■ベッドの上で
牧師として初めて招かれた教会に、一人の年老いたご婦人がおられました。とてもやさしく穏やかな方で、いつも「神様に感謝」が口癖の人でした。
そんな彼女の弟が突然、病気で倒れ、体の左半分が動かなくなりました。手も足も動きません。それから半年、医者も驚くほどの回復を遂げ、杖を使って歩けるようになり、左手でものを掴むことができるようにもなりました。
そんなある日、彼が再び倒れました。いのちはとりとめたものの、二つの眼以外、全く動かなくなりました。口から食べることもできません。もちろん話すこともできません。
年老いた彼女は涙を流して呟きました、
「なぜ、神様はこんなことをなさるの?」
誰にも答えられませんでした。わたしは三日に一度のペースで、彼のもとを訪ねました。訪ねたわたしに目を向けることもせず、ただ天井をじっと見つめる彼の目は、こう言っているようでした、
「ついこの前まで、幸せで、元気でいたのに、病気でこんな体になってしまった。闇の中に突き落とされたようなこの痛み、この絶望、あなたにわかりますか」。
わたしは辛くなり、ただ黙って手を握り祈るほかありませんでした。「それでも神はあなたを愛しておられる」という聖書の言葉を、絞り出すように祈りました。しかし祈っているそのときにも、「愛の神なら、どうして、わたしをこんな目に遭わせるのか」と、噛み付かれそうな気配を感じていました。体からいのちの輝きが日々消えていく彼と、これからどのように向き合っていけばよいのかと悩みながらも、それでも、傍に座り、聖書を読み、讃美歌を歌い続ける日が続きました。
寝たきりになってふた月が過ぎたある日、その悩み、苦しみがすべて消し去られました。
花の日・子どもの日の礼拝の後、子どもたちと一緒に彼を訪ね、病室にお花を飾り、こども讃美歌を歌っていたときのことです。突然、彼の目から涙がこぼれ、そして溢れました。
涙が止まりません。悲しいからではありません。
彼は泣きながらも、確かに微笑んでいました。
それ以降、彼の姿は輝き始めました。体は確実に弱っていきましたが、険しさはすっかり消え、どんなに元気な人でも放つことができないだろう、何とも言えない柔らかな光を、その体から発し始めていました。彼は、幸せだ、輝いている、とは一言も言いません。
でも、わたしの目には、日々輝き、幸せにさえ見えました。それは、神様に触れられた人が醸し出す輝きだ、そう思えました。彼は何もできない、無力な自分が神様に抱かれ、導かれ、愛されていることに、苦しみと絶望の、そのベッドの上で気付かされたのでしょう。
そして彼の放つ光は、わたしたちが見失っているものを、はっきりと目に見えるように照らし出してくれているようでした。
三ヶ月後、彼は同じベッドの上で洗礼を受けました。
そのまま、回復に向かい、少しずつ元気になって行きましたと言えたら、どんなに良かったでしょう。半年後、実に穏やかな姿で、笑みをたたえて、天に召されました。
葬儀の時、老婦人は言われました、
「神様、感謝します。」
■愛の光
本当に輝いている人、それは元気に働く人でも、何かに打ち込んでいる人でも、肩書きがある人でも、有能な人でもありません。
それは、愛されている人です。
月が太陽の光を反射するように、誰かから愛されている人は、必ず、光り輝きます。愛されていることに気づき、愛されていることを知った人は、自然と輝きを放ち始めます。親から愛されている子どもは少々いたずら好きでも、明るく周囲を照らします。愛を知らない子どもはどんなにまじめな良い子に見えても、やりきれないほどにどこか暗いものです。
彼もかつては、元気に働いていました。その人が全く動けずに寝たきりになりました。そこには、肩書きも有能さも通用しない、輝きとは無縁とも思える、死を待つだけの闇の世界があるだけ、彼自身はもとよりのこと、誰の眼にもそう思われました。
しかし彼は輝きました。子どもたちの幼い歌声と祈りを耳にし、美しい花を目にしたとき、見失っていたものにハタと気づかされたかのように、神様から愛されていることを知り、その愛の光を反射して、周りの人々に見せるようになりました。
今、御子イエスは、あなたの中の光は消えていないか、と問われます。自分が愛されていることを、見失っていないか、忘れていないか、しっかり思い出しなさい、と言われます。
あなたが、どのようにしてこの世に生まれてきたのか、思い出しなさい。他の誰でもない、神様に望まれて生まれてきたことを、そして、与えられたいのちゆえに、これまでも、今も、そしてこれからも神様に愛されていることを、思い出しなさい。そう、言われます。
その愛を覚えていれば、その愛を思い出すことができさえすれば、どんなときでも、わたしたちの全身は光り輝きます。そんな馬鹿な、こんなわたしが輝くはずなどないと思っている、あなたが輝きだします。なぜなら、わたしが輝くのではなく、神様の愛の光が注がれ、それを照り返しているだけだからです。心の闇を取り払い、神様の愛の光に我が身を委ねるとき、あなたは自然と輝きます。
その光は、クリスマスの季節の街のネオンのような、自分に注目を浴びるための輝きではなく、小さなキャンドルの灯火のように、そっと隣人を照らす輝きです。知らないうちに、人々は、あなたの輝きにほんとうの慰めを見出すようになる、そう言ってくださるのです。
お祈りをいたします。主なる神。あなたの御子イエスの愛を見させてください。それがなければ、立つこともできず、勇気を持つこともできず、人を、自分さえ愛することができなくなります。闇の中に輝き出た、あの小さな灯だけを見つめ続け、振り返って仰ぐことができますように。その光に照らされて、希望をもって歩ませてください。主のみ名によって。アーメン