■そこにいない
教会信徒研修会以降、聖餐式を行ってきた毎月第一主日に、『聖餐』を主題に説教を守っています。今日は、その第四回目、ヨハネによる福音書6章のみ言葉に耳を傾けます。
その冒頭、「その翌日、湖の向こう岸に残っていた群衆は…」と始まります。
群衆とは、6章1節以下、イエスさまがパンと魚を分け与えてくださった五千人もの人々のことです。たまたま食べるものを持っていなかったというのではありません。人々が持っていたのは、わずかに五つのパンと二匹の魚だけでした。その日の糧にさえ困る、飢えと渇きに苦しむ、貧しい人々の群れでした。
その群衆が取り残されました。すべての人がお腹いっぱいになってもなお、余りあるほどのパンを与えられたその恵みの場所に、弟子たちの姿も、イエスさまの姿も見えません。23節はその場所を、「主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所」と丁寧に説明します。群衆が途方に暮れて岸辺に立っていたその場所に、数艘の小舟が辿り着きます。取り残された「群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た」とあります。
「イエスも弟子たちもそこにいない」と、22節、24節に繰り返されます。
わたしたちの願いや思いを遥かに越える大きな恵みが与えられているはずなのに、そのことに気付かず、その意味にも気付かず、苦しみと飢えの中にひとり置かれ、イエスさまは一体どこにいかれたのか、神様は一体どこにおられるのかと、ただ狼狽(うろた)え、惑(まど)うばかりの彼らの姿が、わたしたちと重なります。
前島誠という人の『金魚』と題された一文があります。
「…八月十五日玉音放送、内容はよく理解できない。ただ空が、抜けるように青かったのが目の奥に焼き付いている。すぐ横にいた五百木(いおき)先生がすすり泣きを始めたので、負けたのだと思う。…
戦後の食糧難はさらに深刻の度を増す。芋でもあればまだいい方で、とうもろこしの粉だんごや、進駐軍放出の豆粕(牛の固形飼料)が食事の主役を占めるようになる。戦時中、外食券食堂に何時間も並んだり、配給の玄米を一升びんに詰め、棒で突いて脱穀した頃が懐しい。それより何より毎日が空腹だった。
ある日のこと、隣家の女の子がわが家の防火用水に手を突っ込んでいる。表に出てみると、口に赤いものをくわえている。それがピクピクと動いた。(金魚だ)と気づくまで時間がかかる。そして少女は走り去った。母にそのことを告げると、『だれにも言うんじゃないよ』と、厳しく言われたのが印象に残っている。…」
戦中から戦後の生活の困窮を振り返りつつ前島は、こう締めくくります。
「『パン』のことをLḢM(レヘム)という。ヘブライ語聖書はこの語を食物の代表として頻繁に使用した。ちなみに地名のベト・レヘムは”パンの家”、食物の豊かな土地の意だ。…
『主はあなたを苦しめ、飢えさせ、マナを食べさせた……人はパンだけで生きるのではなく、すべて主の口から出ることばによって生きることを悟らせるためである。』(申命記8章3〔節〕)
… パンだけでは生きられないのが人間だ。しかしパンがなくても生きられない。飢え死にしそうな者にとっては、何よりもパンを得ることが先決なのだ。引用句はこの切り口を前提にした上での指針と見てよい。
『盗んだ水は甘く、隠れて食べるパンはうまい。』(箴言9章17〔節〕)
だれもが飢えていた―戦争の記憶はその一言に尽きる。ただ自分が飢えていたおかげで、飢えている他人のつらさが感じ取れるようになった。芋があると楽しみにとっておき、友と半分ずつにして食べた。今ではその体験に感謝している。
さてこの句は、わたしの中で金魚をくわえた少女の姿と重なってくる。盗みを見咎められて当惑した少女の幼なさ、今やっと食べ物にありつけた安らぎの表情、その二つが奇妙に混ざり合っていた。気がつくと、なぜか共鳴する自分がそこにいた。
こうして不在の神は、あの赤い〈金魚〉の中にある。」(〔〕は沖村)
厳しい飢えの中にあった群集は、今、小舟に乗ってカファルナウムの町に行き、湖の岸辺に立っておられたイエスさまを見つけます。
■主の感謝
大切なのは、先ほどの「主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所」という表現です。
「主が感謝の祈りを唱えられた」。
この福音書が書かれた頃、今わたしたちが聖餐の中で使う「主の感謝」という言葉がすでに、主の晩餐の食卓を表す言葉として用いられていました。当時の礼拝は、礼拝堂ではなく個人の家で行われる家庭集会のようなもので、「家の教会」と呼ばれます。その礼拝で、何よりも大切にされたのは、集まった人々が皆で、共にパンを食べ、葡萄酒の杯を廻すことでした。そこには、最後の晩餐と呼ばれる「主の晩餐」での経験が再現されています。
35節に「決して飢えることがなく、決して渇くことがない」とあります。それは単なる言葉ではなく、現実のことでした。このときも、イエスさまが分け与えられたのは、パンであり、魚でした。後の教会では、実際に聖餐式に魚が用いられたようですが、そこでは、イエスさまが最後の晩餐でされたように、すべての人が―裏切り者のユダも他の11人の使徒も、富める者も貧しい者も、ギリシア人もユダヤ人も、自由人も奴隷も―すべての人が、パンとぶどう酒を共に飲み食いすることが大切にされました。そのことを、ウィリアム・ウィリモンは、『日曜日の晩餐』の第四章にこう書いています。
「…聖書は語ります、注意深く、もっと深い思いやりをもって関わってくださるお方がおられた、と。わたしの狭い境界や区別や判断がほとんど無意味なものとなるお方がおられた、と。売春婦や徴税人、男や女、異邦人やユダヤ人―彼〔イエス〕は、誰とでも一緒に食事をしました。
… カール・バルトはこう言います。
『自分のことを、偉大で、強く、豊かで、そして親密な神の子どもだ、と見做しているクリスチャンたち、徴税人や罪人たちの食卓に彼らの主キリストと共に座ることを拒むクリスチャンたち、彼らはクリスチャンなどではありません。』
…ジョン・ウェスレーは〔も〕、聖なる霊的な交わり〔聖餐〕は聖徒たちのための自己満足の食事ではなく、むしろ罪人たちのための人生〔いのち〕を〔新しいものへと〕変える食事であると考えていました。 主の晩餐は、ウェスレーの言うように、救われた者たちのための『聖別された儀式』というだけでなく、救済への途上にある者たちのための『回心の儀式』でした。結局のところウェスレーは、イエスと一緒に食事をしたのは誰なのか、そのことを論じたのです。罪人たちです。罪人たちの中には、売春婦たちがいました。教会の指導者たちもいました。… 彼らすべてが罪人だったのです。それで、イエスは彼らのすべてを晩餐に招かれたのでした。」
すべての者を愛し、すべての者を招き、すべての者に必要なものを与えてくださる神への感謝、それが主の感謝の祈りだったのでしょう。だからこそ主の晩餐では、必ず、感謝の祈りが捧げられました。それは、ここでイエスさまが感謝してくださった祈りを、「今ここにも」という思いを持って、想い起こすためでした。イエスさまが、いつも共にいてくださって、感謝をしてくださり、わたしたちに、今も「命の糧」を与えてくださっている、そのことを想い起すためでした。
■激しい問い
主の晩餐は、当時の人々の目には奇異なものとして映っていたようです。あの人たちは人間の血と肉を食っている、兄弟姉妹が互いに愛し合うようにと近親相姦を勧めているといった、思いもよらぬ誤解を受け、いわゆる公序良俗への違反を口実に(実際には皇帝を崇拝しないために)、ローマ帝国から厳しい迫害と弾圧を受けました。ピディニア州の総督をしていた小プリニウスと称される人の書簡に、その様子が記されています。それだけではありません。ユダヤ人でクリスチャンになった多くの人が、その信仰ゆえにユダヤ人共同体から追い出され、排除されました。時には数千人規模で互いに殺し合うということさえありました。
ローマ帝国だけでなく、ユダヤ人からも激しい迫害を受けながら、なぜ、命を賭けてまでイエスをキリストと信じ、礼拝をするのか。そして、なぜ、そのような聖餐を祝うのか。イエスさまを主と呼び、その主がこのような食卓を作ってくださったのだと語るヨハネであればこそ、彼は、ここに記される、最初の聖餐の出来事をめぐる対話を、後の人々に、わたしたちにはっきりと伝えようとします。
この厳しい時代状況を知るとき、25節の「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」という問いの中に、どこまでも追いかけてきた人々の、すがるような姿が見えてきます。なぜ、わたしたちの願いを聞き届け、飢えと渇きから救い出してはくださらないのですか。イエスさまをなじるかのようです。期待があればこその、必死の言葉です。今こそと思ったときに、なぜ、あそこにいてくださらなかったのですか。激しい問いです。
この「いつ、ここにおいでになったのですか」という言葉は、「いつ、ここにお生まれになったのですか」と訳すこともできる言葉です。御子イエス誕生の意味を、何者なのかを問う。クリスマスに問われてしかるべき言葉です。
■命のパン
イエスさまはこうお答えになります。26節、
「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」
人々が「パン」の意味を誤解していることは明らかです。しかし、それは、肉の糧など取るに足りないことだということではありません。イエスさまは決して、肉としてのパンを軽んじられません。モーセのようにやむを得ずではなく、イエスさまはご自分の方から群衆の様子に気づかれ、パンと魚とをお与えになっています。イエスさまは、人間が霞を食べて生きていけるとは思ってなどおられません。食事は大切なものです。 そのことをよくよく承知の上で、イエスさまは「天から与えられる命の糧」の大切さを、33節「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」と教えておられるのです。
問題は、「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではない」ということです。
「しるし」というのは、目に見えるものです。しかし、その目に見えるはずのしるしがあっても、見えない人がいるということです。しるしが見えるということは、目に見えている出来事を見て、その奥にあり、それが指し示している、目には見えない「神のみわざ」を見抜く、ということです。
続けて言われます。35節から36節、
「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。」
モーセが天からのパンをあなたがたに与えたわけではない。神が与えてくださったのではないか。あのマナは、一日食べたら、後の日の分は取っておけないものだったではないか。毎日を、一日一日を神によって養われること、その「しるし」だったのではなかったか。
わたしたちはそのことを忘れてしまいがちです。
わたしがここで言っているパンとは、このわたしのこと。わたしを食べ、わたしを飲みなさい。あなたたちは「わたしという命の糧」を生きているのだから。
そう教え、呼びかけられるのです。
どうか、永遠の命、わたしの命を分かち合ってほしい。どうか、そのために信仰を持って、わたしの与えるパンとぶどうの杯を折あるごとに受けてほしい。あなたたちの肉はこの糧のためだけに生きているはずはない。どうか、父なる神のまなざしで見えてくる、父なる神が与えてくださる、このわたしが先頭に立って生きて、見せている、永遠の命に生きてほしい、そう教えられるのです。
■ご自身を与えられる神
今、イエスさまは、わたしたちにご自身を差し出してくださっているのです。それこそが聖餐だ、と語るウィリモンの言葉によって、この説教を閉じさせていただきます。
「裏切られ、死に渡されたその夜、イエスはパンを取り、しばしばそうしてきたように、それを祝福して、裂き、そして弟子たちにお与えになりました。主がそれを祝福されたのです。神からのすべての贈り物と人間がつくったものの中の最も基本的なもののひとつである、パンが祝福されたのです。
パンになる前には、種がありました。いくつもの丘陵にまたがって蒔かれた何千という、種がありました。土地が耕されました。雨が水を与えました。土は肥料を与えられ、耕され、世話された、そうして小麦は十分に成長しました。その後、収穫され、集められ、小麦粉に挽かれました。小麦粉は、ショートニング、塩、イースト、ミルクと一緒に混ぜられました。こね粉、そして生地になりました。さらに生地はこねられ、膨れるようにローフの中でかたどられました。そして焼かれました。
これらすべてのもの―土、農民、種蒔く人、製粉業者、パン屋、地上のもの、肉なるもの、商業的なもの、作られたもの、日常生活の世俗的なもの―このすべてのものが、祝福されたのです。キリストは、これらすべてのものこそ、ご自身を与えられる神の愛そのものである、と語られました。これらすべてのものが、聖礼典〔サクラメント〕になったのです。
…神は、それらすべてのものの中に、それらと共に働く人々の中に、それらに預かった人々の中に、わたしたちの中におられるのです。あのパンは、主の晩餐の一部として祝福され、あの主の食卓の上で終わったのかもしれません。たとえ、そうであっても、イエスはそれを祝福されたのです。「これはあなたがたのための…わたしの体です」と主は言われたのです(Iコリ11:24)。そう、あなたたちのため、です。
主はパンを取り、それを祝福されました。 そのことによって、わたしたちは今、祝福されているのです。」