言わんばかりの一方的な恵みの約束です。かろうじて生き残ることができ、やっとの思いで生きることが精一杯、荒涼たる大地を前に、すべてを失ってしまったと呆然とし、絶望を抱き始めていたかも知れない、ノア。そのような人をこそ、神は励まし、元気づけ、望みを抱かせてくださるのです。
しかも 、16節「わたしは虹を見るたびに、あの約束を思い出そう」と約束された神は、たとえ、わたしたちがその約束を見失い、さ迷い、どれほどつまずくことがあろうとも、それでもなお、恵みの約束をお守りくださる、とわたしたちに告げられます。
イエスさまが教えてくださったように、帰ってきた放蕩息子の痛々しさを撫(な)で、擦(さす)りながら、自分がそうさせたかのように涙される慈愛の神です。神がわたしたちを救ってくださるということは、上の方から、ひょいとつかみあげるようにして救うのではなく、罪にまみれ、悲しみと苦しみにのたうつ様にして生きるわたしたちを、両手を添えて、どん底から根こそぎすくい上げてくださるようにして救ってくださる、ということです。それこそまさに、天と地とをつなぐ「虹のしるし」です。
多くの信仰の先達たちが、そのような愛の神の姿を、イエス・キリストの姿の中に見出しました。天と地をつなぐ「虹」を、復活の主イエス・キリストの象徴(シンボル)とみなしてきました。 おごそかで、美しく、悲しく、やさしい「虹」は、しばしの間現れて、薄れ、消えゆくものですが、十字架は消えない不滅の愛のしるしでした。わたしたちのために十字架につけられたイエスさまの愛は、復活によって、わたしたちの罪を赦し、救いのいのち、永遠のいのちへとわたしたちを導いてくださるものでした。永遠のいのちとは、わたしたちが死ぬことなく、いつまでもこの世に生きるということではありません。永遠のいのちとは、永遠の神のみ腕の中にわたしたちが抱かれて、生きることを意味します。その永遠のいのちに、わたしたちも、天に召された方々も、共に生きることが赦され、そのいのちを今も生かされ生きています。
わたしたちが確かな人生を生きるうえで、一番大切なことは、この虹に示された「神の約束を信じること」です。神がなされた「約束」、それは「どんなことがあっても大丈夫」ということ、まさに希望への確信です。
どんな時でも大丈夫。この信仰が「苦しみ」を少しずつ和らげてくれるでしょう。天に召された方を想い起こすことは、慰めであり、時には痛みを伴います。なぜ、どうして、と思わざるを得ないこともしばしばでしょう。人は、死や別離といった苦しみ、悲しみによって自分の限界を知らされます。しかしその限界を知っているからこそ、人は優しくなれるのです。 「こんな自分はもういやだ、こんな人生に疲れてしまった」とつぶやくとき、「大丈夫、あなたはどんな時だって大丈夫」という神の約束を、虹の約束を思い出しましょう。虹のかかる空を見上げましょう。天と地をつなぐ虹の約束を、天に召された方々と共に心に刻みたい、心からそう願う次第です。