福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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★5月1日 ≪土曜礼拝―SATURDAY WORSHIP≫ 『勇気を出して!』ヨハネによる福音書16章25~33節 沖村裕史 牧師

★5月1日 ≪土曜礼拝―SATURDAY WORSHIP≫ 『勇気を出して!』ヨハネによる福音書16章25~33節 沖村裕史 牧師

■裂け目の中から

 「勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と語りかけてくださるイエスさまのこの言葉に、わたしたちは驚く外ありません。

 このとき、イエスさまは何処で何をしておられたのか。

 穏やかな満ち足りた日々、静かな部屋で、親しく弟子たちといつものように晩餐を楽しんでおられた、というのではありません。「父よ、御心なら、この(苦しみの)杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」。そう祈りながら、すぐそこに迫り来る十字架への道をまっすぐに歩んでおられました。イエスさまが望まれた道ではありません。しかし、耐え難いほどの苦難と恥辱の中にあってなお、ご自身のためにではなく、弟子たちを愛し、励まし、導くために、イエスさまは今、「勇気を出しなさい」と語りかけられるのです。

 絶望の中からの呼びかけです。イエスさまの言葉が、わたしたちの胸に力強い福音の響きを持って迫ってきます。福音は、人と神との間に横たわる厳然たる隔たり、裂け目の中から生まれてくるものです。その裂け目に、わたしたちが橋を架けることはできません。福音は、その隔たりを越えようとするわたしたちの努力とは何の関係もなく、ただ神の一方的な恵みとして、わたしたちがもう駄目だと絶望する外ないようなその隔たり、裂け目の中から、わたしたちに届けられるのです。「勇気を出しなさい」と。

 

■十字架の上で

 いざとなったときに、寄り添うべき人に寄り添うことのできない、わたしたちです。語るべきことを語ることのできない、わたしたちです。自分を守りたい一心で、この世になびき信念を取り下げてしまう、わたしたちです。迷子のように道を見失い途方にくれる、わたしたちです。わたしたちは、弟子たちと同じように、実は、足を洗ってくださるイエスさまのことを理解することのできない、不甲斐ないものです。

 しかし、イエスさまはそんなわたしたちに語りかけられます。

 「勇気を出しなさい」

 自分の罪を、自分の弱さを自分で担う勇気、強さを持ちなさい、と言っておられるのではありません。31節以下、

 「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている」

 イエスさまは、わたしたちのことを十分にご存知です。すべて承知の上で、わたしたちの弱さも、愚かさも、不甲斐なさも、そのすべてを十字架の上で担ってくださったのです。

 

■友愛

 なぜ、そうまでしてくださるのでしょうか。27節にこう書かれています。

 「父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである」

 「あなたがたを愛しておられる」「あなたがたがわたしを愛し」と訳されている「愛する」というこの言葉は、「友愛」を示す言葉です。神様と友だちなんて、そんな畏れ多いと思われるでしょうか。しかしイエスさまは、15章で「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」という新しい掟を示されたその後に、わたしの父があなたがたを友として愛しておられる、そして、あなたがたはわたしを友として愛する、と言われました。

 ここには、わたしたちが考えていることよりも遥かに深く、遥かに確かな、神秘としか呼びようがない、父なる神とわたしたちとの関わりが語られています。わたしたちは神と親子であるだけでなく、友人でもある。父と子の関係がただ親子であるというだけでなく、まるで友人のように親しいという思いを抱くとき、成人した息子と初めて酒を酌み交わす父親のように、わが子への新鮮な愛を覚えて喜ぶものです。そのように、イエス・キリストはご自分の父をわたしたちの友であると言ってくださるのです。そのことが、わたしたちの生きる力となります。

■奇跡

 「1949年、昭和24年4月17日復活節の朝、『天よりの大いなる声』は全国にさきがけて広島で最初に売り出された。市民17人の手になるこの手記は、奪うように市民の間に拡がっていった。人々は一本を求めて霊前に供え、死者の冥福を心こめて祈った。本を手にして、初めてわたしは心の平安を得ましたと涙ながらに告白する母もあった。百部二百部と求めて、亡き愛児の記念のために友人や縁者の間に頒つものもある。

 原子爆弾の体験は、本書を得て再び生々しく人々の心に甦ってきた。しかし、これは単なる悲劇の再現としてではない。厳粛なる平和への熱願として、天よりの大いなる声としてである」

 被爆体験を記憶として残すための魁となった「天よりの大いなる声」の改訂版に寄せられた、日本YMCA同盟の末包敏夫の一文です。この後に末包は次のようなエピソードを記している。

 「復活節から数日後のことである。一人の年若い娘が広島駅前で春を売っていた。男と夜の時間を約束して、駅近くの宿屋を示し合わせて先に行って待つことにした。午後の五時ごろである。宿屋はどの部屋もいっぱいで、やむなく奥の部屋で、しばらく部屋が空くのを待つことにした。その部屋はあいにく出版社の借りている部屋で、床の間には新着の本書が堆高く積まれてあった。娘は男を待つ所在なさに、ふとその一冊を取り上げて読み初めた。娘は感電でもしたかのように、ぶるぶる震えながら読み続けた。四年前の恐ろしい体験がまざまざと、たった昨日のように甦って来たのである。あの時以来の己が歩んできた途が、すっと走馬灯のように心の中を突走っていく。お母さまの死―友達の死―破産―家出―。ああ。

 娘は頁を繰るうちに同級生のMさんの手記を見出した。苦難に堪えて再起するこれ等の人々の雄々しい姿が、自分の今日の境涯に比べられて堪えられなくなった。堰切ったように大粒の涙がポタリポタリと読んでいる頁を濡らす。亡き母親の顔が、真面目に生きぬいている同級生の顔が浮かんでくる。娘は立ち上がって、真赤に泣きはらした目を拭いもせず、すたすたと宿を出て行った。

 新しい生活が始まったのである。奇跡は奇跡を生む。」

 ここに記される奇跡は、わたしたち人間の限界、絶望を超えて示される神の恵みです。それこそ福音です。この本に17人の方々の被爆体験が記され、出版されたということが既に奇跡であり、一人の女性が、この本によってまた新しいいのちを生きるようにと招かれたことこそが、まさに奇跡です。

 イエスさまは、確かに呼びかけられたのです。

 「勇気を出しなさい」
 
 それは、わたしたちのどん底で与えられたまことの慰め、まことの希望、復活の福音でした。

 

■愛の福音

 どこにでも苦難があります。「世で」というのは、世の中で、という意味です。「苦難」という言葉のもともとの意味は「圧迫」です。イエスさまは、苦難がなくなることはない、と言われます。世に生きている限り、いえ、あなたがたが世に生きて、信仰をもって神を友としているときに、かえって、これまで知らなかった苦難に遭うことさえある。それはちょうど、イエスさまが「愛そのもの」であったから、地上の生涯をただ苦難の中に生きられたのと同じです。イエスさまも圧迫の中に立たれました。

 苦難は、あなたがたになおある。「しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と言われます。

 苦難がわたしたちにつきまといます。しかしイエスさまは、一人ひとりの、どんなに小さな悩みにも深い同情と憐れみを示してくださり、友として、わたしたちのすべてを知りながら、あなたの父なる神、わたしの父なる神も、あなたの友だ、と告げてくださいました。

 「勇気を出しなさい」とは、自分に負けるな、もっとがんばれ、ということではありません。神は、わたしたちのことを愛してくださっています。この世の価値観や評価とはまったく関係なく、このわたしたちをあるがままに愛してくださいます。これこそ、ただ神から一方的に与えられる恵み、隔たりの中から与えられる愛、福音です。

 そして、既にこの世に勝っているとの確信をも与えてくださいます。神の真理は勝利している。だから、わたしたちも愛に生きることができるのです。真理に生きることができるのです。最も深いところで、いつも希望を持ち、いつも勇気をもって、大きな誇り、大きな喜びに生きることができるのです。これこそ、今日の言葉によって示された、神からの、そしてイエスさまからの大きな賜物、恵みです。

 

お祈りをします。主なる神。あなたがわたしたちを父として、友として愛してくださっていることを感謝します。あなたの愛ゆえに、この世を生きることができます。あなたの勝利ゆえに、どんな苦難にも耐えることができます。あなたの愛と御力が今ここにもたらされていることを感謝します。この感謝と祈り、あなたの御子イエスの御名によってお捧げします。アーメン