■驚き
イエスさまの噂を聞いた多くの人々が、そのもとに集まっていました。22節から23節、
「そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。群衆は皆驚いて…」
悪霊に取りつかれて、目も見えず、口も利けない人がイエスさまのところに連れて来られました。 その悪霊を、イエスさまが追い出し、その人を苦しみから解放してくださいました。
その出来事を目撃した「群衆は皆驚いて」とあります。「驚いて」。ギリシア語のエクステーミは、ただ驚くというのではなく、「困惑する」「肝をつぶす」ほどに驚くという意味です。本来は「あるべき場所から外れる」といったニュアンスを持っていて、そこから「正気を失う」「気が変になる」とも訳されます。群衆のすべてに、この出来事が「正気を失う」ほどの大きな衝撃を持って受け止められたことが分かります。
この後、小見出しにある「ベルゼブル論争」がいよいよ始まるのですが、同じ出来事を記すマルコは、この論争に先立って、イエスさまの家族が「気が変になっている」と言って、イエスさまを取り押さえ、力ずくに、縛ってでも家へつれて帰ろうとしていた、と記しています。
「気が変になっている」とは、先ほどの「驚いて」と同じ言葉です。「自分のあるべき場所から外れてしまう」「自分たちの常識の外に出てしまう」ということです。この世界では、「常識」に従わず、その外側に立ち続けてしまう人間は、愚かで、役に立たない、危険な人間と見なされます。誰もが一度は「世間体を考えなさい。そんなことをして、恥ずかしい」と叱られたことがあるように、そんな人間が家族の中にいることは、身内の恥、不名誉なことでした。
イエスさまもそんなひとりでした。罪人と呼ばれる人たちとばかり一緒におられました。罪に穢れるから関わってはいけない、触れてもいけないと言われていた人たちと一緒にいて、食事までし、安息日の規定までないがしろにし、罪を赦す権威まで自分にはある、とまで言われていました。
一体、何をやっているのか。自分の手に余る、不可解な存在。家に帰ろうともしない。もはや黙っているわけにはいきません。家族が問題を起こしたとき、わたしたちは、その人のことを理解しようとするよりもまず、家族の監視の下に置いて、言うことを聞かそうとします。家族としての絆を回復して、内に迎え入れるというのではありません。監視下に置くことによって、家の中に一緒にいながら、その関係を断ち切り、絆の外へ追い出そうとします。このとき、家族がイエスさまを自分たちの手の中に引き戻そうとしたのも、イエスさまのためでもなく、家族の愛ゆえでもなく、ただ自分たちの監理下に置いて、自分たちの恥を隠すためでした。
もし、わたしたちが、家にいても、教会にいても、寛(くつろ)ぎ、心穏やかにいることができず、また、どんなことがあっても共にあろうとすることができないとすれば、それは、わたしたちの罪のためです。家族を、教会の兄弟姉妹を真実に、まっすぐに愛することができない罪のためです。人を、自分を、結びあわせてくださった神を、神の愛を信じることができないためです。そのために、あるがままにいることができず、自分を守ろうと固くなります。そうしなければ、とても生きてなどいけない、そんな頑なさに囚われます。それが罪です。わたしたちは罪深く、人を追い出し、傷つけ、損なう、そんな存在です。
それでもなお、神は生きておられ、限りない愛をもって、わたしたちのいのちに触れ、神のみ腕の内にわたしたちを抱いてくださいます。そんな神の国が今ここに来ている。イエスさまのみ言葉とみ業は、そのことを宣言し、示すものでした。それなのに、その愛の神を信ずることができないために、憩(いこ)いを奪われ、くつろぐことを忘れ、暗闇の中に身と心を固くして、家族の、隣人の外に生きてしまう。外に人を追いやってしまう。それがわたしたちの罪、そしてファリサイ派の人たちの罪でした。
■戦いの渦中
彼らは言います。24節、
「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」
善悪にかかわる論争というよりも、あからさまな誹謗中傷、排除の言葉です。ここで問題とされているのは、安息日に関わる律法を守っているかどうかの問題ではなく、イエスさまの驚くべきみ業の力がどこから来るのか、どのようなものなのかということです。ファリサイ派の人たちは、それを悪霊の頭の力によるものであり、その業は罪の赦しでも、救いでもありえない、そう断じます。
彼らは、イエスさまが悪霊を追い出されたその出来事を見ても、「正気を失う」ほどに驚くことなどありません。悪霊に苦しんでいる人たちの苦しみも、イエスさまのみ業によって立ち現れている救いの現実も、ただ傍観者のように眺めるばかりで、我が事と考えません。 ただ、悪い評判を立てて、イエスさまが常識の外にいることを示し、律法という世界の外に、十字架へと、イエスさまを追いやろうとするばかりです。
ファリサイ派の人たちに、罪と、悪霊と闘おうとする真剣さなど微塵もありません。ベルゼブルを持ち出してきたのも、悪霊など、もっと強い悪をもってくれば片付くだろう、という発想によるものです。いわば、親分の権威を笠に着て、下っ端の連中を退治しよう、ということです。それこそが、彼らの世界観、彼らの常識でした。悪には悪をもって報いる、力にはより大きな力をもって対抗するにしかず、という常識です。
そんな彼らにイエスさまはこう言われます。25節から27節、
「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。…わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる」
「内輪で争えば、成り立って行かない」というこの言葉は、この世界に満ち満ちる、憎しみの連鎖、暴力の連鎖と言われる悪のリアリティを肌で感じ、知っている人の言葉です。そのイエスさまが、皮肉を込めて反論されます。「わたしがしていることが、サタンの中での内輪もめだというのなら、あなたたちの仲間で、悪霊を追い出している者たちはどうなるのか。それも悪霊の親玉の仕業だと言うとすれば、彼らはきっと激怒するだろうね」と。
イエスさまによる悪霊追放だけを、悪霊の頭ベルゼブルの力によるとすることには無理がある。イエスさまはそう反論されるのですが、しかしこの言葉は、それだけにとどまるものではありません。もっと大切な事実を、ファリサイ派の人たちに突き付けます。それは、「悪霊は、あなたの内にも働いている」「今ここで、悪霊との激しい戦いが行われている」ということです。
悪霊、サタンとは、神に敵対し、神の救いからわたしたちを引き離そうとする様々な力、罪の力です。それと気づかぬうちに、一人ひとりに取りついて支配する、そのような力が悪霊と呼ばれます。今、その神とサタンの戦いの戦場の中にあり、イエスさまが悪霊の支配からわたしたちを救い出そうと、いわば、わたしたちを巡(めぐ)って戦ってくださっているのです。
その戦場において、わたしたちが傍観者でいることはできません。悪霊は、少しでも隙あらば、わたしたちを虜(とりこ)にし、支配下に置こうと狙っています。いえ、すでに悪霊がわたしたちを支配しています。わたしは、悪の力、悪霊の支配とは何の関係もない、そう断言できる人がいるでしょうか。自分の心の内の闇を、密かに蠢(うごめ)き唆(そそのか)す暗い思いのあることを、誰が否定できるでしょうか。
悪霊はいるとかいないとか、それをどう理解するかなどと暢気(のんき)に考えたり議論したりする間に、悪霊はわたしたちを捕え、支配しようとします。イエスさまは、その悪霊と戦い、わたしたちから悪霊を追い出そうとしてくださっているのです。その戦いにあって傍観者でいることはできません。中立を守る、などということはできません。渦中(かちゅう)にあるのは、わたしたち自身です。
■神の国
このことを踏まえた上で、28節から29節をご覧ください。
「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。また、まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ」
イエスさまはご自分を押し入り強盗に譬えられます。ユーモラスで、皮肉たっぷりな、侵入者の譬えです。あなたたちが言う悪霊の頭がまさに人を支配している。すでに侵入して支配しているその悪の力、罪の力を追い払うために、わたしは今ここに来たのだ。それこそ、神の支配という侵入、まさに神の国の実現なのだ。そう言われるのです。
目の前に、悪の力に翻弄されて苦しんでいるたくさんの人たちがいました。人々のそんな苦しみを皮膚で感じないファリサイ派の人たちと違って、イエスさまは生きている現実の場で、悪と闘っておられるのです。それは、悪の世界の上下関係で解決できるような生(なま)易(やさ)しいものではなく、天から与えられる聖霊の力を振り絞って闘わなければなりません。悪の力は実に手強(てごわ)く、 ひとりの人間が悪霊から解放されるためには、激しい闘いが必要です。
その戦いの場所で、「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と言われます。サタンとの決定的な戦いはすでにイエスさまによって戦われ、イエスさまの勝利に終っている。神の国はサタンの国にすでに勝利しており、わたしたちは、サタンの支配から神の支配の下へと移されている、と言われるのです。
そう、イエスさまがもたらされる神の国は、わたしたちにこの地上を、神にいのち与えられ、神に罪赦されて生きる者として、生きることができるようにしてくださる、大きな恵み、まさに福音そのものです。わたしたちもまた、この福音に応えなければなりません。「神の国はあなたたちのところに来ている」という言葉を、「神の国はあなたがたの手の届くところまで来ている」と訳した人がいます。絶妙な訳です。手の届くところにあるというのですから、放っておくわけにはいきません。「手の届くところにあっても、手を出さない人には関係がない」ということになります。
30節の「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている」とは、そのことです。わたしの味方をしてくれ、わたしと共に集めてくれ、わたしと一緒に働いてほしい。そうイエスさまは招いておられるのです。手を出してほしいと言われるのです。神の霊の働くところ、神の国で、一緒に働こうと声をかけてくださるのです。
とはいえ、わたしたちは、あの放蕩息子と同じように、時には放蕩に道を踏み外し、欲望に身を持ち崩してしまうか、また時には放蕩息子の兄のように冷たく言われた通りのことだけをして、憤(いきどお)ったままにそこに留まり続けるか、そのいずれかであることがしばしばです。知らぬ間に、気づかぬままに欲望のとりこになっていたり、愛されるために人を支配し縛り付けようとしたり、怒りに満ちた裁きと復讐の心に囚われていたり…道に迷ってしまいます。それでも、何とかして神の家に向かって歩き始めようとするのですが、その道のりの遠さに、思わず心が挫(くじ)けてしまいそうになります。
しかしそのようなときにこそ、今朝のみ言葉をもってイエスさまはわたしたちの心の中に入り込んで来てくださいます。イエス・キリストの十字架において、わたしたち「人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦される」と宣言してくださいます。そのように、今日からの一週間も、わたしたちと共に歩んでくださり、わたしたちに道々話しかけてきてくださるのです。そして、注意をして目を開け、耳を済ませさえすれば、途中だったはずなのに、実は、もうすでに神の国にいることが、神の霊が今ここに働いていることが分かるでしょう。
イギリスに留学していた教会の青年が、世界三大巡礼の一つに挙げられるサンチャゴ巡礼路に出かけ、修養会の時に、その巡礼の体験を語ってくれたことがあります。フランスのヴェズレーから、スペインとの国境にあるピレネー山脈を越えて、大西洋を臨むサンチャゴ・デ・コンポステーラに至る、千五百キロにも及ぶ巡礼路です。苦難の道を何か月もかけて歩き続けます。「なんでこんな苦しい思いをしなければならないのか」「結局無駄なんじゃないか」とつぶやく自問自答の日々だった、と言います。そしてようやく、目的地、サンチャゴ大聖堂の五キロほど手まえにある「モンテ・デル・ゴソ(歓喜の丘)」と呼ばれる高台に辿り着きます。そこから遠くに大聖堂の尖塔を目にした巡礼者たちが、「やった!着いたぞ!」と歓喜にあふれ、歓声をあげて丘を駆け降りることから、この名が付いたと言います。ここまで来れば、もう着いたも同然。本当に心からの喜びに包まれたと語ってくれました。
このなんとも味わい深い状態こそ、神の国の福音そのものです。完全な意味では神の国はまだ完成していないけれども、イエス・キリストにおいて、もうすでにここに来ている。この福音を信じて、苦難の中でなおも感謝と希望を持って生きることができるからです。確かに、歓喜の丘は目的地ではありません。それでも、丘の上で大聖堂を見た巡礼者たちが、まだ着いていないのに「着いたぞ!」と歓声を上げるとき、丘はもはや目的地の一部です。もちろん、さらに五キロの道を行かなければなりませんが、その道のりは、もはやそれまでの道とはまったく違います。すぐ目の前の約束の地へ感謝と希望を持って歩む、喜びの道となるからです。
わたしたちも、もうすでに神の国に招かれ、そこに立っています。主が、今ここに一緒にいてくださいます。この幸いを心に刻んで、新しい週もみなさんとご一緒に歩んで参りましょう。