■闇と沈黙
ルカが描くのは、夜のクリスマスです。
闇の中にあった人のところに、突然、天のみ使いが現れ、驚くべき出来事が告げられます。それは説明でも説得でもなく、神様からのただ一方的な恵みの知らせでした。わが身に宿るいのちによって恵みに満たされたマリアは、「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」と賛美しました。また沈黙の内に悔い改めへと導かれたザカリアは、誕生したばかりのヨハネを前に、「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを/知らせるからである」と語りかけました。
闇の中にいた人々に、突然、光が射したかのようです。
ところが、待ち望んでいた御子イエスの誕生のとき、そこには、ヨハネが生まれたときのようなにぎやかさも、母マリアの溢れるほどの賛美の歌もありませんでした。7節までの言葉は、ただひっそりと、実に淡々と、マリアとヨセフの姿だけを描きます。
クリスマスが、闇の中に沈み、沈黙に支配されてしまったかのようです。
その夜、地上はすべて眠っていました。羊飼いだけが起きていました。天からの光に気づく人は、彼らの外にだれもいません。ベツレヘムという小さな村の、家畜小屋の飼い葉桶の中に赤ん坊が生れても、羊飼いたちが来るまで、だれも何が起ったのか知りませんでした。
だれひとり、そのことに気がつきませんでした。
ただ、神だけが働いておられました。
神は、長い、長い忍耐の後、今ここに救い主をお遣わしになりました。救い主が来られたのに、なぜ、世界はこんなに静かだったのでしょうか。なぜ、そのことにだれも気がつかなかったのでしょうか。飼い葉桶の中に生まれた赤ん坊が、まことの救い主であったればこそ、誰も気づかなかった、誰にも知られなかったのだ、と言うほかありません。
■恐れ
神は、まことの救い主の誕生を告げ知らせるために、ただひとり、野にいる羊飼いを選ばれます。羊飼いたちに「主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた」、「恐れに恐れた」とあります。
羊飼いたちが神との出会いを求めていたというのではありません。当時のごく普通のユダヤ人たちと同じように、神を信じてはいたでしょう。とはいえ、特に信仰深かったというのではありません。彼らが安息日ごとに礼拝を大切に守っていたとも思えません。安息日にも羊の群れの世話をしなければなりません。そういう忙しさの中で、神のことを深く考えることも求めることもなく、日々を過ごしていたことでしょう。
そんな人たちが、ある日突然、神によって選ばれ、語りかけられたのです。それは、驚きであり、戸惑いであり、はっきり言って、はた迷惑な話でした。自分や家族が生きていくだけで精一杯で、他のことにかまけている余裕などないのに、そんな自分の生活の中に神が介入して来られるのです。放っておいてくれればいいのに…。無視できない仕方で、こう語りかけられるのです。
「恐れるな」
生きておられる神の御前に立つことは、身震いするほど恐ろしいことです。神がそう言ってくださらなければ、わたしたちにはどうすることもできません。彼らはそんな「恐れ」に囚われました。
■喜び
そんな羊飼いたちに、神は「恐れるな」と声をかけ、続けて、恐れに勝る「大きな喜び」を告げてくださいました。
「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」
その喜びとは、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」ということです。救い主誕生の知らせです。
しかし、それだけで、すぐに大きな喜びになるでしょうか。ならないでしょう。「世界の救い主が生まれましたよ」という知らせだけなら、「ああそうですか、よかったですね」という他人事(ひとごと)にしかならないからです。多くの日本人にとってのクリスマスが、救い主がお生まれになった日だと言われても、そんなことは自分には何の関係もない、ただ楽しくケーキを食べ、プレゼントを交換する毎年の行事に過ぎないのと同じです。
ところが、この知らせに、羊飼いたちはすぐに応えます。
「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」
意外な反応です。神の語りかけを聞いたとき、彼らは恐れたとあります。当然のことです。預言者でもなく、学者でもなく、王でもない、一介の汗臭い、土臭い羊飼いに、そんなことが起こるなど思いもしないことです。しかも彼らは、夜通し羊の番をしている最中です。羊を放って置くわけには行きません。世の父親が家族に言うように、「仕事中だから」と断るところです。そもそもが、「救い主を拝みに行きなさい」と命じられているわけでもありません。それなのに、彼らは「さあ、ベツレヘムへ行こう」と急いで出発します。神は、ただ「救い主がお生まれになった」と言い、その生まれた救い主の「しるし」を教えただけです。それなのに「さあ、ベツレヘムへ行こう」です。
なぜなのでしょう。
神は今、これは「あなたがたのため」の救いの出来事だ、と語りかけられます。世界人類のためとか、特別な苦しみや困難の中にいるだれかのためというのではなく、ただ「あなたのため」に、神は救い主を遣わされた、そう言われるのです。神は、「あなた」という二人称で語りかけ、その「あなた」に救いの恵みを与えようとしておられるのです。
羊飼いたちは、この神の言葉を、外のだれでもない、このわたしに向けられた「大きな喜び」の言葉として受けとめたに違いありません。
■しるし
しかしそれ以上に大切だったのは、天使の告げた救い主の「しるし」です。
「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」
この神の言葉が、彼らを「さあ、ベツレヘムへ行こう」と突き動かしたのではなかったでしょうか。
わたしたちは、この言葉をさほど注意もせずに読み過ごしてしまかもしれません。しかしこれは、とても大切な言葉です。この言葉をさっと読みとばす時、わたしたちはきっと、「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子、それが救い主のしるしだ。そのしるしを頼りに、救い主を見つけることができる」という意味だと考え、この「しるし」は、救い主である乳飲み子を見分けるためのしるし、そう読んでしまうのではないでしょうか。
でも、よく読めば分かります、天使は「乳飲み子がしるしである」とは言っていません。「これがあなたがたへのしるしである」の、「これ」が指しているのは、「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう」という言葉全体を指しています。
つまり、あなたがたが飼い葉桶の中に乳飲み子を見つける、そのことが、あなたがたへのしるしである、そう言っているのです。この「しるし」は、救い主である赤ん坊を他の赤ん坊と区別して見分けるために与えられているものではなく、「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つける」こと、それ自体のことを指しています。
神の救いの恵みが他ならぬこのわたしにも与えられていると彼らが確信するために、この「しるし」が与えられているのです。
であればこそ、羊飼いたちは「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と語り合い、ベツレヘムへと急いで出発したのでした。
■いのち
では、飼い葉桶の乳飲み子を見つけることが神の救いの恵みであるとは、一体どういうこと、どういう意味なのでしょうか。
冒頭1節に出てくる、圧倒的な権力と軍事力によって平和と秩序をもたらし、王として君臨し、崇められたアウグストゥスではなく、ごくわずかの人たちに見守られながら、ひっそりと、沈黙の中で生まれてきた、無力で、弱々しいその姿の中にこそ、まことの救い主の真実が、神の愛が示されているのだということでしょうか。
もちろんその通りです。その通りなのですが、ここで羊飼いたちが突き動かされたのは、この「飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるだろう」という言葉の中に、この自分にも与えられている「いのち」そのものを見出したからではないでしょうか。神が与えてくださった「いのち」の輝き、そのかけがえのなさをこそ、まことの救いとして受け止め、そのいのちがこの自分にも与えられていることを感じ取ったのではないでしょうか。
飼い葉桶は、汚いもの、臭いものです。その桶の中に、布に、おむつにくるまっているだけの、裸の赤ん坊が寝ているのです。生まれたばかりの赤ん坊を腕に抱いたことがある方は、その時のことを思い出してみてください。寝ている赤ん坊をじっと見つめるとき、そこに、人間的な一切の虚飾を脱ぎ捨てた、かけがえのないいのちを思われないでしょうか。人間的な意味でいえば、何もない。何もないけど、輝くばかりの、はちきれんばかりのいのちを感じられないでしょうか。
■まことの救い
そんなかけがえのないいのちに生かされている、それこそが、まことの救いがもたらされているということです。それこそが、神の救いの恵みです。
わたしたちは、そんないのちを生かされ生きているのに、日々の暮らしの中で、そのことを忘れています。日々の暮らしの中で、幸福や富、名誉や地位、業績や評価などを追い回し、怒りや妬み、不安や恐れに囚われているうちに忘れてしまいます。忘れているそのいのちを、わたしたちは、この飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子イエスに見出すことができます。何もかも脱ぎ捨てた、いのちの輝きが、確かにそこにあります。
羊飼いたちも、そのいのちを忘れていたのでしょう。つらくて単調な毎日とはいえ、羊を飼うことに追われていた彼らは、生きていることを当然のこととし、病気や不幸や事故などにあわない限り、すべて問題がないかのように思っていました。
その羊飼いたちが、神の告げた救い主の「しるし」によって、自分が忘れているもの―自分にも与えられているいのち、そのいのちゆえに無条件に与えられるまことの救い―に気づかされ、また大きな喜びをもって神の愛と恵みを思い出したのでしょう。裸の御子イエスに、このいのちを気づかされた羊飼いたちは、拝みに行けと言われなくても、急いで行かざるを得ませんでした。
クリスマスの出来事は、日頃、暮らしに埋没して忘れている、神の領域に属するいのちに、そこに示されるまことの救いに、気づかせてくださる神のみ業でした。それに目覚めて生きるところに、人間としての本来の姿があり、悔い改めて生きる姿があり、生かされ生きることの喜びがあることを教え示す、神のみ業でした。
■思い巡らしつつ
こうして、羊飼いたちは「マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当て」ました。そして、「その光景を見て、…この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせ」ました。
そのときのこと、「聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った」と記されています。「不思議に思った」とは「驚いた」ということです。飼い葉桶に寝かされている乳飲み子を見るという、今、彼らが共に体験していることが、あなたがたのための救い主の誕生のしるしである、と天使が告げたことを聞いた人々は驚き、そのしるしをどう受け止めたらよいのかと戸惑っています。
その姿は、今この礼拝に集い、御子を証しする言葉を聞いている、このわたしたちの姿なのかも知れません。羊飼いのように、このことを大きな喜びとして受け止め、神を賛美する人もおられるけれども、それがすぐには喜びや賛美にならず、ただ驚き、戸惑っているだけの人もおられるかもしれません。
その中で、母マリアの姿が印象深く描かれます。
「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」
マリアはこの日、死ぬほどの思いをし、また自らのいのちの危険を冒してまで、御子を産んだのです。御子の誕生という出来事を、誰よりも身近に、まさに自分のこととして受け止めていたのが、マリアでした。そのマリアがこの出来事を体験し、そして羊飼いたちの語る天使の言葉を聞いて、それら全てを心に納め、思い巡らします。その姿は、2章の終わりにも出てきます。マリアは、自分が産んだ子である御子イエスを、その御子イエスによって神が行ってくださる救いのみ業を、またそこで与えられたいのちの言葉を思い巡らしつつ歩んだのでしょう。
御子イエスは、その救いのみ業のためにこそ、この世にやって来られました。わたしたちもまた、御子イエスによる救いの恵みが、今、自分に与えられていることを心に納め、思い巡らしつつ、このクリスマスから始まる新しい年を共に手を携えて歩んでいきたい、心からそう願う次第です。