■本当ですか?
教会で結婚式をするとき、喜びの中にいる二人に、こんな約束をしてもらいます。
「あなたはいま、この方と結婚することを神の御旨と信じ、今から後、幸せな時も災いに遭う時も、豊かな時も貧しい時も、健康な時も病気の時も、互いに愛し、敬い、仕え、共に生涯を送ることを約束しますか」。
牧師であるわたしが、そう尋ね、それぞれに「はい、そう信じ、約束します」と答えていただきます。
さて、ここで想像してみてください。あなたが「はい、そう信じて約束します」と答えた時、もし、牧師であるわたしが「本当ですか?」と問い返したら、どうなると思われますか。そしてあなたが「本当です!」と答えた後で、さらにもう一度、「本当に本当ですか?」と、わたしが聞き直したらどうなるでしょう。だれも教会で結婚式を挙げようとは思わなくなるかもしれません。いえ逆に、だからこそと思うカップルもおられるかも知れません。
こんなことを聞いたことがあります。
「わたしは、結婚式の時に、本当に牧師からそう聞かれてしまいました。わたしのことをよくご存じの方でしたからでしょうね。思わず『本当です』と答えましたが、妻は今も、そのことを口にします。でもその時、さらに重ねて問われていたらどう答えたでしょうね…」。
幸いにも、笑い話ですみました。
■悲しくなった
しかし、今ここで、それと似たようなことが起こっています。
イエスさまがペトロに向かって三度、「あなたはわたしを愛しているか」とお尋ねになり、そのたびにペトロが「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えます。そして三度目に問われた時、「ペトロは、イエスが三度目も、『わたしを愛しているか』と言われたので、悲しくなった」とあります。
「悲しくなった」。ニュアンスのままに訳せば、「情けなくなった」です。自分の言うことを信じてもらえないのか、ということです。イエスさまに問われ、答えているうちに、ペトロは、かつて自分がイエスさまに言った言葉、自分のとった行動を思い出していたのかもしれません。
イエスさまが十字架につけられる、前の晩のことでした。最後の食事を弟子たちと共にとっていたイエスさまが、ペトロに向かってこう言われました。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」と。すると「ペトロは言った。『主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。』イエスは答えられた。『わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう』」(13:37-38)。
事実、イエスさまの言葉どおりになりました。
「イエスを知らない」と言ったのが三度。
「わたしを愛しているか」と問われたのも三度。
「悲しくなった」というこの言葉の背後には、そのことを思い出していたペトロの、身のすくむような思いが込められているのでしょう。
「ああ、この方は覚えておられる」
イエスさまに「裁かれている」という思い、イエスさまに「試されている」という思いです。だからこそと言うべきか、あるいは、それにもかかわらずと言うべきか、ペトロの三度目の答えは、それまでの答えにはなかった言葉で始まっています。
「主よ、あなたは何もかもご存じです」。
■何もかも知った上で…
わたしたちは、人生の節目、節目に、大切なことを誓い、また約束します。結婚のときもそうですし、クリスチャンとなるときにも、我が子が生まれるときには、「健やかでさえあれば外には何も望まない」、そう誓います。しかし、その日その時の、真剣な思いとあふれるような誠実さをもってなされた誓いが、約束がいつまでも変わることなく、揺らぐことなく保ち続けられているかといえば、そういうわけにはいきません。 ペトロのように「そんなことなんか絶対ない」と言うとすれば、それこそ愚かなことです。
大切なことは、そういう現実に直面した時に、自分の人生をきちんと見つめることができるかどうかです。結婚の原点に立ち帰って、いのちの誕生の原点に立ち帰って、あるいは信じる者としての原点に立ち帰って、自分自身を見つめることができるかどうか、その一点にかかっています。信仰であれ、家庭であれ、そして人生であれ、その真価が問われ、またその豊かさを発見するのは、むしろ、そうした行き詰まりや挫折に直面した時に、それにどう向き合うのかということにかかっています。
「三度の裏切り」と「三度の問い」。思えば、そういうきわどいところで、わたしたちの信仰も家庭も人生も、鍛えられ、深められ、真実なものになっていくのではないでしょうか。そういったぎりぎりのところで、「主よ、あなたは何もかもご存じです」と心の底から告白し、わたしたちにいのちを与え、わたしたちの弱さも愚かさもすべてを承知の上で、それでもなお、あるがままに愛してくださる神に、すべてをお任せし、そのもとに立ち帰ることこそ、波風立つ人生を、希望と平安の内に歩み続けるための秘訣であると、申し上げてよいでしょう。
イエスさまは、愚かな「羊」であるペトロであることを百も承知の上で、「羊飼い」になりなさいとお命じになります。何もかも知った上だからこそ、です。やってみて初めて分かることがあるものです。自分が「羊」だった時に味わったイエスさまの愛を、及ばずながら、自ら「羊飼い」として働くことによって、ペトロは味わい知ることができました。「子を持って知る親の恩」と言われます。「羊飼い」になってみて、初めて分かる「キリストの心」であり、「父なる神の愛」です。
弱く、愚かで、罪深いわたしたちを選び、招き、用いてくださるのは、他のだれでもない、主です。わたしたちのことをもっともよくご存じの主が、何もかも知った上で、わたしたちを用いてくださるのです。イエスさまのこの招きに、心からの感謝をもって応えていきたい、そう願います。
お祈りします。主なる神よ、どうか、わたしたちが自分の好き勝手に「行きたいところへ行く」のではなく、あなたの愛ゆえに「行きたくないところへも行く」ことができますように。この足らざるしもべを、その足らざるままに、あなたが選び、招き、用いてくださることに、大きな感謝と感動を持ってお応えして行くことができますよう、日々、新しいいのちを与え、支え、導いてください。主の御名によって、アーメン。