■千切れほどの愛
今日は、二つの言葉に注目して、お話しをしたいと思います。
ひとつは、13節の言葉です。
「イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去った」
誰でも病気になります。それはごく当たり前なことです。ところが、当時のユダヤでは、その病ゆえに、地域社会から、家族からも見捨てられ、つまはじきにされて失望し、苦しんでいるたくさんの人たちがいました。特に、治る見込みのない重い病は、その人の罪ゆえ、罪の穢れゆえだと信じられ、病人に触れることさえ禁じられています。その戒めを守らず、病人に触れた人は、その人自身もまた罪穢れると信じられていました。
しかし、イエスさまは、はっきりと言われました、「よろしい。清くなれ」。直訳すれば、「わたしの心です。きよくなれ」です。「わたしの心」とは「わたしが願うこと」ということでしょう。上から目線で「まあ、いいだろう」と言われたのではなく、「わたしは心から願っています」、そう言われて、重い皮膚病に苦しむ人を癒されました。
このことから気づかされる第一のことは、イエスさまの憐れみ、神様の愛です。
ここには記されていませんが、イエスさまが癒しのみ業をなさるときには決まって、「深い憐れみ」によってそうされたと記されています。同じ出来事を記すマルコによる福音書には、「深く憐れんで」とはっきりと書かれています。イエスさまが手を触れられたのは、この病人を憐れんでくださったからです。当時の人々が避けて通った病人のところを、イエスさまは避けることなく、むしろ深く憐れんで、手を差し伸べられました。深く憐れむという言葉は、腸(はらわた)の痛むほどの思いで憐れむという意味です。聖書では、腸とはわたしたち人間の生、いのちそのものを意味します。イエスさまは、全身を重い皮膚病に覆われて苦しむこの人を見て、心の奥底から、ご自身のいのちのこととして憐れみを抱き、その人のことを愛されたのだということです。
続く「イエスが手を差し伸べてその人に触れ」とは、腫れ物に触るようにして触れ、同情を示されたというのではありません。この人とひとつとなる、この人のいのちそのものに触れるということです。迷子になった自分の子どもが見つかったとき、わたしたちの誰もが、わが子がどんなに汚れていても、ぎゅっと抱きしめることでしょう。そうせずにはおれません。イエスさまが手を差し伸べて触れられるとはまさに、ぎゅっと抱きしめる、そんな感じに違いありません。
そして何よりも、手を差し伸べて触れるということは、イエスさまもその人たちと同じように罪穢れた者と見なされ、除け者にされるということです。どこか高みから、口先だけで「清くなりなさい」と言われたのではありません。この人たちを罪の苦しみから解き放ち、罪から自由にするために、その罪と重荷、痛みと苦しみを自ら背負ってくださったのだということです。
いのちに触れるということはまさに、わたしたちの罪を、痛みも苦しみをも、すべて引き受けてくださったということです。それほどまでに、イエスさまは愛してくださるのです。
■信仰に先立つもの
この癒しは、イエスさまを信じて、癒しを求めた重い皮膚病の人自身の信仰によって引き起こされたのだと説明されることがあります。続くもうひとつの出来事も、中風の人をイエスさまの所に連れてきた友人たちのその信仰ゆえに、中風の人は救われたのだと言われます。
信仰がなければ救われなかったのか、確かにそうとも言えます。がしかし、もっと大切なことがあります。それは、この人たちの信仰に先立ってイエスさまが憐れんでくださっている、神様が愛してくださっていることです。
信仰とは、わたしたちの知識や努力の結果ではありません。信仰、それさえも神様からの賜物です。決まりや道徳を守り、法律や常識に従って、人から非難されることのない、いわゆる「立派な人間」として「清く正しい」生活を送ることが、信仰に生きることではありません。仮にそうだとすれば、わたしたちは、律法学者やファリサイ派の人々が、病気の人たちを罪人として謂われのない苦しみに陥れたのと同じように、誰かを罪に定めて裁き、その罪を理由にその人の存在を、いのちを無視し、傷つけるという罪を平気で犯すことになるでしょう。そうではなく、わたしたちの信仰、努力、何者であるのかに「先立って」、イエスさまが、神様がわたしたちを「愛していてくださっている」のです。全ての人が無条件に、あるがままに、存在そのものが愛されていることに気づかされて、わたしたちが、驚くべきその愛への感謝と信頼をもって生きる者となること、それが信じて生きるということでしょう。
■罪赦される
その信仰を見て、イエスさまは宣言されます。
「人よ、あなたの罪は赦された」
この印象的な言葉を聞いて、皆さんはどう思われたでしょうか。
中風の人を連れて来た四人の男たちは、イエスさまのところにさえ連れて行けば、もう後は必ずどうにかなるという、絶対の信頼をもってイエスさまのもとに来ました。その信仰を見て、イエスさまはそうして連れて来られた人に、「あなたの罪は許された」と宣言されたのです。「もう大丈夫。神様が愛してくださるから、何の心配もない。今までどのように生きて来たとしても、神様はあなたを赦し、あなたを癒し、あなたを生かしてくださる」。イエスさまはそう宣言されるのです。
律法学者たちはびっくりして文句を言います。
「神おひとりのほかに、だれが許しを与えることができるだろうか」
しかし、期せずしてこの律法学者の言葉が、イエスさまが神の御子であることを証しします。まさしくイエスさまは神の御子、神様そのものです。神様は、わたしたちを裁くだけの恐ろしい方ではありません。腸を千切れるほどにわたしたちを愛してくださる方であることを、イエスさまはわたしたちに示してくださったのです。わたしたちは、すべての罪赦されて、もうすでに神様の愛の中に招き入れられています。そのことに気づきさえすれば、こんな自分なんか…、もうどうしようもない…、もうどうにでもなれ…、そんな頑なで、窮屈な生き方から自由になることができるはずです。わたしたちは愛されているのですから、どんなにころんでも、時に情けない泣き言を言いながらでも、イエスさまの愛だけに縋(すが)って生きていくことができます。
時に人は、自分の過去がどうのこうのと、後ろ向きになります。もちろん反省はしなくてはいけませんが、いつまでも引きずっていると前向きになることができません。この驚くべき福音は、わたしたちを前に向かせてくれます。そして赦しが、救いが今ここに現実のものとなっていることを示し、「だから、大丈夫」とわたしたちを励ましてくれます。
お祈りします。主よ、あなたは驚くほどの愛を注いでくださっています。そのことを確信し、平安の内を歩むことができます。その恵みを受けとめ、主のみ名を讃美します。これからも、あなたに導かれて、わたしたちがあなたの愛へすべてをお委ねすることができますように。主の御名によって。アーメン