福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

【教会員・一般の方共通】

TEL.093-951-7199

11月22日 ≪降誕前第5主日礼拝/収穫感謝日・謝恩日≫ 『つまずかない人は幸い』マタイによる福音書11章2~6節 沖村裕史 牧師

11月22日 ≪降誕前第5主日礼拝/収穫感謝日・謝恩日≫ 『つまずかない人は幸い』マタイによる福音書11章2~6節 沖村裕史 牧師

■来るべき方
 ヨハネがガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスによって捕えられ、牢獄につながれたと伝えられて(4:12)以降、彼について触れられることは一度もありませんでした。その洗礼者ヨハネが、ここに再び登場します。
ヨハネは今、死海の東岸にあったマルケス要塞に囚われたままです。その牢獄を訪ねることのできる弟子がいたのでしょう。ヨハネは、その弟子たちを使いとし、イエスさまにある問いを投げかけます。問い糺(ただ)したいことは、ただひとつ。
 「来るべき方は、あなたでしょうか」
 ヨハネが救い主キリストについて語った言葉が3章11節に記されています。
 「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない」
 「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる」の「来る」と、今朝の「来るべき」とが同じ言葉です。この「来るべき方」という言い方は、当時、ユダヤの人々が心から待ち望んでいた「救い主」のもう一つの呼称、呼び名でした。
 その「救いをもたらすために来られる方」のための道備えとして、人々に神の審きの時が間近に迫っていることを告げ知らせ、悔い改めを求めること、それがヨハネの使命でした。その悔い改めの呼びかけに応え、「エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来」たとあります(3:5)。ユダヤ全土がヨハネの声に揺れ動きました。神の審きの宣言が人々の良心を撃ちました。3章8節から12節、
 「悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」
 「わたしの後から来る方」、「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」
 この言葉は単なる絵空事ではない。そう多くの人々が受けとめ、洗礼を受けにやって来ました。「人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」(3:5-6)とあります。そこに、イエスさまもヨハネから洗礼を受けるためにやって来られます。
 しかしヨハネは、それを思いとどまらせようとします。
 「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」(3:14)
 ヨハネは、イエスさまこそ「わたしの後に来る方」、「来るべき方」、神の審きを携えて来られる方だ、そう告白したのです。
 そのヨハネが、今、あなたが「来るべき方」と信じてよいのですね、とイエスさまに問いかけます。なぜでしょう。疑いをもったのでしょうか。イエスさまという方を信じていたのなら、改めて問う必要などなかったはずです。

■試練の中で
 ヨハネは分からなくなっていました。だからこそ、はっきりとした確証を得たい、そう願い、問いかけたのでした。
 ヨハネが、自分の「後に来る方」が自分の担って来た使命をどう引き継いでくださっているのか、そのことに大きな関心を寄せるのは至極当然のことです。ヨハネは、イエスさまこそ神の審判者、イエスによって救いのための神の審きがもたらされると信じ、期待していました。ところが、イエスさまの行動はその期待とはいささか異なるものでした。山上の説教の後の、たくさんの癒しの出来事に示されるイエスさまの姿は、表面的に見る限り、とても罪を厳しく裁く審判者の姿には見えません。ヨハネは疑念と不信を覚えざるをえませんでした。
 そして何よりも、洗礼者ヨハネは、今も、投獄されています。
 厳しい試練の中にあって、大きな力に捕らえられて、身動きもできないでいる人は、自分の無力を知らずにはおれません。自分の無力に直面するとき、人は問わずにおれなくなります。この道は、確かな道なのか。信じ続けてよいのか、と。
 ヨハネは捕らえられ、自由を奪われ、いつ殺されるかわかりません。イザヤの預言に、救い主が来られるとき、「つながれている人には解放を告知させる」(61:1)とあります。しかしヨハネは今も、つながれたままです。だからこそ、ヨハネは問わずにおれません。「イエスよ、来るべき方はあなたなのですね」と。これは、わたしたちの姿でもあります。わたしたちの目に見る現実は、そのすべてを裏切っているように思えます。救い主の姿が見えないのです。
 しかし、まさにそこでヨハネは、あなただけがわたしたちの真実の救いだと信じていてよいのですね、とイエスさまご自身に問いかけています。他の誰に尋ねるのでもありません。ヨハネは、イエスさまに尋ねます。
 それはイエスさまを信頼しているからです。他の誰かが、あのイエスの救いは確かだと保証してくれて安心するのではありません。誰かのイエスについての知ったかぶりの言葉に、自分の心が左右されるのでもありません。今こそ、自分が耳を傾けて聞きたいのは、イエスさまご自身の言葉です。これほど確かなものはありません。
 あなたが与えてくださる救いだけで十分だと考えてよいのですね、そう尋ねます。尋ねずにはおれなくなる試練が、かつてもあったし、ついこの間もあったし、そして今もあるのです。

■福音が告げ知らされる
 この問いを前にして、イエスさまは、ご自身がしておられることをお示しになります。神の真理は、学者が深い思索を繰り返して、ようやくたどり着くような抽象的なものではありません。具体的で、現実的なものです。ここで生きて働いているものです。だから、わたしを見なさいと言われます。4節、
 「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい」
 あなたたちが見たこと聞いたことを、そのまま伝えればよい、と言われます。5節、
 「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」
 事実を告げる言葉です。また、イザヤ書35章5節から6節と共鳴する言葉だとも言われます。
 「そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる」
 そしてこれは、すぐ前の4節から続く言葉です。
 「神は来て、あなたたちを救われる」
 そう、見えない人の目が開かれ、聞こえない人の耳が聞こえるようになるということは、神ご自身が今ここに来ておられる、ということのしるしです。神の代理人でも、神の使いでもない、神ご自身がもうすでに来ておられる、ということです。
 神ご自身が今ここに来ておられることを示すご自身の癒しの業を、イエスさまは、こう締めくくられます。
 「貧しい人は福音を告げ知らされている」
 説明でもなければ、説得でもありません。この福音の出来事によって、イエスさまは、ヨハネに、わたしたちに語りかけられるのです。
 あなたの弟子たちが、わたしのところで見聞きしたことを、しっかりと聞いてください。ここに喜びの言葉が、福音が告げ知らされています。解放のみ業が始まっているのです。神の救いは、わたしと深く結びついています。だからこそ、目や足の不自由な人、重い皮膚病の人、耳の聞こえない人、そして死という人々の悩みの中に、わたしは踏み込み、わたしは共に歩き、わたしは共に悲しんでいます、と。
 事実、イエスさまはこの後も、十字架の死に至るまで、悩み、苦しむ人々と共に歩み続けられました。とすれば、イエスさまはさらに、こう言われているのかもしれません。
 ヨハネ、あなたは牢獄につながれ、死ぬことになるでしょう。しかし、福音の言葉は告げ知らされています。あなたも、わたしも殺されるでしょう。しかし、あなたが、わたしが罪の呪いの中で殺されていく、そこに福音が始まっています。解放が始まるのです、と。

■つまずき
 そう告げられたイエスさまは最後に、ひとつの言葉を付け加えられます。6節、
 「わたしにつまずかない人は幸いである」
 「わたしにつまずかない人」というこの言葉は、「つまずく人」がいることを前提としています。つまずく。誤解する。いえ、誤解だけではありません。つまずいて、倒れてしまう。そのような危うさを、今ここに見ておられます。
 「つまずかせる」と訳されているギリシア語は、英語のスキャンダルの語源となった言葉です。つまり、わたしはスキャンダルであり、このスキャンダルにつまずかない人はいないだろう、とイエスさまは言われるのです。
 およそ、宗教には、心地良いもの、そこへ行って何か自分がとても幸福になるようなことが期待されるわけですが、そういう期待からすると、自分のしていることは、自分の語る言葉は、多くの人々を呼び集めるよりも、むしろ散らすことになるだろう、そう言われます。
 では、そのスキャンダルとはどのようなものなのでしょうか。何が人々をつまずかせるのでしょうか。
 具体的に言えば、自分の思い描く「来るべき方」の姿からどこかはみ出してしまう、現実のイエスさまの姿に、ヨハネがとまどったということです。イエスさまの姿は、目や足や耳の不自由な人、重い皮膚病の人、あるいは死者や貧しい人など、当時の人が罪人として不快に思う人々のすぐ傍らに、つまり罪のただ中におられる姿でした。その姿は、人を心地良くさせるよりは、不快にさせるものです。その不快にさせるような罪の中に、イエスさまが自分の身を置いておられること、それこそが、スキャンダル、つまずきでした。
 今、ヨハネがつまずいたのは、自らの弱さ、自らの無力さの中で、イエスさまの意味を問いながら、しかし、イエスさまご自身の低さを理解しなかったことにあります。その低さに、つまずいたのだ、ということです。
 イエスさまはあまりにも低いのです。「貧しい人々は福音を聞かされている」と告げられるイエスさまは、真実に貧しくなっておられました。あんなに貧しくて、あんなに孤独で、本物の救い主と言えるのだろうか。ただの人間ではないのか。いろいろなことをなさったと言うけれど、結局は、罪人と共に歩み続けるだけの、やはり罪人なのではないのか。そのようにしてイエスさまは、ただの人間よりも、もっとひどい仕方で殺されることになります。十字架のつまずきです。
 そのつまずきは、罪は、わたしたちのものでもあります。イエスさまについて、いつのまにか自分勝手な救いの姿、救い主の姿を思い描いて、イエスさまがその通りにしてくださらないと、その通りのような方ではないと文句を言い、苛立ちます。そして、わたしたちは教会につまずいた、信仰につまずいた、と訴えるのです。つまずいている自分の罪が問われるよりも、つまずかせるほうが悪いのだと思っています。自分の不信仰を正当化します。そのようなつまずきの罪から自由な人は、誰ひとりいないでしょう。

■幸いなるかな
 だからこそ、イエスさまは、あなたたちが見て、聞いたことを、そのままに語りなさい、と言われるのです。その姿を歪めず、その姿をいたずらに飾るなと言われるのです。それは、つまずかないで欲しいと願っておられるからです。
 「わたしにつまずかない人は幸いである」というこの6節は、その意味で、ただわたしたちの罪を糾弾し、わたしたちを退ける言葉ではありません。そうではなくて、これは、わたしたちへの招きの言葉、祝福の言葉です。
 ここに細い道がある。狭い門がある。しかし、ここに真実の救いがある。そこに入ってほしいと招き続けていてくださるのです。ほら、あそこに石がある、ここに石がある。そこにつまずくな。あなたの罪、あなたたちの罪という石につまずくな。わたしのしていることを真っ直ぐに見なさい、わたしの語った言葉をすなおに聞きなさい。
 「貧しい人々は福音を聞かされている」と言われたイエスさまは、その福音を聞くことができる貧しさを、ヨハネに、ヨハネの弟子たちに、そしてこのわたしたちに求めておられるのです。富んでいる人は、かえって自分の富にまかせた救いの思いを抱き、その救いの思いの通りに動く神を求めます。しかし、神の前に真実に貧しくなる者は、何も書き加えることもなく、何も割り引くこともなく、イエスさま、あなたが、あなただけが、あなたこそが、救いそのものです、それで十分なのです、と告白することができます。まさにパウロの言うように、わたしにとって主の恵みは十分なのです。何も足す必要はありません。減らす必要もありません。主の恵みは今ここに、もうすでにもたらされているのです。感謝です。