ある一人の女性の体験です。
こどもが宿りました。ずっと待ち望んでいました。男の子かな?女の子かな?夏に生まれる予定だから『夏』を名前に付けようかな。そんなことを考えながら、毎日お腹の赤ちゃんに話しかけ、生まれてくるのを楽しみにしていました。妊娠五カ月。しばらくぶりの検診に行くと、先生から「大変です。もう一人いますよ」と言われても、すぐには意味がわからず、「双子ちゃんです」と言われ、やっと理解しました。彼女は双子がほしいと思っていたので、とても嬉しく、夫と一緒に喜びました。
しばらくして急にお腹が痛くなり、病院にかけこみました。すると「破水しています。もう生まれます!」突然のことで、驚いている暇もなくそのまま緊急入院。そして、出産。生まれた赤ちゃんは九百㌘の小さな女の子が二人でした。『春菜』『夏凛』と命名。集中治療室に入っているわが子。小さな手で、彼女の指をかすかに握ってくれる温もりが、愛しくてたまりませんでした。小さく生まれたので、当然不安もありましたが、「この子たちは大丈夫」と自分に言い聞かせていました。
生まれて二週間、夏凛の容態が悪化。夜中付き添いながら、懸命に生きようとしている夏凛を、ふたりは見守り続けました。午前四時。先生と看護師が慌しくなります。その後、俯きながらこちらに近づいてくる先生を見た瞬間、それだと察し、涙が溢れました。夏凛は二週間で天に召されました。彼女はただ呆然として涙をこぼすしかありませんでした。数時間後、もうひとりの春菜の容態も悪化し、そのまま息をひきとりました。
彼女は涙が枯れるまで泣きました。寂しくて。悔しくて。悲しくて。かわいそうで…。自分を責めました。自分の体を恨みました。自分も死のうと思いました。その悲しみと苦しみを、わめくように夫にぶつけました。「せっかくできた子どもなのに。どうして?」「ふたりを連れて散歩に行きたかった。」「もっと声を聞きたかった。」「2週間しか生きられないなんて…」「この娘たちは何のために生まれてきたの?」彼も涙をこぼしながら、ただ無言で聴いていました。彼女は冷たくなった二人を抱きしめ、「ごめんね。ごめんね。丈夫に生んであげられなくて、ごめんね」と何度も繰り返し言いました。
何日か経ったある日、彼が重い口を開きました。「聞いたんだ、『人の命にはすべてに意味がある』って。人は意味があって生まれ、そして死を迎えるんだ。『ママと出会えてよかった。ありがとう、ママ』って、きっと二人は言ってるよ。二人を産んでくれてありがとうな」。夫の胸に顔をうずめると、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちました。
それから彼女は、二人の分まで生きよう、天国の二人が喜んでくれるような人生にしよう、幸せを感じて生きようと決めました。生きることは、生かされること。それは奇跡だと知りました。愚痴も不平も不満も喧嘩も…そんなことさえ、本当に幸せなことだと思えるようになりました。当たり前なんてない、彼女は二人が生きたいと願ったはずの「今」を生きている、そう思えるようになりました。
わたしのいのちは与えられたもの、そのいのちをわたしは生かされ生きている、それは奇跡だ、そう思うことのできる人は幸いです。
ただ、そう信じることのできる人がいつも喜びに満たされているわけではありません。ふと、信じてはいるけれど…と思ってしまうこともあるかもしれません。信じてはいても、つらいことや悲しいこと、辛いこと、報われないことに出会う時、つい、不平不満が出てきてしまいます、「あんなことさえなかったなら」と。そればかりか、「あいつさえいなかったなら」と穏やかでない言葉が次から次へ口をついてあふれ出します。それも我慢すればするほど、そんな暗い思いが心の奥深くに積み重なって、時には病気になってしまうことさえあります。
誰かの愛を信じて、いつも感謝して生きていくことは、決して簡単なことではありません。
だからこそ、そんな時にこそ、御子イエスの誕生を思い出したい、待ち望みたい、そう願います。
旅先の不安の中で誕生したイエスさま。寝る場所さえ与えられず、馬小屋でお生まれになったイエスさま。そして生まれたあとすぐ、嫉妬にかられた王に命をねらわれ、逃げなければならなかったイエスさま。それは、明るく、楽しい誕生日のエピソードというのではありません。
けれども、その中にこそ、本当の喜びが隠されています。みすぼらしく、汚い家畜小屋の飼い葉桶の中にこそ、まことの救い主が寝かされているように、です。
「砂漠が美しいのは、どこかに井戸をかくしているからだよ」
サンロテグジュペリの『星の王子さま』の言葉です。悲しみや苦しみの中に隠されたほんとうの喜び、それこそが人生を美しくします。
涙の蔭の優しい微笑み、それこそが人生を豊かにします。
感謝できない日もあるでしょう、心から笑えない時もあります。それでも、あの飼い葉桶に寝かされたかけがえのない小さないのち、御子イエスを思い出す時、わたしたちは、悲しみや苦しみ、不平や不満の真っただ中に隠されている喜びを見いだすことができるはずです。そして心から「すべては感謝です!」と叫ぶことができるでしょう。
わたしたちの目の前で転げて泣き出すこどもがいれば、わたしたちの誰もがすぐに抱き上げてあやすでしょう。親であればなおさらです。自分のいのちを削ってでもこどもを助けようとします。
それと同じように、いえそれ以上の愛をもって、どのようなことがあっても、わたしたちにいのちを与えてくださった神様がわたしたちを救ってくださいます。すべての面倒を見てくださっています。わたしたちの人生というものが、そんなふうに神様のみ手の上に、神様のみ腕の中にあるという喜びを、わたしたちは決して忘れてはなりません。
そして、わたしたちが本来、一人では生きていけない、いえ、一人で生きていこうとしてはいけないと考えることができたなら、人生はどれほど楽に、また豊かなものになることでしょう。
家畜の匂いに包まれた飼い葉桶の中に眠る小さな赤ん坊の姿に、今もわたしたちを生かしてくださる、神様の愛が現れていることを見出すことのできる人は、幸いです。クリスマスの日に、新しい年の始まりの日に、皆さんが、その隠されている喜びを、そして本当の愛を見つけることができれば、と心から願わずにはおれません。
お祈りします。主なる神よ、飼い葉桶の御子キリストは、弱く、小さく、取るに足らないわたしたちのために与えられた救いのしるしです。どうか、どんな時にも、あなたの愛である御子が共にいてくださることを信じ、新しい年も希望と平安の内に歩ませてくださいますように。主の御名によって。アーメン