福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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★8月7日 ≪土曜礼拝―SATURDAY WORSHIP≫ 『ちがうから、美しい』コリントの信徒への手紙一 12章14~26節 沖村裕史 牧師

★8月7日 ≪土曜礼拝―SATURDAY WORSHIP≫ 『ちがうから、美しい』コリントの信徒への手紙一 12章14~26節 沖村裕史 牧師

≪メッセージ≫

■みんなちがって、それでいい

 金子みすずという童謡詩人をご存知でしょうか。今から120年ほど昔の1903年、山口県長門市仙崎という漁村に生まれた女性です。みすずは、家業の書店を手伝いながら、13の歳から童謡を作り始めます。20歳(はたち)のとき、兄の結婚もあって仙崎の実家を離れ、下関で書店を営む親戚の家に移り、暮らすことになります。23歳、みすずは結婚をします。しかし、夫に詩を書くことも、友人と文通をすることも禁じられ、しかも、夫の女遊びから性病まで移され、26歳のときに離婚。愛する娘の親権―親として娘に会うことを禁じられ、離婚からわずか二月後、精神的に追い込まれたみすずは悲しみの内に死んでしまいます。

 死後、みすずの詩は高く評価されました。最もよく知られる詩(うた)のひとつに「大漁」という詩(うた)があります。

  朝焼け小焼けだ 大漁だ
  大羽(おおば)鰮(いわし)の 大漁だ。

 

  浜は祭りの ようだけど
  海のなかでは 何万の
  鰮のとむらい するだろう。

 

 大漁に賑わっている浜辺の人間たち。しかしそのすぐ近くの海では、魚たちが何万もの仲間の死を悲しみ、涙していると歌います。幸せであったとは言えないその人生の中で詠(よ)まれたみすずの詩は、自然と人、この世界に生きる、小さく弱い者へと向けられた、優しい、慈愛あふれるまなざしにあふれています。その詩(うた)は、読む者の魂を、静かに、しかし確かな力で揺さぶらずにはおられません。そして今日、特にご紹介したいのは、「私と小鳥と鈴と」という、こんな詩(うた)です。

 

  私が両手をひろげても、
  お空はちっとも飛べないが、
  飛べる小鳥は私のように、
  地面(じべた)を速くは走れない。

 

  私がからだをゆすっても、
  きれいな音は出ないけど、
  あの鳴る鈴は私のように、
  たくさんの唄は知らないよ。

 

  鈴と、小鳥と、それから私、
  みんなちがって、みんないい。

 

 ここには、いのちへの愛のまなざしがあります。一つひとつのいのちが持つ違いを、賜物として慈しむ信仰があります。

 同時代を生きた島田忠夫という詩人が、みすずの詩をこんな風に紹介しています。みすずは、恩師西條八十が訳したヨーロッパの詩人たちから大きな影響を受けた。特にその一人、クリスティナ・ロセッティは「風」や「花の教」など、神の存在を叙情詩に託した詩人として知られているが、みすずはそうした詩人たちから、ごく自然な形で、キリスト教の影響を受けていたのだ、と。

 確かに、みすずと詩との出会いの中には、みすず自身も気づいていなかった神との出会いが備えられていた、と言えるのかもしれません。しかし、であったとしても、みすずの感性はやはり、幼少期を過ごした仙崎の風土に根差したもの―「仏さまのお国」という詩があるように、日本的、仏教的なものだと思われます。

 「みんなちがって、みんないい」というみすずの言葉には、一つひとつのいのちが持つ違いを賜物として慈しむ信仰が表現されています。しかしそれは、「違っててもいい」と言ったニュアンス、つまり違いを受け入れ、許容するということに留まるものです。「あれでもいいし、これでもいい」といった日本的で、仏教的な、融通(ゆうずう)無碍(むげ)の心境です。違いを受け入れはしますが、積極的にではありません。その度量は広く見えますがしかし、小さく、弱いものは、儚(はかな)く打ち捨てられていくほかない、それを美しいと感ずる、諦観の美学、「諦め」の信仰がそこにありはしないでしょうか。

 

■ちがうことこそ、必要

 みすずのような感性は、日本に暮らすわたしたちの体と心に沁み込んでいるものです。それを、諦観の美学だ、「諦め」の信仰だと言われても、ちょっとね、と思われるかもしれません。ここで、さきほど読んでいただいたパウロの言葉に眼を留めていただきたいのです。

 パウロがここで語る言葉は、「みんなちがって、そしていい」という信仰とは少しばかり違っています。それは、「みんなちがって、そしてみんなかけがえがない」と言えるものです。

 違いを越えた、一つのからだの姿について、パウロは語っています。もし違いが違うだけなら、ばらばらになるだけです。その違いを諦めることができなければ、対立し、ついには分裂するだけ、ということになるのかもしれません。しかし、もし違いがなく、すべてが皆、同じだったらどうでしょう。それこそ、単調で、おもしろくもないどころか、空恐ろしくはないでしょうか。あっちを見てもこっちを見ても、同じ顔、同じ姿、同じ考え―そのことを求めようとするとき、わたしたちは大きな罪を犯してしまうでしょう。違うものを切り捨て、排除し、違ういのちを奪うことさえ痛みとしなくなるでしょう。それは、戦前、戦中にあった、そして今もわたしたちの身近にある感覚です。「人、それぞれだよね」と言いながら、それはあくまでも、互いのテリトリーを超えず、互いの利害を損なわない場合のこと。その一線を越えて、利害が絡み、互いが交わらざるを得なくなれば、その違うことを、小さく弱い者を受け入れず、違うものを、小さく弱い者を排除する。そんな陰湿な本音が、「いじめ」の心が、残酷なことを平然としてしまう姿が至る所に見え隠れします。それが、悲しいかな、わたしたちの現実、罪です。

 ここでパウロが言う、「違いを越えて一つのからだとなる」ということは、ただ「違うことを受け入れる」ということに留まるものではなく、「違いを必要とする、違いをそのままに、かけがえのないものとする」ことです。

 22節に、「弱く見える肢体がかえって必要なのである」とあります。「かえって必要なのである」という言葉は、「はるかにもっと必要だ」という、積極的な意味合いをもつ言葉です。違うことが必要、違っていることが大切なのです。

 ここでパウロは、「他よりも弱く見える肢体」とか、「他よりも見劣りがすると思えるところ」と注意深く表現しています。決して「弱い」とか「見劣りがする」と、断定する言葉を使っていません。それは、ただ人間にとって、わたしたちの愚かな心、神ならぬ自分を神とする罪の心にそう映るだけです。それらは、人間の目に、この世の基準で、弱く映り、人に見劣りがすると思えるのであって、神の愛の目から見ての話ではありません。

 そしてそのことは、また自分自身にも言えることです。自分がいつも劣等感に悩む人は、それが自分にとって、そう見えるだけだということを忘れないようにしなければなりません。神様は、あなたにとって見劣りがすると思えるところを、かえって必要だと言い、そこを見栄えよくするどころか、用いてさえくださるのだ、と言います。

 パウロは今、神の愛を語っています。違っていい、いえ、むしろ、違いこそが恵みである、と言います。花でも、動物でも違いがあって、美しく、豊かで、楽しいものとなります。コーラスで高音部と低音部が調和して、美しいハーモニーが生まれるように、違いはただ違うというだけでなく、違えばこそ、すばらしいものとなります。神様は、そのようにわたしたちをつくられました。一つとして同じものはありません。すべて違います。それぞれに違っているわたしたちを、神様がありのままに愛し、慈しみ、用いてくださる、とパウロは言います。

 違いをこそ、かけがえのないものとし、弱く見えるもの、小さく見えるものをこそ、欠くことのできないものであるとする神様の愛が今ここにも働いていることを希望として生きる者でありたい、そう願います。

 

祈ります。愛の主よ。違うことを恐れるのではなく、また、それが単なる多様性ではなく、本当の豊かさをもたらすことを、そのようにあなたがわたしたちを造ってくださったこと、いのちを与えてくださっていることを見失うことがありませんように。どうか、聖霊によっていつも共にあって、わたしたちを支え、導いてください。主の御名によって。アーメン。